救われたかったセリカ   作:気弱

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エピローグ 便利屋とセリカテラー

それはセリカテラーがアビドスの集中治療室から一般病棟へ移り、まだリハビリを兼ねて入院していた頃のお話──

 

午後のがらんとした、少しだけ寂しげな病室。同室のクロコやホシノが定期検診のために部屋を空けている中、窓の外に広がるキヴォトスの澄み渡る、どこまでも青い空を、セリカテラーはベッドの上から身動きもせず、ぼんやりと眺めていた

 

色彩の残滓は未だに身体の奥底を冷たく蝕んでおり、思い通りに自由に動かせるのは右手だけ。かつてのあの暗い砂漠と絶望からクロコ達に救われたとはいえ、自分がテラーとしてキヴォトスで犯してしまった罪の重さと、これからの自分の行く末を思うと、どうしてもその心には、簡単に拭い去ることのできない暗い影が、澱のように落ちてしまうのだった

 

(1人になると……やっぱり、自分のやった事を思い出しちゃうな……。みんな、私のことを怒りもせずに受け入れてくれたけど、本当にこれで良かったのかな……)

 

そんな、重く深く沈み込もうとする静寂を──前触れもなく、文字通り壁を突き破るかのような大声が吹き飛ばし、病室中に響き渡った

 

「──フッ! この私が、最高にハードボイルドにお見舞いに来てあげたわよ! 感謝しなさい!」

 

「!!?」

 

ガシャーン! バタン! と、勢いよくこれ以上ないほどの爆音を立てて病室のスライドドアが開け放たれる

 

あまりの突然の爆音と衝撃に、セリカテラーの頭の上の黒い猫耳がピンと垂直に跳ね上がり、身体がビクッと硬直した

 

そこに立っていたのは、これ以上ないほど不敵な、自信に満ち溢れたドヤ顔をバシッと決め、密閉された病室で風もないのになぜかコートの裾をパタパタと揺らした便利屋68の自称・最高経営責任者、陸八魔アルだった

 

その両手には、これでもかと派手にデコレーションされた高級そうなリンゴやバナナ、そして一玉で数万は下らないであろう夕張メロンらしきものが入った、いかにも成金趣味なフルーツの籠が、恭しく掲げるようにハンドルを握られている

 

……が、元の世界で数々のバイトをこなし、アビドスで一番「お金の現実」にシビアだったセリカの目は誤魔化せなかった。セリカテラーが籠の隅にふと目をやると、持ち手の裏側に「ゲヘナ高級果実・特設セール品」と書かれたやけに目立つ割引シールを、必死に爪でガリガリと剥がそうとした生々しい痕跡が白く残っているのを見逃さなかった

 

(……あいつら、見栄を張るために相当無理してこれ買ったわね……?)

 

一見すると「大物悪党」を気取った大層な見舞い品。けれど、その夕張メロンの瑞々しい輝きの裏にある、便利屋68の血と汗と(主に財布の)涙の重みを察してしまい、セリカテラーは気まずさと申し訳なさで、ただただ呆然とするしかなかった

 

「……ちょっと、社長。ここ、一応はアビドスの、しかもかなり警備の厳しい大きな病院なんだから、もうちょっとこう、TPOというか声のボリュームを……」

 

「そうだよ〜アルちゃん。サプライズ大作戦としては満点だけど、やりすぎるとまたあの、救護騎士団の怖い人が──」

 

アルの後ろから、頭を抱えて困り顔の鬼形カヨコと、くふふ、とクスクス楽しそうに袖で口元を隠す浅黄ムツキが声をかけるが、大物悪党の雰囲気に完全に酔いしれているアルの耳には、そんな良識的な忠告はこれっぽっちも届かない

 

「ふふん、いいのよカヨコ、ムツキ! 悪党たるもの、お見舞いの一歩目から周囲を圧倒してこそよ! さあ、黒見セリカ! この陸八魔アル直選の特級フルーツを──」

 

しかし、そのハードボイルドな大物悪党の入室は、一秒と持たなかった

 

「……静かにしてください。ここは重大な怪我を負った患者さんが静養する、神聖な病室です」

 

「ひゃ、ひゃいっ!?」

 

ベッドの傍らでテキパキとセリカテラーの点滴の空パックを交換していた救護騎士団のセリナが、いつの間にか、本当に足音も呼吸の音もなく、アルの真背後に幽霊のように立ち塞がっていた

 

一切の感情を排した、氷のように冷たい看護師の視線。背後から立ち上る、夜叉のごとき圧倒的な威圧感──

 

その底冷えするようなオーラをまともに背中で受け止めたアルは、弾かれたように短い悲鳴を上げて肩をすくめ、手にした豪華なフルーツ籠を胸元でぎゅっと、まるで盾にするかのように抱きしめた。さっきまでふんぞり返っていた大物悪党の雰囲気は一瞬で霧散し、借りてきた猫のように小さく縮こまる

 

「あ……あの、その、大変申し訳ありません……。悪気はなかったと言いますか、その、社長としての威厳をですね……」

 

「これ以上、院内で騒ぎ立てるようでしたら、便利屋68の皆さん全員をこの病棟への出入り禁止の手続き、および強制退院の手続きを取りますからね? ……よし、セリカテラーちゃん、点滴の交換はこれで終わりです。セリカさん、もしまた変な部外者が騒いだり、何かあったら、すぐにこのナースコールを力強く押してくださいね。……それでは、私はこれで失礼します」

 

セリナはツカツカとアルの脇を容赦なくすり抜け、ドアのところで最後にチクリと、それはそれは鋭い睨みを利かせてから、またしても気配を完全に消して部屋を後にした。残されたアルは、顔を耳の先まで真っ赤にして、魂が口から半分抜け出たようにシュンと項垂れている

 

「ほら、だから言ったじゃん……。救護騎士団のナースを怒らせると本当に洒落にならないんだから……」

 

カヨコが完全に呆れ果てて額を押さえ、深い、深い溜め息をついた

 

「くふふ、さすがアルちゃん! 期待を裏切らないねー! 登場して三秒で怒られるなんて、やっぱり便利屋の社長は格が違うよ!」

 

「わ、私は……っ! アル様のあの、周囲の空気を震わせる堂々とした入室、さすが便利屋68の社長に相応しい、偉大なカリスマ性とアウトローの魂を感じましたッ!! 救護騎士団ごときがアル様の行く手を阻むなんて、私が今すぐこの病院ごと、跡形もなく爆破して──っ!」

 

最後尾から、いつも通りオドオドと身体を震わせながらも、アルへの狂信的な輝く視線を一切崩さない伊草ハルカが、両手を胸の前で固く握りしめて熱弁を振るう

 

「あ、ありがとうハルカ……。でも病院の爆破は絶対にダメよ、私たちがまた怒られるから……」

 

アルは涙目でハルカを宥めながら、ようやくセリカテラーの方へと向き直った

 

実は、あの要塞でのハルカとの凄惨極まりない、文字通りの死闘によって、便利屋68の面々も同じこのアビドス中央病院に満身創痍で入院していたのだ。しかし、そこは修羅場と爆発に慣れすぎている彼女たちのこと、常人離れした驚異的なタフさと回復力で予定よりも大幅に早く退院手続きを済ませ、こうして今日、セリカテラーの元へとお見舞いにやってきたのだった

 

そんな、良くも悪くも修羅場をくぐり抜けすぎていて、どんな絶望的な状況からでも一瞬で完全復活するアルの規格外すぎるメンタルを横目に、セリカテラーはベッドの上で完全に思考がフリーズし、彫像のように固まっていた

 

「あっ……便利屋……の……」

 

気まずい。気まずすぎる。

 

部屋の空気の密度が急に十倍くらいになったのではないかと錯覚するほどに、その場の居心地が悪かった

 

何せ自分は、あの不気味な色彩の力に精神を暴走させていたとはいえ、彼女たちを容赦なく襲撃し、あわやアビドスを、キヴォトスを滅ぼしかけた張本人なのだ。それだけでなく、彼女たちの戦力を削ぐために策略を巡らせ、あまつさえその大切な仲間であるハルカの心の傷を抉って操り、同士討ちまで演じさせた

 

恨まれていて当然、それどころか今ここで胸ぐらを掴まれて「落とし前をつけろ」と凄まれても何も言い返せない相手なのだ

 

それなのに、なぜ彼女たちは怒り狂うでもなく、こんなにも呑気に、しかも笑顔でここにいるのか。セリカテラーの疲弊した脳内では、目の前の状況への理解が全く追いつかなかった

 

そんなセリカテラーのあからさまな困惑と全身の硬直を見て取り、アルはふと、威嚇するようなドヤ顔をフッと和らげた。そして、芝居がかった動作でふわりとロングコートの裾を払うと、片手を細い腰に当てて、いつもの調子で不敵に言い放った

 

「あら? どうしたのよ、黒見セリカ。なんだか借りてきた猫みたいに縮こまっちゃって、いつもの元気がなさそうじゃない。せっかくこの私が、直々に忙しいスケジュールの合間を縫って足を運んであげたのよ? もっと大袈裟に喜びなさいよ」

 

「いや……その……。何で、あんたたちが、ここに……」

 

まさか自分を心配して、退院直後の身体で真っ先にこんなアビドスの不便な病棟までお見舞いに来るとは、夢にも思わなかったのだ。セリカテラーは完全にしどろもどろになってしまい、ピンと立っていた黒い猫耳を気まずそうにパタパタと左右に寝かせながら、視線をあちこちへと彷徨わせる

 

そんな分かりやすい様子を見て、ムツキがニヤニヤと意地の悪そうな、だけどどこか楽しげな小悪魔の笑みを浮かべ、ベッドの金属製の柵に体重を預けるようにして寄りかかった

 

「あはは、仕方ないよー、アルちゃん。こっちの黒猫ちゃんからすればさ、一応私たちはつい数日前まで、あの崩壊した要塞で本気で命のやり取りをしてた『敵』なんだから。今さらこんな風に、まるで昔からの友達みたいに距離感ゼロで部屋に押し入られたら、気まずいに決まってるじゃん? ねー?」

 

その「敵」という言葉に、過剰すぎるほどの反応を示した者が一人いた

 

今回の事件の詳しい裏事情──自分が色彩の精神汚染に利用されていたという真相を、アル様への狂信フィルターのせいで一ミリも理解していないハルカだった

 

ハルカはカチカチと首をロボットのように斜めに傾げながら、急に何かに気づいたように、腰から直角に近い角度で深く、深く頭を下げた

 

「あ……その、その節は、大変お世話になりました……? 」

 

「ハルカ、あんた何言ってるのよ……」

 

カヨコが深く額を押さえ、消え入りそうな声でボソリと呟く。

 

「……ええ……。そうね……。あんた達からすれば、お見舞いに来たって言われるより、今から裏切り者の私を闇討ちしに来た、あるいはギザギザのナイフでケジメをつけに来たって言われた方が、まだしっくりくるし現実味はあるわね」

 

ハルカの狂気的な謎の感謝にはあえて触れないようにしながら、セリカテラーが自嘲気味にぽつりと言った。自分がかつて振るった残虐な暴力と謀略の重さを、彼女は誰よりも暗く、重く自覚していたのだ

 

すると、その言葉を聞いたアルは「フンッ」と鼻で鼻笑いをみせ、いつものように自信満々な勝気な表情で、これでもかと胸を張った

 

「フカシを言わないでよね! 私たち便利屋68を、そんな過去の遺恨をいつまでもネチネチ引きずるような、器の小さいセコい悪党と一緒にしないでもちょうだい! 経緯はどうあれ、私たちと敵対した人間なんてそれこそゲヘナやキヴォトス中に五万といるのよ? いちいちそんな過去の小競り合いやビジネス上の衝突を気に病んでたら、ハードボイルドな犯罪経営のトップなんてやってられないわよ!」

 

「……って、なーんかそれっぽいこと言って格好つけて偉そうにしてるけどさ〜?」

 

ムツキがアルの背中をポンポンと叩きながら、セリカテラーに向かって悪戯っぽくウインクをして見せる

 

「実はアルちゃん、自分が入院中も黒猫ちゃんのこと、意外とずーっと心配してたんだよ? 隣のベッドで『あの子、アビドスのみんなに怒られて泣いてないかしら……』とか『点滴の針、痛くないかしら……』って、夜も眠れないくらいソワソワしてたんだから!」

 

「ちょ、ちょっとムツキ!! 余計なこと、それも事実無根のでっち上げを言わなくていいのよ! 私はただ、悪の組織のトップとして、一度拳を交えたライバルの容態を、知的な観点から注視していただけで……!」

 

「くふふ、顔真っ赤。図星でしょ〜?」

 

顔を文字通り真っ赤にして両手をジタバタと振り回して怒るアルを、片手で「はいはい」と軽く制して、カヨコが一歩前に進み出た。そして、持っていたシックで上品な包装紙に包まれた小ぶりの箱を、セリカテラーの唯一自由に動く右手へとそっと手渡した

 

「まぁ、うちの社長の言ってることも──中身の無駄なカッコつけはともかくとして──アウトローの理屈としては正しいよ。私たちが一度襲撃されたくらいで、今更あんたを闇討ちしに来たりはしない。そんな面倒なこと、誰もやりたがらないから。……はい、これ。ゲヘナの自治区で有名なお店の、甘さ控えめの焼き菓子。……まだ固形物は無理かもしれないけど、食べられそうなら後でみんなで食べて」

 

「あ……あ、ありがとう……」

 

丁寧に梱包された、まだほんのりと温かいお菓子の箱を受け取り、セリカテラーはそれを動かない左腕の代わりに、右手で胸元へギュッと抱きしめた

 

色彩に侵され、冷え切っていた心の奥底が、彼女たちの想定外の緩さと、不器用な温かさに触れて、少しずつ、少しずつ解されていくのを確かに感じていた

 

しかし、その温かい空気を破るように、アルは急にキリッとした、冷徹な表情に戻すと、長いコートの袖からスッと人差し指を突き出し、ベッドに横たわるセリカテラーの鼻先へ、突きつけるようにピシッと向けた

 

「──でもね。私は悪党だから、過去の戦闘自体はビジネスとして水に流してあげるわ。だけど、すこーしだけ、人として怒っていることもあるのよ?」

 

「!」

 

セリカテラーの華奢な肩が、ビクッと冷たい恐怖で震えた。やはり、すべてが許されるはずがないのだ。どんなに今が穏やかな空気であろうとも、自分が犯した罪の重さは消えない

 

「な、何を……? どんな落とし前でも、受ける覚悟はあるわ。私の命で、あんたたちの気が済むなら……」

 

「色彩の力を使って、うちの優秀なハルカの『心の隙』を利用して一時的に引き入れたことまでは、百歩譲ってビジネスにおける高度な駆け引き、悪党同士の外交カードとして許すわ。……けどね! 私の、この陸八魔アルの名前を騙ってハルカをそそのかした挙句、あの子のことを『下僕』だの『役に立たないゴミ』だのとなじって傷つけたことだけは──この私、便利屋68の社長として、絶対に許せないわ!」

 

「……っ!」

 

セリカテラーは痛む身体をゆっくりと動かし、白いシーツを右手でぎゅっと握りしめながらアルたちの方へ向き直ると、深く、深く、ベッドの上で頭を下げた。髪の隙間から覗く、片方だけになってしまった黒い猫耳が、申し訳なさそうにペタンと完全に伏せられる

 

「……本当に、ごめんなさい……。あの時の私はどうかしてたの。ハルカに対しても、あんたたちに対しても、最低なことをしたわ。どんな罵倒も、処罰も受ける……。あんたたちが気が済むまで、その銃で撃たれても、殴られても文句は言えないわよ……」

 

彼女の誠心誠意の、今にも消え入りそうな、だけど本気の謝罪を見て、アルは一転して大満足そうに腰に手を当てて高笑いをした

 

「ふふん、良いのよ! 悪党のボスたるもの、部下の名誉を守るために怒ってみせただけだから! もう過ぎたことは仕方のないことだし、ちゃんと反省しているならそれで十分よ! それに……何より、うちのハルカのあの凶暴……コホン、圧倒的な戦闘能力とポテンシャルに目を付けて、作戦の要の手駒に引き入れようとしたその『人を見る目』だけは、悪の組織のボスとして非常に優秀だと、この私が直々に認めてあげるわ! 自信を持ちなさい!」

 

「あ……ありがとう……? って、なんで私が悪のボスのセンスを褒められてるのよ……」

 

怒髪天を突く勢いで激怒され、身ぐるみを剥がされるかと思いきや、なぜか斜め上の方向から悪党としてのセンスを絶賛され、セリカテラーは呆然としながらお菓子の箱をさらに強く抱きしめた

 

だが、そのセリカテラーの顔にはどこか、言いたいことを極限まで我慢しているような、猛烈な違和感とモジモジとした葛藤が浮かんでいた。黒い猫耳がピコピコと不自然に揺れ、視線が右へ左へと忙しなく泳いでいる

 

観察眼の鋭いカヨコが、その明らかな不審な表情を見逃さず、ジッとセリカテラーの顔を覗き込む

 

「……何か、言いたそうだね? 別に、今さら何を聞いたって怒ったりしないから、言いたいことがあるなら言えば?」

 

「えっ? あ……いや……。私が何を言っても、負け惜しみとか、卑怯な言い訳にしかならないから、いいのよ。気にしないで……」

 

セリカテラーが顔を伏せて声を濁すと、その隣でムツキが目を細め、いかにも楽しそうな、底意地の悪い小悪魔の微笑みを浮かべてベッドの柵をトントンと指先で叩いた

 

「くふふ〜、そういうの良くないなー、黒猫ちゃん。隠し事はビジネスの敵だし、何より面白くないよ? 本当のことを言わないとー……ここの病院を爆発させるよー? ハルカちゃんが♪」

 

「えっ!? あ、あの、アル様と便利屋の皆様の平穏を脅かすような、そんな生意気で不届きな態度をとる患者は……今すぐ私がこの病棟、いえ、アビドスの敷地ごと跡形もなく消し飛ばしてきます!! 爆弾、今すぐ全フロアにセットしてきますっっ!!」

 

「待って待って待って!? 待ちなさいってば!!?」

 

未だに部屋の中で何が起きているか分かっていないハルカが、凄まじい眼光で行きがけの駄賃と言わんばかりに秒速で懐から大量のダイナマイトと対戦車手榴弾を取り出し、本気で部屋を飛び出そうとしたため、セリカテラーはベッドから上半身を限界まで身乗り出して絶叫した

 

「ハルカ、落ち着いて! 爆弾は仕舞いなさいってば! ムツキも面白がって煽るのをやめなさい!」

 

カヨコがハルカの服の襟足を容赦なく引っ掴んで力任せに引き戻し、病室は一気に一触即発の大混乱に陥る

 

「あ、危ないから、本当にやめてってば……っ! 痛っ……!?」

 

慌ててハルカを呼び止めようと、セリカテラーが動かない身体を無理にベッドから身を乗り出させた瞬間、脇腹の傷口へ電撃のような激痛が走り、彼女は短い悲鳴を上げてその場に激しくのしかかるように突っ伏した。右手で傷口を押さえ、顔を青ざめさせて荒い呼吸を繰り返す

 

「ちょ、ちょっと黒猫ちゃん!? 大丈夫!?」

 

「あ、アルちゃん、ふざけてる場合じゃないよ、お医者さん呼んだ方が──」

 

「セ、セリカさん……っ!? 私のせいで、私のゴミのような汚い存在のせいで骨が砕けてしまったんですね、死んでお詫びを──っ!」

 

さっきまで大物悪党気取りだったアルが、一瞬で素の狼狽した女の子の顔に戻ってベッドへと駆け寄り、ムツキやハルカも一斉に青ざめてセリカテラーの顔を覗き込む

 

「はぁ、はぁ……だ、大丈夫よ。ちょっと……傷口に響いただけだから……。お医者さんは呼ばないで、またあのナースが来たら、あんたたち本当に今度こそ消されるわよ……」

 

セリカテラーは、脂汗を浮かべながらもなんとか上半身を右手だけで支え、ふぅ、と深く、深くため息をついた。アルやカヨコならともかく、このムツキとハルカの狂信者コンビなら、冗談抜きで今の一悶着だけで病院を跡形もなく爆破しかねない。戦場で培った本能的な危機感を覚えたセリカテラーは、ついに諦めたように観念して口を開いた

 

「わ、分かったわよ! 言えばいいんでしょ、言えば! ……その、確かに私が暴走して色彩の操り人形になっていた時、ハルカの心の闇につけ込んで、その憎しみを煽って私の手駒にした。それ自体は、絶対に覆しようのない事実よ。あの時の私のやった非道については、本当に、心の底から申し訳ないと思ってるわ」

 

「……うん。それは分かってる。だからこそ私たちはこうしてお見舞いに来てるわけだし。それで? 何がそんなに引っかかってるの?」

 

カヨコが未だにダイナマイトを握りしめているハルカの腕をガッチリとホールドして押さえつけたまま、静かに先を促す

 

セリカテラーは、カヨコの冷静な視線とアルの純粋な心配の眼差しを浴びながら、顔を耳の先まで一気に真っ赤に染め上げた。そして、頭の上の黒い猫耳をわなわなと怒りと羞恥で震わせながら、ついに魂の告白を叫んだ

 

「……でもね……っ!! 私、その間……陸八魔アルの名前なんて一言も使ってないし、ハルカのことを『下僕』とか『役立たずのゴミ』なんて呼んだ記憶、一切無いのよーーーっっっ!!!」

 

「「「……え?」」」

 

静まり返った病室に、セリカテラーの悲痛な叫びが響き渡り、アル、ムツキ、カヨコの3人は、同時に綺麗にハモった、この上なく間の抜けた声をあげた。カヨコのハルカを押さえつける手がピタッと止まり、アルの心配そうな表情がそのままの形で完全にフリーズする

 

「……え、ちょっと待って。それって……暴走中の精神的負荷が強すぎて脳の記憶が混濁してて、自分にとって都合の悪い、格好悪いところだけを覚えてないとか、そういうオチじゃなくて……?」

 

カヨコが右手の親指でこめかみを強く押さえながら、なんとか現実的で医学的な可能性を絞り出す。しかし、セリカテラーは涙目になりながら、激しく首を横に振ってそれを否定した

 

「ううん、違うわよ! 一から十まで全部、恐ろしいくらいはっきりと覚えてるわよ! まるでテレビの画面で、最悪な悪役を演じてる自分を無理やり見せられてるみたいに、身体の抵抗はできなかったけど、意識だけは残ってたんだから! ……だからこそ断言できるわ。私がハルカの限界まで、自分の持っていた色彩の憎しみの感情を分け与えて、あの子の精神を完全に掌握した、まさにその瞬間よ……っ!」

 

セリカテラーは思い出すだけでも困惑と理不尽さで胸が一杯になるというように、細い眉根をこれ以上ないほど寄せて熱弁した

 

「限界まで、これでもかってくらいのドス黒い憎しみを注ぎ込んだ直後よ! ハルカが突然、それまでの虚ろだった目をカッと見開いて、『あ、アル様! 私を助けに来てくださったんですね!?』って大声で叫び始めたのよ……! あの時の私ですら、『えっ、何これ怖い……一体誰のこと言ってるの……?』って、本気で心の底からドン引きして困惑したんだから!! 一応、こっちは世界の滅亡を目論む敵の親玉だから、威厳を保たなきゃいけないなと思って、『私がいる最上階には誰も通さないで』って命令だけは下したけど、下僕扱いなんてこれっぽっちもしてないわよ! というか、そもそも私、操ったハルカの前であんた達の名前なんて、一文字も出してないもの!!」

 

「「「…………」」」

 

セリカテラーの命がけとも言える、すべてのプライドを捨てた熱い弁明が終わり、白日の下に恐るべき真実が晒された病室に、なんとも言えない底深い、冷ややかな静けさが広がった

 

ツカツカ、ツカツカと、壁に掛けられた時計の針が刻む音だけが、やけに大きく部屋の中に響く

 

アル、ムツキ、カヨコの3人の視線が、まるで油の切れた錆びついたブリキの人形のような、ぎこちない動きで、ゆっくりと、ゆっくりと部屋の隅へと注がれていく

 

そこでは、未だに危険なダイナマイトを両手で大事そうに胸元に抱えたハルカが、「えへへ……アル様……。いつでも、どんな時でも私は、アル様の忠実な下僕です……。ゴミなりに、粉骨砕身お役に立ちます……」と、完全に自分だけの幸せで都合のいい妄想の世界に浸りきり、頬を赤くしてウットリとしていた

 

つまり、事件の真相はこうだ

 

ハルカはセリカテラーの放った「純粋な悪意と、人を操るほどの呪いのエネルギー」を全身に浴びた瞬間、それを常人には到底不可能な超次元的な思考回路によって、『アル様からの、愛に満ちた過酷な試練(幻覚)』へと自動的に超翻訳

 

その結果、セリカテラーが何も言っていないにもかかわらず、勝手にアルの名前を叫んで限界突破して覚醒し、勝手に自分を下僕だのゴミだのと自称して、あの崩壊要塞で狂ったように暴れ回っていたのである。色彩の嚮導者として世界の終わりを先導していたはずのセリカテラーを、本気で恐怖させ、困惑させるレベルの凄まじい狂信度をもって

 

「……ハ、ハルカ?」

 

額から滝のような冷や汗を流しながら、おそるおそる声をかけるアルの声は、気の毒なほどにガタガタと震えていた。その視線は、我が身の潔白を証明されて安堵するどころか、自社の新入社員が敵の総大将の裏でやらかしていた「あまりにもディープで狂気的な妄想の全貌」を突きつけられ、完全に恐怖の感情に支配されている

 

「はいっっ! アル様! 何でしょうかっ!」

 

当のハルカは、自分に向けられたその恐ろしい意味を含んだ視線を全く理解していない。それどころか、大好きなアルに名前を呼ばれたという純粋な、至上の喜びだけで、頬を綺麗な桜色に染めながら嬉しそうに身を乗り出して両手を握りしめている。──両手に、導火線のついたダイナマイトを持ったままで

 

その純粋無垢ゆえの圧倒的な狂気が、かえって病室の緊張感を限界まで跳ね上げていた

 

「う、うわぁ……。それはさすがの私も、ちょっと引くっていうか……あはは、全然笑えないかも……」

 

いつもならこれ以上ないほど大喜びでアルの失態をからかい、面白おかしく場を引っかき回すはずのムツキですら、今回ばかりは完全に引きつった笑いを浮かべたまま、そっと一歩後ろへ退いていた

 

「はぁ……。もう、どこからツッコめばいいのか分からない。誰か、頼むから私をまともな現実に戻して……。なんで私たちは退院早々、こんな不条理なホラー話を聞かされているのよ……」

 

カヨコに至っては、これまでの人生で最も深いのではないかと思えるほどの重いため息をつき、右手で完全に顔を覆って天を仰いでいる

 

色彩がもたらした過去の絶望や、キヴォトスを瞬時に滅ぼしかねない世界の危機──。そんな壮大な神話の闇や宇宙的な恐怖よりも、いま目の前にあるゲヘナ学園の闇の深さ(主にハルカの脳内フィルターの異常な変換能力)の方が、よっぽど底知れなくて恐ろしい

 

その厳然たる恐るべき事実に直面したセリカテラーは、ただただ静かに、カヨコから手渡されたばかりのゲヘナの銘菓を、動く方の右手で強く、強く抱きしめ直すことしかできなかった

 

この騒がしすぎる無法者たちに比べれば、かつて自分を闇へと引きずり込んだ無名の司祭たちの不気味な呪詛や色彩の脅威など、まだ対話が成り立つ分だけ幾分かマシだったのではないかとすら思えてくる

 

そんな凍りついた気まずい沈黙を破るように、セリカテラーがコホンと小さく咳払いをした

 

まだ両方の猫耳のあたりが羞恥で少し赤いままだが、その瞳にはどこか、便利屋68という組織の、日々胃痛が絶えないであろう苦労に対する「深い、深い同情」の色が混ざり始めている

 

「……あの、ちなみに、なんだけど……。もう一つだけ、どうしてもこの機会に言わせて欲しいことがあるのよ」

 

「……っ! ま、まだ何かあるっていうの!? 私の知らない、これ以上の恐ろしい真実が残っているっていうの……っ!?」

 

アルはこれ以上の精神的ダメージに耐えられるか本気で不安そうに、情けない裏返った声で聞き返した

 

セリカテラーはベッドの背もたれに少しだけ体重を預け、あの決戦の舞台となった拠点を思い浮かべるように視線を斜め上へと向けた

 

「……あんたたち、私たちが立てこもってたあの区域の構造を覚えてる? シロコ先輩や対策委員会のみんなと、あんたたちが突入してきた、あの場所のことよ」

 

「え、ええ。もちろんはっきりと覚えてるわよ。一際巨大な、周囲の建造物を威圧するような禍々しい管制塔だったじゃない。私たちが悪党の意地を見せて、派手に正面突破してあげた、あの忌々しい塔のことでしょう?」

 

アルは少しだけかつての誇りを取り戻したように、無理やり胸を張り、当時のハードボイルドな戦いを思い出して声を張り上げた

 

しかし、セリカテラーは静かに首を横に振り、少しだけ遠い目をした。その表情は、どこか哀愁すら帯びている

 

「実はね……私たちが最初に拠点にしてたのは、あんたたちが攻めてきたあの場所よりもっと、何倍も頑丈で大きな『本塔』だったのよ」

 

「え……? 本塔……? どういうこと? 私たちが突入したのは、ただの出先機関か何かってこと?」

 

アルがパチパチと目を丸くする。カヨコも、当時の偵察データや戦況報告を脳内で再確認するように、怪訝そうに眉をひそめた

 

「ええ。私がある時、戦力をさらに整えるために少しだけあの場所を留守にしたの。軍勢を率いて、外の区域を制圧しに行くためにね。その時、本塔の留守番をハルカに任せておいたのよ。一応、『私に敵対するものが現れたら適当にあしらっておきなさい』って言ってね」

 

「……ちょっと待って。本当に嫌な予感しかしないんだけど。心臓に悪いから、お願いだから結論から言って」

 

カヨコが自分の胃のあたりをぎゅっと押さえるようにして、青い顔で呟いた

 

「それでね、私が用事を済ませて、さあ拠点に戻りましょうって帰ってきたら……その、何て言うのかしら」

 

セリカテラーは思い出すだけでも胃が痛むというように空いた手で頭を抱え、黒い猫耳を完全にぺたりと寝かせた

 

「拠点のあった、一番大きなはずの本塔が……影も形もなくなって、ただの粉々の瓦礫の山になってたのよ」

 

「「「…………」」」

 

しん、と病室の空気が完全に凍りついた。窓の外はあんなに晴れているというのに、部屋の温度が一気に氷点下まで下がったかのような錯覚を全員が覚える

 

「え、ええと……それって、つまり……誰か他の勢力が、大がかりな爆撃でも仕掛けてきて、本塔を破壊したってことかしら……?」

 

アルが震える声で尋ねるが、セリカテラーは力なく首を横に振った

 

「ううん、違うのよ。私も最初は、他の学校のゲリラ部隊から大規模な奇襲爆撃でも受けたのかと思ったわ。でもね、あまりの惨状に驚いて、瓦礫の中から這い出てきたハルカに直接、何があったのか理由を聞いたのよ。そしたらね……」

 

セリカテラーは、思い出すだけでも脳の芯がズキズキと痛むというように、右手でこめかみを押さえた

 

「あの子、泣き叫びながら、顔も服も全身煤だらけ、泥だらけのボロボロな姿で、『アル様をバカにする生意気で不届きな奴らを、この私が今すぐ全員根絶やしにして、地獄の業火で消し炭にしようとしたんですぅぅ!』って、目を血走らせて叫んでたわ。どうやら、私が留守にしている間に、同じく私の傘下に居た『理事』たちと、何か些細なことで揉めたみたいで。その末にね、ハルカったら、塔の構造材の核にあたる根音回路に、部屋を埋め尽くすほどの爆薬をこれでもかってくらい過積載して、エリアごと一撃で自爆させたみたいで……」

 

「り、理事相手に……自爆……っ!?」

 

アルの口から、完全にまともな人間の言葉が消え失せた

 

「理事」といえば、色彩の勢力下においてもそれなりの地位と強大な戦闘能力を持っていたはずの恐るべき幹部である。そんなキヴォトスの脅威となり得る存在を相手に、まさか「交渉」も「戦闘」もすべてを飛び越えて、問答無用の超大規模な自爆特攻を仕掛けて拠点を消し飛ばしたというのか

 

カヨコは「やっぱりね……ハルカならやりかねないと思ってたよ……」と言わんばかりに深く、深くこめかみを指先で突き刺すように押さえ、ムツキはあまりのスケールの大きすぎる破壊劇に、いつも見せる余裕の笑みすら消え失せ、呆れ果てて口を半開きにしている

 

「……あの時の私はね、すべてを呪う『色彩の嚮導者』として、世界への、そしてアビドスのみんなへのドス黒い憎しみだけに囚われてたはずだったわよ? 感情なんて、とっくに摩耗して消え失せてたはずだった。……そんな絶望のどん底にいたはずの私ですらね、その光景を見た瞬間、今の私と、全く、一文字も違わない同じことを思ったの」

 

セリカテラーは、ベッドの脇に並んで完全に魂が抜けかけているアル、ムツキ、カヨコの3人を、本当に心からの深い慈悲と、憐れみ、そして最大級の労いを込めた目で見つめた

 

「──ああ、この人たち、普段からめちゃくちゃ苦労してるのねって。こんなのを身近に飼い慣らして生きてるなんて、どんな地獄よって、敵ながら涙が出そうになったわ」

 

「ハ、ハハ……。ハハハ……、ハハ……」

 

アルの口から、乾いた、まるで抜け殻になった魂が口から漏れ出たかのような、虚しい笑い声が漏れ出た

 

便利屋68の3人はもはや何も言葉を返すことができず、完全に油の切れた錆びついたロボットのようなぎこちない動きで、一斉に、ギギギ……と音を立てるように部屋の隅のハルカの方を向いた

 

視線を集められたハルカは、あの戦場で正気に戻った時も、そしてこの病院に入院している最中も、アルから当時の詳しい事情──セリカテラーがアルの名前を騙って自分を操り、ひどい言葉で罵倒していたことなど──を一切隠され、知らされていない

 

そのため、自分が本拠地を単騎で完全に壊滅させた(しかも味方の拠点)という、己の「アル様への愛が生んだ大戦果(?)」を、今さらみんなにこうして褒めちぎられ、評価されているのだと完全に勘違いしていた

 

ハルカはモジモジと大きな身体をさらに小さく縮こませ、首をすくめる

 

「えへへ……。あの、アル様のために私が精一杯頑張ったことを、そんな風にセリカさんや皆さんに高く評価していただけるなんて……道端のゴミ虫な私ですけど、とっても、とっても光栄です……っ!」

 

ガサゴソ、ガサゴソと、恐ろしい音を立てて嬉しそうに手にした手榴弾の安全ピンを指先でいじりながら、ハルカは何故か誇らしげに、照れたように頬を染めて微笑んでいる

 

その純粋極まる、だが一歩間違えればこの大病院の全フロアを消し飛ばしかねない狂気の笑顔を見つめながら、アルは冷や汗でぐっしょりと濡れた自分の胸に手を当てた。そして、これまでの人生で最も深い、それこそ全知全能の神に祈りを捧げて感謝するレベルの、凄まじい安堵を心の底から噛み締めていた

 

(……正気に戻って、療養中のハルカに、当時の詳しい裏事情の説明を一切しなくて本当に、本当に良かったわ……!!! もし少しでも私の口から、『あの時、あのセリカテラーが私の名前を騙って、あんたを都合のいい下僕扱いして操ってたのよ』なんていう話を伝えてたら……ッ! 今頃ハルカは、あの時の落とし前をつけるために、このアビドス中央病院ごと、私たちもろとも木端微塵に吹き飛ばしていたに違いないわ……!!!)

 

「ア、アルちゃん、顔が真っ白っていうか、もう土気色だよ〜? 幽霊みたい。くふふ、面白い顔」

 

「社長、とりあえず一回座ろ。血の気が引きすぎて、このままだと本当に白目を剥いて倒れそうだし、またあの怖い看護師が来ちゃうから」

 

ムツキとカヨコに両脇をがっしりと支えられながら、魂の抜けたアルは丸パイプ椅子にヘナヘナと力なく崩れ落ちた

 

アビドスの復興と未来を賭けた、あのシリアスで壮絶だったはずの世界の決戦。その華々しい舞台の裏側で、ゲヘナ学園の、いや、便利屋68という組織の「日常という名の、底知れない修羅場」の真の恐ろしさを骨の髄まで思い知らされた、セリカテラーの少し奇妙で、けれどどこか救いのあるお見舞いの時間は、こうして騒がしく、そしてスリリングに過ぎていくのだっ




どうしてもセリカテラーの罪を1つ減らしてあげたかったんです…これにて本当に完結です!質問や気になるところがあればコメントお願いします!

それでは読んでくださりありがとうございました!
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