2095年3月31日。
朝。
南海家本邸、その一室。
氷華は、いつものように静かに扉を開けた。
「……お兄ちゃん、朝――」
言葉が止まる。
ベッドの上。
窓から差し込む朝日をぼんやり見つめていた少年が、ゆっくりとこちらを振り返ったからだ。
黒い瞳。
焦点の合わなかったその目が、初めて“人”を見ていた。
氷華の喉が震える。
「……龍くん?」
少年は数秒、氷華を見つめる。
そして、かすれた声で呟いた。
「……長い夢を見ていた気がする」
氷華の呼吸が止まった。
返事をするより先に、涙が込み上げる。
彼が。
龍が、戻ってきた。
「龍くん……っ」
氷華は思わず駆け寄った。
次の瞬間。
「俺は、どれぐらい寝ていた?」
氷華の足が止まった。
――俺。
その一人称に、強い違和感を覚える。
以前の龍は、自分を「僕」と呼んでいた。
真面目で、優しくて、少し不器用な少年だった。
けれど今、目の前にいる龍は違う。
声の温度も。
視線の冷たさも。
何もかもが。
氷華は不安を押し隠しながら、恐る恐る口を開く。
「……三ヶ月近く、眠ってたの」
「三ヶ月……?」
龍は小さく目を見開いた。
「本当か?」
その声音には、わずかな警戒が混じっていた。
直後。
「……いや、氷華が言うなら、本当のことなんだろうな」
氷華は息を呑む。
疑っている。
世界そのものを。
けれど。
自分に対してだけは、疑うことを放棄している。
それが分かった。
分かってしまった。
その事実が、どうしようもなく怖かった。
「龍くん……」
氷華は震える指を握りしめる。
確かめなければならない。
本当に龍が戻ってきたのかを。
だから。
だから氷華は、口にしてしまった。
「……那由他ちゃんのこと、覚えてる?」
一瞬。
部屋の空気が止まる。
龍は眉を寄せた。
「……那由他?」
その反応に、氷華の鼓動が跳ねる。
「誰だ、それ」
氷華の顔から血の気が引いた。
龍は不思議そうに続ける。
「知らん。俺の知り合いか?」
「――っ」
呼吸ができなかった。
那由他。
百済那由他。
龍が誰より大切にしていた、たった一人の妹。
その死が。
龍を壊したはずだった。
なのに。
「……氷華?」
龍がこちらを見る。
その視線には困惑があった。
「お前、顔色悪いぞ」
氷華は何とか笑おうとした。
「……ううん。大丈夫」
声が震える。
「ちょっと、お父様たち呼んでくるね……」
龍は小さく頷いた。
「ああ」
氷華は部屋を出る。
扉が閉まった瞬間、壁に背を預けた。
「――っ……!」
涙が零れる。
戻ってきた。
確かに彼は戻ってきた。
けれど。
もう以前の龍ではない。
その事実だけが、残酷なほどに明らかだった。
◇
この報告を受け、南海家は事態を深刻視した。
百済龍は回復した。
だがその代償として、“妹”に関する記憶だけが完全に脱落していた。
それは偶然なのか。
あるいは精神防衛によるものなのか。
誰にも分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
今の龍に、那由他の死を再び突きつければ。
今度こそ、本当に壊れるかもしれない。
その結論に至るまで、時間はかからなかった。
――百済那由他に関係する一切を、龍から遠ざける。
七草家本邸に隣接していた百済家本邸は閉鎖。
魔法科高校近くに存在した別邸は解体され、高級賃貸住宅への建て替えが決定された。
かつて“妹”が存在した痕跡は、静かに消されていく。
氷華は正しい判断だと分かっていても、それが龍の世界から何か大切なものを一つずつ消していく作業にしか見えなかった。
もっとも、進学予定だった中学校については、那由他との直接的な関係が薄かったため、転校処理などは行われなかったのだが。
そして。
この日を境に。
無名の天才――百済龍の“第一の人生”は終わりを迎える。
ここから始まるのは。
後に“落伍者”と呼ばれる少年の、長い停滞の時代だった。
「劣等生と落伍者」序章~完~
第一章が書き終わり次第、また投稿を再開したいと思います。
どの程度期間が空くかは…前作の投稿ペースを覚えてくださっている方は察すると思いますが、正直予想がつきません。私はかなりマイペースな人間なので。
ですが、一ヶ月以上空けることは避けたい、とも思っています。
気が付いたら投稿再開してるな、くらいの感覚で気長にお待ちいただけたら幸いです。