シュタインズ・ゲートゼロ後日談を、チャットGPTと相談しながら書きました。
岡部たちのその後を妄想したものです。

1 / 1
名前のない冬

遠くの空が、揺れていた。

白い地平線の上で、空間の一部だけが波打っている。

最初は蜃気楼のように見えた。けれど、そこに現れた黒い影を見た瞬間、鈴羽は息を呑んだ。

 

「まゆりさん……見て」

 

まゆりは、鈴羽の視線を追った。

何もないはずの荒野に、金属の塊が降りてくる。

それは、見間違えるはずのない形をしていた。

タイムマシンだった。

 

 

紀元前18000年。

人の声も、街の灯りも、帰る場所もない白い世界。

燃料を失い、座標を失い、時間の流れから放り出された二人の前に、もう一機のタイムマシンが降り立った。

扉が開く。

中から、一人の男が降りてきた。

顔は、まだ遠くて見えない。

けれど、まゆりには分かった。

少し猫背で、肩に世界全部を背負っているような歩き方。

疲れきっているのに、最後には必ず来てくれる人の歩き方。

 

「……オカリン」

 

声が震えた。

鈴羽も、目を見開いていた。

 

「岡部さん……」

 

男は白い荒野を歩いてきた。

風にコートを裂かれそうになりながら、一歩ずつ、確かに近づいてくる。

まゆりは立ち上がろうとして、足元がふらついた。鈴羽が支えた。

それでも、まゆりは前へ出た。

男の顔が見えた。

岡部倫太郎だった。

若いころより、ずっと疲れていた。

目の奥に、長い年月が積もっていた。

けれど、まゆりには分かった。

オカリンだった。

岡部は二人の前で立ち止まり、ほんの少しだけ息を整えた。

そして、不器用に言った。

 

「待たせたな」

 

まゆりは笑おうとして、涙が出た。

 

「……遅いよ、オカリン」

「すまない」

「でも、来てくれた」

「ああ」

 

岡部は頷いた。

 

「迎えに来た」

 

鈴羽は、やっと声を絞り出した。

 

「どうして、ここが……?」

「時空転移の痕跡を追った。完全ではなかったが、十分だった」

「そんな無茶を……」

「無茶は慣れている」

 

まゆりは泣きながら笑った。

 

「オカリンらしいね」

 

岡部は、まゆりの手を取った。

氷のように冷たかった。彼の表情がわずかに歪む。

 

「すぐ移動する。ここは長くいられる場所ではない」

「どこに行くの?」

 

まゆりが尋ねた。

岡部は答える前に、白い地平線を見た。

 

「2010年には行かない」

 

鈴羽が静かに頷いた。

 

「若い岡部さんがいるからだね」

「ああ。あの時代には、俺がいる。あいつがDメールを送り、α世界線を経験し、βへ戻る。そして最後に、シュタインズ・ゲートを目指す」

 

岡部は続けた。

 

「もし2010年に俺がもう一人存在していれば、世界線変動のたびに不確定要素が生まれる。この世界の俺がDメールを送り、α世界線を観測したとき、もともとβ世界線から来た俺たちはこの世界から消えてしまうかもしれない。そんな危険は残せない」

 

まゆりは黙って聞いていた。

 

「2025年の未来にも行かない。β世界線の俺は2025年には死ななければならない。また、そこには幼い鈴羽もいる。深刻なタイムパラドックスが生じる可能性がある」

 

鈴羽が低く言った。

 

「じゃあ、私たちはどこへ?」

「1900年。カナダ北西部。ゴールドラッシュの時代だ。人の出入りが多く、身元の曖昧な者が紛れ込める。電子記録はない。2010年にも、2036年にも絶対に届かないほど昔で、だが生きられる程度には文明がある」

「1900年……」

 

まゆりが呟いた。

 

「昔の、昔だね」

「そうだ」

「まゆしぃたちは、昔の人になるの?」

「ああ」

 

岡部は答えた。

 

「シュタインズ・ゲートに至る道を変えてはならない。俺たちは歴史に残ることはしない。子孫も残さない。未来の知識も広めない。あとはすべて、未来の俺たちに任せるんだ」

 

まゆりは、岡部の手を握り返した。

 

「まゆしぃたちは、未来の邪魔にならないように、昔で静かに暮らすんだね」

 

岡部は苦しそうに目を伏せた。

 

「……そうだ」

「うん」

 

まゆりは頷いた。

 

「三人でいられるなら、大丈夫」

 

大丈夫なはずがなかった。

帰れない。

名前を捨てる。

未来を捨てる。

誰にも知られず、誰の記録にも残らず、ただ世界の邪魔にならないように生きる。

それが、大丈夫なはずがなかった。

けれど、まゆりはそう言った。

鈴羽も、黙って頷いた。

だから岡部は、その言葉を信じることにした。

 

三人は岡部のタイムマシンに乗った。

紀元前18000年の白い荒野が遠ざかっていく。

そこは、二人が長く生きた場所ではなかった。

しかし、時間から放り出される恐怖を知った場所だった。

そして、三人がもう一度出会った場所だった。

 

 

1900年、秋。

カナダ北西部の小さな鉱山町に、三人の東洋人が現れた。

男は「カズオ・モリ」と名乗った。

若い女は「メイ・モリ」。

少女は「スズ・モリ」。

兄妹と従妹。そういうことにした。

町の名前はヘイズ・クリークと言ったが、住人たちはあまりその名を使わなかった。

 

金を探す者。

金を失った者。

家族を捨ててきた者。

過去から逃げてきた者。

誰もが何かを隠していた。

だから、三人の素性を深く尋ねる者はいなかった。

 

岡部、いやカズオは、修理屋で働き始めた。

壊れたランプ。

動かなくなった時計。

歪んだ銃。

穴の空いたストーブ。

凍った水ポンプ。

未来の知識を使えば、町の暮らしを変えることはできた。

だが、それはしてはいけなかった。

岡部は既存の道具を、既存の範囲で直した。

新しい理論を語らない。

電気の話を深くしない。

無線の話をしない。

時間の話は、絶対にしない。

 

修理屋の老人は、エドガーといった。

 

「カズ、お前は妙な男だな」

 

ある日、エドガーは壊れた懐中時計を岡部に渡しながら言った。

 

「妙?」

「機械を直しているというより、機械に謝っているように見える」

 

岡部は苦笑した。

 

「壊れたものを見ると、放っておけないだけだ」

「なら、この町に向いている」

 

エドガーは笑った。

 

「ここには壊れたものしか来ない」

 

メイ、つまりまゆりは、宿屋の台所を手伝った。

英語は拙かった。

だが、彼女には相手の寂しさを見つける力があった。

皿を洗い、スープをよそい、破れた服を縫い、熱を出した子供の額に冷たい布を当てた。

町の人々は、すぐに彼女を覚えた。

 

「メイに頼めば、破れたものはだいたい直る」

 

そう言われるようになった。

まゆりは照れくさそうに笑った。

 

「まゆしぃ、昔からお裁縫は得意だからね」

「その名は使うな」

 

岡部が小声で言うと、まゆりは慌てて口を押さえた。

 

「あっ、そうだった。メイだった」

 

 

スズ、つまり鈴羽は、最初の一週間で二度目立った。

一度目は、薪割りが男たちより速かったから。

二度目は、銃を撃つのに手慣れていたから。

 

「目立つな」

 

岡部が言うと、鈴羽は不満そうに頬を膨らませた。

 

「普通って難しい」

「勝ちすぎるな。速すぎるな。正確すぎるな」

「戦場より難しいよ、それ」

「ここは戦場ではない」

 

鈴羽は少し黙った。

 

「そうだね」

 

その声は、どこか嬉しそうだった。

 

 

冬が来た。

雪は深く、町は閉ざされた。

食料は足りず、薪はすぐに減った。

病人も出た。

岡部は何度も葛藤した。

未来の知識を使えば救える命がある。

だが、その知識を広めれば歴史が変わる可能性がある。

一人を救えば、その子孫が未来に影響するかもしれない。

逆に、何もしなければ目の前の人間が死ぬ。

 

ある夜、まゆりが言った。

 

「オカリンは、何もしちゃいけないって思いすぎだよ」

「俺たちは歴史に干渉してはならない」

「でも、スープを渡すのも干渉?」

 

岡部は答えられなかった。

まゆりは暖炉の火を見つめた。

 

「まゆしぃたちは幽霊じゃないよ。ここで生きるなら、ちょっとは誰かに関わるよ」

「その少しが、怖い」

「うん。怖いね」

 

まゆりは頷いた。

 

「でも、何もしないことも、たぶん誰かを変えるよ」

 

岡部は彼女を見た。

 

「だから、大きなことをしない。未来のことを教えない。名前を残さない。でも、目の前で寒がってる人には毛布を渡す。それくらいは、してもいいんじゃないかな」

 

岡部は長く黙った。

やがて、小さく言った。

 

「お前は、いつも俺の理論を壊す」

「えへへ」

「だが、今回は……正しいのかもしれない」

 

その日から、三人は決めた。

歴史を変えないために生きるのではない。

歴史に残らないように生きる。

その違いは、小さいようで大きかった。

 

 

年月は静かに積もった。

1910年。

まゆりは小さな裁縫部屋を持った。

看板は出さなかったが、町の女たちはそこを知っていた。

破れた袖。

ほつれた裾。

古いカーテン。

子供の手袋。

まゆりは、壊れた布を元通りではなく、少しだけ前より優しく直した。

 

「メイのところへ行けば、破れたものは直る」

 

それが、町の小さな噂になった。

岡部はそれを聞くたび、まゆりらしいと思った。

彼女はいつも、破れたもののそばにいた。

服も、心も、世界線も。

 

 

1914年。

戦争が始まった。

遠いヨーロッパの火が、北の小さな町にも届いた。

若い男たちが町を出ていった。

戻ってこない者もいた。

 

岡部は新聞を読むたびに顔色を失った。

彼は知っていた。

この戦争がどう終わるか。

その後に何が来るか。

次の大戦。

冷戦。

科学技術の加速。

SERN。

タイムマシン。

第三次世界大戦。

知っていたが、何も言えなかった。

言えば、歴史が変わる。

 

鈴羽は何度も町を出ようとした。

戦争を止めるためではない。

誰かを助けるために。

 

「行けば、たくさん変えてしまう」

 

岡部は言った。

 

「分かってる」

 

鈴羽は悔しそうに答えた。

 

「でも、分かってるから苦しい」

 

まゆりは、鈴羽の手を握った。

 

「スズちゃんが強いこと、まゆしぃは知ってるよ。でも、今は強いまま、ここにいることが役目なんだと思う」

 

鈴羽は泣かなかった。

泣く代わりに、薪を割った。

必要以上にきれいに割れた薪が、庭に積まれていった。

 

 

1923年。

三人は、湖のそばへ移った。

町が少しずつ大きくなり、人の記録が増え始めていたからだ。

岡部はそれを嫌った。

彼らは目立ってはいけない。

長く同じ場所にいすぎてもいけない。

 

湖畔の小屋は古く、冬は寒く、夏は虫が多かった。

だが、三人には十分だった。

 

まゆりは湖のほとりで布を縫った。

鈴羽は罠を仕掛け、薪を割り、時々遠くまで歩いた。

岡部は壊れた道具を直し、夜には古いノートに何かを書いた。

 

「何を書いてるの?」

 

まゆりが聞いた。

 

「記録ではない」

「じゃあ?」

「忘れないための、暗号だ」

「残しちゃだめなんじゃないの?」

「いずれ燃やす」

 

まゆりは少し寂しそうに笑った。

 

「燃やしちゃうんだ」

「ああ」

「でも、それまでは覚えていられるね」

 

岡部はペンを止めた。

 

「そうだな」

 

ノートには、世界線理論は書かなかった。

未来の技術も書かなかった。

ただ、三人で食べた食事のこと。

まゆりが笑った日のこと。

鈴羽が初めて雪道で転んだこと。

エドガーという修理屋の老人が死んだ日のこと。

そういう、歴史には残らないものだけを書いた。

 

 

1931年。

まゆりの髪に白いものが混じり始めた。

鏡を見たまゆりは、少し驚いた顔をした。

 

「まゆしぃ、おばあちゃんになっちゃうのかな」

「まだ早い」

 

岡部は即答した。

 

「でも白いよ」

「雪のせいだ」

「部屋の中だよ?」

 

鈴羽が笑った。

 

「岡部さん、無理がある」

 

岡部は咳払いした。

 

「カズだ」

「今さら?」

 

まゆりは笑った。

その笑顔には、若いころのまゆりが残っていた。

だが、同時に、この時代で歳を重ねたメイの顔でもあった。

 

「後悔しているか」

 

岡部は聞いた。

まゆりは少し考えた。

 

「してる日もあるよ」

 

岡部は黙った。

 

「ラボに帰りたいなって思う日もある。紅莉栖ちゃんとお話ししたかったなって思う日もある。コミマに行きたかったなって思う日もある」

「……そうか」

「でも、してない日もあるよ」

 

まゆりは、岡部の手を取った。

 

「スズちゃんが笑ってるときとか、オカリンが変な顔で難しいこと考えてるときとか、湖がきれいなときとか。そういうときは、ここも本物だなって思う」

「本物……」

「うん。世界がいつか消えちゃうとしても、まゆしぃたちがここにいたことは、まゆしぃたちには本物だよ」

 

岡部は目を伏せた。

彼はずっと、自分が観測できている「世界線」だけが本物の世界だと思っていた。

だが、まゆりは違った。

消えると知っていても、そこにある世界の温度を本物と呼べる。

それは、彼にはなかった強さだった。

 

 

1939年。

また戦争が始まった。

岡部は新聞を閉じた。

もう読まなくても分かっていた。

 

鈴羽は何も言わず、外へ出た。

斧を持ち、薪を割り始めた。

硬い木が、乾いた音を立てて割れる。

その音は、鈴羽の怒りのようだった。

まゆりは、窓の外を見て言った。

 

「スズちゃん、本当は行きたいんだよね」

「ああ」

「オカリンも、本当は止めたいんだよね」

「……ああ」

「でも、止めないんだね」

「止められない」

「うん」

 

まゆりは頷いた。

 

「世界って、大きいね」

 

岡部は答えなかった。

世界は大きすぎた。

そして、彼らは小さすぎた。

だが、その小ささが、彼らの役目だった。

 

 

1948年。

まゆりが倒れた。

今度は、前のようには戻らなかった。

医者は老衰と心臓の弱りだと言った。

まだ老衰と呼ぶには早かったが、彼女の身体は長い年月に削られていた。

粗末な医療に、いくつもの厳しい冬。

 

岡部は寝台のそばに座っていた。

鈴羽は部屋の外にいた。

泣き顔を見せたくないのだろう。

まゆりは窓の外を見た。

 

「雪だね」

「ああ」

「オカリンが迎えに来てくれたときも、白かったね」

「すぐに見つけられてよかった」

「うん」

 

まゆりは微笑んだ。

 

「でも、ちょっとだけ怖かったよ。あのまま、どこにも行けなかったらどうしようって」

「すまない」

「謝らなくていいよ。オカリン、来てくれたもん」

 

彼女は、わずかに手を伸ばした。

岡部はその手を握った。

 

「オカリン」

「なんだ」

「まゆしぃ、楽しかったよ」

 

岡部の喉が詰まった。

 

「嘘をつくな」

「嘘じゃないよ。寒かったし、怖かったし、帰りたかった日もある。でも、楽しかった日もちゃんとあったよ」

「……そうか」

「紅莉栖ちゃんに会えたら、言ってね」

「何を」

「まゆしぃは、大丈夫だったよって」

 

岡部は目を閉じた。

 

「伝える術はない」

「うん。だから、心の中で」

「分かった」

 

まゆりは、最後に小さく笑った。

「トゥットゥルー」

 

その声は、昔と同じだった。

少し間が抜けていて、少し眠そうで、世界で一番優しい音だった。

その夜、まゆりは静かに息を引き取った。

 

墓標には、こう刻んだ。

Mei Mori

She mended what was torn.

 

破れたものを直した人。

それが、この世界線における椎名まゆりの名前だった。

 

 

1956年。

岡部の手は震えるようになっていた。

細かな修理ができなくなり、鈴羽が彼を支えた。

彼女はもう少女ではなかった。

だが、背筋はまだ伸び、歩き方には兵士の名残があった。

ある日、岡部は湖を見ながら言った。

 

「鈴羽」

 

久しぶりに本名で呼ばれ、鈴羽は少し驚いた。

 

「何?」

「お前は、幸せだったか」

 

鈴羽は長く考えた。

 

「幸せだったと思う」

「そうか」

「でも、ずっと幸せだったわけじゃないよ」

「ああ」

「父さんに会いたい日もあった。戦いたい日もあった。自分だけ逃げたみたいで、苦しい日もあった」

「逃げたわけではない」

「分かってる。でも、心はそんなに簡単じゃない」

 

岡部は小さく頷いた。

 

「俺もだ」

 

鈴羽は笑った。

 

「でもね、岡部さん」

「カズだ」

「もういいでしょ」

 

岡部は苦笑した。

鈴羽は続けた。

 

「私は、戦士じゃない時間をもらった。まゆりさんと暮らして、岡部さんと喧嘩して、薪割って、湖を見て、普通じゃないけど普通みたいな人生を過ごした。それは、悪くなかった」

「そうか」

「うん。悪くなかった」

 

岡部は目を閉じた。

 

「なら、俺も少しは救われる」

 

その数ヶ月後、岡部は眠るように死んだ。

墓は、まゆりの隣に作られた。

墓標には、鈴羽が刻んだ。

Kazuo Mori

He remembered too much, and still chose silence.

 

覚えすぎていた人。

それでも沈黙を選んだ人。

 

 

1967年。

スズ・モリは死んだ。

町の人々は、彼女を静かな女性だったと記憶した。

力持ちで、機械に強く、子供に優しく、ときどき遠い空を見る人だったと。

 

墓は二つの墓の隣に作られた。

墓標には、何も刻まれなかった。

彼女の希望だった。

ただ、小さな石が置かれた。

まゆりが昔、湖のそばで拾った丸い石だった。

 

岡部倫太郎も、椎名まゆりも、阿万音鈴羽も、この時代の記録には残らなかった。

あるのは、カズオ、メイ、スズという、どこにでもいる移民のような三人の薄い記憶だけだった。

それも、やがて消えた。

 

 

2010年。

東京、秋葉原。

若い岡部倫太郎は、ラジ館へ向かった。

牧瀬紅莉栖が倒れているのを見た。

Dメールを送った。

世界線はαへ移った。

そのとき、カナダ北西部の古い墓地では、何も起こらなかった。

ただ、雪が降っていた。

 

2036年。

阿万音鈴羽が、タイムマシンに乗った。

2010年に向かうために。

 

そのとき、オペレーション・スクルドの因果が閉じた。

そして若い岡部が、世界を騙した。

紅莉栖は死ななかった。

中鉢論文は失われた。

まゆりは死ななかった。

第三次世界大戦は回避された。

世界線は、シュタインズ・ゲートへ到達した。

 

その瞬間、β世界線は現実ではなくなった。

カナダ北西部の古い墓地では、何も起こらなかった。

ただ、雪が降っていた。

いや、ひとつだけ、小さな変化があった。

カズオ・モリの墓も、メイ・モリの墓も、名のないスズの石も、世界から失われていた。

だが、それでよかった。

彼らは歴史になりたかったのではない。

歴史に残らないことを選んだのだから。

 

 

 

 

――シュタインズ・ゲート世界線。

岡部倫太郎は、ある日、理由もなく立ち止まった。

秋葉原の雑踏の中だった。

まゆりが少し先を歩いていた。

紅莉栖が、ダルと言い合いをしていた。

何かを思い出しそうになった。

 

雪。

古いストーブ。

知らない町。

破れた布を縫う手。

古い工具の匂い。

湖のそばの墓標。

 

だが、それは記憶ではなかった。

リーディング・シュタイナーでもなかった。

ただの錯覚だった。

あるいは、世界線の底に沈んだ、因果の残響だった。

 

「オカリン?」

 

まゆりが振り返った。

 

「どうしたの?」

 

岡部は首を振った。

 

「いや、何でもない」

「変なの」

 

まゆりは笑った。

その笑顔は、昔と同じだった。

 

岡部は空を見た。

知らない誰かに、礼を言いたい気がした。

だが、その誰かの名前を知らなかった。

 

世界は一つだった。

いま、確かに存在する世界は、この一本だけだった。

それでも、その一本をここまで運ぶために、どこかで名を捨てた三人がいた。

誰にも知られず、

誰にも記録されず、

誰の記憶にも残らず、

ただ未来を邪魔しないために、静かに生きて、静かに死んだ三人がいた。

 

岡部は小さく呟いた。

 

「エル・プサイ・コングルゥ」

 

その言葉の意味は、彼自身も知らなかった。

ただ、なぜか、口にしなければならない気がした。

 

世界は続く。

その世界の歴史には、カズオも、メイも、スズも存在しない。

だが、世界線の外側から届いた小さな沈黙だけが、確かにそこにあった。

 

名前のない三人は、未来になった。

誰にも知られないまま。

それはまさに、名前のない冬であり、また春であった。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。