死後の世界、男は冥府の川を渡る。

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第1話

 

死者の川に、雪は降らない。

 

それなのに男は、舟の上で冬を感じていた。

 

濡れた外套の重み。

凍った泥の匂い。

血に濡れたリネンが、冷えて硬くなる感触。

 

それは冥府の寒さではなかった。

 

男が生きていた頃、胸の底へ沈めた冬だった。

 

「人の心の揺らぎを、ただの過ちと見るか」

 

黒い川の渡し守は、櫂を水へ沈めながら言った。

 

「ならばお前は、痛まぬものを人と呼ぶのかね」

 

男は答えなかった。

 

舟は、黒い水の上を音もなく進んでいた。

岸は見えない。

空もない。

星も、月も、夜明けもない。

 

ただ水だけがあった。

 

深く、黒く、静かで、けれど底の方には幾千もの声が沈んでいるようだった。

 

男は、生前、医師だった。

 

少し古い時代の人間である。

皇帝の名のもとに大陸が焼かれ、若者たちは太鼓と軍靴の音に送られて戦場へ向かった。

 

男は軍医だった。

 

はじめから冷たい人間だったわけではない。

若い頃の彼は、負傷した兵のそばに膝をついた。

泥に汚れた額を拭い、震える手を握り、名を呼んで励ました。

 

名を呼べば、兵は一瞬だけ兵ではなくなった。

誰かの息子になり、兄になり、夫になった。

 

その頃の男は、まだそれを知っていた。

 

だが戦場では、人の死に順番がつけられた。

 

将校は先に馬車へ乗せられた。

名のある者には人が集まった。

声の大きい者は拾われ、身分のある者は運ばれた。

 

名も階級も持たぬ下級兵士は、雪の上で順番を待った。

待っている間に、血は冷え、声は細り、やがて何も言わなくなった。

 

男は、それを幾度も見てきた。

 

だから彼は、階級に左右されぬ医師であろうとした。

 

将校も兵卒も、同じ傷なら同じ順に扱う。

身分ではなく、傷を見る。

名ではなく、命の残る見込みを見る。

 

その理想は、はじめ確かに人道だった。

 

だがいつしか彼は、名にも涙にも左右されぬ医師になった。

 

それを、彼は公平と呼んだ。

 

「では聞こう」

 

渡し守は言った。

 

「お前は何を捨てて、どこへ進んだ」

 

男は少しだけ眉を動かした。

 

その動きは苛立ちに似ていた。

しかし本人は、それを苛立ちとは認めないだろう。

 

「感情です」

 

男は言った。

 

「怒り、恐怖、悲しみ、憐れみ、愛着。そういった不合理な反応を制御することで、人間はより正しい判断を下せる」

 

「正しいとは何だ」

 

「より多くを救うことです」

 

「より多くとは何だ」

 

「数です」

 

渡し守はそこで初めて、男を見た。

 

「では、一人は人間ではないのか」

 

男は沈黙した。

 

舟は進んでいた。

だが向こう岸は見えない。

 

死者の川とは、そういう場所だった。

渡る者が何を手放し、何を抱えているかによって、川幅が変わる。

 

「あの世とは、ずいぶん非効率なのですね」

 

男が言った。

 

「死後まで問答を強いられるとは」

 

「ここは罰の場ではない」

 

「では何です」

 

「思い出す場所だ」

 

「何を」

 

渡し守は櫂を止めた。

 

「自分が、人間だったことを」

 

男は笑った。

乾いた、短い笑いだった。

 

「人間。曖昧な言葉です。解剖すれば、私は間違いなく人間の形をしていたでしょう」

 

「解剖で魂は見つかったか」

 

「魂など存在しません」

 

「では、お前は今どこにいる」

 

男は答えなかった。

 

黒い水が船底を叩いた。

 

そのたびに、男の内側から何かがほどけていった。

 

階級。

軍服。

勲章。

負傷者名簿。

処置の順。

生還の見込み。

助かる者。

助からぬ者。

 

生きている間に身にまとった言葉が、水に触れるたび薄れていく。

 

いつしか、舟の上が冷えていた。

 

死者の川は、もとより温かな場所ではない。

だが男の頬を撫でた冷気は、この世ならぬものではなかった。

 

それは、彼がよく知っている冷たさだった。

 

雪の混じった泥。

凍りついた外套。

血に濡れた包帯。

火の消えかけたランタン。

夜明けまで待たされた兵たちの指先から、ゆっくり感覚が失われていく冷たさ。

 

男は理解した。

 

川が冷たいのではない。

自分の中に沈めていた冬が、戻ってきているのだ。

 

その冬の奥から、音がした。

 

荷馬車の車輪が、凍った轍を噛む音。

馬の荒い鼻息。

呻き声。

祈る声。

母を呼ぶ声。

 

男の視線が、水面へ落ちた。

 

そこには、野戦病院が映っていた。

 

破れた天幕。

煤けたランタン。

雪と泥。

血と酒の匂い。

濡れた外套。

硬くなったリネン。

歯を鳴らす兵たち。

うつ伏せのまま動かぬ者。

まだ動いているのに、誰にも見られていない者。

 

砲声が止むたび、負傷者は運び込まれた。

 

荷馬車の上に積まれ、肩を貸され、時には雪と泥の上を引きずられるようにして。

血と泥と火薬にまみれると、将校も兵卒も見分けがつかなくなった。

 

ある者は、肘から先を失っていた。

失った腕を探すように、残った手で空を掴んでいた。

 

ある者は、膝から下を砲弾に持っていかれていた。

布で縛られた腿から血が滲み、まだ足があると思っているのか、何度も立ち上がろうとした。

 

ある者は、腹を両手で押さえていた。

押さえた指の間から温かいものがこぼれていた。

彼は痛いとは言わなかった。

ただ、故郷の畑のことを話していた。

 

別の兵は、肩に銃弾を受けていた。

骨は砕けていない。

息もある。

歩ける。

ならば、待てる。

 

男はそう判断した。

 

負傷者を寝かせる卓は、すぐに血で濡れた。

包帯にするリネンは底をつき、傷を洗う酒も、骨を断つ鋸も、医師の手も足りなかった。

 

誰を先に診るか。

誰を後方へ送るか。

誰を待たせるか。

誰に、もう手を尽くさぬか。

 

それを決める者が必要だった。

 

男は、その役目を引き受けた。

 

彼は名を聞かなくなった。

 

名を聞けば、手が遅れる。

名を聞けば、迷いが生じる。

名を聞けば、助からぬ者にも、助けたい理由が生まれてしまう。

 

だから彼は、傷だけを見た。

 

出血の量。

息の深さ。

脈の強さ。

目の焦点。

歩けるか。

叫べるか。

夜明けまで持つか。

今、卓に乗せれば生きるか。

 

彼の筆ひとつで、負傷兵の行き先が決まった。

 

すぐに卓へ運ばれる者。

荷馬車で後方へ送られる者。

夜明けまで待たされる者。

そして、助からぬ者として、毛布をかけられる者。

 

多くが助かった。

多くが死んだ。

 

軍の記録では、彼は優秀な軍医だった。

冷静で、公平で、判断を誤らぬ男。

階級に媚びず、悲鳴に惑わされず、限られた手で最も多くを救った男。

 

「この舟の行き着く先は、地獄ですか」

 

男が言った。

 

霧の向こうに、岸らしきものが見えはじめていた。

 

それは岸というより、傷口に似ていた。

黒く裂け、赤く滲み、そこだけが夜よりも深い。

水はその方角へ向かうにつれて重くなり、櫂を受けるたび、粘るような音を立てた。

 

渡し守は答えなかった。

 

代わりに、櫂を水から上げた。

黒い雫がいくつか落ち、水面に小さな輪を作った。

 

「お前は多くを救ったと言ったな」

 

「ええ」

 

「そのために、何人を切り捨てた」

 

「必要な犠牲です」

 

男の答えは早かった。

生前、幾度も口にしてきた言葉なのだろう。

あるいは、口に出さずとも心の内で繰り返してきた言葉なのだろう。

 

「必要と決めたのは誰だ」

 

「私です」

 

「なぜ、お前にそれを決める権利があった」

 

男の顔から表情が消えた。

 

いや、最初から表情などなかったのかもしれない。

ただ渡し守が、そこに人間らしい揺らぎを探していただけかもしれない。

 

「私は最も合理的だった」

 

男は言った。

 

「誰よりも感情に左右されず、誰よりも公平だった。だから私が判断するべきだった」

 

「公平」

 

渡し守はその言葉をゆっくり繰り返した。

 

「お前は泣く者と泣かぬ者を、同じ重さで見たのか」

 

「当然です」

 

「名のある者と名を呼ばれぬ者を、同じ重さで見たのか」

 

「はい」

 

「母を呼ぶ兵と、名簿上の一件を、同じ重さで見たのか」

 

「そうしなければ、判断は歪みます」

 

渡し守は頷いた。

 

「なるほど。お前は確かに歪まなかった」

 

男はわずかに目を細めた。

 

「ならば」

 

「だが、歪まぬものは生きていると言えるのかね」

 

男は答えなかった。

 

雪が降っていた。

 

死者の川に雪は降らない。

それでも舟の上には、白いものが音もなく降りていた。

 

男の中に積もっていたものだった。

 

雪は公平だった。

 

将校の肩にも、兵卒の背にも降った。

名のある者にも、名を呼ばれぬ者にも降った。

助かる者にも、助からぬ者にも、同じ白さで降り積もった。

 

男は、その白さに似たものを自分の中へ求めた。

 

誰にも偏らぬこと。

誰の声にも揺れぬこと。

誰の涙にも順番を変えぬこと。

 

それを、彼は公平と呼んだ。

 

だが雪は、血を消したのではない。

 

ただ、覆っていただけだった。

 

黒い水が船底を叩いた。

 

そのたびに、男の中の雪が少しずつ溶けていく。

白く覆われていたものの下から、泥が出た。

血が出た。

見ないようにしていた顔が出た。

聞かなかったことにした声が出た。

 

そして、離したはずの手の温度が戻ってきた。

 

男は水面を見た。

 

野戦病院の隅に、ひとりの若い兵がいた。

 

将校ではなかった。

胸に飾りもなく、上等な外套もなく、誰かが大声で名を呼ぶこともなかった。

軍服は泥にまみれ、袖口は裂け、階級章は血と雪で見えなくなっていた。

 

ただの一兵卒だった。

 

若い兵の足は凍えていた。

 

軍靴を脱がせると、指先は黒ずみ、皮膚は蝋のように白かった。

ところどころ紫に腫れ、触れても反応は鈍かった。

 

痛いか、と過去の男は尋ねた。

 

若い兵は首を振った。

 

痛みがない。

 

そのことが、男にはかえって悪い徴に思えた。

 

痛む肉は、まだ生きている。

痛みは、身体がそこを見捨てていない証だった。

 

凍えた肉は、はじめ痛む。

焼けるように痛む。

指の先から火が噛みつくように痛む。

 

だが、やがて痛まなくなる。

 

兵たちはそこで安堵する。

もう苦しまなくてよいのだと、青ざめた顔で笑う者さえいた。

 

だが医師である男は知っていた。

 

痛まなくなった肉は、救われたのではない。

身体から切り離されはじめたのだ。

 

壊疽が始まっていた。

 

切らねば、熱が上がる。

熱が上がれば、身体ごと奪われる。

 

男はそう判断した。

 

そしてその判断を下した時、自分の胸が痛まないことに、かつての男は安堵していた。

 

痛まない。

迷わない。

手が震えない。

 

それを男は、強さだと思った。

公平だと思った。

医師として完成したのだと思った。

 

だが今、黒い川の上で、男はようやく知った。

 

あの時、痛まなかったのではない。

痛む場所へ血を通わせなかったのだ。

 

隣の担架には、別の兵がいた。

砲弾で膝を砕かれていたが、腿で断てば命は残る。

処置が早ければ、彼は生きる。

 

答えは明白だった。

 

物資は、助かる見込みの高い者へ。

卓は、今すぐ処置すれば生きる者へ。

時間は、より多くの命を残せる場所へ。

 

若い兵の腿には、止血帯が巻かれていた。

 

布は血を吸い、冬の空気に硬くなっていた。

締めれば、血は止まる。

締めなければ、命が流れ出る。

 

だが締め続ければ、その先は死ぬ。

 

男はそれを知っていた。

医師であれば、誰でも知っていることだった。

 

それなのに、彼は自分の心に巻いた止血帯だけは、外し方を知らなかった。

 

迷いを止めるために締めた。

悲しみを止めるために締めた。

名を呼びたくなる声を止めるために締めた。

 

最初は、それで命を救えた。

 

だがいつからか、締めていることすら忘れていた。

 

そして心の先端から、静かに壊疽が始まった。

 

若い兵は、男の袖を掴んだ。

 

力はほとんどなかった。

凍えた指は硬く、爪の下は黒ずんでいた。

 

――先生。

 

声は、雪に吸われるほど小さかった。

 

――俺は、後でいいんですか。

 

男は答えなかった。

 

答えれば、顔を見なければならない。

顔を見れば、名を聞かなければならない。

名を聞けば、ただの一兵卒ではなくなる。

 

いや。

 

男は、すでにその名を知っていた。

 

担架で運ばれてきた時、誰かが呼んでいた。

若い兵自身も、熱に浮かされながら名乗っていた。

男はそれを聞いていた。

 

聞いていながら、聞かなかったことにした。

 

名は、判断を鈍らせる。

名は、見込みを狂わせる。

名は、助からぬ者を、助けたい者に変えてしまう。

 

だから男は、若い兵の手を外した。

 

その時、兵は泣かなかった。

 

ただ、男を見ていた。

 

――先生は、かなしくないの?

 

その問いに、過去の男は答えなかった。

 

答えられなかったのではない。

答える必要がないと判断したのだ。

 

「人は時に、全体を見ねばならん」

 

渡し守は静かに言った。

 

「選ばねばならん時もある。誰かを救うために、誰かを救えぬこともある」

 

男は黙った。

 

「だが、お前はそこで苦しまなかった」

 

渡し守の声は、少しも荒くならなかった。

 

「迷わなかった。悔いなかった。夜ごと名を思い出すこともなかった。

それを合理と呼び、公平と呼び、正義と呼んだ」

 

黒い岸が、霧の向こうでわずかに近づいた。

 

男は水面から目を離そうとした。

だが、離せなかった。

 

「不要な情報です」

 

男は言った。

 

「判断を鈍らせる」

 

「そうかもしれんな」

 

渡し守は否定しなかった。

 

「ならば、なぜ見せる」

 

「わしが見せているのではない」

 

渡し守は櫂を水に戻した。

 

「この川が洗っているだけだ」

 

黒い水が、また船底を叩いた。

 

そのたびに、男の胸の奥で何かが緩んでいった。

長く締め続けていたものが、少しずつほどけていく。

 

痛みが戻った。

迷いが戻った。

悲しみが戻った。

 

男はそれを恐れた。

 

だが医師だった彼は知っていた。

 

血が戻る時、痛むことがある。

痛むということは、まだ死にきっていないということでもある。

 

「傲慢だな」

 

渡し守は言った。

 

男は顔を上げた。

 

「公平な自分は正しいとするか。

人の痛みに歪まぬ己を、裁きの物差しにしたか」

 

男の喉が、小さく動いた。

 

「私は」

 

その言葉は、先ほどまでのようには続かなかった。

 

沈黙ではなかった。

ためらいでもなかった。

 

押し込めていたものが、裡から溢れかけていた。

それを男自身がまだ認められずにいるだけだった。

 

「私は、最善を尽くした」

 

ようやく出た声は硬かった。

 

だが、その硬さは以前のものとは違っていた。

自分を支えるために固めた声だった。

 

渡し守は問うた。

 

「最善とは、誰にとっての最善だ」

 

男は答えなかった。

 

「救われた多くにとってか。切り捨てられた少数にとってか。

それとも、正しくあろうとしたお前自身にとってか」

 

水面が揺れた。

 

野戦病院が歪む。

ランタンの火が歪む。

雪が歪む。

若い兵の顔も歪む。

 

だが、その手の温度だけは消えなかった。

 

男は自分の掌を見た。

 

そこには何もなかった。

それでも、握られていた感覚だけが残っていた。

 

「人を裁く者が、己の正しさだけは裁かなかった」

 

渡し守はそう言った。

 

その言葉は、男を打ち据えなかった。

責め立てもしなかった。

 

ただ、男の内側に沈んでいたものへ届いた。

 

男はゆっくりと息を吸った。

そして、初めて息を吸うことが苦しいと知った。

 

「私は」

 

男は呟いた。

 

水面の若い兵が、あの日と同じ目で男を見ていた。

 

――先生は、かなしくないの?

 

男の頬を、何かが伝った。

 

彼は指でそれを拭った。

濡れていた。

 

「川の水です」

 

男は言った。

 

渡し守は何も言わなかった。

 

「水が、跳ねただけです」

 

沈黙があった。

 

男はもう一度、頬に触れた。

 

長く締めていたものが、ようやくほどけていた。

凍えていた場所へ、血が戻るように。

死んだと思っていた場所へ、痛みが戻るように。

 

それは涙だった。

 

男は、ようやく痛んでいた。

 

男はもう一度、掌を見た。

 

あの日、自分は手を離した。

 

処置のために。

命令のために。

戦のために。

多くを救うために。

助かる見込みの高い者を救うために。

 

だが、それだけではなかった。

 

手を握られていると、迷うからだ。

その温度を知ってしまうと、順番を変えたくなるからだ。

その声を聞いてしまうと、全体だけを見ていられなくなるからだ。

 

男の口元が震えた。

 

「私は」

 

今度の沈黙は、男の中を川が流れている時間だった。

 

「私は、あの兵の手を」

 

声が掠れた。

 

「離した」

 

渡し守は頷かなかった。

許さなかった。

責めもしなかった。

 

ただ櫂を取り、舟を進めた。

 

黒い岸はまだ遠い。

だが男は、初めてその岸ではなく、水面に映る若い兵を見続けていた。

 

死者の声は、だいたい似ている。

 

誰もが最後には、理論ではなく名前を呼ぶ。

 

男はその時、自分がその名を忘れていなかったことに気づいた。

 

忘れていたのではない。

沈めていたのだ。

 

男は唇を震わせた。

 

そして、その名を呼んだ。

 

渡し守には聞こえなかった。

川にも、霧にも、黒い岸にも届かなかったかもしれない。

 

だが男には分かった。

 

自分は今、初めてあの兵を数ではなく、人として呼んだのだ。

 

名を呼んだ瞬間、若い兵はもう負傷者ではなかった。

処置の順番でもなかった。

助かる見込みの低い一件でもなかった。

名簿の端に記された印でもなかった。

 

ただ、ひとりの人間だった。

 

名前は、数よりも重かった。

 

階級よりも。

軍規よりも。

生還の見込みよりも。

救護記録の端に記された、どの印よりも。

 

その名ひとつが、男の胸の奥で沈まずにいた。

 

「思い出したか」

 

渡し守が言った。

 

男は答えなかった。

 

ただ、水面を見ていた。

 

そこにはもう、野戦病院はなかった。

雪もなかった。

若い兵の姿もなかった。

 

代わりに、男自身の顔が映っていた。

 

老いていた。

疲れていた。

そして、泣いていた。

 

男はその顔を、長いこと見つめていた。

 

「私は」

 

男は言った。

 

「人を救っていたのではないのかもしれない」

 

渡し守は何も言わなかった。

 

「私は、救えなかった者を見ないために、救った者の数を数えていた」

 

櫂が水を裂いた。

 

黒い岸は近づいていた。

けれど、その輪郭は先ほどよりもわずかに変わっていた。

 

傷口のようだった岸は、今は門のようにも見えた。

閉ざされた門ではない。

開いている門でもない。

 

ただ、そこに立つ者が何を抱えているかによって、形を変えるものだった。

 

「この舟の行き着く先は、地獄ですか」

 

男はもう一度、同じ問いを口にした。

 

今度の声には、先ほどの硬さがなかった。

 

渡し守は前を見たまま言った。

 

「それを決めるのは、わしではない」

 

「では、誰が」

 

「お前が、何を持って降りるかだ」

 

男は掌を閉じた。

 

そこには何もない。

それでも、あの兵の手の温度だけがあった。

 

「感情は、判断を鈍らせます」

 

男は言った。

 

その声は弱かった。

だが、逃げるための言葉ではなかった。

 

「そういう時もある」

 

渡し守は答えた。

 

男は、黒い岸を見た。

 

「だが」

 

言葉が、胸の奥からゆっくりと出てきた。

 

「痛まぬものは、生きていない」

 

渡し守は何も言わなかった。

 

舟は進んだ。

 

黒い岸は、もう地獄には見えなかった。

救いにも見えなかった。

 

ただ、男が抱えて降りねばならぬ場所に見えた。

 

死者の川に、雪は降らない。

 

けれど男の頬を伝ったものは、もう川の水ではなかった。


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