冴えない五男坊(愛人の子)が隣のクラスの貧弱美少女サイコパス(怪異)と出会って神々のゲーム(これはあまり物語に関係ないかも~)に巻き込まれる話 作:匿名希望爺さん
「翠子ちゃん、瓔珞翠子ちゃん!」
星野は大きな声で呼び続けた。彼女の瞳を見つめ、顔を近づけ、しっかりと、はっきりと、途切れかけた彼女の意識を引き戻すようにその名を呼んだ。
「あ……おねえちゃん……」
吐息のような声が漏れた。
まだ朦朧としているのだろう。星野は安堵で微笑んだ。
「おれは瓔珞じゃないよ。よかった、気がついたね」
「あなた……だれ」
「誰って、昨日ちょっとだけ会わなかった? 忘れた? おれ、瓔珞紅子に連れられて家にお邪魔したんだけど。ええと、星野朗」
翠子は怪訝そうな面持ちだ。
「おれを訪ねて来たんだろう? 倒れる前に、たすけて、って言ったんだ」
――たすけて。
確かに翠子はそう言った。
思い出させたら再び倒れてしまうかもしれない。星野は躊躇ったが、事情を聞かなければ話は進まない。瓔珞家の人々の安否も心配だ。
「わたし、たすけて、って言うたと?」
掠れていた声が少しずつ本来の色を取り戻す。ころころと転がっていきそうな軽やかな、やわらかいソプラノの声。
「ひとつ訊きたいことがあるんやけど。あなたはわたしにスイコちゃんと呼びかけているけれど、……それっち、わたしの名前なん?」
星野は固まった。
文字通り、躰も顔も強ばった。瞬目も忘れた。
「いや、翠子ちゃん、ちょっと待ってよ」
半分に欠けてしまった日蝕の光が、ふたりの横顔をじりじりと照らす。
建物はみな地面に沈んでしまった。電柱も一本さえも視界には存在しない。
この世にふたりだけ。
その状況さえ今は把握するのが精一杯なのに。
「ごめんなさい。わたし何にも思い出せんのやけど、とりあえずわたしから離れてくれん? あなた怖い顔しとるけん。手をはなして」
翠子は星野の腕から逃れようとした。星野はすでに脱力している。翠子は布団から抜け出す要領で星野の腕から逃れ、アスファルトにぺたんと正座した。
星野も屈みなおして、同じ目線から翠子の表情を覗く。
「忘れたって、何もかも?」
「なんもわからん。何を忘れたのかがわからんとよ、そういうことっちある? あなたは記憶をなくしたことがないと?」
「おれの記憶は無事のようだ。今のところはね」
でもとりあえずはよかった。翠子のこの表情も口調も、昨日出逢ったときと同じだ。この娘は瓔珞翠子で間違いない。
星野は自身の脳味噌に尋ねてみる。この少女はおれをからかっているのだろうか? でもこの状況でいったい誰が得をする?
真実でも冗談でも夢でも何でも、状況に食らいついてみよう。そこから何かが動くかもしれない。
「君は瓔珞翠子ちゃんっていうんだ。さっき、目を醒ましたときおれに向かって『おねえちゃん』って言ったのは覚えてる?」
「何となくそう言いたくなったんよ。自分でもわからんちゃ」
「君にはお姉ちゃんがいるんだ。それからお父さんとお母さんも。その、君はちょっと、というか何というか、――不思議な力を持っている一族のお姫様なんだってさ」
「は? バカなん?」
「こう言っちゃ何だが実はおれもじゃっかんそう思う」
少々ねじれた関係だが、はじめて瓔珞家の一件に関して感想を共有できた。瓔珞紅子に再会したら怒られるだろうな。そんな想像が今の星野を優しく救う。
「君は昨日、家族と喧嘩して家を飛び出した。その後のことはおれもわからない。今朝、空が歪んで空は日蝕でこんなことになってる。寮の外に逃げ出したら目の前に君がいた。それで君はおれを見つけて『たすけて、シューカイケの奇襲が、わたしのせいなの』って告げて、倒れた。そして今に至る」
「しゅうかいけ……、って何?」
翠子は呟く。アスファルトの表面を白い指先でなぞる。
「さあ。でも言葉の質感としては固有名詞っぽかった」
星野は翠子の視線を上げさせて、辺り一面を指さしてみせた。
建物すべてが飲み込まれた荒野を。
「学校も建物も何もかも地面に沈んでいった。そのことに関係あるんじゃないか?」
「それってつまりわたしが関係してるかもってことなん?」
翠子が星野を睨んだ。激しい表情だ。星野はしまったと思い、申し訳程度に俯いた。
「たぶん。でも悪いけどおれは何も判らないんだよ」
「証拠もないのに犯人扱いしたらだめ。それは冤罪っちいうとよ」
「難しい言葉を知ってるんだね」
「パパに教えてもらったっちゃ!」
即答だ。翠子の声が跳ね上がった。
「パパはわたしに新聞を読みなさいっていうんよ、わからん言葉があったら教えてやるけん、新聞を読みなさいって」
「お父さんのことは覚えてるの?」
翠子の調子に合わせるように、星野は昨日の瓔珞煌太を思い出していた。
――増幅者。
彼は妻に命じて白い影の幻獣を召還させ、それを体内に取り込み姿を変えた。そして星野にもその素質があるのだと言った。
「わたしのパパは頭がよくって、ママのことが大好きで、それからいろいろ教えてくれるんよ、いろいろ……ほんとにいろいろなお話を……あれ……どんな話……」
弾んでいた声がやがてか細くなり、吐息となって消えた。
「パパの顔も、声も、わからんくなった。あれ? あれあれ? どうして? おかしない? なんでわたしはここにおるん? わたし誰? わたし死にそうやったん? わたし何しよったん? パパどこなん? ママは? おねえちゃんは?」
大粒の涙がいくつもいくつも落ちた。
大好きなんだな。大切なんだな。
昨日、瓔珞翠子は家族に向かって大嫌いだと叫んでいた。それは幼い彼女に「瓔珞家の血のため」だと結婚を迫る父親に対して、姉に対して、母親に対して。
あれほど激しく反抗して家を飛び出したことも、今、翠子はすっかり忘れている。そして残っているのは、ただ、大好きという感情ひとつだ。
星野は翠子の号泣を宥めなかった。ここで思いきり泣いておいたほうが彼女のためには良いような気がしたからだ。
実は彼もこっそりと貰い泣きしていた。
嗚咽するわけにはいかなかったから、膝頭に額を押しつけて洟をすすった。
不安で押しつぶされそうだ。財布もスマホもない。あっても役に立つかどうかさえ判らない。傍にいるのは記憶喪失の少女。
このままふたりで放浪しながら死んでいくのだろうか。自分には何が出来るだろう、何をしなければならないのだろう。
まず歩くことだ。
出来る限りの探索をして状況を探ろう。見渡す限りの荒野だが、地平線の向こうには何の被害も受けなかった場所があるかもしれない。人間の姿もあるかもしれない。
そうだ。
物語の世界だってそうじゃないか。異世界に投げ出された主人公は放浪する。そして里や街に流れ着いて、面倒見の良い脇役と巡り会うことに決まっているのだ。やけくそで旅をするしかないじゃないか。そのうちモンスターが出てきて倒すたびに財貨を手にすることが出来るだろう。
――ああそうだ、これが中学二年生男子の妄想だったらな!
「畜生」
ようやく泣きやんだ星野が呟いて口を尖らせると、その隣で翠子もすっくと立ち上がった。
「……おい。どうした」
「わたし、おうちに帰る」
翠子は荒野を歩き始める。
乾いた砂を巻きあげて東から風が吹いてきた。
星野は慌てて立ち上がった。もちろんその短い間に、自分の瞼に溜まっていた涙をぬぐうことも忘れない。
「歩いて帰る。星野、どいてっちゃ」
「呼び捨てにするなよ、おれは君の執事でも何でもないんだぞ。せめて星野さんと呼べ」
「とにかくどいて、星野」
翠子は星野の脇をすり抜けようとする。
そうはさせない。瞬発力には自信があった。星野は翠子がちょこまかとかわそうとするのを鉄壁のディフェンスで防いだ。
「君は自分の家の場所も思い出せないんだろう?」
「そんなことない! ちゃんと覚えとるっちゃ!」
「嘘こけ」
星野は翠子の肩越しを指した。
「あっち。君の家はここから正反対だよ」
「……」
翠子が顔を逸らした。
風の鳴る音が聞こえる。
前髪が巻きあげられて、砂埃のせいか黄砂のせいか、いきなり鼻がむずがゆくなった。
「くしゅん!」
「へぐじ!」
ふたりは同時にくしゃみする。
それがコントのようにまったく同じタイミングだったから、何故か、可笑しかった。
翠子は朗らかに笑った。
星野も笑った。
「おれも行くよ。一緒に」
翠子は頷く。
「よか。連れて行ってやるけんね」
もう一度小さく笑えば、翠子の表情が可愛いから少し癒された。