冴えない五男坊(愛人の子)が隣のクラスの貧弱美少女サイコパス(怪異)と出会って神々のゲーム(これはあまり物語に関係ないかも~)に巻き込まれる話 作:匿名希望爺さん
瓔珞家に招かれた日の晩、星野は眠れなかった。
躰は疲れ切っているのに脳が熟睡を許さない。眠っているのに眠っていないような、眠っていないのに目覚めているような不思議な感覚に囚われた。夢を見ているという自覚はあった。夢の中で「これは夢だ」と叫んでいる。
夢なんだ、夢なんだ。
――でも、いったい何処からが夢だったんだ?
朝陽のおかげで体内時計がリセットされた。
寮の自室を出て洗面所で顔を洗っていると、彼の背後に背の高い少年が立った。躊躇なく星野の隣に並ぶ。
「おはよ。星野」
隣室の江川先輩だ。
野球部の新主将がこの時間に寮にいるということは今朝の練習は中止か。だがそんなことは部外者にとってどうでもいい。平常心を胸に誓って、星野はわざとらしいほど明るく挨拶を返した。
「おはざっす!」
「どうした、声はでかいのに顔色が悪い」
江川先輩は体格に似合わず口調が穏やかだ。星野と同じように、耳障りのない標準語を喋る。
「あまり眠れなかったんです」
「漢字テストの結果が悪かったから?」
江川先輩はくすくすと優しい表情で笑った。
「吉田先生にきいた。鬱の字ぐらいちゃんと書けよ」
なんとも涼しい声だ。
方言ではない言葉は、ときに、冗談さえ冷たく聞こえる。星野はにわかに緊張した。
ふいに昨日の出来事を思い出す。そういえば瓔珞紅子の父親も標準語で、その声色は江川先輩に似ていた。
「部活の件、そろそろメンタル落ち着いてきたか?」
江川先輩は歯磨きセットとタオルを持参しているが、いっこうに歯磨きを始めない。どうやら星野と話すためにこのタイミングを狙ってきたらしい。
「今年は新入生が五人も入ってくれた。おまえもどさくさに紛れて復帰するなら今しかないと思うよ、あ、ゴールデンウィークの合宿はメンバーに入れておくから」
「いや、無理ですから。退部届も出してるんで。おれ辞めましたんで」
初めてだった。
野球部の先輩がこうして星野に話題を振ってきたのは、彼が退部届を出して以来初めてだ。これまで誰もそのことに触れてこなかった。同学年の部員さえ星野を避けていた。
心がくすぐったい。
そして、どうして今更、とも思う。
部内の事情や新入部員の人数なんて知ったことではないが、戻ってこいと説得されたときの返しはとっくに想定済みだ。
「心身的にもう部活は無理ですから構わないでください。これからは一般生徒として応援しますよ、夏の予選が始まったらもちろん応援に行くし」
「本当は構われて嬉しいくせに、棒読みの回答をありがとう」
「そんな」
否定すると嘘つきになる。前にも後ろにも進めないから、星野はこみあげた言葉を飲み込んでやりすごした。
そこまで頑なになる必要はないかもしれない。自分が何処の誰に対して意地を張っているのか判らない。
「野球、やりたいだろ?」
江川先輩の質問はシンプルすぎて胃に刺さる。イエスかノーかで迫るクローズドクエスチョン。イエスと答えたいけれど、面と向かって言うには勇気がいる。
星野は少し顔を上げ、さんざ苦悩したという顔を作ってそっと答えた。
「やりたくてももう出来ないから。腰もしんどいですし」
「それを決めるのはおまえじゃないだろう。俺もおまえのように故障を経験したし今も無理がきかない爆弾を抱えている身だけど、野球をやめたいと思ったことは一度もない」
そんな説教は聞きたくなかった。躰の痛みや挫折なんて、結局、当人にしか判らないことだ。他人の痛みは何処までも他人の痛みであって、他人の解決法が自分の解決法だというわけではない。
「江川先輩は、強いひとだから、そうかもしれないけど」
幼稚園児の拙い口答えのようで情けなかった。もっと具体的に、もっと冷静に、賢い態度で論破したいのに。
時間がない。
星野は洗面台の鏡に映っている自分を眺める。顔色は蒼白だった。
「星野、おまえはひとつ大きな勘違いをしていると俺は思う。やりたくないならやめればいいなんて、そういうわけにはいかない」
江川先輩は、左手で星野の後頭部を叩いた。
「野球部にはおまえが必要だ。大会の準備がはじまる前に帰ってこい、命令だ。――これで満足か? どうせ誰かに必要だと言って欲しいだけなんだろう?」
返答の声が喉に詰まった。星野はむせる。息が苦しくなって顔が熱くなる。図星をさされて恥ずかしかった。そして恥じていることがばれているから、なおさら恥ずかしい。
「まあそんな感じで合宿の準備はしておくように。早く行かないと朝飯に遅れるぞ」
江川先輩が急かす。それでも星野は頷かなかった。ベタな説得に流されたくなかったからだ。まだ意地が残っている。
「もう少しだけ考えさせてください」
「どこまで引っ張るつもりなんだ。おまえの返事はハイかイエスの二択なのに」
ほんのり冷たい口調で、やっぱりこんな笑えない軽口を投げてくれるのだ。
星野は無理やり少し笑った。
嫌いなわけじゃないんだと気づいている。
ここまできて、このひとはまだ可愛い後輩の我儘に譲歩している。それが星野にはありがたかった。江川先輩は優しいひとだ。
「おれはしっかりと自分で悩み抜きたいんです。勢いとかノリとか感動とか、そういう高校生っぽい軽い理由で決めたくないから。腰の故障はきっかけにすぎないんです。先輩が必要だって言ってくれて嬉しかった、でもおれはやっぱり、自分でもう一度野球をやりたいと思えるまでは動きたくないから」
星野は一礼して、江川先輩を置いて洗面所を出た。
が、廊下に出てすぐに立ち止まって振り返る。急に後悔が胸に湧いた。
――やっぱり恰好つけすぎた。
さっきの捨て台詞は最悪だった。もっと後輩らしく謙虚な姿勢をとるべきだった。後出しになってしまうが、自己満足のためにもフォローしておきたい。
踵を返して再び洗面所に駆け込んだ。
「江川先輩!」
ところがそこに江川先輩の姿はなかった。
洗面所の出入口はひとつ、その奥に続いているトイレにも気配はない。
「先輩?」
いない。星野は階段を駆け上がる。自室の隣をノックする。扉を何度も叩いて反応を窺ったが、何も返ってこない。空っぽの箱を小突いているような空しさが拳に満ちた。
思い切って開けてみる。
部屋の中には何もない。
江川先輩も、その隣の大崎先輩の姿も、他の寮生たちの姿もない。
虚無、虚無、空室だ。
厭な予感が全身を貫く。跳ね上がり、悪い予感を払拭するために同じ階のドアを次々に開ける。施錠されている扉はひとつもない、そして人影もない。
存在しているのは星野ひとりきりだった。
窓の外に見えていたはずの高等部校舎が右斜めに傾いている。ずるずると動いている。
「――なんだこれ……」
建物が地面に呑み込まれていく。
星野は寮の玄関から飛び出した。
世界が歪んでいる。陽炎が眩しく揺れていた。思わず目を閉じる。息を吸って瞼をこじ開けると、そこには制服姿の中学生がいた。
「あ……」
震えて立つ彼女は幼い女神だった。
小さな躰に逆巻く髪、狼のように光る灰色の瞳。真っ赤な頬に桜色の唇。頬は泥で汚れていた。中等部制服の白いリボンタイも右に歪んでいる。事故現場から帰還した直後のように、彼女は両肩を抱え、怯え、震えていた。
「えっと、もしかして、翠子ちゃん……だっけ?」
瓔珞紅子の妹、翠子だった。
「……たすけて……蹴戒家の奇襲が……わたしのせいなんよ……」
それだけを告げて翠子は失神した。
星野は慌てて彼女を抱きかかえる。
「どうした? 何があった? 瓔珞は? ご両親は?」
雷鳴が轟いて太陽が半月のように欠けている。
日蝕だ。