マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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片翼の堕天使は、最速の騎士となる(7)

数日後の訓練場──空は快晴だった。

 雨もなく風も穏やか、飛ぶには最高の条件だった。

 だが、ミッテルトの表情は冴えない──訓練内容を聞いたからだ。

 

『高度飛行訓練』

 

 教官が告げる。

 

「本日は上空での高速機動を行う」

 

 周囲はざわめく。

 

──喜ぶ者

──気合を入れる者

 

 反応は様々だった。

 その中でミッテルトだけが小さく拳を握る。

 嫌な訓練だった。

 

──高高度

──広い空域

──逃げ場のない空

 

 そして──過去の記憶を思い出す条件。

 

「……」

 

 無意識に翼へ触れる。

 羽根の奥に今も残る裂傷の古傷。

 思い出したくない──それなのに、こういう日は嫌でも思い出してしまう。

 

◇

 

 次々と堕天使たちが空へ舞い上がる。

 ミッテルトも続いた。

 黒翼が空気を掴む。

 身体が浮き高度を上げる。

 さらにさらに地面が遠ざかる。

 建物が小さくなり風が強くなる。

 胸の奥がざわつく嫌な感覚。

 

「……っ」

 

 呼吸を整える。

 

 (大丈夫、今は昔とは違う)

 

 制御も上達した──飛行技術もある

 落ち着け──そう言い聞かせる

 だが──心は簡単には納得してくれない

 

◇

 

 訓練終了後、ミッテルトは珍しく早く降りてきた。

 本来ならもう少し飛べた。

 だが、自分から切り上げた。

 限界が近かったから──心の方の

 

「やっぱり」

 

 聞き慣れた声に振り向く。

 視線の先にいたのはイッセーだった。

 ミッテルトは思わず顔をしかめる。

 

「何スか」

「逃げたな」

 

 遠慮がない豪速球のストレートだった。

 

「逃げてないッス」

「逃げた」

「逃げてないッスよ」

「逃げた」

「………子供ッスか」

「お前もな」

 

 イッセーの返答に反論できない。

 それがとてつもなく悔しい。

 

◇

 

 しばらく沈黙が続いた。

 風が吹き訓練場の喧騒が遠く聞こえる。

 そしてイッセーが口を開いた。

 

「なあミッテルト」

「……何スか」

「本気で飛んだことないだろ」

 

 その瞬間身体が固まった。

 それはまるで時間が止まったみたいだった。

 イッセーに返事ができない。

 あまりにも図星だった。

 正確すぎるほどに。

 

「そんなこと」

「ある」

「………ないッス」

「ある」

「……」

「ずっと見てたから分かる」

 

 その言葉にミッテルトは目を伏せた。

 

 『ずっと見てた』

 

 そう言われると否定できなかった。

 実際そうだった。

 毎日毎日、本当に毎日いた。

 誰よりも自分を見ていた。

 

◇

 

「墜ちるのが怖いんだろ」

 

 静かな声だった。

 責める響きはない──だから余計に苦しかった。

 

「……」

「違うか?」

 

 ミッテルトは唇を噛む。

──言いたくない

──認めたくない

 

 でも──誤魔化せない

 

「……怖いッスよ」

 

 気付けば口から零れていた。

 

「怖いに決まってるじゃないッスか」

 

 声が震える。

 

「一回失敗しただけで皆あんな目をしたんスよ」

 

 昔の記憶が蘇る。

 

──恐怖

──嫌悪

──距離を取る視線

 

「化け物みたいに見られて」

 

 吐露しながら拳を握る。

 

「また失敗したらどうするんスか」

 

 ずっと溜めていたものを──

 

「また暴走したら──墜落したら──また………」

 

 そこで言葉が途切れる──言えなかった

 でも──イッセーには伝わった。

 

◇

 

 しばらくの沈黙。

 やがて──イッセーは空を見上げた。

 

 何かを考えるように──そして

 

「じゃあ」

 

 ぽつりと告げる。

 

「やってみろ」

 

 ミッテルトは顔を上げた。

 

「……は?」

「本気で」

「何言ってるんスか」

「飛んでみろ」

 

 意味が分からない。

 こんな話をした後でどうしてそんな結論になる。

 だが、イッセーの顔は真剣だった。

 

「俺が見てるから」

 

 その言葉、その一言──たったそれだけでミッテルトの中の何かが止まった。

 

◇

 

『俺が見てるから』

 

 誰しもが言える簡単な言葉だった。

 特別なことは何もない──なのになぜだろう。

 涙が出そうになった。

 今まで誰も言わなかった。

 『大丈夫』だとも『飛べ』とも『信じている』とも誰一人言わなかった。

 だから──その一言は驚くほど胸へ響いた。

 

「……」

 

 ミッテルトは空を見上げる。

 

 視線の先に広がるのは青く高い空──そしてミッテルトにとってずっと逃げ続けた場所

 

 でも──下を見る。

 そこにはイッセーがいる。

──逃げない

──逸らさない

 

 馬鹿みたいに真っ直ぐ見ている。

 それが少しおかしくて少し嬉しくて、そして──どうしようもなく心強かった。

 

「……もし」

 

 ミッテルトが呟く。

 

「墜ちたらどうするッスか?」

「受け止める」

「無茶言うなッス」

 

 思わず笑ってしまう。

 そしてイッセーも笑った。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた最後の恐怖がほんの少しだけ軽くなった気がした。

 

◇

 

 ミッテルトは一歩前へ出る。

 広げた黒翼が風を受ける。

 怖い気持ちからか鼓動が速い。

 

 それでも今だけは──飛びたいと思った

 

 誰かに証明するためじゃない。

 認められるためでもない。

 ただ──見てほしかった。

 

 あの男………イッセーに自分の空を翼を──そして本当の速さを

 

 ミッテルトは地面を蹴った。

 黒翼が大きく羽ばたき身体が空へ躍り出る。

 そして彼女は初めて自らの限界へ手を伸ばした。

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