旧帝都オーディンのノイエサンスーシとその森は、新時代の喧騒を拒絶するように深い霧に閉ざされていた。
ナイトハルト・ミュラーは「戦没者慰霊碑の視察」という名目でオーディンの地を踏んだが、警護の衛兵を遠ざけると、マリーンドルフ伯の車両が向かったとされる封鎖区域の森へと、単身足を踏み入れた。
霧の向こうに、小さな私邸が姿を現す。
そこでミュラーは、見てはならないものを見てしまった。
テラスに立つ白髪の老執事と、その傍らで欠伸をする一匹の老犬。そして、椅子に身を預け、優雅にくつろぐダークブラウンの髪の美男子。その左右で色の異なる双眸が、一瞬、隠れていたミュラーの方向を射抜いたように見えた。
「……生きて、おられたのか」
ミュラーの膝が戦慄に震え、呼吸も忘れるほどだった。
オスカー・フォン・ロイエンタールが、生きている。あの「オーベルシュタインの犬」と共に。ならば、義眼の参謀長もまた存命であると考えるのが妥当だった。
これ以上、踏み込んではいけない。
そもそも、なぜ彼がこのノイエサンスーシの森に辿り着くことになったのか。
発端は、新首都フェザーンの執務室に山と積まれた、無味乾燥な公文書の束だった。
『地方医療拠点再編計画書並びに予算案』
軍人であるミュラーの元に、こうした内政のインフラ関連の書類が回ってくること自体が稀なことだったが、自身の哨戒地域に重なる案件であったため、彼は丁寧に目を通した。そして読みすすむうちにその指が凍りついた。
「……完璧すぎる」
それは単なる行政効率化の範疇を遥かに超えていた。
予算配分、人員配置、輸送網の整理。すべてが合理性の極致で組み立てられている。しかも単に数字が美しいだけではない。地方有力者や既得権層の反発を、どの順番で、どの利益を与えながら吸収するかまでが、あらかじめ織り込まれていた。さらに、医療拠点の配置は、結果として辺境星域の航路と人口流動を自然に掌握する構造になっている。
医療網を整備すればそのまま情報網になるという冷徹な制度設計が、あまりにも無駄なく完成していた。
ミュラーは何度も書類を読み返した。
どれほど定型(テンプレート)を用いても、書類には個性が滲み出る。特に予算案は「なぜ」を語るゆえに、最も癖や思考が現れやすい。
この論理の骨組みは、間違いなく故オーベルシュタイン元帥のものだ。
ただ、書きぶりの随所に宿る不遜な華やかさが、どうにもそぐわない。むしろあの人……ヘテロクロミアの叛逆者の薫陶を感じさせた。だが、ロイエンタールの元部下で、オーベルシュタイン流の思考を継ぐ者など存在するだろうか。
オーベルシュタインが先帝ラインハルトに殉ずるように世を去ったからこそ、怨嗟も嫌悪も空中分解していった。ミュラーにしてみれば、至高の主君の崩御に打ちひしがれている間に、いつの間にかあの男も死んでいた、というのが率直な感覚だった。その「ちゃっかりと殉死された」ことへの行き場のない憤りと釈然としない想いは、芯からの軍人気質である者ほど、澱のように腹の底へ溜まっていたのだ。
まさか。実は生きていた、などという三文小説のような話があるものか。
そう自嘲しながらも、一度芽生えた疑惑の霧は、理性をじわじわと侵食していった。
その医療再編計画書を手がかりに、ミュラーはこの五年間に実施された主要な国家計画を、一つひとつ最初から洗い直した。
すると、新帝国のあちこちに、不自然な「欠片」が散らばっていることに気づく。メックリンガーやケスラーが関わった法案。あるいは、マリーンドルフ伯が上申した、堅実そのものの行政文書。
どれも当時は疑う余地のないものだったが、今あらためて読み返すと、あの義眼の参謀長の筆致を思わせる箇所が、いくつも浮かび上がってきた。
帝国医療の立て直しも、その「欠片」の一つである。
原資となったのは、ワーレンが設立した「再生基金」だ。義肢などの医療補装具を必要とする人々への支援に加え、地方医療拠点の整備や医療人材の育成まで担う巨大基金である。
その設立には、軍務省のアントン・フェルナーが深く関わっていた。調べればすぐにわかった事実だ。
だから、辺境星区にまで医療網を張り巡らせ、それを治安維持の情報網としても機能させるという設計思想が医療改革の根底にあることも、「さすがはオーベルシュタインの腹心だった男だ」と考えれば、一応の説明はつく。
だが、書類を読み返すうちに、ミュラーの中でその説明は揺らぎ始める。
これは、本当に「継いだ」だけなのか。
死んだはずの当人が、今なお裏側で図面を引き続けているのではないか。
ミュラーは真実を確かめるべく、マリーンドルフ伯の動静を極秘裏に追跡した。そして、伯のオーディン帰郷の日程の中に存在する、不自然極まる「数日間の空白」を突き止めた。
かくして、ナイトハルト・ミュラーは、呪われた過去の遺産であるはずのノイエサンスーシの森へ、そしてあの屋敷へと、自らの足で辿り着いてしまったのだった。
これ以上、踏み込んではいけない。
腹の底で猛烈に沸き上がる怒りと戦慄を自覚しながら、ミュラーは己の誇り高い理性によって、そう冷徹に判断を下した。
屋敷を離れ、森の出口へと急ぐミュラーの前に、音もなく一つの影が立ちはだかった。
憲兵総監、ウルリッヒ・ケスラーである。その目は親しい同僚に向けるものではなく、帝国の秩序を乱す者を処断する法の番人のものだった。
「ミュラー提督。ここは特別封鎖区域だ。いかなる高官といえど、立ち入りは許されない」
「……ケスラー元帥。私は、ただ……」
「卿が何を見たかは問わない。だが、私は憲兵総監として卿を止めねばならん。卿なら理解できるはずだ」
ミュラーは悟った。この秘密は、皇太后ヒルダやマリーンドルフ伯、ケスラーやメックリンガーといった「理性の徒」たちが、帝国の存続のために共有しているのだと。
「……分かりました。私は、何も見ていません」
「賢明だな、鉄壁ミュラー」
ケスラーの声に、わずかばかりの悲しみが混じった。
ミュラーは奥歯を噛み締めて言葉を飲み込む。だが、拳の震えは止まらなかった。
フェザーンへ戻ったナイトハルト・ミュラー元帥を待っていたのは、文字通り「疾風」の如き怒気だった。
「ミュラー! 卿はオーディンでいったい何をしてきた!」
執務室へ踏み込んできたウォルフガング・ミッターマイヤーは、隠そうともしない苛立ちを全身から放っていた。
「ケスラーから厳重な抗議が来たぞ。国務を預かる身として、軍高官の身勝手な単独行動は困る。二度とやるな」
無理もない、とミュラーは内心で息をついた。あのオーディンのノイエサンスーシの森は、旧ゴールデンバウム王朝の遺産という名目で、現在は新帝国の厳重管理地となっている。ミュラーとて、宇宙艦隊総司令官という最上位の身分を盾にせねば、あの深く鬱蒼とした領域に近付くことすらできなかったのだ。ケスラーが即座に反応したのも、すべては裏で繋がっていた。
だが。
目の前で険しい顔をしている国務尚書は、あの森の奥にある「生存」を知っているのだろうか。この清廉誠実を絵に描いたような男までが、秘密の共有者なのだろうか。
ミュラーは、じっと男を観察した。ミッターマイヤーの顔にあるのは、純然たる職務上の苛立ちと当惑だけだ。底暗い陰は微塵もない。
沈黙したままのミュラーを不審に思ったか、ミッターマイヤーは不意に視線を和らげ、わずかに眉を寄せた。
「ミュラー、オーディンで……何かあったのか?」
それは国務尚書としての峻厳な詰問ではなく、かつて苦楽を共にした同僚としての、純粋な心配をたたえた声だった。その温かい視線に対し、ミュラーは「鉄壁」の異名にふさわしい、頑ななまでの沈黙で応えた。
「いいえ。お騒がせして申し訳ありませんでした。以後、慎みます」
「ああ、分かってくれればいいんだ」
ほっとしたようにおさまりの悪い髪の頭をかくミッターマイヤーに向けて、ミュラーは、独り言を呟くように言った。
「……ただ、ノイエサンスーシの森は、なんだか幽霊にでも会いそうな雰囲気でした」
「幽霊、か。卿までケスラーのような陰気なことを言うな、まったく」
軍服に比べれば、今ひとつ身体に馴染んでいない高級スーツの襟元を緩めながら、ミッターマイヤーはすっかり砕けた苦笑いを浮かべた。
ミュラーはその笑顔に微笑み返しつつ、胸の奥で、祈るような願いを呟いていた。
――このまま、あなたがずっと知らないままでいてくれればいい。あなただけは一生、背負わずにいてほしい。
「まあ、そのうちまた卿とゆっくり飲み交わしたいな。お互い、立場が変わってなかなか難しくなってしまったが」
「はい。楽しみにしています」
去りゆく国務尚書の背中を見送り、ミュラーは小さく息を吐いた。
しかし、一息つく間もなかった。ミッターマイヤーが去ったドアが再び開くと、入れ替わるようにして、軍務省のアントン・フェルナー大将が姿を現したからだ。
階級こそミュラーが上だが、実務上の権限、そして「秘密」への関与度は、フェルナーの方が圧倒的に深いだろう。
「ミュラー提督。あなたの行動は極めて危険でした」
フェルナーは、感情の起伏を削ぎ落とした声で淡々と告げた。
「あそこは“存在しない”場所なのです。あなたが動けば、それは軍最高位の公式行動として歴史に記録される。その足跡を消すために、我々がどれほど虚偽の釈明と書類改ざんを強いられるか、お分かりですか」
冷たい瞳が、じっとミュラーを射す。
「これ以上の詳細な説明が、必要ですか。ミュラー元帥」
いつも飄々として本心を見せないフェルナーの表情が、今は酷く複雑に歪んでいた。もしミュラーがここで一歩踏み込んで問い詰めれば、彼は「すべて」を開示するだろう。そんな危うい気配が、室内の空気をぴりぴりと震わせる。
強烈な好奇心と、軍人としての正義感がミュラーの脳内で跳ね回った。だが、それを理性で力任せに押さえつけ、ミュラーは静かに首を振った。
「……やめておこう」
乾いた声が出た。
「これ以上聞けば、私はもう『知らなかった』とは言えなくなる。私の職責において、それは許されない」
フェルナーは一瞬だけ意外そうに目を細め、それから、ふっと肩の力を抜いた。いつもの、煙に巻くような掴めない雰囲気がその顔に戻ってくる。
「賢明なご判断です。……ただ」
フェルナーは自嘲気味に唇の端を上げた。
「正直に申し上げれば、私は妬いているのかもしれません。……あの二人から、くれぐれもよろしくと言われましたよ。私は嘘をつきたくない」
それだけを言い残し、フェルナーは部屋を去っていった。
静寂が戻った執務室で、ミュラーは一人、自身の砂色の髪を両手で激しくかきむしった。そして、肺の底にある空気をすべて吐き出すように深く、深く、椅子の中へと身を沈めた。
一方、オーディン。
ノイエサンスーシの奥深くでは深夜にも関わらず仕事に勤しむワーカーホリックな死者二人がいた。
「……まあ、フェルナーが嫉妬で暴走しないよう、ミュラーには少し大人しくしてもらおう。あいつの嫉妬は面倒だ」
ロイエンタールはニヤリと笑う。
「たしかに……ミュラーには、余計な刺激を与えないでもらいたい」
珍しくオーベルシュタインが同意した。
「ミュラーを刺激したのは、お前の“書類の癖”らしいぞ」
「それは卿も同様だろう」
「……それにしても、あいつはなぜあんなに探知機みたいなんだ?」
オーベルシュタインは答えず、ただ医療改革の次なる工程表を空中に映し出す。ロイエンタールが肩をすくめて自分の書類に目を戻した時、ボソリと声が落ちた。
「分析力と行動力が優れている。帝国に必要な男だ」
「お前もだいぶ評価が甘くなったではないか」
「私は必要な人材を不当に評価することはしない」
ロイエンタールは鼻で笑って、また自分の仕事に戻る。
彼らは「死者」として、今夜も宇宙の未来を綴り続ける。その筆致は生前にも増して冴え渡り、もはや野望でも秩序でもなく、ただ眼前の膨大な実務を完璧に片付けねば気が済まぬという、救いようのない業(ごう)の現れであった。
pixivから改稿して掲載