オーベルシュタインの演算   作:シロン茶

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メックリンガー編


死者たちのアトリエ

ノイエサンスーシの深い森を、冬の気配を含んだ風が揺らしていた。皇帝たちが狩猟を楽しんだ広大な森は、今や人影も無い静寂に沈んでいる。

エルネスト・メックリンガーは、黒いコートの裾を優雅に払いながら、その深い緑の奥に佇む隠れ家へと足を運んだ。

ここは全ての時が止まっている。枯れ葉を踏む自分の足音さえ、歴史のページをめくる音のように響いた。久々に「死者たち」に会う時間を持てたのだ。

 

執事のラーベナルトが出迎え、静かに開けられた扉の中は、外の荒涼とした冬景色とは隔絶された、完璧な秩序があった。無駄がないというか、余計なものを極限まで削ぎ落としている。それでいて貧相だとかみすぼらしさといったものは微塵も感じさせない。そして、廊下を進んだ先には整然と整えられた食卓が現れた。

メックリンガーは食堂に入る前に一瞬、足を止めた。

ロイエンタールは背筋を伸ばし、ふいと客人に顔を向ける様までが洗練されている。対するオーベルシュタインも、無駄のない動きでカトラリーの角度を微調整し、司祭が祭壇を整えるような厳粛さで席についていた。かつての元帥府では考えられぬ光景だ。メックリンガーは、思わず感嘆の溜息を漏らした。

「……これは驚いた。君たち二人が並んで食卓につく姿は、まるで古典絵画のようだ」

「お客様がいらっしゃるのは久しぶりでございます。整わぬ食卓でございますが、ぜひご一緒に」

ラーベナルトが声を添え、メックリンガーを席に付かせた。

前菜が運ばれてくれば、ロイエンタールは自然な動きでフォークを、オーベルシュタインは音もなくナイフを添えた。その指先の動き一つに、かつてのゴールデンバウム王朝の頂点近くで磨き上げられた「簡潔なマナー」が透けて見える。

「君たちは、死んでからのほうが貴族化しましたな。まるで歴史の亡霊が、失われた礼節を取り戻そうとしているようだ」

「亡霊には違いないが、あいにく俺たちは食事が必要な亡霊だからな。さしづめ死者の晩餐といったところだ」

ロイエンタールが不敵に微笑んだ。

「食事とは単なる生存の確認ではなく、己の形を整える場だ」

オーベルシュタインが淡々と返す。

「……なるほど。己の形、か」

メックリンガーは着席し、静かに目を細めた。ならば彼ら二人の形は、ひとつの芸術である。

 

「……あの面々で食事の作法などと言っても、仕方のなかったことだからな」

ロイエンタールが遠い目をした。

若き獅子、ラインハルト・フォン・ローエングラムは贅沢を嫌い、その生活はあまりに質素そのものだった。そして究極の「食事軽視者」でもあった。戴冠前、元帥府と宰相府を往復する激務の中で、ラインハルトは食事そのものを忘れることが多かった。その強行スケジュールに最も付き合わされ、欠食を余儀なくされたのが、この義眼の参謀長である。

当時秘書役だったヒルダがあちこちに軽食とお菓子を用意させて、ラインハルトにティータイムを取らせていたが、それゆえに食事抜きでも大丈夫と思ってしまうのがラインハルトなのである。朝早くに元帥府に呼び出された後でミッターマイヤー宅で朝食を取ったこともあるロイエンタールだが、オーベルシュタインの方はその日はそのまま朝食抜きだったりしたのだ。

そんなラインハルトの元帥府。全員士官学校を出ているから一応のマナーは叩き込まれていたが、軍服のまま食卓につくのは日常茶飯事、ゆっくり作法どおりの食事をする者も、食器やカトラリーにこだわる者もいなかった。それゆえに、ロイエンタールの嗜好は「貴族趣味」と揶揄された。

 

ラーベナルトが静かな足取りで現れ、空いた皿を下げて、食後の濃い茶を三人の前に置いた。白磁のカップから立ち上る湯気が、三人の間に薄い帳(とばり)を作る。

メックリンガーは、手元の白磁の碗を見つめた。内側に施された繊細な唐草文様が、光を浴びて淡く輝く。

「実に美しい……。この碗一つで、日常の味は変わる。職人の技術とは単なる装飾ではない。人間の生の質を、根本から引き上げる力なのですよ」

「同感だ。職人の技がなければ、服一着、椅子一つに至るまで、すべてが『我慢』になる」

ロイエンタールが深く頷く。

「卿が弾くピアノ曲も、素晴らしい響板があってこそだ」

「楽器はまだなんとかなりそうですが、一番困っているのは紙でしてね。水彩画は紙が命と言ってもいい。しかし、純コットンの紙など社会に何の役に立つのかと言われたら……」

「いや、全ては生活の質につながる」

皇帝よりも王侯貴族と揶揄されたロイエンタールが、いつのまにかワインを片手にくつろいで言い放つ。オーベルシュタインが淡々と釘を刺した。

「面白い議論だ。だがそもそも、卿は一文無しだろう。そんな男が語る『職人の技』など、空虚な妄想に過ぎぬ。あのへぼ詩人と同類であろう」

ロイエンタールが悠然と笑う。

「そうだな。今はお前の経費で飼われている身だ。職人保護を語る資格など、最初からなかったさ。……だが、適切な贅沢こそが経済の血流を促す基本だ。へぼ詩人扱いをされるべきは、お前の方かもしれないぞ」

メックリンガーは内心で、この毒蛇と猛獣が奏でる奇妙な調和に、喝采を送りたくなった。この瞬間を堪能しているのが自分一人だけなのが、実にもったいない。すっかり観客気分になっていた芸術家提督に、ロイエンタールのヘテロクロミアがキラリと向けられる。

「ノイエサンスーシの四区画すべてを『芸術の保管庫』として予算化したのは卿だそうではないか。となると俺は卿に飼われているのかもしれないな」

メックリンガーは、持ち上げたティーカップを口元で止め、一瞬だけ困ったように眉を寄せた。内面で冷や汗をかきつつも、唇には曖昧な微笑を浮かべる。

「……よしてくれ、ロイエンタール。猛獣を飼い慣らす趣味は私にはない。私はただ、歴史という名のアトリエに、君という強烈な色彩を残しておきたいだけだよ。そのための維持費なら、いくらあっても足りないくらいだね」

彼はカップを置き、オーベルシュタインの方へと視線を流した。

「それに、この檻の鍵を預かっているのはそちらの厳格な番人だ。私はただ、時折差し入れを持ってくる観客の一人に過ぎないよ」

「観客にしては、舞台への干渉が過ぎるのではないか、メックリンガー提督」

「……手厳しいな。たまには最前列に陣取って喝采を送っても、許してほしいものだよ」

芸術家は優雅に肩をすくめてみせた。オーベルシュタインは一瞬、義眼の視線をメックリンガーの顔に留め、無表情で返す。

「……22の大宮殿と50の小宮殿、敷地総面積66平方キロメートル。この上空は今なお許可なき航行が禁じられ、幼帝誘拐事件を口実とした立ち入り禁止区域だ。この広大な遺産を維持する大義名分を、卿の名が担保した。名というものは、時に人を動かし、時に大きなカモフラージュとなる」

メックリンガーは内心で、これは褒められているのか?と思ったが、そのくすぐったさに耐え切れず、ロイエンタールへ矛先を向けてしまう。

「たしかにたしかに。カモフラージュといえば……かつて陛下が『女っ気のないロイエンタールはありえない』と言われていましたな。女の影一つないここに、艶聞名高い卿が潜んでいるなどとは、誰も疑わないのでしょう」

「……ああ、そうだな」

ロイエンタールがあからさまにぶすりとした顔になる。対照的にオーベルシュタインは表情をぴくりとも変えなかったが、メックリンガーはもう一度、柔らかく微笑んだ。

「ところで、君たちの食卓を見て確信した。新しい時代には、やはりある種の贅沢が必要ですな。……形を守る余裕。それこそが、新時代の贅沢でしょう」

意外にも、オーベルシュタインが即座に同意した。

「贅沢とは、資源の浪費ではない。秩序と形を保つための“余白”だ。余白のない国家は脆い」

ロイエンタールはゆっくりと笑った。

「なるほど。俺が言うのは『欲望の贅沢』。卿らが言うのは『形の贅沢』か。どちらにせよ、金がかかりそうだな」

二人の姿を古典絵画のように眺めている自分に気付き、メックリンガーは静かに呟いた。

「……奇妙だが、君たち二人は共存できているのだね。君たちはもう、歴史の外側に……“余白”にいるからなのかな」

「そう、外側だ。卿の回顧録に書くなよ」

 

ロイエンタールが、最後に残ったワインをゆっくりと飲み干した。そのグラスをテーブルに置く「コトリ」という微かな音が、それまでのサロンめいた饒舌な時間を断ち切る合図となった。

「さて、芸術家提督。腹も満たされ、贅沢論も十分に堪能した。……そろそろ、そのコートの内側に忍ばせている『土産』を見せてもらおうか。単なる職人保護の嘆願書ではないのだろう?」

メックリンガーはゆっくりと茶の香りをもう一度だけ楽しんでから、

「お見通しか。参謀長殿があるはずだと言っていたものだよ。ようやく見つけたからね。……断片ではあるが」

彼は慎重な手つきで、一見して軍の機密とわかる無機質なマイクロチップを取り出し、テーブルの中央へと滑らせた。

「シルヴァーベルヒが遺した、オーディン再編計画だ」

オーベルシュタインの義眼が、その小さなチップを射抜くように見開かれた。

 

初代工務尚書の死は新帝国の大きな損失だった。あの凄惨なテロの際、オーベルシュタイン自身もまた重傷を負って搬送されていた。その空白の時間のなかで、獅子の泉の設計図やフェザーン改造計画といった壮大な構想は、バックアップされる間もなく、シルヴァーベルヒの脳内に取り残されたまま永遠に失われたのである。

だが、彼が書き遺していたメモや未完の草稿といった思考の断片は、根気よく拾い集められて皇太后ヒルダの手元へと届けられていた。メックリンガーが手にしたこのチップも、その失われたジグソーパズルの、最も重要な一片であった。

 

ホログラムが展開され、オーディンの立体地図に構想の動線が浮かび上がる。

「……ほう。あの変人、ただの能弁家ではなかったな。この軍事回送路としての理想的な設計……それでいて市民の生活を分断していない」

「ジルヴァーベルヒの真髄は、機能的な美にあるんだよ。旧帝都を惑星まるごと技術センター、あるいは巨大なドックに作り替える気だったようだ」

「なんとも合理的で美しいな。職人の技を技術の集積と再定義する。これならば、文化保護も職人技術の継承も、国家再構築の中に矛盾なく成立する」

白磁の唐草模様のように、緻密に、しかし絡まりすぎることなく。

「……ああ、都市計画というのは壮大な芸術だよ」

メックリンガーは胸が塞がる気持ちだった。自分はこれほどの仕事をこの先できるだろうか。

「国家の構築を芸術で語らないでもらおう」

オーベルシュタインの冷ややかな言葉に、ロイエンタールは優雅な仕草でグラスを弾いて言った。

「そこに線を引く意味は無かろうが。この計画には、職人の精密技術を医療機器の量産に転用する道筋がある。お前が望む医療の基盤がここにあるのだからな」

「……」

「私もそう思うよ。君は排除の否定をしてきた。生まれ持った欠損を切り捨てるのではなく、技術によって補い、市民として機能させる。君がその義眼でルドルフの法を睨み続けてきたのは、そのためだろう?」

オーベルシュタインは無表情のまま淡々と言う。

「私は不完全さを理由に、有用な知性や労働力を投棄することは、国家の損失だと言っているだけだ」

重い沈黙が場を支配する。

 

「懸念があるとすれば」

メックリンガーがホログラムに映る緻密な都市の動線を見つめた。

「都市がこれほど機能的に完成されるなら、そこに住まう人間もまた、その歯車として最適化されることを求められないだろうか」

メックリンガーは、ホログラムの隅にある「遺伝子工学」のある項目を指差した。

「劣悪遺伝子排除法の蓋が取れた今、親が子に『優れた特性』を望む欲望が噴出すれば、ルドルフの地獄が“善意”の名で再構築されかねない」

ロイエンタールが、グラスに映る己の左右不同の瞳をじっと見つめた。

「……デザインされた生命か。吐き気がするな。それは親ではなく、神を演じる悪趣味な演出家だ」

「だが、家族を求める切実な願いは、容易に倫理を飛び越えるからね」

「生命とは、もっとままならぬものだろう。思い通りにならぬからこそ、その出現を尊ぶ……」

ロイエンタールらしからぬ繊細な、しかし核心を突いた物言いに、メックリンガーは返す言葉を持たなかった。オーベルシュタインが、静かに、しかし冷徹な断定を下す。

「補完は社会が機能するためにある。線引きは厳格にせねばならぬ」

「しかし、現実には、どこまでを『補完』とし、どこからを『選別』とするかの線引きが、極めて困難でしょう。ままならぬものを受け入れる許容を持つ者は少ない。不揃いは切り揃えたくなり、余白を見ると埋め立ててしまう。補完と装飾を取り違える者は多いのです」

メックリンガーの懸念に、オーベルシュタインは、珍しくきっぱりと言い渡した。

「ままならぬものを受け入れる許容など、最初から幻想だ。だが、幻想を維持するだけの余力を国家が持ち、生者が線を引き続ける限り、補完は選択に堕ちぬ」

「言うのは容易いがな」

ロイエンタールは鼻で笑った。

「……その線を引き誤らないとでも?」

「誤るだろう。だが、生きている者には線を引き続けてもらう」

オーベルシュタインは即答した。

「線を引くのは生きている者の義務だ」

短い沈黙が落ちる。

メックリンガーは、その沈黙の重さを測るように、ゆっくりとホログラムを閉じた。壮大な都市の未来図は消え、卓上には現実の静けさだけが残っていた。

 




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