室内には、端末の光と暖炉の火だけがあった。
窓の外では、オーディンの深い森を冷たい雨が絶え間なく叩いている。
ラーベナルトが音もなくトレイを置いた。オーベルシュタインの前には薄いハーブティー、ロイエンタールの前にはラベルのない最高級ブランデー。その足元で老犬が静かに寝息を立てていた。
ロイエンタールはグラスを傾け、端正な唇を歪めた。
「……香りは悪くないが、後味が実直すぎるな。次はもう少し背徳的なものが欲しいな」
「承知いたしました」
「……それから、靴は木型で作らせたいのだが」
オーベルシュタインは端末から目を上げず、即座に切り捨てた。
「ラーベナルトを卿の道楽に付き合わせるな。彼は犬の世話で忙しい」
「フン。犬と死人に囲まれて書類の海を泳いでいる身だ。せめて衣食住くらい、まともなものを望みたいものだが」
グラスが空になる。ラーベナルトは静かに下げた。
沈黙が部屋の形をなぞる。
「……あいつが聞けば泣くだろうよ」
自嘲の響きが、低く落ちた。
「自分の親友が死に損なって、死ぬよりも過酷な『オーベルシュタインとの余生』という刑罰を受けていると知ればな」
「死に損なったのではない」
オーベルシュタインは平坦に断じた。
「死ぬべき時を逸しただけだ。延命とは往々にして非合理な介入だ。卿は結局、あの女に生涯を祟られたな」
ロイエンタールが口の端をひくりと引き攣らせた。
エルフリーデ・フォン・コールラウシュ。叛逆の火種となり、ハイネセンで赤ん坊を押し付けたあげく、死にゆく自分を勝手に同盟製の医療ポッドに放り込んだ女。
暖炉の火が、強くはぜた。
「……リヒテンラーデのあの女のことは、お前が最初から仕組んだんじゃないのか」
義眼が冷たく光る。
「そんな迂遠で暇な真似はせぬ。卿が軽率だっただけだ」
オーベルシュタインが目指す「帝国医療の根本的改革」を知ったとき、ロイエンタールは不躾にその義眼をまじまじと見た。
端末に手を伸ばす。表示されたデータは桁外れの件数だった。
「四百億件か……」
膨大なカルテの海を、ロイエンタールは眉を寄せて見下ろした。
「……つまりは、俺の知らないところでハイネセンから情報を抜いていたのか」
「そうではない。エルツハイマーがデータを差し出したのは、卿の死後だ」
「……あいにくと俺は死んでいないのだが」
苛立ちを込めて言い返したが、ハイネセンの統治を叛逆で放り出したのは事実である。また、医療データという視点はロイエンタールの中にはなかった。
あらためて義眼を見る。全宇宙の病歴を見たことで、この男の執念が刺激されたということか。つくづく軍人ではない論理で動く男だ。
そしてもう一つのデータ。
ロイエンタールは静かに息を吐いた。
「……皇帝病か」
指先が微かに震えた。生き返って初めて知った事実。あの黄金の獅子が、病などという凡庸なもので死んだという事実は、今さらのように胸を抉る。『皇帝陛下 の不予に乗じてオーベル シュタインとラングが国政を壟断している』と言ったのは、あくまでも叛逆のテンプレートだったはずだ。
ロイエンタールは低く笑った。笑い声が途中で途切れ、ただの吐息になる。
「……俺が死に損なったことより、よほど滑稽だな」
オーベルシュタインは無表情のまま言った。
「陛下に医療ポッドでお眠りいただく案もあった。だが、二年が限界と知り断念した」
それを聞いて、ロイエンタールはやっと一つの納得を得た。
「……もしかして、俺は実験台だったか?」
義眼の男は常と変わらぬ冷たい目線で、ロイエンタールを見つめる。
「死者にしかできぬ仕事もある。卿が土に還るよりもよほど生産的だ」
その声は冷徹に揺るがない。
「そろそろ再稼働して、手伝え」
ロイエンタールは二杯目のブランデーを注ぎ、ゆっくりと回した。
「……で、今日は帝国のどこを『最適化』したのだ。せめて口直しになる話を期待しているぞ」
「旧門閥貴族の年金一括処理に伴う、資産再配分の数値を整えていた」
オーベルシュタインの声は、機械音声よりも無機質で感情が感じられない。細い指が端末を操作すると、画面が切り替わり、膨大な記録が連なった。色の異なる双眸に不遜な光が加わる。
「……なるほど。かつて卿が軍務尚書に就任した際、省内の官吏たちが次々に胃を病んで倒れたという逸話があったな」
ロイエンタールは皮肉に満ちた笑みで端正な唇を歪めた。
「だが、俺は胃を病むほど繊細ではない」
空になったグラスを卓に置くと、オーベルシュタインから送られてきた未決済の端末を、優美な手つきで操作した。
「よかろう。生産的な残業とやらの片棒を担いでやる」
二人の「死者」は再び青白い光の中に沈んだ。
雨は、まだ止まない。
pixivから転載