マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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片翼の堕天使は、最速の騎士となる(6)

「また止めたな」

 

 ある日の訓練後開口一番、イッセーはそう言った。

 ミッテルトは眉をひそめる。

 

「何がッスか」

「最後の加速」

「……」

「お前、途中で止めただろ」

「気のせいッス」

「気のせいじゃない」

 

 最近はもう慣れてきた。

 イッセーは妙なところで鋭い。

 普段は大雑把なのに肝心なところだけ見逃さない。

 

「記録見てたけどさ」

 

 イッセーは訓練場を指差した。

 

「お前、毎回同じ辺りで加速を切る」

「……」

「限界じゃないだろ」

 

 ミッテルトは答えなかった。

 否、答えられなかった。

 限界ではない。

 そんなことは自分が一番知っている。

 もっと速く飛びもっと加速できる。

 そしてもっと前へ行ける。

 だが──そこから先が怖かった。

 

 

 昔のことだった。

 まだ訓練生になったばかりの今より幼かった頃。

 周囲の言葉に反発していた時期。

 

『欠陥』

『失敗作』

『飛べない片翼』

 

 悔しかった──だから飛べると証明したかった。

 誰よりも速く飛べると。

 そんなある日──無理やり限界まで加速した。

 初めて全力を出した──その結果、制御を失った。

 景色が消え風が消えた。

 上下の感覚が消え──気付けば森へ墜落していた。

 翼は裂け、骨も折れた。

 死んでもおかしくなかった。

 そしてあの日──周囲が向けた目を今でも覚えている。

 心配ではなかった。

 尊敬でもなかった。

 それは恐怖だった。

 化け物を見る目だった。

 あの時からだ。

 ミッテルトが無意識に限界を封じるようになったのは。

 

 

「……別に」

 

 ミッテルトは視線を逸らした。

 

「そんなことないッス」

「ある」

「ないッスよ」

「ある」

「………ないッス」

「ある」

「……子供ッスか」

「お前もやってるだろ」

 

 それを言われると弱い。

 ミッテルトは小さく舌打ちした。

 イッセーはそれを見て少しだけ笑う。

 そして不意に真面目な顔になった。

 

「怖いのか」

 

 静かな声──だからこそ胸に刺さった。

 

「……」

「全力を出すのは」

 

 答えない。

 否、答えたくない。

 認めたくない──けれど沈黙は肯定だった。

 イッセーは追及しなかった。

 しばらく風の音だけが続く。

 やがて──

 

「まあ当然か」

 

──ぽつりと呟いた。

 ミッテルトは少し驚く。

 否定されると思ったから。

 臆病だとか情けないとか………そう言われると思ったから。

 だがイッセーは違った。

 

「怖くない方がおかしい」

「……」

「墜落したことあるんだろ」

 

 ミッテルトが顔を上げる。

 

「なんで」

「なんとなく」

 

『なんとなくで当てるなッス‼︎』──そう言いたかった。

 でも当たりすぎていたから言えなかった。

 

 

 それから数日、イッセーは何も言わなくなった。

 飛べとも言わない。

 全力を出せとも言わない。

 いつも通り訓練を見て、感想を言って馬鹿みたいな話をして笑うだけ………

 

 それが逆に気になった。

 

「……何か言わないんスか」

 

 ある日、とうとうミッテルトの方から聞いてしまった。

 

「何を」

「その………」

 

 言葉に詰まる。

 聞きたいのに聞きたくない。

 そんな妙な感覚。

 

「全力出せとか」

 

 イッセーは少し考えた。

 

「今はいい」

 

 そう言った。

 

「……は?」

「無理やりやっても意味ないだろ」

 

 当たり前みたいに言う。

 

「お前が飛びたくなったら飛べばいい」

「……」

「別に急がない」

 

 その言葉にミッテルトはなぜか胸が苦しくなった。

 責められなかったからだ。

 期待されているのに失望されない。

 焦らされない──待ってくれている。

 その事実が妙に温かかった。

 

 

 その日の帰り空は珍しく晴れていた。

 雲一つない夜空に月が浮かんでいる。

 ミッテルトは一人で屋上へ上がった。

 いつもの習慣。

 いつもの時間。

 だが今日は違う──何となく空を見上げる。

──高い

──遠い

──そして広い

 昔は飛ぶことが好きだった。

 誰よりも速く駆けることが──でも、怖くなったのはいつからだろう………

 

「……」

 

 片翼を広げる。

 月明かりが羽根を照らす。

 昔の墜落でできた傷跡が見えた。

 今も残っており完全には消えない。

 まるで自分みたい──そんなことを思った時だった。

 

「いた」

 

 聞き慣れた声。

 振り向かなくても分かる。

 

「またッスか」

「まただ」

 

 当然みたいな顔で隣へ来る。

 もう驚かない。

 慣れてしまった。

 

「何してる」

「翼の手入れッスよ」

「知ってる」

「じゃあ聞かないでほしいッス」

「それもそうだな」

 

 少し笑う。

 それを包むかの様な優しい風が吹く。

 不思議と気まずくない。

 最初の頃なら考えられなかった。

 誰かと何も話さず同じ時間を過ごすなんて。

 だが今は違う。

 ただ隣にいるだけで落ち着く──そんな相手になっていた。

 しばらくしてイッセーが空を見上げた。

 

「なあ」

「何スか」

「本気で飛んだら、どこまで速いんだろうな」

 

 ミッテルトの手が止まった。

 またその話か──そう思った。

 だが、不思議と嫌ではなかった。

 

「知らないッスよ」

「知りたい」

「自分で飛べばいいじゃないッスか」

「無茶言うな」

 

 イッセーは笑った。

 そして──少しだけ真剣な声で言う。

 

「俺は見てみたい」

 

 その言葉にミッテルトは何も返せなかった。

 ただ空を見上げる。

 夜空は静かだった。

 月が浮かんでいる。

 遠く──とても遠く。

 けれど、今なら少しだけあそこまで飛べる気がした。

 その言葉が妙に残った。

 

『俺は見てみたい』

 

 ただそれだけの言葉だった。

 命令でもない。

 期待を押し付けるものでもない。

 ましてや激励ですらない──ただの願望

 ただの興味──なのに………

 ミッテルトの胸の奥へ深く沈んでいった。

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