落下している感覚は、途中で消えた。だが代わりに訪れたのは、“紙の匂い”だった。
──乾いた羊皮紙
──古い革表紙
──インク
──薬品
──封蝋
──そして、長い長い年月そのものが沈殿したような空気
プレラーティはゆっくりと目を開く。そこは巨大な回廊──いや、回廊と呼ぶにはあまりにも歪だった。
無数の書架が上下逆さまに連なり、天井だった場所には別の床が存在し、幾何学的に捻じ曲がった空間の先へさらに別の書庫が無限に伸び、空には本が浮いている。
──鎖で封じられた魔導書
──眼球のように脈打つ書物
──呼吸するページ
──誰も読んでいないのに勝手に捲れ続ける禁書
その全てが、異常だった。そして──
「…………は」
──プレラーティは笑った。それは恐怖ではない──歓喜だった。
「なにここ」
返事はない。だが空間そのものが知識の気配で満ちている。
理解した──ここは“向こう側”だ。
──悪魔召喚の果て
──異界
──あるいは………
「禁書庫……?」
呟いた瞬間、浮遊していた一冊が独りでに落下した。
プレラーティは反射的に受け取る。表紙には見たこともない紋章。だが術式理論だけは読めた。
「うわ………なにこれ⁉︎」
ページを捲るとそこには知らない魔術体系に見たことのない空間接続理論。召喚式の逆算構造や多重位相固定──どれも常識外れだった。
「ははっ………やばっ」
プレラーティは手に取り一冊読む。一通り読み終えると次を取る──また読む。それは止まらない。やがて時間感覚が曖昧になっていく。何冊読んだかわからない。何日経ったのかもわからない。
気づけば身体に違和感があった。
「あれ?」
視線を落とすとそこには少しふっくらとした胸元。先程まで平坦だったはずの身体が、わずかに丸みを帯びている。
指先で触れると軽く電流のような刺激が走る。
喉へ触れると喉仏が無くなり、顔の輪郭も微妙に変わっていた。
そして髪も少し伸びている。
「へぇ」
プレラーティは数秒だけ考えた。そして──
「まぁいっか」
──そのまま次の本を開いた。
「視点変わるの、逆に便利だし」
──男として組まれた術式
──女として扱われる降霊
──肉体構造による魔力循環差
理解できるものが増えるなら別に問題はない。
むしろ面白い──だから気にしない。
ページを捲る禁書庫は静かだった。
時折空間そのものが軋むがプレラーティは止まらないほど夢中だった。
だから──背後に人影が現れても気づかなかった。
男──イッセーはしばらく、プレラーティの背を眺めていた。
本を読む速度が異常だった。ただ読み流したり暗記しているわけではない──理解している。
術式構造を頭の中で組み替えている。時折、
空中へ指で魔術式を書いているのが見える。
イッセーは静かに口を開く。
「それは第三封鎖書架の禁書だ。本来なら、閲覧だけで精神が焼ける」
プレラーティはページを捲りながら答える。
「へぇー」
完全に空返事だった。イッセーは僅かに眉を動かす。
「……聞いているのか?」
「んー?」
プレラーティは視線すら上げない。
「あ、ごめん今ちょっと忙しいや。この理論めちゃくちゃ面白くて………え、なにこれ?術式を“生物化”してるの⁉︎………普通逆でしょ?」
独り言みたいに喋り続ける。イッセーは黙った。
プレラーティは気づかない。ただ夢中で本を読み続ける時間だけが過ぎていった。
最後の一冊を閉じた時、禁書庫はひどく静かだった。
プレラーティはしばらく動かなかった。膨大な知識が頭の中で渦を巻いている。
──術式理論
──異界構造
──魂の分解
──空間圧縮
──魔術回路の人工増設
──召喚式の逆転運用
理解できたものもある。理解できなかったものは、もっと多い──だがそれが良かった。
知らないものがまだこんなにも存在している。その事実だけで胸の奥が熱くなる。
「……はぁー……」
長く息を吐く。その瞬間だった──
「で、面白かったか?」
──背後から声がした。
プレラーティの肩が跳ねる。そこで初めて、“そこに誰かいた”ことへ気づいた。
いつからいたのかわからない。いや、違う。途中から気配はあった。何度か声も掛けられていた。だが──
「……えっ、まだいたの?」
イッセーは答えない。静かにこちらを見ている。
その視線に、ようやくプレラーティは警戒を覚えた。それは遅すぎるほどに。
ここはどう見ても異界だ。しかも、こんな禁書庫を所有している存在。危険でないはずがない。
プレラーティは無意識に距離を取る。
──空間固定術式
──転移準備
──囮の即席召喚
頭の中で複数の逃走経路を組み立てる。イッセーはそれを見ていた。止めもせず妨害もしない。
ただ静かに、もう一度問う。
「面白かったか?」
怒気はない、威圧もない。尋問ですらない、それは純粋な疑問だった。
その言葉にプレラーティは困惑した。
侵入者で禁書を読み漁った。本来なら殺されてもおかしくない。なのに、聞かれたのはたったそれだけ。
「……えっと」
警戒を解かないまま、プレラーティは言葉を探した。
「面白かった……よ」
イッセーは黙って聞いている。その様子を伺いながらプレラーティは続けた。
「半分くらい、何書いてるかわかんなかったけど………でも、わからないことが増えた。知らない理論がいっぱいあった、見たことない術式も‼︎」
喋っているうちに、徐々に興奮が戻ってくる。思い出すだけで楽しい。
──あの書架
──あの理論
──あの異界
プレラーティは思わず笑った。
「最高だった」
そこで一拍置き、いつものように肩を竦める。
「──嘘だけどね‼︎」
静寂が響き渡る。だがイッセーは怒らなかった。
むしろ僅かに口元が緩む。
「そうか」
それだけの短い返答にプレラーティは逆に困惑する。
「……え、怒んないの?ここ、勝手に入ったんだけど。本も読んだし多分ちょっと術式書き換えたし」
プレラーティは罪悪感があるのか最後だけ、少し目を逸らした。
イッセーは周囲を見回す。浮遊書架の配置が微妙に変わっている。
封印術式も数箇所、最適化されていた。普通ならあり得ない。
この禁書庫へ干渉できる時点で異常だ。だがイッセーは小さく息を吐くだけだった。
「なら尚更だ。理解できなかったなら、もう一度読め」
プレラーティは目を瞬かせる。その言葉は予想外だった。
──責められない
──拒絶されない
──気味悪がられない
まるで当然のように、“続きを読め”と言われた。
その瞬間プレラーティの中で何かが止まった。いや、初めて止まらなくていいと思えた。
イッセーは静かに問う。
「名前は?」
数秒遅れてプレラーティは笑う。いつもの軽薄な笑みだが、ほんの少しだけ。今までより柔らかかった。
「フランソワ・プレラーティ……多分ね………そっちは?」
イッセーは答える。
「イッセー・マルバス」
その名前を聞いた瞬間プレラーティは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「あっ、72柱の──これ、怒られたら結構まずいやつ?」
イッセーは静かに言う。
「今更だ」
数秒プレラーティは真顔になり、次の瞬間吹き出した。
「あはははっ!」
禁書庫に初めて笑い声が響いた。
選べ……(某選択肢ラブコメ風)
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