木々の奥から現れた影は一つではなかった。
二体、三体いや、それ以上の数が闇の中から次々と滲み出るように姿を現す。
そのどれもが人の形をしていた。だが人ではない。
──灰色に爛れた皮膚
──異様に長い腕
──赤黒く濁った瞳
それは妖怪だった。だがそれは下級の雑魚などではない。
長い年月を生き延びた強力な個体ばかりだ。
普通なら山一つ支配していてもおかしくない。
そんな連中が十数体──それだけで十分な脅威だった。
だが彼らはイッセーを見ていなかった。
視線の全てがただ一人へ向けられていた──羽衣乙女──その存在だけを
「見つけた……」
妖怪の一体が呻くように言う。その声は震えていた。
──恐怖
──歓喜
──狂気
様々な感情が混ざり合っている。
「見つけた……!」
別の妖怪も呟く。その瞳は爛々と輝いていた。
その見た目はまるで飢えた獣──いやそれ以上だ。
何百年も渇望し続けた宝を目の前にした亡者のようだった。
イッセーは顔をしかめる。嫌な予感しかしない。
すると妖怪の一体が震える声で口を開いた。
「九尾……」
その瞬間周囲の妖怪達が一斉に身震いした。
──名前
それだけで本能が恐怖する──本来なら逃げ出して当然。
逃げなければ死ぬ──そう理解している。
だが、それでも彼らは逃げなかった。
理由は単純だった。
──欲望
それが恐怖を上回っていた。
「貴様を喰らえば……」
「我らは至れる……!」
「神に……!」
「龍に……!」
「天に届く……!」
狂気じみた叫びに理性など残っていない。
彼らは知っている。
九尾とは何か──ただの妖怪ではない
──妖の頂点
──神秘の化身
──災厄そのもの
──その魂
──その血肉
──その霊格
その全ては莫大な力の塊だ。一欠片でも喰らえれば己の存在は飛躍する。
それは何百年も囁かれてきた伝説だった。
だから彼らは集まった。
──恐怖を押し潰し
──死を覚悟し
──それでも欲した
──力を
──進化を
──神への道を
だが──
「愚か」
羽衣乙女が小さく溜息を吐いた。
その声は静かだった。
──怒りもない
──憎しみもない
ただ、本当に呆れているだけだった。そして空気が変わる。
イッセーは反射的に息を止めた。
違う──今までとは違う──明らかに違う
先ほどまで隣にいた乙女が──穏やかな笑みを浮かべていた少女が──消えていく──
代わりに──何か別の存在が現れる
──夜が沈む
──月が翳る
──山が頭を垂れる
──そんな錯覚
──圧力
──存在感
──格
全てが桁違いだった。圧倒的な存在の違いに妖怪達が悲鳴を上げた。
「ぁ……」
「ぁあ……」
──膝が砕ける
──身体が震える
──立っていられない
──呼吸ができない
それだけの圧──ただ存在しているだけで周囲を屈服させる絶対者。
羽衣乙女はゆっくりと静かに立ち上がった。そして──その瞳から温度が消えていた。
先ほどまであった柔らかな光はない。そこにあるのは冷たい夜。
絶対の支配者だけが持つ視線。そしてイッセーは理解する。
今ここにいるのは羽衣乙女ではない──もう一人の『妾』だ。
そして女王もまた見ていた。
──塵芥共を
──愚かな亡者共を
──変わらぬ、何一つ変わらぬ
──数千年間何万という命を見てきた
──力を欲する者
──永遠を欲する者
──神になろうとする者
皆同じだった。
──手を伸ばす
──届かない
──死ぬ
実に下らない。
──実に矮小
──虫以下
──塵以下
興味すら湧かない。
だから普段なら一瞥で消して終わりだった。だが今日だけは違う。女王の視線が僅かに動く。
社の縁側にいる男──イッセー
恐怖している──それは分かる。
──鼓動も
──呼吸も
──汗も
全てが語っていた。だが、逃げない。
──膝をつかない
──目を逸らさない
理解できない。
──何故だ
──何故この男は
──妾を前にしてなおそこに立っていられる
女王は初めて微かな興味を抱いた。ほんの僅か──本当に僅かだが確かに興味を、そして──その視線が再び妖怪達へ戻る。
「──妾を喰らう、と?」
──声
ただそれだけ、それだけで世界が震えた。
耐えきれなくなったのか妖怪の一体が爆散する。
──悲鳴すらない
──肉も
──骨も
──魂も
──何も残らない
最初から存在しなかったかのように消滅する。
圧倒的な静寂に誰も動けない。
「身の程を知らぬ──」
──夜風が吹く
──黒髪が揺れる
「──塵芥風情が」
脚を一歩運んだその瞬間、妖怪達の身体が軋んだ。
──骨が砕け
──肉が裂け
──悲鳴が響く
──だがまだ何もしていない
ただ近づいただけ──それだけで耐えられない。それが格の差だった。
──絶対に埋まらない神秘の深淵
妖怪達はこの状況になりようやく理解した──自分達が何へ牙を向けたのかを──
次の過去編、誰が見たい?
-
女神アーテーの残滓
-
クレイジーオカルトロリ
-
戦場帰りと鳥籠
-
災厄の席に座る者
-
過負荷
-
アリスエプロン
-
ぷりずま様
-
眼鏡メイド