マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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“私”と“妾”の九尾様(4)

木々の奥から現れた影は一つではなかった。

 

 二体、三体いや、それ以上の数が闇の中から次々と滲み出るように姿を現す。

 そのどれもが人の形をしていた。だが人ではない。

 

──灰色に爛れた皮膚

──異様に長い腕

──赤黒く濁った瞳

 

 それは妖怪だった。だがそれは下級の雑魚などではない。

 長い年月を生き延びた強力な個体ばかりだ。

 普通なら山一つ支配していてもおかしくない。

 そんな連中が十数体──それだけで十分な脅威だった。

 だが彼らはイッセーを見ていなかった。

 視線の全てがただ一人へ向けられていた──羽衣乙女──その存在だけを

 

「見つけた……」

 

 妖怪の一体が呻くように言う。その声は震えていた。

 

──恐怖

──歓喜

──狂気

 

 様々な感情が混ざり合っている。

 

「見つけた……!」

 

 別の妖怪も呟く。その瞳は爛々と輝いていた。

 その見た目はまるで飢えた獣──いやそれ以上だ。

 何百年も渇望し続けた宝を目の前にした亡者のようだった。

 イッセーは顔をしかめる。嫌な予感しかしない。

 すると妖怪の一体が震える声で口を開いた。

 

「九尾……」

 

 その瞬間周囲の妖怪達が一斉に身震いした。

 

──名前

 

 それだけで本能が恐怖する──本来なら逃げ出して当然。

 逃げなければ死ぬ──そう理解している。

 だが、それでも彼らは逃げなかった。

 理由は単純だった。

 

──欲望

 

 それが恐怖を上回っていた。

 

「貴様を喰らえば……」

「我らは至れる……!」

「神に……!」

「龍に……!」

「天に届く……!」

 

 狂気じみた叫びに理性など残っていない。

 彼らは知っている。

 

 九尾とは何か──ただの妖怪ではない

 

──妖の頂点

──神秘の化身

──災厄そのもの

──その魂

──その血肉

──その霊格

 

 その全ては莫大な力の塊だ。一欠片でも喰らえれば己の存在は飛躍する。

 それは何百年も囁かれてきた伝説だった。

 

 だから彼らは集まった。

 

──恐怖を押し潰し

──死を覚悟し

──それでも欲した

 

──力を

──進化を

──神への道を

 

 だが──

 

「愚か」

 

 羽衣乙女が小さく溜息を吐いた。

 その声は静かだった。

 

──怒りもない

──憎しみもない

 

 ただ、本当に呆れているだけだった。そして空気が変わる。

 イッセーは反射的に息を止めた。

 

 違う──今までとは違う──明らかに違う

 

 先ほどまで隣にいた乙女が──穏やかな笑みを浮かべていた少女が──消えていく──

 

 代わりに──何か別の存在が現れる

 

──夜が沈む

──月が翳る

──山が頭を垂れる

──そんな錯覚

──圧力

──存在感

──格

 

 全てが桁違いだった。圧倒的な存在の違いに妖怪達が悲鳴を上げた。

 

「ぁ……」

「ぁあ……」

 

──膝が砕ける

──身体が震える

──立っていられない

──呼吸ができない

 

 それだけの圧──ただ存在しているだけで周囲を屈服させる絶対者。

 

 羽衣乙女はゆっくりと静かに立ち上がった。そして──その瞳から温度が消えていた。

 先ほどまであった柔らかな光はない。そこにあるのは冷たい夜。

 絶対の支配者だけが持つ視線。そしてイッセーは理解する。

 今ここにいるのは羽衣乙女ではない──もう一人の『妾』だ。

 そして女王もまた見ていた。

 

──塵芥共を

──愚かな亡者共を

──変わらぬ、何一つ変わらぬ

──数千年間何万という命を見てきた

──力を欲する者

──永遠を欲する者

──神になろうとする者

 

 皆同じだった。

 

──手を伸ばす

──届かない

──死ぬ

 

 実に下らない。

 

──実に矮小

──虫以下

──塵以下

 

 興味すら湧かない。

 

 だから普段なら一瞥で消して終わりだった。だが今日だけは違う。女王の視線が僅かに動く。

 

社の縁側にいる男──イッセー

 

 恐怖している──それは分かる。

 

──鼓動も

──呼吸も

──汗も

 

 全てが語っていた。だが、逃げない。

 

──膝をつかない

──目を逸らさない

 

 理解できない。

 

──何故だ

──何故この男は

──妾を前にしてなおそこに立っていられる

 

 女王は初めて微かな興味を抱いた。ほんの僅か──本当に僅かだが確かに興味を、そして──その視線が再び妖怪達へ戻る。

 

「──妾を喰らう、と?」

 

──声

 

 ただそれだけ、それだけで世界が震えた。

 耐えきれなくなったのか妖怪の一体が爆散する。

 

──悲鳴すらない

──肉も

──骨も

──魂も

──何も残らない

 

 最初から存在しなかったかのように消滅する。

 圧倒的な静寂に誰も動けない。

 

「身の程を知らぬ──」

 

──夜風が吹く

──黒髪が揺れる

 

「──塵芥風情が」

 

 脚を一歩運んだその瞬間、妖怪達の身体が軋んだ。

 

──骨が砕け

──肉が裂け

──悲鳴が響く

──だがまだ何もしていない

 

 ただ近づいただけ──それだけで耐えられない。それが格の差だった。

 

──絶対に埋まらない神秘の深淵

 

 妖怪達はこの状況になりようやく理解した──自分達が何へ牙を向けたのかを──

次の過去編、誰が見たい?

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