グレイルは、ゲーム上の分類で言えば雑魚にあたる男だった。
これは単なる悪口ではなく、実際にそういう役割のキャラクターなのである。
序盤の街イベントで横暴を働き、主人公ノアルに叩きのめされ、以後は名前も出なくなる。
攻略wikiでも「負けイベントではないので普通に殴れば勝てる」「ドロップ品もしょっぱい」と書かれる程度の男だった。
要するに、物語上では主人公に倒されるための踏み台として配置されている。
だが、現実で見る雑魚は思っていた以上に怖い。
なぜなら、雑魚にも感情があるからだ。
ゲームなら倒せば終わる。
しかし現実では、恨み、根に持ち、陰で動く。
しかも中途半端に権力があるため、余計に面倒くさい。
これが本当に最悪だった。
俺はグランベルクの宿舎で、机の上に置かれた報告書を眺めていた。
そこに記されているのは、グレイルの不正疑惑についてだった。
先月の臨時徴税と、今回の徴税額には不整合がある。
帳簿上では、徴収済みのはずの税が未徴収扱いになっていた。
その差額がどこへ消えたのか、俺は答えを知っている。
グレイルの懐に入ったのだ。
ゲームでは後からわかる小悪党ムーブである。
それを、俺が先に暴いてしまった。
結果として、グレイルは上層部に呼び出されることになったらしい。
ざまあ、と言って終わればよかった。
だが、ここは悪の帝国である。
正義が勝つ場所ではなく、権力と根回しと派閥が勝つ場所だった。
「リリス様」
ミアが部屋に入ってきた。
金髪をきっちり結び、背筋を伸ばした真面目な副官である。
そして、なぜか俺を聖人だと思い込んでいる危険人物でもあった。
「グレイル卿が、今夜、私的な会談を望んでおります」
「……私的な会談だと」
嫌な響きだった。
私的という言葉と、会談という言葉と、夜という状況。
この三つが並ぶだけで、俺の中の危険アラートが全力で鳴る。
「内容は何だ」
「本日の件について、誤解を解きたい、と」
それは絶対に嘘だった。
あいつが誤解を解くわけがない。
解くなら俺の首か、俺の立場である。
俺は腕を組んで考えた。
普通なら断るべきだろう。
だが断れば、向こうは裏で動く。
それはそれで面倒だった。
ここでグレイルの動機を探り、できれば上層部に提出できる追加の証拠を引き出す。
それができれば、グレイルを原作より早く排除できる。
問題は、俺にそんな交渉力がないことだ。
前世の俺は、スマホ料金プランの説明ですら「あ、はい、大丈夫です」と言って不要なオプションをつけられた男である。
悪徳上級騎士を相手に交渉するなど、考えただけで胃に穴が開く。
だが、方法が一つだけあった。
それは、リリスの見た目を利用することだった。
原作リリスは、冷たい顔と細い腰と黒い軍服が妙に絵になる美少女である。
男の劣情と支配欲を刺激するタイプの、非常に危険な美貌をしている。
つまり、色仕掛けという選択肢が一応は存在する。
俺はその言葉を脳内に浮かべ、即座に自分でダメージを受けた。
元三十歳童貞ニートにできるわけがない。
色仕掛けどころか、前世では女性店員にポイントカードの有無を聞かれただけで声が裏返っていた。
それが今、女の身体で男に揺さぶりをかけようとしている。
あまりにも無謀だった。
しかし、リリスの顔なら可能性だけはある。
というか、こっちは黙って目を細めているだけで相手が勝手に深読みする。
何も高度なことをしなくても、「少し近づいて低い声で囁く」くらいなら成立するのではないか。
いや、想像しただけで鳥肌が立つので、やはり成立しない気もする。
それでも、生き残るためにはやるしかなかった。
俺はミアに言った。
「……受ける」
ミアの表情が強張った。
「リリス様、お一人では危険です」
「……危険だから行く」
また適当なことを言ってしまった。
ミアが目を潤ませる。
「ご自身を囮にして、グレイル卿の不正を暴くおつもりなのですね……!」
そこまで格好よくはない。
ただ、だいたい合っている気もする。
俺は無言で頷いた。
するとミアは、拳を握った。
「承知しました。私は離れた場所で待機します。何かあれば、すぐに踏み込みます」
それは非常に助かる。
女の子に守られる元男という構図は情けなさで死にそうになるが、背に腹は代えられない。
そして夜になった。
俺は指定された応接室へ向かった。
そこは宿舎の奥にある、貴族用の小部屋だった。
暖炉が燃え、机には酒瓶とグラスが置かれている。
窓は厚いカーテンで閉ざされていた。
どう考えても最悪の雰囲気だった。
俺の脳内危険アラートは、もはやサイレンのように鳴り響いている。
部屋にはグレイルがいた。
昼間の焦りを隠すように、薄い笑みを浮かべている。
「お越しいただき光栄です、リリス卿」
「……用件を言え」
「まあ、そう急がず。酒でもいかがです?」
「不要だ」
即答だった。
酒など飲めるはずがない。
この身体の酒耐性がわからないうえ、相手は信用度マイナスの男である。
飲んだ瞬間、バッドエンドの入口が開く気しかしなかった。
グレイルは肩をすくめた。
「つれないですね。私はただ、あなたと腹を割って話したいだけですよ」
腹を割るのは嫌だ。
原作にはマッドという、腹どころか全身を割ってきそうな男がいるので、比喩でも怖い。
俺は椅子に座らず、立ったままグレイルを見た。
「……話せ」
グレイルの目が細まる。
「本日の件、少々やりすぎではありませんか」
「…………」
「帳簿の不整合など、どこの部隊にもある。あなたも帝国軍の人間なら、ご存じでしょう」
悪党がよく使う「みんなやっている」理論である。
前世でもネットでよく見たし、だいたい言っている奴が一番やっている。
「それを、あのように民衆の前で。私の面目は丸潰れだ」
「……自業自得だろう」
言った瞬間、グレイルの頬がひくついた。
まずい。
俺の中の煽りカスが出てしまった。
本来なら地の文だけに留めておくべき性質が、口から漏れたのである。
だがリリスの声で言うと、ただの冷徹な断罪に聞こえるらしい。
グレイルは怒りを押し殺した笑みを浮かべた。
「あなたは、少し勘違いしている」
グレイルが近づいてくる。
俺は反射的に一歩下がりそうになり、必死に堪えた。
怖いと感じた。
男の身体が近い。
背が高く、肩幅があり、手も大きい。
前世の俺も男だったはずなのに、今はそれが圧力として迫ってくる。
本当に情けない。
だが、足は動かなかった。
リリスの身体が、剣士としての姿勢を保っている。
「帝国で生きるには、清廉さだけでは足りない。時には、泥を被る者も必要なのですよ」
「……それは泥ではない」
俺はグレイルを見上げた。
「ただの腐敗だ」
言ってしまった。
口が勝手にレスバを始めている。
やめろ俺、と内心で叫ぶ。
相手は匿名掲示板の荒らしではない。
剣を持った権力者だ。
グレイルの顔から笑みが消えた。
「随分と綺麗事を言う。あなたのような女が、いつまでもその顔でいられると思うなよ」
ぞっとした。
言葉の意味が、身体に刺さる。
女という言葉も、その顔という言葉も、今の俺が持っている逃げ場のない身体へ向けられている。
手が震えた。
泣きそうになった。
だが、ここで泣いたら負けだ。
ここで泣いたら、自分が本当に弱いと認めてしまう気がした。
いや、弱いこと自体はわかっている。
前世から一貫して弱い。
それでも、認めたくない時もある。
俺は深く息を吸った。
そして、当初の作戦を思い出した。
それは、色仕掛けというあまりにも無謀な作戦である。
だが、やるしかない。
俺はゆっくり一歩、グレイルに近づいた。
グレイルがわずかに目を見開く。
俺は顔を上げ、できるだけ冷たく、できるだけ艶っぽく見えるように意識した。
艶っぽく見せるとは何なのか。
俺にはそういう経験がない。
動画で見た知識しかない。
とにかく、声を落とした。
「……私の顔が、どうした」
距離が近すぎる。
自分から近づいておいて何だが、本当に近い。
吐きそうだった。
グレイルの視線が揺れた。
たぶん効いている。
効いていると思いたい。
「貴様が欲しいのは、金か。地位か。それとも……」
俺はそこで一拍置いた。
心臓が死ぬほど鳴っている。
やはり無理だった。
色仕掛けなんてするんじゃなかった。
早く帰りたい。
布団に入りたい。
前世の汚い部屋でもいいから帰りたい。
しかし、口は動いた。
「私自身か」
言ってしまった。
脳内で俺が転げ回る。
何を言っているんだこいつ。
どこの悪女だ。
中身は三十歳童貞だぞ。
ギャップで宇宙が裂けるわ。
だが、外から見れば、冷たい美貌の暗黒騎士が悪徳貴族を試すように囁いた場面である。
グレイルは明らかに動揺した。
「な、何を……」
「答えろ」
俺はさらに一歩近づく。
もう逃げたい。
けれど、ここで退いたらただの変な女で終わる。
いや、もうだいぶ変な女だが、最後まで通すしかない。
「お前は何のために、税を横流しした」
グレイルの瞳が揺れた。
俺はそのまま畳みかける。
「金だけではないはずだ。誰に渡している」
これは賭けだった。
原作のグレイルはただの小悪党として処理される。
だが、帝国軍で長く不正を続けるには後ろ盾がいるはずだ。
そして、帝国軍で金と人体実験の臭いがするところには、だいたい一人の名前が絡む。
それが四翼将マッドであり、俺の未来を破壊する男だった。
グレイルの喉が鳴った。
「……あなたには関係ない」
それで当たりだとわかった。
俺は背筋が冷えるのを感じた。
マッドが絡んでいる。
最悪の展開だった。
原作では、リリスがマッドに本格的に目をつけられるのはもっと後のはずだ。
だが、俺がグレイルの不正を暴いたせいで、その線が早まる可能性がある。
非常にまずい。
俺は内心パニックになりながら、表情だけは変えない。
「……名を言え」
「黙れ」
グレイルの手が俺の腕を掴んだ。
強く、そして痛かった。
その瞬間、全身が凍った。
男の手に掴まれているという事実が、逃げられないかもしれない感覚を連れてくる。
頭が真っ白になる。
心の中が恐怖で埋まっていく。
「調子に乗るなよ、リリス」
グレイルの顔が近づく。
「お前のその澄ました顔を、いつか――」
最後まで聞けなかった。
俺は反射で、膝を蹴り上げていた。
どこに当たったかは言わない。
ただ、グレイルは潰れた蛙みたいな声を出して崩れた。
部屋の空気が止まる。
俺も動けなくなった。
やってしまった。
男として、その痛みは想像できる。
ものすごく申し訳ない気持ちになる。
いや、申し訳なくはない。
これは正当防衛だ。
でも、想像でこっちまで痛い。
俺は腕を押さえ、震える息を吐いた。
涙が出ていた。
悔しくて、怖くて、情けなかった。
こんな雑魚相手に、俺は本気で怖がって泣いた。
だが同時に、グレイルは床で悶絶している。
たぶん勝ったのだろう。
俺は震える声で言った。
「……二度と、私に触るな」
声がかすれていた。
しかし部屋の外から扉が開き、ミアが飛び込んできた。
「リリス様!」
ミアは俺を見た。
床のグレイルを見た。
そして、俺の頬の涙を見た。
ミアの顔から血の気が引いた。
「グレイル卿……貴様、リリス様に何をした!」
「ち、違……これは……!」
グレイルは床で呻く。
ミアの剣が抜かれた。
まずいことに、このままだと殺す。
俺は慌てて言った。
「……ミア、止まれ」
ミアの剣先が止まる。
「ですが!」
「証言を取る」
俺はグレイルを見下ろした。
涙はまだ止まっていない。
だが、逆にそのせいか、グレイルは完全に青ざめていた。
俺は低く告げる。
「……マッドの名を出せ」
グレイルが震えた。
ミアが息を呑む。
「四翼将マッド様……?」
俺は内心で頭を抱えた。
ついに名前が出てしまった。
そいつは原作におけるリリスの最悪ルート製造機である。
人体改造と洗脳と尊厳破壊の権化。
制作陣の悪趣味が人の形をして歩いているような男だった。
そいつの影が、もう近くにある。
グレイルは観念したように、歯を食いしばった。
「……税の一部は、研究費として流していた。私は命令に従っただけだ」
「誰の命令だ」
「マッド様の側近だ。直接ではない」
証言としては弱いが、手がかりにはなる。
ミアが顔を歪めた。
「民から搾り取った金を、あのような実験に……」
あのような実験、という言い方が気にかかった。
ミアは何かを知っているのだろうか。
いや、帝国内部でも噂はあるのだろう。
マッドの研究施設では、魔物化実験や兵士の強化改造が行われている。
そして、原作リリスの末路が頭をよぎる。
吐き気がした。
俺はグレイルから視線を外した。
「……拘束しろ」
ミアが頷き、外で待機していた兵を呼ぶ。
グレイルは引きずられるように連れていかれた。
その間も、俺は動けなかった。
腕に残る感触。
掴まれた痛み。
男の顔が近づいた恐怖。
じわじわと震えが戻ってくる。
「リリス様」
ミアが近づいた。
俺は反射的に身を固くする。
ミアはそれを見て、苦しげに表情を歪めた。
「申し訳ありません。私が、もっと早く踏み込んでいれば」
「……お前のせいではない」
俺は首を振った。
悪いのはミアではない。
そもそも色仕掛けなんて馬鹿なことを考えた俺が悪い。
元ニートが急に悪女ムーブをやろうとするからこうなる。
だが、ミアは膝をついた。
「それでも、貴女は身を挺して証拠を掴まれた。帝国の闇に、たった一人で刃を向けた」
まったく違う。
俺は自分の未来が怖かっただけだ。
「リリス様。私は、貴女を必ずお守りします」
やめてほしい。
その言葉が、今は少し効いてしまう。
俺は聖人ではない。
守られる資格があるような立派な人間でもない。
それでも、腕の震えが少しだけ収まった。
「……勝手にしろ」
俺はそう言った。
もちろん、本音はありがとうだった。
そんな言葉を素直に言えるコミュ力は、前世に置いてきている。
翌朝、グレイルは帝国軍の監査部隊に引き渡された。
表向きは徴税不正で、裏ではマッド派への資金流用疑惑である。
これで、グランベルクの胸糞イベントは完全に原作から外れた。
ノアルはグレイルと戦っていない。
リリスとも戦っていない。
代わりに、俺はノアルに少し好感を持たれ、ミアには信仰され、マッドの影に一歩近づいた。
最悪ではないか。
宿舎の窓から外を見ると、広場にノアルの姿があった。
彼は住民たちと話している。
そして、ふとこちらを見上げたところで目が合った。
ノアルは小さく頭を下げた。
俺は反射的にカーテンを閉めた。
心臓が跳ねていた。
これは昨日怖い目に遭ったせいで情緒が不安定なだけだ。
男に優しくされて安心したとか、そういう話ではない。
俺は元男で、中身も男のままだ。
つまりセーフということにしておきたい。
何がセーフなのかは、自分でもわからない。
その時、ミアが扉を叩いた。
「リリス様。帝都より急使です」
「……内容を言え」
ミアの顔が硬い。
「四翼将マッド様が、此度の件について、リリス様から直接事情を聞きたいと」
血の気が引いた。
最悪の男が、俺を見つけた。
俺は椅子に座ったまま、静かに拳を握った。
外から見れば、きっと冷静な暗黒騎士に見えただろう。
だが内心は、いつも通り終わっていた。
会いたくないし、今すぐ逃げたい。
それでも、逃げたら終わる。
帝国軍からの離脱計画における最大の障害が、予定よりずっと早く俺の前に現れようとしていた。