あなたはえりーと。 作:どろーをとがめるめがね
(前回のあらすじ)
なにそれこわい。
しばしの沈黙。
記録閲覧室には空調の低い音だけが残り、止まった空気の中で、かろうじて時間が進んでいることを、その音が示していた。
すらりとした切れ長の久瀬の目が、より鋭くあなたを捉えている。
「お聞きしますが」
先に沈黙を破ったのは、久瀬の方だった。
「……どんな試験を受けて、ここに配属されましたか?」
そう問われても、記憶の限り、あなたが受けたのは普通の筆記と面接くらいであって、間違ってもそのようなオカルティックな名前に覚えはなかった。
「つまり、あなたは霊的試験について何も知らされていない。そういう理解で間違いありませんか?」
あなたは頷いた。
「カードの精霊について聞き及んだことも……その様子だとなさそうですね」
あなたはきょとんとして、すぐには反応できなかった。
精霊。言葉そのものなら、もちろん知っている。魔法のランプから現れたり、あるいは古い森や泉に棲み、人へ試練を与えたり、気まぐれに祝福を授けたりするもの。そういった、物語めいた響きの存在。しかしそのような単語は、職場で耳にするものとしては全く似つかわしくないように思えた。
「上は一体何を考えて……」
小さく漏れた声は、あなたに向けたものではなかった。どちらかといえば、ここにいない誰かへ向けられたものだった。
久瀬は端末に視線を落とし、数度、画面を切り替えた。だが、いつもの事務的な速さとは少し違う。決まった手順をなぞっているというより、欠けた何かを探しているように見えた。
「はぁ……こんなパターンで
二度目のため息のあと、久瀬は端末を机に置いた。
「先ほど読むように言いましたが、撤回します。一旦これらは片付けましょう。まずは基本の基本からです」
そう言って、久瀬はのり弁のような報告書を閉じる。
あなたの前から紙束が遠ざけられた瞬間、先ほどまで自分が覗き込んでいたものが、急に危ういものだったように思えてきた。
「あなたが何を知っていて、何を知らないのか。結果論ではありますが、そこを把握しないまま記録を読ませるべきではありませんでした」
久瀬はそう言って、少しだけ目を伏せた。判断を改めたのだと分かる、落ち着いた声だった。
「本来、第一解析部に配属される職員は、業務説明の前段階で最低限の知識を共有されています。精霊とは何か。カード媒体とどう関わるのか。視認した場合、接触した場合、攻撃された場合にどう振る舞うべきか」
だが、久瀬の口調は、特別な秘密を明かしているというより、新人なら知っていて当然の注意事項を確認しているそれに近い。
「今から、ひとつ確認します」
久瀬はあなたを見た。
「見せるものに、手を伸ばさないでください。声をかける必要もありません。ただ、見えるかどうかだけ確認します」
あなたは頷いた。
頷いてから、何を見せられるのか聞いていないことに気づく。けれど、久瀬の声があまりにも真面目だったので、聞き返すより先に頷いてしまっていた。
「来い」
短く、静かな声だった。
「
次の瞬間、久瀬の肩口に影が落ちた。
部屋の照明は変わっていない。けれど、そこだけ光の届き方を間違えたように翳って見えた。
それは小さな鳥に似ていた。
しかし生き物として正しい形からは、どこか外れていた。
羽は薄い灰色で、羽毛というより、何枚もの紙片を重ねたように硬質に見える。片目にあたる位置には、墨を落としたような小さな目がひとつある。輪郭はわずかに滲み、頭部だけが妙に滑らかだった。
あなたの中で知っているものの名前がいくつか浮かび、どれも違うまま消えていった。剥製でも、模型でも、ホログラム映像でもない。そこにいるのに、そこへ置かれている感じがしない。久瀬の肩のあたりで、まるで空間が一枚だけ薄くめくれ、その隙間から現れたもののように見えた。
それは鳥と言われれば鳥で、そうでないと言われればそうでないような、現実離れした奇妙な風貌だった。
久瀬の肩に留まったそれは、点のような単眼であなたを見ている。
瞳の作りをしているわけではない。それでも、あなたは見られていると分かった。
「これは私の相棒で、私のデッキのエースでもあります。不用意なことをしない限りは、あなたに危害を加えることはありませんのでご安心を」
久瀬の口調は変わらないものの、少しだけ温かみの増した言い方だった。少なくとも肩に留まるそれを、単なる道具や資料のようには扱っていないのだと分かる。
あなたは、久瀬と、その肩の鳥のようなものを交互に見た。
カッコいい…………!
ぱしり、と軽い音がした。
久瀬の指が、あなたの手首を弾いていた。
「なぜ言ったそばから手を伸ばすんです」
久瀬の目が細くなる。
灰告鳥もまた、暗い穴のような目をほんの少し細めた気がした。
主従の視線が、同じ温度で向けられていることは分かった。
「聞いてました?」
触るのもダメ? そう……。
「今の反応を見る限り、基本の基本から始める判断は正しかったようですね」
あなたは、静かに膝の上で手を重ねた。
反省している姿勢である。
「今、あなたが見ているものは、カード媒体を通して現実側へ干渉する精霊の一種です。世間一般で言われる精霊や妖精とは、重なる部分もありますが、同じものとして考えるのは避けた方がいいでしょう」
久瀬はそう言って、机の端に退けた報告書へ視線を落とした。
「東応研の表向きの業務は、カード競技の安全チェックと次世代媒体の研究。これは嘘ではありません。カード媒体は精霊を観測し、接続し、時には定着させるための技術でもある。だから安全規格を作る必要があるし、媒体の研究も必要になる」
あなたは、先ほど読まされかけた報告書を思い出す。
事例番号。発生日。発生場所。初期通報者。観測対象。被影響者数。
研究資料というより、事故や事件の記録に近いと感じた理由が、少しだけ形を持ち始めた。
「ですが、それは一部です」
久瀬の声は低かった。
「我々、第一解析部の業務は、精霊およびそれらが起こす異常現象の解析。発生条件、影響範囲、媒介物、被影響者の確認。そして、必要に応じた討伐、あるいは捕獲です」
安全チェックや研究という言葉の後ろに、そんなものが隠れていたらしい。
あなたは、久瀬の肩に留まる灰色の鳥を見る。
目の前の灰告鳥は、こちらへ襲いかかる気配もなく、ただ小さな単眼であなたを見ている。
これも精霊なのだ。
ならば、久瀬たちが討伐し、捕獲するものと、肩に乗せて相棒と呼ぶものとの境目は、いったいどこにあるのだろう。
「勘違いしないでください。私たちは無差別に精霊を狩っているわけではありません」
久瀬は、あなたの視線を読んだように言った。
「人に害をなすもの。媒体を汚染するもの。カード競技を通して広がるもの。あるいは、悪意のある組織が利用しようとしているもの。そういった対象に対応するのが、うちの仕事です」
久瀬の相棒が、わずかに首を動かした。
紙を折るような音がした。
「精霊を扱おうとする組織は、東応研だけではありません。研究機関、企業、宗教団体、競技団体の外郭、個人の収集家。目的も規模もばらばらです。ですが、中には危険な媒体を意図的に流通させる者もいる」
あなたの知らない世界があり、そこには、あなたの知らない利害が絡んでいる。
久瀬の説明は、その事実を淡々となぞっていた。
「そうした対象の調査と妨害も、第一解析部の仕事に含まれます。記録を読むのは、そのためです。間違っても、好奇心を満たすためでもありません」
最後の言葉だけ、少し強かった。
あなたは、そっと視線を逸らした。
「……あなたはどうも、未知のものを警戒もせず、興味の対象として見るきらいがありますね」
秘密組織のような業務内容を説明されて、心がまったく動かない人間がいるだろうか。
「そういう反応が一番危ないんです」
久瀬は叱るというより、危険な手順を訂正するように言った。
「面白そうだと思うと、記録の中から面白そうな部分だけを拾う。分かった気になると、分からない箇所を都合のいい形で埋める。現場でも資料でも、それが一番早く判断を歪めます」
灰告鳥は動かない。
薄い紙片のような羽を閉じたまま、久瀬の肩でじっとしている。
「ここで最初に覚えるべきことは、対象を倒す方法でも、捕まえる方法でもありません」
久瀬は、閉じた報告書の表紙に指を置いた。
「何が起きたのか。何が見えたのか。誰が影響を受けたのか。どこから先が分からないのか。それを、できるだけ正確に分けることです」
それは、先ほど言われたことと似ていた。
読めるところを読む。分からないところを、分からないまま残す。
ただ、今はその意味が少し変わって聞こえる。
「討伐や捕獲は、最後の手段です。そこに至る前に、対象を見誤らないこと。味方を敵と間違えないこと。危険なものを、都合よく善良なものだと思い込まないこと」
久瀬の視線が、あなたを捉える。
灰告鳥は、久瀬の肩で静かに羽を閉じていた。薄い紙片のような羽の端に、読めそうで読めない文字が走っている。あなたはそれを追いかけそうになって、先ほど弾かれた手首を思い出した。エリートは学ぶのだ。
「さて──」
久瀬が、話を区切ろうとしたそのとき、閲覧室の扉が開いた。
「あら、いーけないんだ♪」
柔らかく甘いのに、どこか目の覚めるような声だった。
久瀬の眉間に、はっきりと皺が寄る。
入ってきたのは、白衣姿の女性だった。髪を緩くまとめ、片手に薄いファイルを抱えている。
「有栖川さん」
久瀬の声が低くなる。
「今は──」
「ええ、規定違反の現場ってとこね。貸し一つよ?」
有栖川と呼ばれた女性は悪びれずに言った。
それから、久瀬の肩へ視線を移す。
「あら、コトリちゃん。今日もお利口さんね。元気にしてた?」
有栖川は、まるで古い顔なじみに声をかけるような調子で言った。
灰告鳥は鳴かなかった。
ただ、黒い点のような目を有栖川へ向けた。紙片の羽が一枚、かすかに浮いて、すぐ元の位置へ戻る。
返事なのだろうか。
あなたには分からない。
「人の相棒を変な呼び方で構うのはやめてください」
「本人……本鳥かしら? は嫌がっていないみたいだけれど」
「なおのことです」
「あら、そう」
有栖川は素直に頷いた。ただし、それは話を聞いたという意味であって、従うという意味ではないらしかった。
久瀬は何か言いかけて、結局やめた。その沈黙を待っていたように、有栖川はあなたへ視線を移す。鮮やかなブルーの瞳だった。
小さく笑う。
「で、こっちが例の新入りね」
あなたは、久瀬のほうを見た。
灰告鳥が静かに羽を閉じる。
「何の処置もなく見れる子は羨ましいわね」
有栖川はあなたの向かいに立ったまま、少しだけ首を傾けた。
「第一解析部の有栖川よ。そこの辛気臭くて、お堅~いのと同期。よろしくね、新人さん?」
あなた:
基本の基本から危うい。
久瀬:
胃に悪い仕事が似合う男。
有栖川:
久瀬の同期。少し気まぐれなところがある。
灰告鳥:
ハイツゲドリ、あるいはカイコクチョウ。
返事っぽい反応はするため、言葉は解するらしい。