警報が鳴ったのは、その日の深夜だった。
──けたたましい警鐘
──基地全体へ響く魔力通信
──眠りかけていた者たちが一斉に飛び起きる
『西部区域にて魔物群を確認』
『戦闘部隊は直ちに出撃準備』
『繰り返す──』
慌ただしい足音が廊下を駆け抜ける。
武装庫が無遠慮に開き指揮官たちの怒号が飛び交う。
夜の静寂は一瞬で消え去っていた。
◇
ミッテルトも起きていた──いや、正確にはあまり眠れていなかった。
昼間の飛行の感覚──あの高揚がまだ身体に残っていたからだ。
「……」
翼へ視線を落とす。
──丁寧に整えた羽根
──傷だらけの黒翼
けれど今日は少しだけ違って見えた。
──欠けた翼ではない
──自分の翼だ
本当に初めてそう思えた。
◇
準備を終え、集合地点へ向かう。集合地点ではすでに多くの堕天使たちが集まっていた。
皆、緊張した顔をしている。実戦──訓練ではない。
怪我では済まず死ぬこともある。だから当然だった。
だがその視線がミッテルトへ向くと、少しだけ空気が変わる。
相変わらずだった。直接何かを言われることはない。けれど距離があり壁がある。
──それは今も変わらない
◇
「ミッテルト」
そんな中ミッテルトは上官に名指しで呼ばれた。
「はい」
「お前は後方待機だ」
その言葉に周囲の何人かが納得したような顔をした。
それは予想通りだった──ミッテルト自身もそう言われると思っていた。
「前線には出るな」
「……」
「あの飛行は味方を巻き込む」
冷たい声──だが事実だった。少なくとも上官はそう認識している。そして、今までは何も言い返せなかった。
だが──今日は少しだけ違った。
──昼間の飛行を思い出す
──初めて自由に飛べた感覚
──初めて空が好きだと思えた瞬間
胸の奥が小さく疼く。
──行きたい
──戦いたい
──飛びたい
そんな感情が生まれていた。
◇
しかし──口を開くより先に別の声が響く。
「いや、出してくれ」
その場の視線が一斉に向く。
いつの間に来たのか『彼』──イッセーは当たり前みたいにそこに立っている。
「誰だ────マルバス鄕⁉︎」
上官が誰何するようにイッセーの方へ視線を動かすとこれまでにないほどの動揺を見せた。
「しかし、この者は」
「知ってる」
イッセーは頷き迷いなく言葉を続ける。
「それでも出すべきだ」
◇
周囲がざわつく。
誰もが驚いていた。
当然ミッテルト本人が一番驚いている。
「………理由は」
上官の問いにイッセーは即答した。
「速いから」
あまりにもシンプルだった。
一瞬、場が静まり返る。
そして──何人かが呆れた顔をした。
だがイッセーは気にしない。
「この中で一番速い」
静かな声──それは断言だった。
「先行撹乱なら最適だ」
「しかし制御が」
「できる」
その声音には迷いがなかった。
「俺が保証する」
◇
ミッテルトの胸が大きく鳴る。
【保証する】
そんな言葉を向けられたことがあっただろうか──いや、一度もない
──欠陥だと言われた
──危険だと言われた
──失敗作だと言われた
だが──信じると言われたことはない。だからその言葉は重かった。どうしようもなく。
◇
上官はしばらく黙り周囲も静かだった。
やがて──
「……ミッテルト」
上官が名前を呼ぶ。
「はい」
「行けるか?」
──その問い
──たったの一言
だが、今まで誰もしてくれなかった問いだった。
──お前は無理だ
──お前にはできない
そう決めつけられることはあった。けれど──『できるか?』と聞かれたことはない。
◇
──怖い、もちろん怖い
──実戦だ
──失敗するかもしれない
──暴走するかもしれない
──味方を巻き込むかもしれない
そんな考えは消えていない──けれどそれ以上に
──飛びたいと思った
──空を駆けたいと思った
──戦いたいと思った
そして──認めてくれた人の期待に応えたいと思った。
◇
──ミッテルトは拳を握る
──翼が小さく震える
それが緊張なのか高揚なのか自分でも分からない。だが、答えだけは決まっていた。
「……行くッス」
それは静かな声だった。
しかし、誰よりも強い意志がそこにはあった。
◇
上官への返答を聞き、側にいたイッセーは笑う。
いつもと変わらない笑顔──その顔を見ると少しだけ落ち着く。
「そうか」
短い返事──それだけ、それだけなのに不思議と安心した。
◇
やがて出撃命令が下る。
堕天使たちが次々と飛び立つ。
──夜空へ
──戦場へ
ミッテルトも翼を広げた。
──黒翼が月光を受ける
──風が吹き羽根が揺れる。
──胸の鼓動が速い
怖い──でもそれ以上に今は飛びたかった。
◇
──地面を蹴る
──身体が浮く
──夜空へ躍り出る
その瞬間──下から声が届いた。
「ミッテルト!」
イッセーだった。
振り返ると彼は空を見上げている。そして親指を立てた。
「ぶちかませ!」
◇
思わず笑った。
──本当に
──自然に
──そしてミッテルトは加速する。
──夜空を裂き
──初めての戦場へ向かって
──誰よりも速く
──流星の様に一直線に
戦場はまだ遠い。それなのに異変はすぐに分かった。
──空気が違う
──夜風の匂いが違う
──魔力が濃い
──肌へまとわりつくような不快感がある
前方の空が黒く染まっていた。最初は雲かと思った。
──違う
──動いている
──蠢いている
──生きている
──それは魔物の群れだった。
◇
「多すぎる……」
誰かの呟き──その声は震えていた。
だが無理もない。群れの規模が予想以上だった。
──空中を埋め尽くす黒い影
──翼を持つ魔物
──獣のような魔物
──異形の虫のような魔物
様々な魔物が夜空を覆っている。それはまるで黒い津波だった。
正面から突っ込めば呑み込まれる──そんな数だった。
「迎撃隊、展開!」
指揮官の声に堕天使たちが散開する。
隊列を組み魔法陣が展開され、光弾が放たれる。
◇
だが、状況は最初から良くなかった。
魔物が多すぎる。
──一体倒しても次が来る
──二体倒しても終わらない
──いずれは前線が押され始める
──包囲される
──速度を失う
空中戦で囲まれることは致命的だ。
「右から来るぞ!」
「上だ!」
「避けろ!」
怒号が飛び交う。
戦線が乱れ始める。
その時──ミッテルトは空の上から全体を見ていた。
──誰よりも高く
──誰よりも遠く
──戦場全体が見える位置
そして気付く──魔物たちは中央へ集まっている。
大きな塊になっている。
ならば──
「……」
──深く息を吸う
──怖さはなかった
──不思議なほど
──むしろ胸が熱い
──飛びたい
──走りたい
──突っ込みたい
──そんな感覚
昔の自分なら理解できなかっただろう。
黒翼が広がる。
──大きく
──力強く
──風を掴む
そして──急降下
◇
──戦場に突如響き渡る轟音
──空気が悲鳴を上げ
──夜空が裂ける
──その脅威に魔物たちが本能で反応する
だがもう遅い。
──ミッテルトは一直線に群れの中央へ
──加速
──加速
──さらに加速
視界が流れる。魔物の顔が早送りのようにブレて見える。
『牙』『爪』『赤い目』──全てを置き去りにしてミッテルトは駆ける。
最初の一体──剣閃
首が飛び血が舞う──だが止まらない
──次
──さらに次
──旋回
──加速
──斬撃
──再加速
◇
誰も真似できない軌道だった。普通の飛行ではない。空中戦でもない。
例えるなら【獣】だ。
【獲物へ飛びかかる獣】
壁を蹴るように空気を蹴り、無理やり方向を変え常識外れの速度で駆け抜ける。
◇
「なんだあれは!」
堕天使の一人が叫ぶ。
──速すぎて見えないのだ
見えるのは黒い残像だけ──その残像が戦場を縦横無尽に走り回る。
魔物たちも混乱していた。
──追えない
──囲めない
──捕まえられない
──反応した瞬間にはもういない
──前にいたと思えば後ろにいる
──右にいたと思えば左にいる
──そして首が飛ぶ
◇
群れが崩れ始め包囲が解ける。それを皮切りに堕天使たちが息を吹き返す。
「今だ!」
「押し返せ!」
光の槍が降り注ぎ、魔法が炸裂する。
だが、ミッテルト自身はそんなことを考えていなかった。
──ただ飛んでいた
──ただ戦っていた
──ただ楽しかった
◇
──風
──速度
──重力
全てが身体へ流れ込む。
──今なら分かる
──自分の翼は空を飛ぶためにあった
──誰かと同じように飛ぶためじゃない
──普通になるためじゃない
──自分だけの空を駆けるためにあった
◇
「あはっ……!」
笑い声が漏れた。
──戦場で
──命のやり取りの中で
──それでも笑っていた
──生まれて初めて心から
◇
そんなミッテルトの前に魔物が迫る。それは他より大きい。
群れの中心──指揮個体だろう。
それが咆哮すると周囲の魔物が反応し統率が戻る。
なら──潰す。
ミッテルトは息を吐いた。
肺の中に残っていた空気を、ゆっくりと吐き切る。
次の一瞬で、この身体は限界を超える。
──腕も、脚も、翼も
──壊れることなど、今はどうでもいい
──勝つために必要なのは──たった一度、誰よりも速くなることだけ
──剣を静かに構える
片翼が大きく広がり、魔力を噴き上げた。
強化された脚力と瞬発力。そのすべてを、たった一撃のためだけに解放する。
「──行くッス」
その瞬間再びミッテルトは加速した。
限界──今の自分が出せる全てで。
片翼が爆ぜるように羽ばたき、圧縮された魔力が推進力へと変換される。
空気が裂け黒翼が唸る。
耳を劈く風切り音さえ置き去りにし、身体は一直線に前へと射出された。
──視界が歪む
景色が横へ流れ、建物も瓦礫も、敵の姿さえ一本の線へと変わる。
──世界が流れる
いや──流れているのは世界ではない。
自分だけが、世界から切り離された速度領域へ踏み込んでいた。
──心臓の鼓動が一度
その一拍の間に、数十メートルを駆け抜ける。
そして──巨大な魔物の懐へ潜り込む。
◇
魔物が気付き侵入者へ向け、山のような腕を振り上げる。
空気を押し潰すほどの質量。
まともに受ければ、肉片になる一撃。
だが──それは遅い──あまりにも遅い。
その拳は、まるで止まっているように見えた。
──見える
──筋肉の動き
──重心の移動
──魔力の流れ
すべてが手に取るように理解できる。
──避ける
──紙一重
──いや、紙よりも薄い軌道で巨腕の内側を滑り抜ける。
──すり抜ける
──巨大な身体の死角
──胴を薙げば届く
──今しかない
──剣を振るう
──全身の力を
──全魔力を
──片翼が生み出した最高速度を
──そのすべてを、たった一筋の横薙ぎへ収束させ────【斬る】
◇
一閃
──刃が通り過ぎた感触だけが、手に残る
──ミッテルトは振り返らない
──もう勝敗は決している
──背後では巨大な魔物が立ったまま動かない
──静寂が訪れる
──数秒、誰も息を呑んだままその巨体を見つめていた
──やがて、一本の赤い線が魔物の首筋を走る
──ゆっくりと
──本当にゆっくりと
──首がずれ巨体が揺れ、そして落ちた
──轟音とともに、大地が震える
──巨大な身体は二度と動かなかった
剣を静かに鞘へ納めたミッテルトは、肩で息をしながら苦笑する。
「名前を付けるなら………【絶影一文字】………ッスかね」
◇
戦場が一瞬だけ静まる。その光景を誰もが見ていた。
巨大な魔物を倒した片翼の堕天使──ミッテルトを
「……嘘だろ」
誰かが呟くその声にはもう嘲笑、侮蔑はなかった。
あったのは純粋な驚愕だった。
ミッテルトは空にいた。
夜風が翼を揺らす。だが羽根は乱れ何枚も抜け落ちている。
──身体も痛い
──疲労もある
──それでも胸の奥だけは熱かった
──どうしようもなく熱かった
◇
そして戦場の遥か後方──その姿を見上げながらイッセーは小さく笑う。
「だから言っただろ」
空の向こう──黒翼の少女へ向かって誰へともなく呟く。
「お前は速くなれるって」
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