雨上がりの訓練場は嫌いだった。
石畳の隙間に溜まった雨水が鈍く空を映し、湿った空気が肌へまとわりつく。
飛ぶには最悪だ。
羽ばたくたびに翼へ水気を含んだ風が絡みつき、ただでさえ扱いづらい飛行がさらに不安定になる。
まして、自分の翼は普通ではない。
「──そこまで!」
教官の怒鳴り声が響いた。
同時に数十人の堕天使たちが一斉に速度を落とし、空中で旋回して降下を始める。
その中で一人だけ、大きく姿勢を崩した者──ミッテルトがいた。
左側の黒翼が大きく羽ばたく瞬間、身体が横へ流れた。
「っ……!」
慌てて重心を修正する。
だが時すでに遅く、濡れた空気は翼の動きを狂わせ、いつもなら抑え込めるはずの推力が暴れた。
身体が半回転し危うく石畳へ激突しかけた。
なんとか体勢を立て直し、低空で滑るように減速する。
周囲から失笑が聞こえた。
「またやった」
「派手だなぁ」
「見てるだけなら面白いよな」
聞こえないふりをする。
もう慣れていた。
訓練場へ通うようになって何年も経つ。
最初は傷付いていた。
悔しくて眠れない日もあった。
けれど、同じことが何年も続けば感覚は摩耗する。
今では痛みより先に諦めが来る。
「──また軸がブレてるぞ、片翼」
上空から教官の声。
ミッテルトは返事をしなかった。
返したところで何も変わらない。
視線だけ上げる。
教官は呆れたように首を振っていた。
「速度だけなら優秀なんだがな」
その言葉に周囲から笑いが漏れる。
「速度だけ」
「ほんとそれ」
「制御できなきゃ意味ないだろ」
ミッテルトは無言のまま着地した。
足裏へ衝撃が伝わる。
湿った石畳の冷たい感触。
訓練場の端へ歩く。
誰とも目を合わせない。
合わせれば向こうも困る。
哀れみか、気まずさか、それとも嫌悪か──どのみち良い感情ではない。
昔からそうだった。
ミッテルトは生まれた時から異物だった。
堕天使は本来、左右一対の翼を持つ。
それが常識──当たり前だ。
だがミッテルトには右の翼が存在しなかった。
左のたった一枚──代わりに、その翼は異常だった。
大きく重い──そして強すぎる。
幼い頃、初めて飛んだ時のことを覚えている。
『飛ぼうと思った』──ただそれだけだった。
なのに身体は弾丸みたいに吹き飛んだ。
家の壁へ激突し突き破り家の反対側に聳え立つ木を薙ぎ倒した。
大人たちが青ざめていた。
今なら分かる──あれは才能だった。
普通ではあり得ない推力──けれど誰も才能とは言わなかった。
言われたのは別の言葉だ──
『異常』
『欠陥』
『失敗作』
誰も理解できなかったからその方が分かりやすかった。
だから皆そう呼んだ。
ミッテルトも、いつしかそれを受け入れていた。
訓練場の壁際へ腰を下ろし左翼を軽く広げた。
雨のせいで羽並みが乱れている。
指先で一枚ずつ丁寧に根元から先端まで羽根を整える。
昔からの癖だった。
翼だけは綺麗にしていたかった。
せめて見苦しくないように、気味悪がられないように。
褒められたことはないがそれでも続けていた。
──無心になれる
──余計なことを考えなくて済む
「……」
羽根を整える。
一本、また一本。
その時だった──ふと視界へ影が落ちる。
誰かが立っていた。
「……お前、それ毎日やってんの?」
知らない声だった。
ミッテルトは顔を上げるとそこにいたのは茶髪の青年。
感じる魔力から悪魔と察するのは早かった。
それもかなり強い魔力を感じる。
けれど妙だった──その目に見覚えのある感情がない。
『嫌悪』
『同情』
『恐怖』
そのどれもが無く、ただ純粋な興味だけがあった。
「……何スか」
「いや」
青年は肩をすくめた。
「羽根、結構ちゃんとしてんなと思って」
ミッテルトは数秒固まった。
予想外すぎたのだ。
「……は?」
変な声が出た。
青年は本気で言っているらしく翼を眺めながら頷く。
「一枚ごとに手入れ違うだろ?」
「……見れば分かるッス」
「普通そこまでやらねえよ」
ミッテルトは眉をひそめた。
──理解できない
何を言っているのか分からない。
翼を見て最初に出てくる感想がそれなのか──普通は違う
普通ならもっと別のことを言う。
『気持ち悪い』
『不自然だ』
『片翼じゃん』
なのにこの男は──
「……変な奴」
「よく言われる」
即答──しかも少し嬉しそうだった。
ますます意味が分からない。
青年はその場へしゃがみ込む。
そして興味深そうに翼を見る。
ミッテルトは反射的に翼を引いた。
誰かへ見せるのは慣れているが近付かれるのは苦手だった。
皆、結局は気味悪そうな顔をするから。
しかし青年は気にしなかった。
「つーか、お前の飛び方」
「……何スか」
「変だよな」
やっぱり──それか
少しだけ肩の力が抜ける。
結局みんな同じだ──そう思った
だから次の言葉に反応できなかった。
「片側推力だけであそこまで飛べるの、おかしくね?」
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