マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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“私”と“妾”の九尾様(1)

山の空気は、妙に静かだった。

 静か──というより【死んでいる】

 青年は足を止め耳を澄ます。

 風の音、木々の葉が擦れる音もある。

 だが、それだけ──鳥の囀りが虫の羽音、獣の気配もない。

 生き物の気配だけが、綺麗さっぱり消えている。

 

「……気味悪ぃな」

 

 ぽつりと吐き出した声が妙に大きく聞こえた。

 

 人間界──平安京近郊

 

 古くから妖や物の怪が跋扈する土地。

 そんな中でも、この山は最近になって急激に噂が広がっていた。

 妖怪が消え退魔師が戻らない。

 そして山へ入った者が二度と出てこない。

 

──原因不明

──正体不明。

 

『だから調査してほしいんだよ』

 

 それが少し前にサーゼクスに依頼したことへの見返りだった。

 

「絶対それだけじゃねぇだろ……」

 

 青年──イッセーは頭を掻く。

 経験上こういう依頼は碌なことにならない。

 原因不明というのは、大抵の場合『調べた連中が全員死んだから分からない』という意味だ。

 そして今、この山の空気はその予感を全力で肯定していた。

 ふと視線を巡らせる。

 すると木の根元に何か白いものが転がっている。

 

「骨……?」

 

 それは獣の骨だった。

 だが違和感を感じた。

 

 【噛み砕かれた痕跡がない】

  【肉を食われた様子もない】

 

 まるで──【その場で突然死んだような】

 

 さらに歩けば似たような骨がいくつも見つかった。

 

──狐

──鹿

──猪

 

 

 どれも逃げる途中で倒れたような姿勢だった。

 

「……なんだこれ」

 

 思わず眉を顰める。

 殺されたのではない。捕食されたのでもない。

 ただ恐怖から逃げ続け、そのまま死んだようなそんな痕跡。

 ぞくり、と背筋が冷えた。

 嫌な想像が脳裏をよぎる。

 もしこれが本当に恐怖だけで死んだ結果なら。

 この山には、それほどの存在がいることになる。

 

「ミッテルトとマシュは何してるんだろな──帰りたいな……」

 

 小さく呟く。

 だがもちろん帰らない。帰れるなら最初から来ていない。

 だけど愚痴くらい言わせてほしい。

 そう思いながら足を進める。

 進むほどに空気が重くなる。

 濃いが感じられる気配の種類は妖気──いや、妖気という表現ですら正しいのか怪しかった。

 

──もっと古い

──もっと根源的な何か

──理解できる枠組みの外側にあるような異質さ

 

 本能が警鐘を鳴らしている。

 

──危険だ

──近づくな

──逃げろ

 

 だが同時に、奇妙な感覚もあった。

 

──何かに呼ばれているような。

──導かれているような

──そんな感覚を

 

「……気のせいだよな?」

 

 誰にともなく問いかける。

 返事はない──当然だ。

 だが──その時だった。

 

 ふわり

 

 風が吹いた──花の香り。春の夜を思わせる甘い香り。

 山の中には不釣り合いなほど優しい匂い。

 イッセーは顔を上げた──そして見つける。

 

 木々の向こう──ひっそりと佇む古い社

 

 人の手入れなど何百年もされていないはずなのに、不思議と崩れていない。

 そしてその縁側に一人の女が座っていた。

 

──夕陽に染まる横顔

──漆黒の髪

──薄紅の着物

──白磁のような肌

 

 それはまるで絵巻物から抜け出した姫君。

 

──現実感がない

──あまりにも美しい

──あまりにも完成されている

 

 だからこそその瞬間──イッセーの全身を悪寒が貫いた。

 理解してしまったからだ。

 

──あれは人ではない

──人の形をしているだけだ

──もっと古い

──もっと深い

──もっと恐ろしい

 

 視線を向けられたわけでもない。敵意を感じたわけでもない。

 それなのに──『逃げろ‼︎』と本能が絶叫していた。

 

──近づいてはいけない

──触れてはいけない

──知ってはいけない

 

 それは人が触れていい領域の外にある。

 

──災厄

──神秘

──深淵

 

 そんな言葉が頭をよぎる。

次の過去編、誰が見たい?

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