夜が降り、山の上は静かだった。
昼間から静かだったが、夜になるとその静寂はさらに深くなる。
月明かりが社を照らし、縁側へ並んで座る二人の影が長く伸びていた。
イッセーは隣の乙女を盗み見る。
羽衣乙女──そして名も知れぬ存在。
少なくとも、まともな存在ではない。
先ほど真名を告げられた瞬間の現象が何よりの証拠だった。
──山が震えた
──空気が軋んだ
──世界そのものが反応した
あれは絶対に普通ではない。
だが──当の本人は月を見上げながら穏やかに微笑んでいる。
まるで何事もなかったかのように。
「……なぁ」
「なに?」
乙女は視線を月へ向けたまま答える。
「アンタ、何者なんだ?」
率直な疑問だった。
名前は聞いた。だが正体は聞いていない。
すると乙女は少しだけ困った顔をする。
「難しいことを聞くのね」
「普通気になるだろ」
「そうかしら」
本気で不思議そうだった。
どうやら自分がどれほど異常な存在なのか理解していないらしい。
いや他──理解しているからこそ気にしていないのか。
どちらにせよ厄介だった。
乙女は少し考えるように顎へ指を当てる。
「私は私よ」
「説明になってないよ」
「そう?」
「そう」
すると乙女は小さく笑った。
まるで久しぶりの遊び相手を見つけた子供みたいな顔をしている。
「あなた、変わっているわね」
「それさっきも言われた」
「だって本当に変なのだもの」
乙女はくすくす笑う。
月明かりを受けるその姿は幻想的だった。
何百年も前の物語から抜け出してきた姫君──そんな言葉が似合う。
だが──どこか危うさもある。
この乙女は人の世を知らない。
正確には──知っていても遠すぎるのだ。
「ここにずっといるのか?」
「ええ」
「何年くらい?」
イッセーの言葉に乙女は考える──本気で考える。
数秒──
十秒──
──さらに沈黙。やがて──
「……何年だったかしら」
「分からねぇのかよ」
「百年は超えていると思うわ」
「百年どころじゃねぇだろそれ」
「そう?」
心底不思議そうだった。
イッセーは頭を抱えたくなる。
(百年を『この前』みたいな感覚で話すな‼︎)
だが──考えてみれば当然かもしれない。
もし本当にあの真名が示す存在なら人の寿命など一瞬だ。
百年ですら短い。
「人って不思議よね」
ぽつりと乙女が言った。
「何がだ?」
「すぐ死ぬのに、一生懸命生きるもの」
その言葉に悪意はなかった。
本当に不思議そうなだけだった──だからこそ重い。
イッセーは苦笑する。
「そりゃすぐ死ぬからだろ」
「そうなの?」
「終わりがあるから急ぐんだよ」
乙女は少し考える。
──長い沈黙
──風が吹く
──木々が揺れる
そして──
「なるほど」
──小さく頷いた。
「だから人は眩しいのね」
どこか納得したような声だった。その横顔を見てイッセーは少しだけ違和感を覚える。
この乙女は本当に長い時間を生きている。
人の寿命を知識ではなく体感で理解している。
──何百
──何千
数え切れない別れを経験してきたのだろう。
だからこそその言葉には妙な重みがあった。
「アンタは寂しくないのか?」
気づけばそう聞いていた。
乙女がこちらを見る。その顔には少しだけ驚いたような感じを感じる。
「寂しい?」
「ずっと一人なんだろ」
──沈黙
月明かりが瞳へ映るその中に一瞬だけ──ほんの一瞬だけ寂しさが見えた気がした。
「……慣れたわ」
静かな声だった。
「慣れた?」
「ええ」
笑う──それは優しく穏やかに。だけどどこか悲しそうに──
「昔は寂しかったかもしれない………でも長く生きるとね」
夜風が吹き黒髪が揺れる。
「諦めるの」
その一言が妙に胸へ刺さった。
『諦める』
それは受け入れることではない。ただ願うことをやめることだ。
どれだけの時間を重ねればそんな言葉が出るのかイッセーには想像もつかなかった。
だから──
「それは嫌だな」
──自然と口にしていた。
乙女がイッセーの言葉に目を瞬く。
「嫌?」
「ああ」
イッセーは肩を竦める。
「諦めるのは性に合わねぇ」
その言葉に羽衣乙女はしばらく何も言わなかった。
ただ静かに彼を見つめていた。
不思議な男だと思う。
本当に自分を──
──恐れない
──畏れない
──媚びない
──欲望を向けない
ただ当たり前のように話している。
それがどれほど異常なことなのか彼自身だけが分かっていない。
だから──少しだけ楽しかった。ほんの少しだけ。胸の奥が温かい。
そんな感覚はいつ以来だろう。
──千年
あるいはもっと前かもしれない。
その時だった──
ぞわり
──空気が揺れた。
乙女の笑みが消えると同時にイッセーの表情も変わった。
──気配
──複数
──しかも強い
森の奥──木々の向こうから何かがこちらを見ている。
──殺意
──欲望
──飢え
不快な感情が濁流のように押し寄せてくる。
「……来たか」
乙女が静かに呟いた。その声は先ほどまでと違う。
冷たく静かだ。
だが確実な警戒を孕んでいた。
──月明かりの下、木々の奥からゆっくりと影が現れ始める。
──異形
──妖怪
そしてその瞳には──狂ったような執着が宿っていた。
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