バウムクーヘンをほろ苦い結末の象徴みたいにすなよという話です
ハッピーエンドです

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第1話

 バウムクーヘンエンド、という言葉があるそうだ。

 長い付き合いだった相手が自分を置いて結婚してしまい、その結婚式で貰った引き出物のバウムクーヘンを虚しく食べる結末、みたいな意味らしい。バウムクーヘンからしたらとばっちりもいいところだろう。そうだ、真実の結婚式で貰った引き出物もバウムクーヘンだった。一人で食べる量ではないから冷蔵庫にしまったままだが、そろそろ食べなければならないだろう。

 私、綾紬芦花が現実からの逃避先に選んだのは馴染みのバーチャル空間ではなく、古来より人間に備わる原初の聖域、脳みその中だった。

「芦花さーん? もしもし? 入ってますかー?」

「……ん、ごめん彩葉。意識がログアウトしてた」

「もう。ま、仕事終わりに呼んだ私が悪いか。コーヒー飲む?」

「いいね。久しぶりにプロの味だ」

「プロて。ただのバイトだし十年前だし。あんま期待しないでくださいませ」

「ありがとー」

 私は手を振って、研究室を後にする酒寄彩葉の背を見送った。既に日は暮れていて、彩葉以外の研究員はいない。彩葉がカフェイン摂取のためだけにデスクに常備しているインスタントとは違う、来客用の高めのコーヒーは二部屋離れた給湯室にある。何度も呼ばれて、呼ばれなくとも何かと理由をつけて通ったこの研究所のどこに何があるかは完全に把握していた。慣れ親しんだこの部屋も最後と思うと名残惜しい。

「期待なんか、してないよ」

 口の中でつぶやいた。

 顔を上げて、目の前に横たわる現実に目を向ける。

 現実離れした美少女がぺらぺらの病院着のような服を着せられ硬い台の上に横たわっていた。月からやってきた少女、かぐやである。正確にはかぐやを模して作られたロボットだ。ヤチヨ提供の3Dデータを基に100%完璧に再現されている。十年前より身長やら何やらを少し盛っているような気がするが、それは言わぬが花というものだ。

 突然カフェに現れたかぐやをパンケーキで餌付けしたのが今は昔のように思える。あの時とは多くのことが変わってしまった。

 

 かぐやはヤチヨに変わり、真実は名字が変わり、私と彩葉の関係は親友からセフレに変わった。

 

 この関係は二十歳を過ぎて少し経った頃に彩葉から誘われて始まった。あの広い部屋に一人で暮らすことが寂しかったのだろうと思う。体の繋がりが切れても元の関係に戻れるようにということなのか、普通に遊びに誘ってくれることも多い。しかし、そうやって気を遣わせるのが居た堪れなくて、結局は体を重ねてしまうのが常だった。

 ただ、それも今日までだ。ヤチヨがかぐやとして本格的に再臨する以上、私が入り込んでいた隙間はなくなる。この関係が始まった時から分かり切っていたことだった。長らく欠けていた月は明日また満ちる。

「かぐやちゃん」

 呼びかけても返事はなかった。目の前にあるのは魂の入っていないただの器であり、超高性能な人型ロボットに過ぎない。途方もない時間と予算をかけ、気が遠くなるような実験と調整を繰り返し、ついに明日、この器には魂が宿る。

 

 今この機体を壊してしまえば、プロジェクトは大幅な延期を余儀なくされ、私にも猶予が生まれる。そんな悪魔の囁きが聞こえた。

 殆ど無意識に、私の手はかぐやの体に伸びた。

 

「また海行こうね」

 握った人工皮膚の手は冷たかった。

 私が差し出したパンケーキを頬張って飾らずに喜びを表現するかぐやは、飾ることで自分を表現する私には眩しく輝いていた。私を含む、この子を傷つける全てから守ってやりたいと今でも思う。ヤチヨが体を得て徐々にかぐやとしての自分を取り戻した時は彩葉以上に泣いてしまった。

「お待たせいたしました~」

 彩葉の声ではっと意識が覚醒した。

 どのくらいそうしていたのか。気付けば、かぐやの手は自分の体温が移って人肌に温まっている。

「あ、ありがとー。彩葉のコーヒー久しぶり。熱っ」

 私は焦ってコーヒーを口に運び、マグカップを取り落としそうになった。そうだ、この自分用マグカップも引き上げないといけない。

「最近は大詰めで修羅場だったからね。お構いできなくてごめんね? でもいくら寂しいからってかぐやに手を出すのは感心しませんなあ」

 彩葉は口角を上げた。私とヤチヨによりカフェインを制限されている彩葉のマグカップにはデカフェのコーヒーが満ちている。

「そ、そういうんじゃないよ。ただ、今までのこととか色々思い出しちゃってさ」

「うん、だよね……私も。この十年ずっと全力で走ってるみたいで、高校の頃ほどじゃないけど余裕なかったなって思う。だから、時々ブレーキをかけてくれてた芦花には本当に感謝してる。ありがとう」

「ん-? どしたの急に? 改まっちゃって」

 軽薄な笑みが崩れないよう全神経を集中した。心臓が早鐘を打つ。指先が冷たくなっていく。

「そのー……あのさ芦花、今日来てもらった理由なんだけど……お伝えしたいことというか、ご提案というか……今更って言われるかもしれないけど……」

「いいよ彩葉。私から言う。ていうか、ずっとそうしなきゃいけなかったよね」

「え……」

 私はカラカラに乾いた口を潤すためにコーヒーを一口飲んだ。苦い。この苦みをかぐやはまだ知らない。味覚の実装はもう少し時間がかかるらしい。甘い物好きの彼女にはこの苦みを知らないままでいて欲しい、と思う。

「私たち、普通の友達に戻ろ?」

 ついに言った、と私はどこか客観的に状況を感じる自分に気付いた。胸の奥につかえていた重い塊が消えたようで、清々しい喪失感を覚えた。

 それでも、この後家に帰ったら一人で泣くだろう。目が腫れて明日の仕事に響くかもしれない。いや、そこは腕の見せ所だ。長く培ってきた技術で誤魔化してみせる。今スケジュールされている仕事を終えたらしばらく傷心旅行にでも出ようか。そして、かぐやの復活ライブを出先で見て、大好きな二人が幸せなのを確認して、自分の選択が間違っていなかったと確信するのだ。こんな状況にぴったりな古いミームをヤチヨが使っていたっけ。なんだったか。そうだ、確か。

 幸せならOKです。

 

「いとわろしー!」

 

 大声が響いた。

「うわっ!」

 飛び起きたかぐやに驚いて、私は椅子から転げ落ちかけた。

「うわっ! はこっちの台詞だよぉ! 流石にないないない!」

「え、いや、何が!? てかかぐやちゃん起きてたの?」

「芦花さあ! なんぼなんでもさあ!」

 かぐやは頭を抱えてサラサラの金髪をぐしゃぐしゃにした。

「あーもう、ヤチヨで話すからちょっと待って!」

 そう言うとかぐやは彩葉のポケットからスマホを抜き取った。彩葉の眼前にかざして顔認証を突破し、ヤチヨとの通話画面を開く。スマホを部屋のモニターの一つとペアリングさせると大画面に無人のヤチヨの部屋が映った。そして再びいそいそと硬い台に体を横たえると、

「じゃ!」

 それだけ言ってかぐやは再び稼働を停止した。すぐモニターにヤチヨの姿が現れた。

「ヤチヨ……えーと、もしかして今の全部……」

『盗み聞きするつもりはないんだけど、かぐやの感覚機能はヤチヨもモニタリングしてますので。大横転からのおむすびころりんスクランブル発進といったところ……ビッグヤチヨはあなたを見ている』

 ヤチヨの肩の上に小さいヤチヨがポンと現れた。

『みているー!』

 それだけ言って小さいヤチヨは消えた。

「まあ、よく考えたらそりゃそっか。で……さっきは何て? わろす?」

『おお、げに恋ほしワロス! テラ懐かしす。じゃなくて。どうしてそんな酷いこと言うの? 彩葉が処理落ちしかけてるよヨヨ~』

 彩葉を見ると、視線は中空を彷徨っていて焦点が合っていない。口も半開きになっている。脳をフル回転させて思考している時か、許容量を超える量の刺激を入力された時の顔だ。

「どうしてっても……だって、こっちの世界にかぐやちゃんが帰ってくるんだから、私みたいな間に合わせのセフレなんかもう要らないっていうか、むしろ邪魔じゃん?」

 言葉の端にトゲが出てしまう自分が嫌になった。お願いだから、綺麗な思い出のまま二人の世界から退場させてほしい。

『は~~~~~~あ。クソデカ……もとい、ド級のため息、ドため息が出てしまうヤッチョなのでした。うんうん。芦花の視点だと意味が分からないよね。今の銀河の状況から全部説明してあげても直接脳みそに流し込んであげてもいいんだけど、ここは遠回りこそが最短の道と見た! ということで、彩葉とよくお話ししてみて~』

「あ、ちょっと……」

 引き留める声も聞かず、ヤチヨとの通話は切れた。とはいえかぐや越しに聞いているのだろう。暗くなった画面から目線を彩葉に戻すと、現実に復帰したらしい彩葉と目が合った。

「……えっと…………芦花、さん」

「何でさん付け?」

「まず一応確認させていただきたいんですけれども……私たちって、その、お付き合いしてましたよね?」

「お付き合い……っていうと……」

「だからその、恋人、でござあましたよね……? 二十歳の誕生日に芦花から告白されて、それからずっと……」

「こ、あ、え? そ……うぇ? 私が?」

 今度は私が処理落ちする番だった。こちとら彩葉のような超スペックメモリを積んでいないのだ。フリーズしているうちに更に畳みかけられる。

「も、もしかして覚えてないの……? うちで一緒にお酒飲んだ時の……」

 彩葉の言った通り、彩葉が二十歳を迎えた時、一緒にお酒を飲んだ。真実が先に帰った後も、二人とも初めてのお酒で勝手が分からずに飲み過ぎたのだ。酒のせいにして普段よりスキンシップを取りに行ったような記憶は朧げにあるが、それまでだった。

「本当ごめん。記憶ない」

「マジすか…………」

 彩葉は額に手を当てて天を仰いだ。私は床を見つめた。神様、どうか今すぐ私に雷を落としてください。

「彩葉……さん? もしかしてよく二人で遊ぼうって誘ってくれてたのって……?」

「普通にデートじゃんすか」

「それじゃ私がとんでもないエロ女みたいじゃん……」

「それは正直そう思ってたけど……私も、嫌じゃなかったというか……うん」

 彩葉はふいとそっぽを向いた。恥ずかし気に伏せた目と赤く染まった耳、そして尖らせた唇を見て、私はごくりと生唾を飲む。

「え、エろは……」

「んなっ……! だったらそっちはエ芦花でしょうが!」

「仰る通りでございます……」

「で? どうなの?」

 彩葉は足を組んで座り直した。

「どうって……」

「酒の勢いだったからナシって言うなら、私も忘れる。芦花が言った通り、普通の友達に戻る……その努力をするよ。でも、過程はどうあれ今この現在、私は芦花が好きだし、芦花も私のことが好きなんだから、わざわざ別れる理由なんかないよね?」

 久しぶりに見る、テコでも動かないモードの彩葉だ。この強さと、その裏側の弱さに私は惹かれたのだと改めて思い知らされる。

「でも、かぐやちゃんは」

「だから、将来的にはかぐやと三人で暮らすけどいい? って聞いて、芦花もいいって言った。録音聞く?」

「わお、弁護士の娘~……いや、私はもちろん文句言える立場じゃないけど……」

 かぐやに目線をやると、かぐやの体には再び魂が宿り、こちらを向いて親指を立てた。

「全然オッケー! むしろウェルカム!」

 それだけ言うと、かぐやは再び体を横たえた。

「軽っ! じゃ、じゃあヤチヨは?」

 声に呼応してモニターが再び起動した。画面に映るヤチヨと目が合った。

 ヤチヨはコホンとひとつ咳ばらいをした。

 

『この世をば我が世とぞ思ふパンケーキの欠けたることもなしと思へば』

 

 美しい声で一首詠んだヤチヨは満足げな笑みを浮かべた。

 どう受け止めたものかと視線で彩葉に視線を送るも、彩葉は深く頷いて何やら感じ入っているようだった。これは推し活モードの彩葉だ。

「んー、ごめんヤチヨ、解説お願い」

『よし、今日は藤原道長について解説していくぜ』

「そこから!?」

『冗談なのぜ』

 ヤチヨはからからと笑った。そして真っすぐにこちらを見つめる。

『つまり、ヤチヨの世界がまん丸のパンケーキみたいに欠けずにあるためには、芦花も必要なのです。ねえ芦花、あの時美味しいパンケーキを食べさせてくれてありがとう』

「……そんな風に言ってくれて嬉しいよ。泣いちゃいそう。でも……じゃあ、やっぱり、私はそこに相応しくないと思う。私はヤチヨが思ってくれてるほどいい人間じゃないよ。嫉妬もするし、そのくせ踏み込むのが怖くて予防線張って距離取るし。私にはまん丸のパンケーキよりも穴の開いたバウムクーヘンがお似合いなの。だからあの頃もかぐやちゃんじゃなきゃ彩葉を救えなかった」

『でも、芦花が彩葉をそれまで、それから今日まで支えてくれた』

 ヤチヨの声が優しくて、鼻の奥がつんとした。

「別に私は……」

「ヤチヨの言う通り。芦花がいなかったらかぐやと出会う前に潰れてた。だから芦花、これからはみんな一緒に私を助けて? じゃないと私、また限界まで頑張って倒れちゃうかも」

「それはズルくない?」

「ズルくて結構です。前にさ、私が生きてればいいって言ってくれたでしょ。覚えてる?」

「もちろん。今もそう思ってる」

「だったら、私が生きてるのをずっと傍で見ててよ。いや、それはちょっと言い方が他人行儀かな。一旦なし!」

 彩葉は腕を組んで唸り始めた。今のも十分な殺し文句だったのにこれ以上があると言うのか。まな板の鯉の気持ちで待っていると、三度かぐやが起き上がって彩葉に何やら耳打ちした。

「えー……私もう二十八なんだけど」

「だからいいんじゃん!」

 嫌そうな彩葉に、かぐやはにんまりと笑いかけた。私の調理方法が決まったらしい。

「芦花、あの……お待たせしました」

 彩葉はひとつ咳払いをすると、頬を染めて上目遣いに私を見つめて、

「ねえ、私と生きてくれる?」

「……はい」

 私は蚊の鳴くような声を辛うじて絞り出した。

 次の瞬間かぐやが飛びついてきて、私は椅子から転げ落ちそうになった。当然ながら見た目以上の重さとパワーがある。

「やったー! 芦花いつ引っ越してくる!?」

「ひ、引っ越し?」

 高速で肩を揺さぶられて、世界が何重にもブレて見えた。

「あれ? 彩葉まだ言ってなかったんだっけ?」

「そうだった」

 彩葉はぽんと手を叩いた。

「そもそも、今日は一緒に住もうって提案するつもりだったの。やっと私も落ち着けるようになったしね。かなり予定外の展開だったけど」

「大変申し訳なく……」

「責めたいわけじゃなくて! 私も芦花の何も言わないでくれるところに甘えてた節があるし……」

「あのさぁ……二人とも、反省ばっかしてたらあっという間におばあちゃんになっちゃうよ?」

 かぐやがため息をついた。私と彩葉は顔を見合わせて笑った。

「ま、今後ともよろしくお願いしますってことで」

 彩葉は軽くマグカップを掲げた。

「こちらこそ、ひとつよしなに」

 私はマグカップをこつんと当てて、ぬるくなったコーヒーに口をつけた。

「あー! かぐやも乾杯したい!」

「でもかぐやちゃん、コーヒーしかないよ?」

「まだ味覚ないから大丈V!」

 かぐやはそう言うと軽やかな足取りで出て行った。

「“まだ”ね。プレッシャーですわ」

「がんば~。彩葉ならできるよ」

「そうね。人体実験に付き合ってくれる都合のいいモルモットもいることだし?」

「うわひどー。どちらかと言うと人体実験されてるのは彩葉の方だよね?」

「ぐっ……じゃあ次は私がするから」

 部屋中のモニターにノイズが走り画面が切り替わった。

『ビッグヤチヨはあなたを見ている』

『みている!』

「どりゃあ! お待たせー!」

 かぐやがマグカップを持って再び入室した時、人間二人は気まずく項垂れていた。

「かぐや……あ、それ」

 彩葉はかぐやがマグカップと反対の手に持っている皿に目を留めた。

「お茶うけ! コーヒーには甘い物っしょ~。あ、お茶うけじゃなくてコーヒーうけか?」

 かぐやは適当な台の上に皿を置いた。真実の結婚式で配られた引き出物のバウムクーヘンだ。真実選りすぐりの逸品で、何重にも重なった円の輪郭を分厚いフォンダンがもやもやさせている。かぐやは鼻歌混じりにフォークで切り分け始めた。

「そういえば芦花、さっきヤチヨにバウムクーヘンがどうとか言ってたよね」

「う、あれは勢いというか何というか、大した意味はないよ」

「そう? でも、私は芦花とバウムクーヘンってぴったりだと思う」

 かぐやはお化けでも見るような目で彩葉を見た。恐る恐るこちらを向く目に、大丈夫だと目で伝える。

「だって、花丸みたいじゃない?」

 彩葉は指で空中に花丸を描いた。

「彩葉さあ…………」

 私はため息をついた。

「え、何? スベった?」

 彩葉は私とかぐやを交互に見た。

「愛してる」

 私は彩葉を抱きしめた。

「私もだよ」

「かぐやも!」『ヤッチョも~』

 私たちはまん丸とは程遠い歪な輪になった。

 満ちた月は欠ける定めだ。今が幸せの絶頂で、これからの人生は蛇足なのかもしれない。しかし、私たちは欠けた月も愛することができる。だから、未来を恐れる必要はない。

 かぐやが口元に運んできたフォークからバウムクーヘンを食べた。しゃりしゃりのフォンダンとしっとりした生地のコンビネーションが心地良く、上品な甘さと相まっていくらでも食べられそうだ。コーヒーにも合う。後で真実にも花丸をあげようと思った。


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