マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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“私”と“妾”の九尾様(3)

夜が降り、山の上は静かだった。

 昼間から静かだったが、夜になるとその静寂はさらに深くなる。

 月明かりが社を照らし、縁側へ並んで座る二人の影が長く伸びていた。

 イッセーは隣の乙女を盗み見る。

 

 羽衣乙女──そして名も知れぬ存在。

 少なくとも、まともな存在ではない。

 先ほど真名を告げられた瞬間の現象が何よりの証拠だった。

 

──山が震えた

──空気が軋んだ

──世界そのものが反応した

 

 あれは絶対に普通ではない。

 だが──当の本人は月を見上げながら穏やかに微笑んでいる。

 まるで何事もなかったかのように。

 

「……なぁ」

「なに?」

 

 乙女は視線を月へ向けたまま答える。

 

「アンタ、何者なんだ?」

 

 率直な疑問だった。

 名前は聞いた。だが正体は聞いていない。

 すると乙女は少しだけ困った顔をする。

 

「難しいことを聞くのね」

「普通気になるだろ」

「そうかしら」

 

 本気で不思議そうだった。

 どうやら自分がどれほど異常な存在なのか理解していないらしい。

 いや他──理解しているからこそ気にしていないのか。

 どちらにせよ厄介だった。

 乙女は少し考えるように顎へ指を当てる。

 

「私は私よ」

「説明になってないよ」

「そう?」

「そう」

 

 すると乙女は小さく笑った。

 まるで久しぶりの遊び相手を見つけた子供みたいな顔をしている。

 

「あなた、変わっているわね」

「それさっきも言われた」

「だって本当に変なのだもの」

 

 乙女はくすくす笑う。

 月明かりを受けるその姿は幻想的だった。

 何百年も前の物語から抜け出してきた姫君──そんな言葉が似合う。

 だが──どこか危うさもある。

 この乙女は人の世を知らない。

 正確には──知っていても遠すぎるのだ。

 

「ここにずっといるのか?」

「ええ」

「何年くらい?」

 

 イッセーの言葉に乙女は考える──本気で考える。

 

 数秒──

 十秒──

 

──さらに沈黙。やがて──

 

「……何年だったかしら」

「分からねぇのかよ」

「百年は超えていると思うわ」

「百年どころじゃねぇだろそれ」

「そう?」

 

 心底不思議そうだった。

 イッセーは頭を抱えたくなる。

 

 (百年を『この前』みたいな感覚で話すな‼︎)

 

 だが──考えてみれば当然かもしれない。

 もし本当にあの真名が示す存在なら人の寿命など一瞬だ。

 百年ですら短い。

 

「人って不思議よね」

 

 ぽつりと乙女が言った。

 

「何がだ?」

「すぐ死ぬのに、一生懸命生きるもの」

 

 その言葉に悪意はなかった。

 本当に不思議そうなだけだった──だからこそ重い。

 イッセーは苦笑する。

 

「そりゃすぐ死ぬからだろ」

「そうなの?」

「終わりがあるから急ぐんだよ」

 

 乙女は少し考える。

 

──長い沈黙

──風が吹く

──木々が揺れる

 

 そして──

 

「なるほど」

 

──小さく頷いた。

 

「だから人は眩しいのね」

 

 どこか納得したような声だった。その横顔を見てイッセーは少しだけ違和感を覚える。

 この乙女は本当に長い時間を生きている。

 人の寿命を知識ではなく体感で理解している。

 

──何百

──何千

 

 数え切れない別れを経験してきたのだろう。

 だからこそその言葉には妙な重みがあった。

 

「アンタは寂しくないのか?」

 

 気づけばそう聞いていた。

 乙女がこちらを見る。その顔には少しだけ驚いたような感じを感じる。

 

「寂しい?」

「ずっと一人なんだろ」

 

──沈黙

 

 月明かりが瞳へ映るその中に一瞬だけ──ほんの一瞬だけ寂しさが見えた気がした。

 

「……慣れたわ」

 

 静かな声だった。

 

「慣れた?」

「ええ」

 

 笑う──それは優しく穏やかに。だけどどこか悲しそうに──

 

「昔は寂しかったかもしれない………でも長く生きるとね」

 

 夜風が吹き黒髪が揺れる。

 

「諦めるの」

 

 その一言が妙に胸へ刺さった。

 

『諦める』

 

 それは受け入れることではない。ただ願うことをやめることだ。

 どれだけの時間を重ねればそんな言葉が出るのかイッセーには想像もつかなかった。

 だから──

 

「それは嫌だな」

 

──自然と口にしていた。

 乙女がイッセーの言葉に目を瞬く。

 

「嫌?」

「ああ」

 

 イッセーは肩を竦める。

 

「諦めるのは性に合わねぇ」

 

 その言葉に羽衣乙女はしばらく何も言わなかった。

 ただ静かに彼を見つめていた。

 不思議な男だと思う。

 本当に自分を──

 

──恐れない

──畏れない

──媚びない

──欲望を向けない

 

 ただ当たり前のように話している。

 それがどれほど異常なことなのか彼自身だけが分かっていない。

 だから──少しだけ楽しかった。ほんの少しだけ。胸の奥が温かい。

 

 そんな感覚はいつ以来だろう。

 

──千年

 

 あるいはもっと前かもしれない。

 その時だった──

 

ぞわり

 

──空気が揺れた。

 

 乙女の笑みが消えると同時にイッセーの表情も変わった。

 

──気配

──複数

──しかも強い

 

 森の奥──木々の向こうから何かがこちらを見ている。

 

──殺意

──欲望

──飢え

 

 不快な感情が濁流のように押し寄せてくる。

 

「……来たか」

 

 乙女が静かに呟いた。その声は先ほどまでと違う。

 冷たく静かだ。

 だが確実な警戒を孕んでいた。

 

──月明かりの下、木々の奥からゆっくりと影が現れ始める。

 

──異形

──妖怪

 

 そしてその瞳には──狂ったような執着が宿っていた。

次の過去編、誰が見たい?

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