マルバス家当主   作:紫道麻璃也

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片翼の堕天使は、最速の騎士となる(8)

──風が変わった

──離陸した瞬間に分かった

 

 いつもと違う。身体が軽いわけではない。翼の調子が良いわけでもない──むしろ逆だった。

 心臓はうるさいほど脈打っている。

 呼吸も浅い。怖いという気持ちは今でも変わらない。

 それなのに──止まりたいとは思わなかった。

 

 

 高度を上げると空気が薄くなる。

 訓練場が小さくなっていき建物が遠ざかる。

 人影が豆粒みたいになる。もうイッセーの姿も見えない。

 普通ならここで止める。

 いつものミッテルトなら──無意識に、反射的にここから先へ行かない。

 

──けれど今日は違う。

 

「……ッス」

 

 翼を大きく広げる。

 

──左翼が風を掴む

──推力が生まれる

──身体が前へ押し出される

 

 そしてさらに──加速

 

 

 

──空気が弾け飛ぶ

──景色が流れる

 

 一瞬──本当に一瞬で世界が置き去りになる。

 

「──ッ!」

 

 速い──今までとは比べ物にならない。

 視界の端で雲が流れ風が頬を叩く。

 身体が軋み翼が悲鳴を上げる。

 それでも止まらない──否、止めない。

 今まで自分で掛けていた枷を初めて外した。

 

 

──怖い

──やっぱり怖い

 

 加速するたびに思い出すあの日のことを。

 

──制御を失った感覚

──落下

──衝撃

──恐怖

──周囲の視線

 

 全部──全部覚えている。

 だから身体が止まろうとする。これ以上は危険、ここでやめろと心が叫ぶ。

 

 だが──

 

『俺が見てるから』

 

 声が蘇る。

 それだけだった。

 たったそれだけなのに不思議なほど恐怖が薄れる。

 

 

 ミッテルトはさらに加速した。

 空が歪み身体が前へ引っ張られる。

 視界は狭まる──それでも今度は止めなかった。

 そして──いつしか初めて気付く。

 

「あ……」

 

 制御できている。

 完全・完璧ではない。

 だが、昔みたいに暴走していない。

 自分で、自分の力でちゃんと飛べている。

 

 

──加速

──急降下

 

 空が反転し地面が迫る。

 

──建物の屋根

──石畳

──訓練場

 

 全てが一気に近付く──普通の堕天使なら危険な高度。

 だが、今のミッテルトには違った。

 

──低い方が見える

──低い方が分かる

──低い方が飛びやすい

 

 地面すれすれで石畳を掠める。

 衝撃で砂埃が舞う。だがその前にそのまま壁面へ──蹴り方向を変え再び加速する。

 

 

 『楽しい』

 

 その感情に気付いた瞬間ミッテルトは目を見開いた。

 心の底から飛ぶことが楽しい。

 生まれて初めてだった──空を飛んで笑いたいと思ったのは。

 

 

 速度がさらに上がる。

 誰も追いつけない領域へ──

 片翼だからこそ──

 普通ではないからこそ──

 

『常識外れの推力』

『常識外れの機動』

『常識外れの速度』

 

──欠陥じゃなかった

──失敗作じゃなかった

 

 この翼は──ずっと最初から──自分だけの翼だった。

 

 

 地上の訓練場では堕天使たちが空を見上げていた。

 

「なんだよ………あれ」

「速すぎるって………」

「見えないぞ……!」

 

 誰かが呟く。

 偶然見ていた教官も黙っていた──目を離せなかった。

 それは誰も見たことがない飛行だった。

 

──美しい飛行ではない

──優雅でもない

──洗練されてもいない

 

 それは獣みたいな飛行──暴力的な機動だが圧倒的だった。

 

 

 そしてイッセーだけが笑っていた。

 空を飛ぶミッテルトを見上げながらまるで最初から知っていたみたいに。

 

「ほらな………速いじゃないか」

 

 

 ミッテルトはさらに空を駆ける。

 その顔は気づかないうちに笑っていた。

 ずっと張り付いていた何かが剥がれ落ちるみたいに。

 

──自由だった

──今だけは何も怖くない

──誰の言葉も聞こえない

──誰の視線も気にならない

 

 ただ──『飛ぶ』『風を切る』『加速する』

 

 それだけで満たされる。

 

 

 どれだけ飛んでいただろう。

 数分、数十分か分からない。

 気付けば身体の限界が近付いていた。

 翼が熱い──筋肉が悲鳴を上げている。

 それでも心はまだ飛びたがっていた。

 

「……あはっ」

 

 笑い声が漏れる──自分でも驚いた。

 こんな風に笑ったことがあっただろうか。

 少なくとも空の上では初めてだった。

 

 

 ゆっくりと高度を落とす。

 地面が近付き視界に入ってくるのは訓練場、建物、人影

 

 そして見慣れた茶髪──イッセーがいた。

 

──見上げている

──本当に最初から最後まで見ていた

 

 

 石畳へ足が着く。

 膝が少し震えた──疲労のせいだろう。

 でもそれだけじゃない──感情のせいでもあった。

 ミッテルトは息を整える。

 そして──顔を上げた。

 イッセーと目が合う。

 数秒の沈黙──それから。

 

「どうだった」

 

 イッセーが聞いた。

 ミッテルトは答える──今度は答えに迷わなかった。

 

「……最高だったッス」

 

 その言葉を聞いてイッセーは心底嬉しそうに笑った。

 

 

 そしてその日の夜──魔物群出現の警報が鳴り響く。

 ミッテルトの初出撃はあまりにも唐突に訪れることになるのだった。

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