訓練場へ向かう足取りが、少しだけ軽くなったのはそれからだった。
もちろん、周囲の視線が変わったわけではない。
相変わらずミッテルトは浮いていた。輪の中には入れない──食堂でも休憩時間も一人。
話しかけられることはほとんどない──だが以前ほど気にならなくなっていた。
理由は簡単だ──訓練場へ行けばイッセーがいるから。
それだけだった。
◇
「また来たんスか」
「また来た」
「暇人ッスね」
「ひどい⁉︎」
朝一番──訓練場の柵にもたれかかっていたイッセーへ、ミッテルトは呆れた視線を向ける。
最初は偶然だと思った。
数回続いて物好きだと思った。
そして今では確信している──本当に毎日来ている。
「悪魔ってそんな暇なんスか」
「暇じゃない」
「じゃあ何でいるんスか」
「お前見てると面白いから」
「失礼ッスね」
「褒めてる」
「絶対違うッス」
即答した。
だがイッセーは楽しそうだった。
その顔を見ると、なぜか少しだけ調子が狂う。
昔なら無視、あるいは警戒していた。
でも──今は違う。
気付けば普通に会話している。
それが当たり前になり始めていた。
◇
低空飛行を始めて数日。
変化は目に見えて現れていた。
以前よりも失速が減り姿勢の崩れも少ない。
何より、飛行中の恐怖が薄れていた。
──地面が近い
──壁が近い
──景色が流れる速度を実感できる。
だから感覚が掴みやすい。
今まで空の真ん中で無理やり均衡を取ろうとしていたことが、どれだけ難しかったのかを初めて理解した。
「ミッテルト!」
教官の声。
「次、お前だ!」
「はいッス‼︎」
呼ばれた先には障害物コースが設置されていた。
実戦を想定した飛行訓練。
魔力障壁や人工建造物を模した障害物を突破する。
毎回苦手だった。
──速度を出せばぶつかる
──抑えれば意味がない
──だからいつも中途半端な結果になる
「始め!」
合図と同時にミッテルトは飛び出した。
黒い片翼が空気を叩く。
爆発的な加速──景色が流れる
最初の障害物──急旋回
以前ならここで速度を落としていた。
──だが今回は違う。
障害物の側面へ足をかける──蹴る
方向転換──再加速
「なっ⁉︎」
教官の目が見開かれる。
驚きの声が聞こえた──だが構わない
次──さらに次──
──壁
──柱
──障害物
全て利用する。
空だけを飛ばない──地形ごと使う
片翼だから──推力が一方向へ偏るからこそ
常識外れの軌道を描ける。
気付けばコースを走り抜けていた。
呼吸が荒い──だが気分は悪くなかった
むしろ少し楽しい。
「……」
教官が黙っている。
周囲も静かだった。
ミッテルトは少し身構える。
──失敗しただろうか
──何かまずかっただろうか
──そんな不安が胸をよぎる
だが──
「記録更新だ」
教官がぽつりと言った。
ミッテルトは目を瞬く。
「え?」
「今までの最速記録を三秒更新した」
訓練場がざわめいた。
『三秒』
飛行訓練ではあり得ない差だった。
「嘘だろ」
「片翼が?」
「いやでも今の……」
声が聞こえる。
──驚き
──困惑
そして──ほんの少しの賞賛
それは今まで向けられたことのない感情だった。
ミッテルトは戸惑う。
どう反応していいか分からない。
そんなミッテルトの視界の端で柵にもたれたイッセーが親指を立てた。
まるで──『ほら見ろ』
そう言っているみたいだった。
気付けばミッテルトは笑っていた。
ほんの少しだけ、自分でも気付かないほど小さく──
◇
その日の帰り道、夕焼けが空を染めていた。
訓練施設の屋根の上──いつものようにミッテルトは一人で座っていた。
翼の手入れをするためだ。
羽根を一枚ずつ丁寧に整える。
昔から続けてきた習慣。
だが今日は少し違った。
頭の中に何度も訓練の光景が浮かぶ。
──速かった
──楽しかった
飛んでいて初めて楽しいと思った。
「そんなに嬉しかったか」
振り向かなくても分かる。
「……盗み見は趣味ッスか」
「褒めてほしいのかと思って」
「思わないッス」
「でも笑ってた」
ミッテルトの手が止まった。
「笑ってないッス」
「笑ってた」
「笑ってないッス」
「笑ってた」
鬱陶しい──だが少しだけ恥ずかしかった
イッセーは隣へ腰を下ろす。
風が吹き羽根が揺れる。
「なあ」
イッセーが言った。
「お前さ」
「何スか」
「飛ぶの好きだろ」
その言葉にミッテルトは返事ができなかった。
『好き』
そんな風に考えたことがなかった。
飛ぶことは苦痛だった。
──訓練だった
──証明だった
欠陥ではないと示すための手段だった。
好きかどうかなんて考えたこともない。
でも今日飛んでいた時──確かに楽しかった。
心の奥が熱くなる感覚があった。
だから──
「……知らないッス」
それしか言えなかった。
イッセーは笑う。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
追及もしなかった。
ただ空を見る。
夕焼けを見る。
その横顔を見ながらミッテルトは少しだけ思う。
この男は本当に変だ。
でも──悪くない、全然悪くない。
そう思ってしまう自分がいた。
◇
それからさらに数日。
ミッテルトは変わり始めていた。
本人だけが気付いていなかった。
──飛ぶ時の表情
──訓練への姿勢
──周囲を見る目
そして──イッセーを探す視線。
気付けば訓練場へ来た瞬間に探している。
いると安心して、いないと少し気になる。
そんな存在になり始めていた。
だが同時に、ミッテルト自身はまだ越えられない壁を抱えていた。
誰にも言っていない。
イッセーにも話していない。
片翼が暴走した、あの日の記憶──
──全力を出すことへの恐怖
──空の高みで制御を失った時の感覚
──墜落しかけた時の視線
──化け物を見る目
それだけはまだ消えていなかった。
そしてイッセーは、そんな彼女の中に残る最後の枷へ少しずつ気付き始めていた。
最初に気付いたのは、たぶんイッセーだった。
ミッテルト自身は隠しているつもりだった。
誰にも分からないように
──自然に
──いつも通りに
だが、よく見ている者には分かる。
彼女には越えない一線があった。
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