ハイネセンの中央病院。
その一角にある義肢調整室は、帝国の軍病院のような重苦しい消毒液の匂いではなく、どこか焼きたてのパンに似た、温かな温室のような香りが漂っていた。
ワーレンは黒い合金の義手を技師に預け、窓の外を見た。リハビリ庭園で、義足や義手の子供たちが笑いながら遊んでいる。眼鏡をかけるのと同じ自然さで義肢が扱われ、特別な視線を浴びることなく。帝国なら隔離されるはずの光景が、ここでは当たり前だった。この景色が見たくて、ワーレンは毎回病院まで足を運ぶ。
「閣下、指先の神経接続を確認します。……少し冷たく感じますか?」
同盟の医療技師が端子を差し込む。微かな痺れを感じながら、ワーレンは答えた。
「いや、むしろ温かく感じる。この地の技術は、鋼鉄に体温を通わせるのか」
技師は職人らしい淡々とした微笑で返す。
「同盟の思想では、義肢は『欠損の代替』ではなく『生活の拡張』です。より快適に、より生活を楽しむことができるよう……そうですね……生来の不自由も、事故によるものも、同じように考えますよ」
おそらく、帝国への批判にならないよう気を使っていたが、技師は「生来の不自由も」とたしかに言い添えた。
ワーレンの脳裏でその言葉は鋭い火花を散らし、記憶の底から、ある一人の男の姿が浮上する。
士官学校の灰色の廊下を、周囲の喧騒から真空地帯のように隔絶され、常に一定の距離を保って歩く学生がいた。パウル・フォン・オーベルシュタイン。最上級生。
だが陰で囁かれていたのは、「生来的欠損」「公の場に出てはいけない者」という残酷な烙印だった。
ワーレンは当時、それを信じはしなかった。だが、関わりを持つことは避けていた。
あの閉鎖されたエリートたちの世界で、彼は異物として、病的なまでに排斥され続けていたはずだ。
「閣下? 接続に異常が?」
技師が不審げに声をかける。
ワーレンの義手の指先が、無意識に硬く握りしめられていた。
「……いや、少し、古い知人のことを思い出していた。彼は、この同盟の医療システムを見たら、何と言っただろうかとな」
ワーレンは、自分の右腕を見つめた。
帝国では、これは「元帥としての誇り」だ。
だが、オーベルシュタインにとっての義眼は、違う。
常に自らの存在を脅かす「弱点」であり、隠さねばならない「呪い」だった。
あの無機質で、冷たく人工的な光。ハイネセンの技術から見れば、前時代的で醜悪な輝き——それこそが、帝国の歪みの象徴だった。フェザーンや同盟を併呑しても、より自然な見た目の義眼を作らなかったのは、義眼が他人にどう見えるかなど、あの男には瑣末で余計なことだったからだろう——と、ワーレンはこれまで思っていた。
だが今、違うと感じた。
「……くそっ」
小さく吐き捨てるように呟いた。それは、オーベルシュタインへのものか。それとも、自分自身へのものか。わからなかった。
ワーレンは椅子から立ち上がり、新しく調整された義手の感触を確かめるように、ゆっくりと掌を開閉した。
「技師よ。この技術と、それに関わる全てのデータ、そして運用のマニュアルを、至急整理してほしい」
「かしこまりました」
医療に関して、ワーレンにはもう一つ、消えない傷痕のような忸怩たる思いがあった。ルビンスキーが放った劫火が、ハイネセンの皮膚を焼き剥いだあの夜のことだ。悲鳴が夜気を震わせる中、帝国軍の医療キャンプでは、無意識に階級で治療の順番を決める軍医と、それに抗う若手医師の怒号が飛び交っていた。
ワーレンは、その混乱の中で動かぬ自らの黒い義手を見つめた。
「……この腕は、人を守るためにあるのではないのか」
結局あの時、ワーレンたちは業火のハイネセンを見捨てるように、皇帝ラインハルトと共にフェザーンへ向けて飛翔したのだ。
アレク陛下の治世、あらためてノイエラントの駐留を任されたワーレンは、義手を通じて同盟の医療技術に触れて考えた。
「補完の医療は、帝国の古い病を治すための『武器』になる。同盟の良いところは帝国へ入れていく。人の体の作りは同盟も帝国も同じだ。この技術を帝国全土へ広げるためにはどうすればいいのだ……」
ハイネセンの医療拠点もまだ被災から立ち直っていない。テロで傷ついた市民を丁寧に救うことで、ハイネセン住民の帝国への憎しみを「感謝」と「依存」に転換したい。叶うなら大学病院の再建にも巨額の予算を投じたい。しかし金はどこから出せばいいのか。
フェザーン商人どもに、ハイネセンを食い荒らされるのは防ぎたかった。
ワーレンたちが「医療基金」という形にたどり着いた直接のきっかけは、ルッツの婚約者クララの潔い決断だった。クララは遺族年金を謝絶し、従軍看護婦養成のための「ルッツ基金」を設立している。それを聞いたとき、ワーレンは、再び、かつての軍務尚書の氷のような視線を思い浮かべたのだ。
相談すべき相手を考えるうちに、一つの名前が自然と浮かんだ。
アントン・フェルナー。
義眼の参謀長の副官として、長年にわたりその冷徹な思考を間近で見てきた人物だ。オーベルシュタイン亡き後、大将の身で軍務省をまとめて奔走する男。
激務の軍務省トップである。「医療方面のことで」などというアポイントに応じてくれるのはいつになるかーーと考えていたのに、通信画面にフェルナーが現れたのは、1時間も経たないうちだった。
画面の向こうの彼は、予想以上に憔悴していた。目の下に濃い隈、肩がわずかに落ち、制服の襟元がいつもより乱れている。激務のさなかに呼び出しに応じたことにワーレンは思わず声を上げた。
「フェルナー……大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
その言葉に一瞬、目を細めてフェルナーは姿勢を正した。
「閣下のご心配は有り難いですが、問題ありません。……それより、医療方面のこととは何ですか」
ただ淡々と乱れない声。疲れを微塵も見せまいとするその態度に、ワーレンは改めて感心した。なんというか、やはりあの男の部下だなという気がする。
ワーレンは、ハイネセンでの体験を語り始めた。同盟の医師たちが語る言葉——「生来的欠損も、事故による欠損も、社会にとっては等しく解決すべき課題である」——に、鱗が落ちた気持ちだったこと。オーベルシュタインの義眼の残像が、脳裏に焼きついて離れないこと。そして、ルッツ基金のような仕組みを作りたい、という思い。
「ハイネセンの医療拠点の立て直しも必要だが、私はこの技術を帝国全土に持ち込みたいんだ。帝国医療は変わる必要があると思う。だからルッツ基金のような形で、技術の高い補装具を臣民に与えて、恒久的な医療人育成をする財団を……」
「なるほど。つまり。ハイネセンのみの話ではないのですね」
「ああ、だから卿に話している」
ワーレンはフェルナーの考え込むような顔に、身を乗り出した。
「名前は……オーベルシュタイン基金でもいいかな、と思ったんだが」
冗談とリップサービスのつもりで、軽く笑って付け加えたのだが、フェルナーが吐血しかねない顔色になり、ブルブルと震えるのが画面越しにも見えた。
「……閣下、今のは本気ですか?」
「いや、冗談だ! 冗談! ……すまん」
ワーレンが手を振ると、フェルナーはゆっくりと息を吐き、それから切り替わるように、口元にニンマリとした笑みを浮かべた。それは、かつてオーベルシュタインの前でよく見せていた、興味深げで少し意地悪な笑みだった。
「……それに近い構想はもうあるんです」
「え、そうなのか?」
フェルナーは画面に寄りかかるように身を乗り出し、声を低くした。
「オーベルシュタイン閣下がルビンスキーを炙り出すために全宇宙の医療情報、四百億件の医療カルテをデータベース化していたことをご存知ですか?もちろんハイネセンのデータもあります」
「全宇宙の医療カルテだと?」
ワーレンが絶句したのは、その数だけではない。四百億という膨大な命の明滅を、一人で管理し、利用し、ルビンスキーという癌細胞を特定しようとしたオーベルシュタインの、人間性を削り取ったような孤独な執念に当てられたからだ。
皇帝ラインハルトが手にした広大過ぎる版図の、本当の意味で広さを把握していたのはあの男だけなのではないか。
「その元データはこちらにありますので……しかし、基金というのは、使える……」
フェルナーが何やら思考を巡らせているのを、ワーレンは黙って待つ。
「……それにしても、予算案、運用ルール、監査体制…… さらにハイネセンの復興計画まで含まれるとなると……まとめるだけでも一苦労どころの話ではありません」
「ああ、そうなんだ……誰に相談すべきかわからなくてな。迷った末に、卿を頼ってしまった」
「いえ、大変光栄です。ワーレン閣下」
フェルナーは再びニンマリと笑った。
「一週間ください。具体案をまとめます。名前は……ワーレン閣下の義手の経験を前面に出した方が、民衆の支持も得やすいと存じます。無難に『再生基金』あたりはどうです?」
ワーレンは苦笑した。
「そのあたりは卿に任せるから、頼む」
「社会にとっての損失を避けるためなら、喜んで。……それにオーベルシュタイン閣下なら、きっとこう言いますよ。無駄な感情を排し、効率的に進めろとね」
画面が切れる直前、フェルナーは小さく付け加えた。
ワーレンは通信を終え、静かに義手を見つめた。
「オーベルシュタインが生きていたら、さぞや合理的で完璧なシステムを作ってくれただろうな……」
生前はあんなに嫌っていたのに、亡くなってから改めて思う。あの先回りの対処能力と配置能力は並外れていた。彼もまた、比類なき天才だったのだと。
ワーレンは知らない。
フェルナーが通信の後、即座にその天才へと一件を丸投げしたことを。
その一週間後、フェルナーがまとめた上申書は、見事な完成度を備えていた。
ワーレンの原案を基に、予算配分、運用マニュアル、監査フローまで緻密に整理されている。その冒頭には、こう書かれていた
「……欠損者が最新の義肢によって健常者と同等の労働力を得れば、帝国の生産性は向上する。また、辺境の農村まで義肢メンテナンスの拠点を設けることは、実質的な監視・情報網の構築を兼ねるため、結果として統治は安定する」
計画の内容は、医療人育成を目的とした恒久財団の設立、リハビリテーション技術の大幅向上プログラム、同盟側と帝国側の医療人の交流プログラム、身体的欠損に対する補完医療技術の推進、メンテナンス拠点整備、就労支援の展開、そして旧貴族の農園に隠された「不適合者」たちを新産業の労働力として接収する仕組みまで——すべてが連動していた。
特に、児童向け「成長対応型・可変義肢」の開発支援という、帝国内では一部の富豪のみに提供されていたものに光を当てたプログラムは、さすがワーレンよと後々まで褒められて、ワーレンが冷や汗をかくことになる。
監査システムはオーベルシュタインの影響を色濃く受けた厳格なものだったが、弾力的な運用も可能にする配慮がなされ、現実的な柔軟さがある。
さらに、フェザーン資本の過度な流入を制限し、ハイネセンの経済的自立を促す条項も織り込まれていた。
フェザーンのヒルダ皇太后やミッターマイヤー元帥に提出されたこの上申書の末尾には、武骨で誠実なワーレンらしい切実な一文が添えられていた。
「帝国には、失われた四肢を『名誉』という言葉で飾る文化はあるが、それを『日常』として支えるシステムが欠けている。同盟のこの技術と運用法は、陛下の臣民を、不運や身分という呪縛から解き放つ福音となるだろう。私という一個人の『義手』の経験を、全帝国の『再生』に繋げたい」
基金成立はハイネセンで宣言されることになった。
基金成立の祝いに、久々に同期のビッテンフェルトと会うことができた。酒を酌み交わす中、突然、ビッテンフェルトが卓を叩いた。
「そう言えばワーレン、おまえの上申書のあれはなんだ、あれは!」
「どの部分だ」
ワーレンは眉一つ動かさない。
「どの部分だじゃない! オーベルシュタインかよっ!」
吐き捨てるように言う。
「あー、うん、ちょっとフェルナーに手伝ってもらったせいで、な」
ワーレンは頭をかいてごまかした。フェルナーからもらった文書に目を通して、ワーレンも同じ突っ込みをした。だが、自分はあのオーベルシュタイン節に懐かしさを感じてしまったなどと、口が裂けても目の前の猛将には言えなかった。
国家に金を出させることの意味も、ワーレンにはわかってきていた。
「なあ、ビッテンフェルト。卿がハイネセンでオーベルシュタインに拘禁されていたとき、俺は義手の調子が悪いことにしてオーベルシュタインを殴ってもいいかなと考えてたんだ。でも、義手にこれだけの技術と叡智と資本が詰まっていて、全ては未来に繋がっていると知ったら、とても私情で人を殴って損傷させたくはないよ」
ビッテンフェルトは一瞬ぽかんとしたあと、豪快に笑い出した。
「貴様らしいな、ワーレン!」
杯を机に叩きつけるように置き、オレンジ髪の提督は肩を震わせる。しばらく笑い、やがて視線を細める。
「殴らなくていいぞ。その腕が未来に繋がっていると思うなら、なおさら殴るな。殴るのは俺の役目だ」
にやりと笑う。
「貴様は殴るより守る方が似合っている。だが、うん、俺が軟禁されていた時、あいつを殴ろうとした友がいたと思えば、悪くはない気分だ!」
ビッテンフェルトは杯を掲げる。
「しかし、奴をもういっぺんくらい殴っておけば良かったな!」
相変わらずの僚友に、ワーレンは静かに笑った。
公布の前日。
その日も官舎に帰り着いたのは日を跨いでからだった。
官舎代わりのホテルは、夜中も煌々と廊下の灯りがともるが、衛兵に挨拶して部屋に入れば、もう夜の静けさに満ちている。
静かに寝室の扉を開けると、規則正しい寝息。掛け布団の端を握ったまま、少年は眠っている。
また背が伸びたか……?
起きている顔を見ることの方が、むしろ少ないが、それでも、ワーレンはハイネセンに息子を連れてきた。
彼はしばらく立ったまま、その寝顔を見つめていた。義手の指先が、そっと少年の手に触れた。
少年が、かすかに微笑んだ。夢の中でか、それとも、わずかな重みに気づいたのか。
扉を閉める前、ワーレンはもう一度だけ振り返る。寝台の上で、少年は変わらず静かに眠っている。この子が目を覚ます世界を、少しでもまともなものにするために、明日も。その明日も。
pixivから転載