鳥がいないはずの森で、何故か遠くの木々がばさばさと揺れた気がした。
羽衣乙女は顔を真っ赤にしながら硬直している。
目を見開き口をぱくぱくさせ──完全に混乱していた。
「な、なななな……!」
「………落ち着け」
「無理よ⁉︎」
むしろ何故落ち着けるのかと問い詰めたい、そんな勢いである。
「あなた、私を抱き締めているのだけれど⁉︎」
「だから倒れそうだったからだって!」
「そうじゃなくて!」
何がそうじゃないのかイッセーには分からない。だが、乙女にとっては大問題だった。
何しろこんな距離で誰かと向き合った記憶が人間どころか妖怪ですらなかった。
──皆逃げる
──皆畏れる
──皆距離を取る
それが当然だった。なのに、この男だけは違う。あまりにも自然に近づいてくる──それが調子を狂わせる。
「と、とりあえず離れて……!」
「あ、悪い」
イッセーが手を放すと乙女は慌てて距離を取った。
だが勢い余って着物の裾を踏む。
「あっ」
「おっと」
再び支えられ乙女が固まる。イッセーも固まる。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
先に視線を逸らしたのは乙女だった。
「………本当に変な人」
消え入りそうな声だがそこに嫌悪はない。むしろ逆だった。
どう接していいか分からない──そんな響きだった。
イッセーは頭を掻く。
「そんなに変か?」
「変よすごく変──私を見ても逃げないし」
「まぁ」
「………さっきのも見たでしょう?」
乙女の声が少し小さくなる。あれを見れば普通は離れる。
──近寄らない
──恐れる
──それが当たり前
「まぁ怖かったな」
乙女が悲しげな表情を浮かべ俯く。
「でも」
イッセーの声に乙女が顔を上げる。月明かりの下、イッセーは苦笑していた。
「アンタ、悪い奴じゃなさそうだし」
──時間が止まった
──風も虫の音もない夜
ただその言葉だけが残る。
『悪い奴じゃない』
それだけだった。それだけなのに。乙女の瞳が大きく見開かれる。
そんな風に言われたことは一度もない。畏れられたこと敬われたこともある。崇拝されたことも憎まれたこともある。だが──
『悪い奴じゃない』
そう言われたことなどなかった。何故なら、誰も彼女を見ていなかったから。
──九尾を見る
──怪物を見る
──災厄を見る
──乙女は見ない
それだけだがこの男──イッセーは違う。羽衣乙女を見ている。九尾ではなく始祖でもなく、怪物でもなく一人の存在として見ている。
胸の奥が熱かった。それは知らない感覚だった。
少しだけ苦しくて少しだけ嬉しい──そんな感覚。
「……あなた」
乙女は何か言おうとして呟くが途中で口を閉じた。
言葉が見つからない代わりに小さく笑う。それは今までで一番自然な笑みだった。
「本当に変な人ね」
「よく言われる」
「そうでしょうね」
くすりと乙女は笑う。その笑顔を見てイッセーも少しだけ笑った。
山を渡る夜風は穏やかだった。先ほどまでの殺気も狂気ももうない。あるのは静かな夜だけ。
そして羽衣乙女は知らない。胸の奥に芽生えた感情の名前を。
女王もまた知らない。己が興味を抱いた理由を。ただ一つだけ確かなことがある。
遥か昔から孤独だった九尾の始祖。誰も近づけず誰も隣に立てず、長い時を一人で生きてきた女王。
その心に今夜初めて小さな熱が灯った。
それはまだ淡い火種で吹けば消えるほど小さなもの。けれど確かに存在していた。
月は静かに山を照らしている。その光の下で一人の青年と二つの顔を持つ九尾は出会った。
これは“私”と“妾”──そして一人の変わり者が紡ぐ長く不思議な物語の始まりだった。
〜fin〜
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