オーベルシュタインの演算   作:シロン茶

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ケスラー編


雨は生者に降る

オーディンの地上に降る雨は、夜に入っても止む気配がなかった。

憲兵総監ウルリッヒ・ケスラーは、手に提げた鞄の重みに耐えかねるように、死者たちの館の門前で足を止めた。服に染み込む雨の冷たさだけが、今の自分を「公人」として繋ぎ止めている。

 

今夜の訪問は、医療ネットワークを管理する『公共安全情報局』の設立決定を伝え、ある古い文書を手渡すためのものだった。

 

 

公共安全情報局。

帝国全土の医療情報を一元化・公開し、誰でもアクセス可能な巨大データベースを運用する。地方医療拠点の整備と援助も担い、疫病、汚染、薬害、事故——あらゆる医療情報を読み解き、臣民の生命を守る「光」となる。だが同時に、それは同意なきデータ収集という影を孕み、公衆衛生の名の下にあらゆる個人情報を呑み込む。踏み込んで言えば、医療ネットワークという名の「全き監視網」であった。

 

ケスラーは、その二面性を思うたびに胃の底が凍る心地がした。何より、国務尚書ウォルフガング・ミッターマイヤーがこの組織設立に署名するという事実が、彼の心を削っていた。清廉と公明正大を誰よりも体現した疾風ウォルフ。その名は、ケスラーにとって帝国の良心そのものだった。その男が、監視を内包した医療ネットワークを認めるのだ。

 

執事ラーベナルトに導かれ、執務室へ入る。廊下に響いていた雨音は、扉を閉めた瞬間に断絶した。室内は不自然なまでの乾きと暖かさに満ち、外界の音は一切を吸い込まれている。その無機質な静寂が、ケスラーの鼓動を乱した。

机の向こうで、パウル・フォン・オーベルシュタインが顔を上げた。相変わらず死神のような風情で、その義眼は昔と変わらぬ無機質な光を放っている。

「話は聞いている」

誰から、とは言わない。ケスラーは無言で、鞄から古びた書類の山を机に置いた。

「……それが、例の『グリンメルスハウゼン文書』か」

低く、だがよく響く、聞き覚えのある声。芳醇な紅茶の香りと共にいつの間にかそこに立っていた男を、ケスラーは射抜くような視線で見据えた。

オスカー・フォン・ロイエンタール。

相変わらずの古代彫刻を思わせる貌には、死の影も衰えもない。そのヘテロクロミアは、端末の光を反射して研磨された宝石のように煌めいている。彼はケスラーの視線を柳に風と受け流し、優雅な手つきでカップを配った。ケスラーは知らず、拳を握りしめた。この男が安楽に過ごしている事実は法と秩序の敗北ではないのか、という思いがケスラーの中から消えない。

「その文書の中身は門閥貴族どもの痴態、汚職、そして不毛な誹謗の積層だろう。今さらそんな古い記録を紐解いて、何を見出そうというのだ。……ラングのような卑俗な男であれば、これを肴に愉悦も覚えようが」

ロイエンタールが皮肉げにその名を口にしたことに、ケスラーはさらに苛立ちを募らせた。

 

かつて、ハイドリッヒ・ラングの跳梁を許したのは自らの怠慢ではなかったか、という自責がケスラーの中にある。そしてそれはロイエンタールの叛乱を引き起こした。そこにケスラーの責任は無いとしても、ロイエンタールという“亡霊”が目の前に立つだけで、心の奥に封じていた何かが軋み、冷静さは薄氷のように割れた。

 

「……卿は席を外せ、ロイエンタール」

オーベルシュタインの冷ややかな声に、ロイエンタールはわずかに口を曲げ、影が吸い込まれるように奥へ消えた。その従順さと静けさは死者が自ら墓所へ戻るかのようで、ケスラーの胸に言いようのない不気味さを残した。

 

ロイエンタールの退室を確認することもなく、文書を受け取るオーベルシュタインにケスラーは詰め寄った。

「これをどうするつもりだ。これは先帝ラインハルト陛下が私に預けられたまま、ついに開封されなかった呪物だぞ」

フリードリヒ四世の側近グリンメルスハウゼン子爵が、無能の仮面をかぶって集めた貴族の醜聞の覚書。老子爵からケスラーに託され、ローエングラム元帥府に参陣する際の手土産となった。だが、ロイエンタールの言うように、それは二十年近く前のことなのだ。

問い詰めるケスラーに、オーベルシュタインは静か言った。

「この文書と、集めた医療データを照合する」

冷たい義眼が、羊皮紙に記された手書きの文字を一瞥する。

「なんだと?!」

「この文書には、旧貴族社会で囁かれた『遺伝的瑕疵』の噂が網羅されている。それを医療データで検証し、真実であったのか、あるいは単なる政争の道具であったのかを科学的に切り分ける」

ケスラーは息を呑んだ。ゴールデンバウム王朝の貴族社会において、遺伝的欠陥の噂は人を殺す武器だった。目の前の男がその証人である。その古い呪いを、医療データで「解毒」しようというのか。

「真実であれば、その家系には適切な治療と支援を行う。捏造なら公的に否定する」

「……私は、この毒を封印し続けてきた。だが、それはただ目を背けていただけなのか……」

愕然とするケスラーに、オーベルシュタインはただ「役割の違いだ」と言った。

それもそうだとケスラーは思い直す。暴かれる側にとっては解毒とは限らない。新組織が医療の名のもとに全てを暴くのと同じように。

ケスラーは奥歯を噛み締めた。

オーベルシュタインは無表情に告げた。

「……新しい組織に思うところがあるなら、誰がどのデータを、どのような場合に閲覧できるのか――その峻厳な境界線を決めるのが、卿ら『生者』の仕事であろう。私は既に、死者に過ぎぬ」

 

 

 

ケスラーがフェザーンに帰着すると、こちらでも地上にはさあさあと雨が降っていた。

帰宅より前に軍務省に寄り、フェルナーに会って、あの死人たちの話をしなければならない。服装も通常の制服に着替える。妻の待つ家に帰る前に、この身に染み込んだ死毒のようなものを払い落とすのだ。

 

「ホクスポクス・フィジブス……」

 

思わず呟いたケスラーの前に、巨大な影が立ちはだかった。

 

「おい、ケスラー! 幽霊でも見たような面だな!」

フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトだった。

「その格好だということは、さては面白くない任務でもあったのか、ケスラー!!」

黒色槍騎兵を率いた猛将の豪放な声が、頭の奥までガンガンと響き渡る。隠密任務と察したなら黙ってほしいと思いながら、ケスラーは衝動的に問いを投げた。

「……ビッテンフェルト、もし、死んだはずの戦友が、目の前で生きていたとしたら……卿はどうする」

ビッテンフェルトは鼻で笑った。

「死んだ奴は死んだ奴だ。今さら動いていようが、そりゃもう別の何かだろう。俺が敬意を払うのは、共に銀河を駆けた奴だけだ。形が似ていようが、俺の友じゃあない」

からりとした、残酷なまでの割り切り。

ケスラーは、その言葉に打たれたように立ち止まった。

別人。

そうだ。あの部屋にいたのは、帝国の双璧とうたわれたオスカー・フォン・ロイエンタールではない。自分が苦しいのは、あの亡霊を、まだ「人間」として扱おうとしていたからだ。

「……そうか。そうだな。あれは、もう別物なのだな」

「そうだ! ゾンビなんぞ、一発殴って倒してやるさ!」

その大声によって、ケスラーの表情から憑き物が落ちたように強張りが消えた。空を仰ぎ、雨を真っ向から受け止める。鉛のように重かった雨粒が、今はただの水に感じられた。 雨は冷たいが、それは血が流れているからこそ感じる生者の特権なのだ。

 

「なあ、辛気臭いことを言ってないで酒に付き合え!」

「いや、酒はまた今度だ。……それと、ビッテンフェルト」

ケスラーは歩き出そうとして、僚友に釘を指すことを思い出した。

「黒色槍騎兵団が卿個人の私兵化していることは再三にわたり問題視されている。よく考えておけ。頼むから」

「……ちっ、相変わらず堅苦しい野郎だぜ」

ビッテンフェルトが苦虫を噛み潰したような顔をするのを背に、ケスラーは確固たる足取りで歩き出した。

 

 

 

ノイエサンスーシの森の屋敷。

ロイエンタールは、慣れた手つきでグリンメルスハウゼン文書の整理を始めていた。

「何度でも言うが、医療に首輪をつけたという事実は後世で必ずや弾劾の対象となるぞ」

「瑕疵なき政策など存在せぬ。私は必要な基盤を作るだけだ。国務尚書が署名した以上、その責は彼の者に帰す」

「……泥を被る役目を、ミッターマイヤーに押し付けるのか……」

苦々しくため息をつき、ロイエンタールは異色の瞳を虚空に投げた。

「さぞかし疲れているだろうなあ、疾風ウォルフは」

戦わないのは疲れると言っていた、あの快活な男。疾風のように星々の海を駆け巡っていた男が、今は国務尚書として、重苦しい大理石の廊下を歩いている。軍服を重い外套に着替え、幾重もの責任という鎖を首に巻いて。

ロイエンタールは、ふと唇の端を歪めた。

もはや軍人ではない親友の手で育てられている、己の血を引く少年は、いったいどんな人生を歩むのか。いずれにせよ、自分はその未来に触れることはなく、ただ、遠い窓の灯りに過ぎないが。

 

「……さて、死者の仕事に戻るとしようか」

生者の世界にはもう戻れぬ身だ。ならば、死者として果たすべき役割を静かにこなすだけのこと。

親友に全てを託した我が子の行く末よりも、この文書の先に眠る、まだ見ぬ帝国の子供たちの明日を演算することの方が、今の彼には、より確かな現実味を持って感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 




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