マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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片翼の堕天使は、最速の騎士となる(5)

 訓練場へ向かう足取りが、少しだけ軽くなったのはそれからだった。

 もちろん、周囲の視線が変わったわけではない。

 相変わらずミッテルトは浮いていた。輪の中には入れない──食堂でも休憩時間も一人。

 話しかけられることはほとんどない──だが以前ほど気にならなくなっていた。

 理由は簡単だ──訓練場へ行けばイッセーがいるから。

 それだけだった。

 

 

「また来たんスか」

「また来た」

「暇人ッスね」

「ひどい⁉︎」

 

 朝一番──訓練場の柵にもたれかかっていたイッセーへ、ミッテルトは呆れた視線を向ける。

 最初は偶然だと思った。

 数回続いて物好きだと思った。

 そして今では確信している──本当に毎日来ている。

 

「悪魔ってそんな暇なんスか」

「暇じゃない」

「じゃあ何でいるんスか」

「お前見てると面白いから」

「失礼ッスね」

「褒めてる」

「絶対違うッス」

 

 即答した。

 だがイッセーは楽しそうだった。

 その顔を見ると、なぜか少しだけ調子が狂う。

 昔なら無視、あるいは警戒していた。

 でも──今は違う。

 気付けば普通に会話している。

 それが当たり前になり始めていた。

 

 

 低空飛行を始めて数日。

 変化は目に見えて現れていた。

 以前よりも失速が減り姿勢の崩れも少ない。

 何より、飛行中の恐怖が薄れていた。

──地面が近い

──壁が近い

──景色が流れる速度を実感できる。

 だから感覚が掴みやすい。

 今まで空の真ん中で無理やり均衡を取ろうとしていたことが、どれだけ難しかったのかを初めて理解した。

 

「ミッテルト!」

 

 教官の声。

 

「次、お前だ!」

「はいッス‼︎」

 

 呼ばれた先には障害物コースが設置されていた。

 実戦を想定した飛行訓練。

 魔力障壁や人工建造物を模した障害物を突破する。

 毎回苦手だった。

──速度を出せばぶつかる

──抑えれば意味がない

──だからいつも中途半端な結果になる

 

「始め!」

 

 合図と同時にミッテルトは飛び出した。

 黒い片翼が空気を叩く。

 爆発的な加速──景色が流れる

 最初の障害物──急旋回

 以前ならここで速度を落としていた。

──だが今回は違う。

 障害物の側面へ足をかける──蹴る

 方向転換──再加速

 

「なっ⁉︎」

 

 教官の目が見開かれる。

 驚きの声が聞こえた──だが構わない

 次──さらに次──

──壁

──柱

──障害物

 全て利用する。

 空だけを飛ばない──地形ごと使う

 片翼だから──推力が一方向へ偏るからこそ

 常識外れの軌道を描ける。

 気付けばコースを走り抜けていた。

 呼吸が荒い──だが気分は悪くなかった

 むしろ少し楽しい。

 

「……」

 

 教官が黙っている。

 周囲も静かだった。

 ミッテルトは少し身構える。

──失敗しただろうか

──何かまずかっただろうか

──そんな不安が胸をよぎる

 だが──

 

「記録更新だ」

 

 教官がぽつりと言った。

 ミッテルトは目を瞬く。

 

「え?」

「今までの最速記録を三秒更新した」

 

 訓練場がざわめいた。

『三秒』

 飛行訓練ではあり得ない差だった。

 

「嘘だろ」

「片翼が?」

「いやでも今の……」

 

 声が聞こえる。

──驚き

──困惑

 そして──ほんの少しの賞賛

 それは今まで向けられたことのない感情だった。

 ミッテルトは戸惑う。

 どう反応していいか分からない。

 そんなミッテルトの視界の端で柵にもたれたイッセーが親指を立てた。

 まるで──『ほら見ろ』

 そう言っているみたいだった。

 気付けばミッテルトは笑っていた。

 ほんの少しだけ、自分でも気付かないほど小さく──

 

 

 その日の帰り道、夕焼けが空を染めていた。

 訓練施設の屋根の上──いつものようにミッテルトは一人で座っていた。

 翼の手入れをするためだ。

 羽根を一枚ずつ丁寧に整える。

 昔から続けてきた習慣。

 だが今日は少し違った。

 頭の中に何度も訓練の光景が浮かぶ。

──速かった

──楽しかった

 飛んでいて初めて楽しいと思った。

 

「そんなに嬉しかったか」

 

 振り向かなくても分かる。

 

「……盗み見は趣味ッスか」

「褒めてほしいのかと思って」

「思わないッス」

「でも笑ってた」

 

 ミッテルトの手が止まった。

 

「笑ってないッス」

「笑ってた」

「笑ってないッス」

「笑ってた」

 

 鬱陶しい──だが少しだけ恥ずかしかった

 イッセーは隣へ腰を下ろす。

 風が吹き羽根が揺れる。

 

「なあ」

 

 イッセーが言った。

 

「お前さ」

「何スか」

「飛ぶの好きだろ」

 

 その言葉にミッテルトは返事ができなかった。

『好き』

 そんな風に考えたことがなかった。

 飛ぶことは苦痛だった。

──訓練だった

──証明だった

 欠陥ではないと示すための手段だった。

 好きかどうかなんて考えたこともない。

 でも今日飛んでいた時──確かに楽しかった。

 心の奥が熱くなる感覚があった。

 だから──

 

「……知らないッス」

 

 それしか言えなかった。

 イッセーは笑う。

 

「そっか」

 

 それ以上は聞かなかった。

 追及もしなかった。

 ただ空を見る。

 夕焼けを見る。

 その横顔を見ながらミッテルトは少しだけ思う。

 この男は本当に変だ。

 でも──悪くない、全然悪くない。

 そう思ってしまう自分がいた。

 

 

 それからさらに数日。

 ミッテルトは変わり始めていた。

 本人だけが気付いていなかった。

──飛ぶ時の表情

──訓練への姿勢

──周囲を見る目

 そして──イッセーを探す視線。

 気付けば訓練場へ来た瞬間に探している。

 いると安心して、いないと少し気になる。

 そんな存在になり始めていた。

 だが同時に、ミッテルト自身はまだ越えられない壁を抱えていた。

 誰にも言っていない。

 イッセーにも話していない。

 片翼が暴走した、あの日の記憶──

──全力を出すことへの恐怖

──空の高みで制御を失った時の感覚

──墜落しかけた時の視線

──化け物を見る目

 それだけはまだ消えていなかった。

 そしてイッセーは、そんな彼女の中に残る最後の枷へ少しずつ気付き始めていた。 

 最初に気付いたのは、たぶんイッセーだった。

 ミッテルト自身は隠しているつもりだった。

 誰にも分からないように

──自然に

──いつも通りに

 だが、よく見ている者には分かる。

 彼女には越えない一線があった。

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