マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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それぞれの眷属の過去編です



片翼の堕天使は、最速の騎士となる(1)

 雨上がりの訓練場は嫌いだった。

 石畳の隙間に溜まった雨水が鈍く空を映し、湿った空気が肌へまとわりつく。

 飛ぶには最悪だ。

 羽ばたくたびに翼へ水気を含んだ風が絡みつき、ただでさえ扱いづらい飛行がさらに不安定になる。

 まして、自分の翼は普通ではない。

 

「──そこまで!」

 

 教官の怒鳴り声が響いた。

 同時に数十人の堕天使たちが一斉に速度を落とし、空中で旋回して降下を始める。

 その中で一人だけ、大きく姿勢を崩した者──ミッテルトがいた。

 左側の黒翼が大きく羽ばたく瞬間、身体が横へ流れた。

 

「っ……!」

 

 慌てて重心を修正する。

 だが時すでに遅く、濡れた空気は翼の動きを狂わせ、いつもなら抑え込めるはずの推力が暴れた。

 身体が半回転し危うく石畳へ激突しかけた。

 なんとか体勢を立て直し、低空で滑るように減速する。

 周囲から失笑が聞こえた。

 

「またやった」

「派手だなぁ」

「見てるだけなら面白いよな」

 

 聞こえないふりをする。

 もう慣れていた。

 訓練場へ通うようになって何年も経つ。

 最初は傷付いていた。

 悔しくて眠れない日もあった。

 けれど、同じことが何年も続けば感覚は摩耗する。

 今では痛みより先に諦めが来る。

 

「──また軸がブレてるぞ、片翼」

 

 上空から教官の声。

 ミッテルトは返事をしなかった。

 返したところで何も変わらない。

 視線だけ上げる。

 教官は呆れたように首を振っていた。

 

「速度だけなら優秀なんだがな」

 その言葉に周囲から笑いが漏れる。

 

「速度だけ」

「ほんとそれ」

「制御できなきゃ意味ないだろ」

 

 ミッテルトは無言のまま着地した。

 足裏へ衝撃が伝わる。

 湿った石畳の冷たい感触。

 訓練場の端へ歩く。

 誰とも目を合わせない。

 合わせれば向こうも困る。

 哀れみか、気まずさか、それとも嫌悪か──どのみち良い感情ではない。

 昔からそうだった。

 ミッテルトは生まれた時から異物だった。

 堕天使は本来、左右一対の翼を持つ。

 それが常識──当たり前だ。

 だがミッテルトには右の翼が存在しなかった。

 左のたった一枚──代わりに、その翼は異常だった。

 大きく重い──そして強すぎる。

 幼い頃、初めて飛んだ時のことを覚えている。

『飛ぼうと思った』──ただそれだけだった。

 なのに身体は弾丸みたいに吹き飛んだ。

 家の壁へ激突し突き破り家の反対側に聳え立つ木を薙ぎ倒した。

 大人たちが青ざめていた。

 今なら分かる──あれは才能だった。

 普通ではあり得ない推力──けれど誰も才能とは言わなかった。

 言われたのは別の言葉だ──

 

『異常』

『欠陥』

『失敗作』

 

 誰も理解できなかったからその方が分かりやすかった。

 だから皆そう呼んだ。

 ミッテルトも、いつしかそれを受け入れていた。

 訓練場の壁際へ腰を下ろし左翼を軽く広げた。

 雨のせいで羽並みが乱れている。

 指先で一枚ずつ丁寧に根元から先端まで羽根を整える。

 昔からの癖だった。

 翼だけは綺麗にしていたかった。

 せめて見苦しくないように、気味悪がられないように。

 褒められたことはないがそれでも続けていた。

──無心になれる

──余計なことを考えなくて済む

 

「……」

 

 羽根を整える。

 一本、また一本。

 その時だった──ふと視界へ影が落ちる。

 誰かが立っていた。

 

「……お前、それ毎日やってんの?」

 

 知らない声だった。

 ミッテルトは顔を上げるとそこにいたのは茶髪の青年。

 感じる魔力から悪魔と察するのは早かった。

 それもかなり強い魔力を感じる。

 けれど妙だった──その目に見覚えのある感情がない。

『嫌悪』

『同情』

『恐怖』

 そのどれもが無く、ただ純粋な興味だけがあった。

 

「……何スか」

「いや」

 

 青年は肩をすくめた。

 

「羽根、結構ちゃんとしてんなと思って」

 

 ミッテルトは数秒固まった。

 予想外すぎたのだ。

 

「……は?」

 

 変な声が出た。

 青年は本気で言っているらしく翼を眺めながら頷く。

 

「一枚ごとに手入れ違うだろ?」

「……見れば分かるッス」

「普通そこまでやらねえよ」

 

 ミッテルトは眉をひそめた。

 ──理解できない

 何を言っているのか分からない。

 翼を見て最初に出てくる感想がそれなのか──普通は違う

 普通ならもっと別のことを言う。

 

『気持ち悪い』

『不自然だ』

『片翼じゃん』

 

 なのにこの男は──

 

「……変な奴」

「よく言われる」

 

 即答──しかも少し嬉しそうだった。

 ますます意味が分からない。

 青年はその場へしゃがみ込む。

 そして興味深そうに翼を見る。

 ミッテルトは反射的に翼を引いた。

 誰かへ見せるのは慣れているが近付かれるのは苦手だった。

 皆、結局は気味悪そうな顔をするから。

 しかし青年は気にしなかった。

 

「つーか、お前の飛び方」

「……何スか」

「変だよな」

 

 やっぱり──それか

 少しだけ肩の力が抜ける。

 結局みんな同じだ──そう思った

 だから次の言葉に反応できなかった。

 

 

 

「片側推力だけであそこまで飛べるの、おかしくね?」

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