マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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片翼の堕天使は、最速の騎士となる(9)

警報が鳴ったのは、その日の深夜だった。

 

──けたたましい警鐘

──基地全体へ響く魔力通信

──眠りかけていた者たちが一斉に飛び起きる

 

『西部区域にて魔物群を確認』

『戦闘部隊は直ちに出撃準備』

『繰り返す──』

 

 慌ただしい足音が廊下を駆け抜ける。

 武装庫が無遠慮に開き指揮官たちの怒号が飛び交う。

 夜の静寂は一瞬で消え去っていた。

 

 

 ミッテルトも起きていた──いや、正確にはあまり眠れていなかった。

 昼間の飛行の感覚──あの高揚がまだ身体に残っていたからだ。

 

「……」

 

 翼へ視線を落とす。

 

──丁寧に整えた羽根

──傷だらけの黒翼

 

 けれど今日は少しだけ違って見えた。

 

──欠けた翼ではない

──自分の翼だ

 

 本当に初めてそう思えた。

 

 

 準備を終え、集合地点へ向かう。集合地点ではすでに多くの堕天使たちが集まっていた。

 皆、緊張した顔をしている。実戦──訓練ではない。

 怪我では済まず死ぬこともある。だから当然だった。

 だがその視線がミッテルトへ向くと、少しだけ空気が変わる。

 相変わらずだった。直接何かを言われることはない。けれど距離があり壁がある。

 

──それは今も変わらない

 

 

「ミッテルト」

 

 そんな中ミッテルトは上官に名指しで呼ばれた。

 

「はい」

「お前は後方待機だ」

 

 その言葉に周囲の何人かが納得したような顔をした。

 それは予想通りだった──ミッテルト自身もそう言われると思っていた。

 

「前線には出るな」

「……」

「あの飛行は味方を巻き込む」

 

 冷たい声──だが事実だった。少なくとも上官はそう認識している。そして、今までは何も言い返せなかった。

 

 だが──今日は少しだけ違った。

 

──昼間の飛行を思い出す

──初めて自由に飛べた感覚

──初めて空が好きだと思えた瞬間

 

 胸の奥が小さく疼く。

 

──行きたい

──戦いたい

──飛びたい

 

 そんな感情が生まれていた。

 

 

 しかし──口を開くより先に別の声が響く。

 

「いや、出してくれ」

 

 その場の視線が一斉に向く。

 いつの間に来たのか『彼』──イッセーは当たり前みたいにそこに立っている。

 

「誰だ────マルバス鄕⁉︎」

 

 上官が誰何するようにイッセーの方へ視線を動かすとこれまでにないほどの動揺を見せた。

 

「しかし、この者は」

「知ってる」

 

 イッセーは頷き迷いなく言葉を続ける。

 

「それでも出すべきだ」

 

 

 周囲がざわつく。

 誰もが驚いていた。

 当然ミッテルト本人が一番驚いている。

 

「………理由は」

 

 上官の問いにイッセーは即答した。

 

「速いから」

 

 あまりにもシンプルだった。

 一瞬、場が静まり返る。

 そして──何人かが呆れた顔をした。

 だがイッセーは気にしない。

 

「この中で一番速い」

 

 静かな声──それは断言だった。

 

「先行撹乱なら最適だ」

「しかし制御が」

「できる」

 

 その声音には迷いがなかった。

 

「俺が保証する」

 

 

 ミッテルトの胸が大きく鳴る。

 

【保証する】

 

 そんな言葉を向けられたことがあっただろうか──いや、一度もない

 

──欠陥だと言われた

──危険だと言われた

──失敗作だと言われた

 

 だが──信じると言われたことはない。だからその言葉は重かった。どうしようもなく。

 

 

 上官はしばらく黙り周囲も静かだった。

 

 やがて──

 

「……ミッテルト」

 

上官が名前を呼ぶ。

 

「はい」

「行けるか?」

 

──その問い

──たったの一言

 

 だが、今まで誰もしてくれなかった問いだった。

 

──お前は無理だ

──お前にはできない

 

 そう決めつけられることはあった。けれど──『できるか?』と聞かれたことはない。

 

 

──怖い、もちろん怖い

──実戦だ

──失敗するかもしれない

──暴走するかもしれない

──味方を巻き込むかもしれない

 

そんな考えは消えていない──けれどそれ以上に

 

──飛びたいと思った

──空を駆けたいと思った

──戦いたいと思った

 

 そして──認めてくれた人の期待に応えたいと思った。

 

 

──ミッテルトは拳を握る

──翼が小さく震える

 

 それが緊張なのか高揚なのか自分でも分からない。だが、答えだけは決まっていた。

 

「……行くッス」

 

 それは静かな声だった。

 しかし、誰よりも強い意志がそこにはあった。

 

 

 上官への返答を聞き、側にいたイッセーは笑う。

 いつもと変わらない笑顔──その顔を見ると少しだけ落ち着く。

 

「そうか」

 

 短い返事──それだけ、それだけなのに不思議と安心した。

 

 

 やがて出撃命令が下る。

 堕天使たちが次々と飛び立つ。

 

──夜空へ

──戦場へ

 

 ミッテルトも翼を広げた。

 

──黒翼が月光を受ける

──風が吹き羽根が揺れる。

──胸の鼓動が速い

 

 怖い──でもそれ以上に今は飛びたかった。

 

 

──地面を蹴る

──身体が浮く

──夜空へ躍り出る

 

 その瞬間──下から声が届いた。

 

「ミッテルト!」

 

 イッセーだった。

 

 振り返ると彼は空を見上げている。そして親指を立てた。

 

「ぶちかませ!」

 

 

 思わず笑った。

 

──本当に

──自然に

──そしてミッテルトは加速する。

 

──夜空を裂き

──初めての戦場へ向かって

──誰よりも速く

──流星の様に一直線に

 

 戦場はまだ遠い。それなのに異変はすぐに分かった。

 

──空気が違う

──夜風の匂いが違う

──魔力が濃い

──肌へまとわりつくような不快感がある

 

 前方の空が黒く染まっていた。最初は雲かと思った。

 

──違う

──動いている

──蠢いている

──生きている

 

──それは魔物の群れだった。

 

 

「多すぎる……」

 

 誰かの呟き──その声は震えていた。

 だが無理もない。群れの規模が予想以上だった。

 

──空中を埋め尽くす黒い影

──翼を持つ魔物

──獣のような魔物

──異形の虫のような魔物

 

 様々な魔物が夜空を覆っている。それはまるで黒い津波だった。

 正面から突っ込めば呑み込まれる──そんな数だった。

 

「迎撃隊、展開!」

 

 指揮官の声に堕天使たちが散開する。

 隊列を組み魔法陣が展開され、光弾が放たれる。

 

 

 だが、状況は最初から良くなかった。

 

 魔物が多すぎる。

 

──一体倒しても次が来る

──二体倒しても終わらない

──いずれは前線が押され始める

──包囲される

──速度を失う

 

 空中戦で囲まれることは致命的だ。

 

「右から来るぞ!」

「上だ!」

「避けろ!」

 

 怒号が飛び交う。

 戦線が乱れ始める。

 

 その時──ミッテルトは空の上から全体を見ていた。

 

──誰よりも高く

──誰よりも遠く

──戦場全体が見える位置

 

 そして気付く──魔物たちは中央へ集まっている。

 大きな塊になっている。

 

 ならば──

 

「……」

 

──深く息を吸う

──怖さはなかった

──不思議なほど

──むしろ胸が熱い

──飛びたい

──走りたい

──突っ込みたい

──そんな感覚

 

 昔の自分なら理解できなかっただろう。

 

 

 黒翼が広がる。

 

──大きく

──力強く

──風を掴む

 

そして──急降下

 

 

──戦場に突如響き渡る轟音

──空気が悲鳴を上げ

──夜空が裂ける

──その脅威に魔物たちが本能で反応する

 

 だがもう遅い。

 

──ミッテルトは一直線に群れの中央へ

 

──加速

──加速

──さらに加速

 

 視界が流れる。魔物の顔が早送りのようにブレて見える。

 

 『牙』『爪』『赤い目』──全てを置き去りにしてミッテルトは駆ける。

 

 

 最初の一体──剣閃

 

 首が飛び血が舞う──だが止まらない

 

──次

──さらに次

 

──旋回

──加速

──斬撃

──再加速

 

 

 誰も真似できない軌道だった。普通の飛行ではない。空中戦でもない。

 例えるなら【獣】だ。

 

 【獲物へ飛びかかる獣】

 

 壁を蹴るように空気を蹴り、無理やり方向を変え常識外れの速度で駆け抜ける。

 

 

「なんだあれは!」

 

 堕天使の一人が叫ぶ。

 

──速すぎて見えないのだ

 

 見えるのは黒い残像だけ──その残像が戦場を縦横無尽に走り回る。

 魔物たちも混乱していた。

 

──追えない

──囲めない

──捕まえられない

──反応した瞬間にはもういない

──前にいたと思えば後ろにいる

──右にいたと思えば左にいる

 

──そして首が飛ぶ

 

 

 群れが崩れ始め包囲が解ける。それを皮切りに堕天使たちが息を吹き返す。

 

「今だ!」

「押し返せ!」

 

 光の槍が降り注ぎ、魔法が炸裂する。

 

 

 だが、ミッテルト自身はそんなことを考えていなかった。

 

──ただ飛んでいた

──ただ戦っていた

──ただ楽しかった

 

 

──風

──速度

──重力

 

 全てが身体へ流れ込む。

 

──今なら分かる

──自分の翼は空を飛ぶためにあった

──誰かと同じように飛ぶためじゃない

──普通になるためじゃない

──自分だけの空を駆けるためにあった

 

 

「あはっ……!」

 

 笑い声が漏れた。

 

──戦場で

──命のやり取りの中で

──それでも笑っていた

──生まれて初めて心から

 

 

 そんなミッテルトの前に魔物が迫る。それは他より大きい。

 群れの中心──指揮個体だろう。

 それが咆哮すると周囲の魔物が反応し統率が戻る。

 なら──潰す。

 

 

 ミッテルトは息を吐いた。

 肺の中に残っていた空気を、ゆっくりと吐き切る。

 次の一瞬で、この身体は限界を超える。

 

──腕も、脚も、翼も

──壊れることなど、今はどうでもいい

──勝つために必要なのは──たった一度、誰よりも速くなることだけ

──剣を静かに構える

 

 片翼が大きく広がり、魔力を噴き上げた。

 強化された脚力と瞬発力。そのすべてを、たった一撃のためだけに解放する。

 

「──行くッス」

 

 その瞬間再びミッテルトは加速した。

 限界──今の自分が出せる全てで。

 片翼が爆ぜるように羽ばたき、圧縮された魔力が推進力へと変換される。

 空気が裂け黒翼が唸る。

 耳を劈く風切り音さえ置き去りにし、身体は一直線に前へと射出された。

 

──視界が歪む

 

 景色が横へ流れ、建物も瓦礫も、敵の姿さえ一本の線へと変わる。

 

──世界が流れる

 

 いや──流れているのは世界ではない。

 自分だけが、世界から切り離された速度領域へ踏み込んでいた。

 

──心臓の鼓動が一度

 

 その一拍の間に、数十メートルを駆け抜ける。

 

そして──巨大な魔物の懐へ潜り込む。

 

 

 魔物が気付き侵入者へ向け、山のような腕を振り上げる。

 空気を押し潰すほどの質量。

 まともに受ければ、肉片になる一撃。

 

 だが──それは遅い──あまりにも遅い。

 その拳は、まるで止まっているように見えた。

 

──見える

──筋肉の動き

──重心の移動

──魔力の流れ

 

 すべてが手に取るように理解できる。

 

──避ける

──紙一重

──いや、紙よりも薄い軌道で巨腕の内側を滑り抜ける。

──すり抜ける

──巨大な身体の死角

 

──胴を薙げば届く

──今しかない

──剣を振るう

──全身の力を

──全魔力を

──片翼が生み出した最高速度を

──そのすべてを、たった一筋の横薙ぎへ収束させ────【斬る】

 

 

 一閃

 

──刃が通り過ぎた感触だけが、手に残る

──ミッテルトは振り返らない

──もう勝敗は決している

──背後では巨大な魔物が立ったまま動かない

──静寂が訪れる

──数秒、誰も息を呑んだままその巨体を見つめていた

──やがて、一本の赤い線が魔物の首筋を走る

──ゆっくりと

──本当にゆっくりと

──首がずれ巨体が揺れ、そして落ちた

──轟音とともに、大地が震える

──巨大な身体は二度と動かなかった

 

 剣を静かに鞘へ納めたミッテルトは、肩で息をしながら苦笑する。

 

「名前を付けるなら………【絶影一文字】………ッスかね」

 

 

 戦場が一瞬だけ静まる。その光景を誰もが見ていた。

 巨大な魔物を倒した片翼の堕天使──ミッテルトを

 

「……嘘だろ」

 

 誰かが呟くその声にはもう嘲笑、侮蔑はなかった。

 あったのは純粋な驚愕だった。

 

 ミッテルトは空にいた。

 夜風が翼を揺らす。だが羽根は乱れ何枚も抜け落ちている。

 

──身体も痛い

──疲労もある

──それでも胸の奥だけは熱かった

──どうしようもなく熱かった

 

 

 そして戦場の遥か後方──その姿を見上げながらイッセーは小さく笑う。

 

「だから言っただろ」

 

 空の向こう──黒翼の少女へ向かって誰へともなく呟く。

 

「お前は速くなれるって」

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