マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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“私”と“妾”の九尾様(2)

── そして同じ頃

 

 女──羽衣乙女は静かに空を見上げていた。

 夕暮れの山は今日も変わらない。

 風が吹き雲が流れ、日が沈む。

 

──何百年

──何千年

──繰り返されてきた景色

 

 彼女はそれをただ静かに眺めていた。

 孤独にも慣れていた。

 人は来ない。妖も来ない。

 近づいてくる者はいる。だが皆同じだった。

 

──畏怖

──恐

──崇拝

 

 あるいは──欲望

 

──誰も彼女自身を見ない

──怪物を見る

──災厄を見る

 

 だから期待などしない。

 今日も同じ──そう思っていた。

 だから気づく──山を登ってくる気配に。

 

「──珍しい」

 

 小さく呟く。

 妖ではなく人でもない。

 乙女が知らない面白い存在だった。

 だがそれでも結果は同じだろう。

──どうせ逃げる

──どうせ怯える

──どうせ消える

 

 そう思っていた──だから

 

「……あんた」

 

 声を掛けられた瞬間、羽衣乙女は少しだけ驚いた。

 逃げなかった。しかも逃げるどころか話しかけてきた。

 それは乙女にとって、ほんの少しだけ予想外だった。

 乙女は静かに振り返った。

 夕陽がその横顔を照らし、漆黒の髪が風に揺れた。

 その動き一つでさえ絵になる。

 イッセーは思わず息を呑んだ。

 

──美しい

 

 単純にそう思った。

 だが、同時に近づいてはいけない──その警鐘も消えてはいない。

 理性と本能が正反対の結論を出している。そんな奇妙な感覚だった。

 乙女は少しだけ首を傾げる。

 

──漆黒の瞳

──深い夜のような色

 

 だがその奥には、どこか柔らかな光もあった。

 

「迷ったの?」

 

 困ったように微笑みながら問う。

 イッセーが予想していた声とは違った。

 もっと妖しく、もっと禍々しいものを想像していた──だが実際は違い、鈴が鳴るような優しい声だった。

 

「……え?」

 

 一瞬理解が追いつかない。

 

「この山、慣れていない人には難しいもの」

「いや……まぁ……」

 

 確かに迷った。だがそういう問題だろうか。

 山全体が化け物じみた圧を放っている場所である。

 普通ならまずそこを説明するべきではないだろうか。

 

「ふふ」

 

 乙女は小さく笑った。

 どこか楽しそうだった。

 それを見てイッセーは妙な違和感を覚える。

 彼女は本気で言っている。

 山全体を覆う異常な妖気も、生き物が死に絶えた空気も全て当たり前だと思っている。

 だから話題にすらしない──その感覚の違いこそが恐ろしかった。

 悪魔と妖の差ではない………もっと根本的な──存在階梯の差

 

「あなた、人ではないでしょう?」

 

 不意に問われる。

 

「あー……まぁな」

「珍しいわね」

 

 乙女はそう言ってイッセーを眺めた。

 まるで珍しい鳥でも見るような視線だった。

 悪意はなくただ純粋な興味。

 その視線に妙な居心地の悪さを感じる。

 

「………珍しいって?」

「この辺りに来る者は少ないもの」

「そりゃそうだろうな……」

 

(むしろ来る方がおかしい)

 

 イッセーは心の中でそう付け加えた。

 すると乙女は縁側を軽く叩く。

 

「座る?」

「え?」

「立っているの疲れるでしょう?」

 

 あまりにも自然な誘いだった。まるで友人を招くような気軽さ。

 だから逆に困る。

 どう考えても警戒するべき相手だ。

 なのに──不思議と嫌な感じがしない。

 

 むしろ──もう少し話してみたい

 

 そんな気持ちがあった。

 

「……じゃあ失礼して」

 

 縁側へ腰を下ろすその瞬間──

 

 ピシリ

 

──空気が軋んだ。

 

 イッセーの身体が硬直する。

 何かがこちらを見た──そう錯覚するほどの圧力。

──巨大な獣が瞼を開いたような

──山そのものが息を呑んだような

 

 そんな感覚が一瞬だけ、本当に一瞬だけ世界が凍りついた。

 だが、次の瞬間には消えている。

 

「?」

 

 隣を見ると乙女は不思議そうに首を傾げていた。

 本当に何もしていない顔だった──だからこそ恐ろしい。

 

「どうしたの?」

「……いや」

 

 言葉を濁す。説明できる気がしなかった。気のせいではない。だが何だったのかも分からない。沈黙が落ちる。

 夕陽が少しずつ山の向こうへ沈んでいく。

 その光景を眺めながら乙女がぽつりと呟いた。

 

「貴様、変わっているな」

「は?」

 

 今度は口調が違った。

 それは別人のような響きだった。

 

「人間なら発狂死する」

 

 静かな声。

 

「普通の妖なら逃げる」

 

 風が吹き漆黒の髪が揺れる。

 

「それなのに、お主は平然と隣へ座っている」

 

 その瞳がこちらを見た。

 ぞくり、と背筋が震える。

 まるで深淵を覗く──否、逆に覗き込まれているような感覚。

 そこにいるのは先ほどまでの穏やかな乙女ではない。

 もっと古く──もっと恐ろしい何か。

 だが、その姿を見てイッセーの口から出た言葉は──

 

「……綺麗だな」

 

──だった。

 

 言ってから自分でも驚く。何を言っているんだ。

 聞くべきことは山ほどある。なのに──最初に出たのはその一言だった。

 

 沈黙──風が止まる。

 木々のざわめきが消える。

 山全体が静まり返ったような感覚。

 まるで理解できない言葉を聞いたように乙女の瞳が大きく見開かれていた。

 

 

「……私を見て?」

 

 呆然とした声。

 

「そう言ったの?」

「え? あぁ」

 

 何かおかしいだろうかとイッセーが首を傾げる。

 だが乙女の中では違った。

 

──綺麗

 

 その言葉を向けられたことはない。

 

──神にも等しき怪異

 

 そう呼ばれたことはある。

 

──恐れられたこともある。

──崇められたこともある。

──憎まれたこともある。

 

 だが──ただ綺麗だとそう言われたことはなかった。

 目の前の自分自身へそんな風に言われたことなどは一度もなかった。

 

「……ふふ」

 

 思わず笑みが零れる。

 自分でも理由は分からない。

 ただ少しだけ胸の奥が温かかった。

 

「本当に変な人」

 

 そう言いながら乙女は初めて身体ごとイッセーへ向き直った。

 月が昇り始めていた。

 夕暮れと夜の境界。古い神秘が最も色濃くなる時間。

 その中で乙女は静かに名乗る。

 

「私は羽衣乙女」

 

 そして──一瞬だけ空気が変わった。

 優しい笑みの奥──深い深い場所から別の存在が顔を覗かせる。

 

「そして妾は──」

 

 その名が告げられる。

 

──だが音にならない

──雑音

──歪み

──理解を拒む神秘

──人が知ることを許されない真名

 

 その瞬間──山が震えた。

 木々がざわめき空気が軋む。夜空すら息を呑んだようだった。

 まるで世界そのものがその名へ反応したかのように。

 

だが──イッセーだけは理解していなかった。

 

 今自分の隣にいる存在が──

 

──妖怪の頂点

──神話の残滓

──九尾の始祖

 

 幾つもの時代で災厄と恐れられた女王──その当人であることを

次の過去編、誰が見たい?

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