暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第1話 幼名は国松。なお死亡フラグ付き

 

 意識は、泥水の中からゆっくりと浮上してくるような感覚だった。

 

 痛みはない。息苦しさもない。

 

 ただ、自分が「終わった」のだという確信だけが、冷たい事実としてそこにあった。

 

 目を開けると、そこは果てしなく続く無彩色の空間だった。

 

 白でもなく、黒でもない。

 

 質感というものが一切存在しない、まるでゲームのローディング画面に放り込まれたかのような場所。

 

 足元には床があるような、ないような、曖昧な感覚だけが広がっている。

 

「やっほー。おはよう、そしてさようなら。あなた、死んだわよ」

 

 唐突に響いた声に振り向くと、そこにはひどく場違いな存在が立っていた。

 

 豪奢なレースがあしらわれた漆黒のゴシックロリタ服に身を包んだ、人形のように整った顔立ちの少女。

 

 彼女は宙に浮遊する、虹色に明滅するゼリー状の何か――おそらく未来の、あるいは異次元の駄菓子だろう――を指先で掬い取っては口に運び、無邪気な笑みを浮かべていた。

 

「……は? 軽っ! 死後の案内ってもっとこう、三途の川とかお花畑とか、厳粛なものじゃないのか!?」

 

 俺は思わず声を荒げた。

 

 自分が死んだという事実に直面しているというのに、この案内人のあまりの軽薄さに、悲哀よりも先にツッコミの衝動が勝ってしまったのだ。

 

「名前? KAMIでいいわ。分かりやすいでしょ」

 

 少女――どうやらこの空間を管理する神のような存在、KAMI様は、虹色のゼリーを咀嚼しながら、まったく悪びれる様子もなく肩をすくめた。

 

「だって、死んだものは死んだんだから。今さらピーピー騒いだって生き返るわけじゃないし。不注意なのか運が悪かったのかは知らないけど、基本的には自己責任よ」

 

「俺の死因すら説明されてないんですが!? せめて納得のいく理由を……」

 

「あー、そこ、尺使うほど面白くないからカットでいいわ。どうせありふれた死に方だし」

 

 人間一人の人生の終わりを「面白くない」の一言で切り捨てるその態度は、残酷というよりも、ただひたすらにドライだった。

 

 彼女は俺を憎んでいるわけではない。

 

 ただ、暇つぶしのための「面白い素材」としてしか見ていないのだ。

 

「で、これからどうなるんだよ。天国か? 地獄か?」

 

「もっといいところよ。転生させてあげる。しかも行き先は徳川家よ。ほら、あの江戸幕府の徳川。身分ガチャとしてはSSレアの大当たりじゃない?」

 

 KAMI様は、パチンと指を鳴らした。

 

 その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。

 

 徳川家。

 

 武家の頂点。

 

 つまり、食べるものに困ることもなく、戦場で槍に突かれる心配もない、圧倒的な勝ち組の人生が約束されているということか。

 

「徳川家……マジか。それなら、まあ、悪くない……いや、むしろ最高じゃん」

 

「ふふっ、喜ぶのは早いわよ。あなたの幼名は国松。のちの徳川忠長ね」

 

 ピタリ、と俺の思考が停止した。

 

 国松。

 

 徳川忠長。

 

 歴史の専門家ではないただの一般人である俺でも、大河ドラマや歴史解説の動画サイトで聞きかじった知識が、瞬時に脳内を駆け巡った。

 

 たしか、三代将軍・徳川家光の弟だ。

 

 母親のお江に溺愛され、「病弱で吃音のある兄よりも、聡明な弟こそが将軍にふさわしい」と周囲に持ち上げられ、結果として骨肉の後継者争いめいたものを引き起こした人物。

 

 そして、最終的には兄から危険視され、暴君の烙印を押されて改易、蟄居、からの切腹という、絵に描いたような転落人生を歩んだ男。

 

「……待て。暴君扱いされて、実の兄貴と対立して、最後は切腹させられるやつじゃねえか!!」

 

 俺が頭を抱えて叫ぶと、KAMI様は腹を抱えて爆笑した。

 

「あははははっ! 最高! ちゃんと知ってるのね。話が早くて助かるわー。そうよ、あなたはこれから、自らの破滅に向かって突き進む暴君候補として生きるのよ」

 

 笑い事じゃない。

 

 俺の頭の中では、すでに生存戦略の構築が始まっていた。

 

 将軍の座なんて微塵も欲しくない。

 

 暴君として歴史に名を残したくもない。

 

 母親の偏愛はありがた迷惑極まりないし、なにより、将来の最高権力者である兄・家光――竹千代や、その後ろ盾である春日局を敵に回すなど、自殺行為以外の何物でもない。

 

 そして、初代・家康に少しでも「こいつは身内の火種になる」と警戒されたら、その時点で俺の首は物理的に飛ぶ。

 

「……つまり、俺がやるべきことは一つだ。兄上と争わない。絶対に、何があっても争わない。むしろ兄上を全力で将軍に押し上げる。俺は、兄上のための便利な弟ポジションを確立する」

 

 決意を込めて宣言した俺を見て、KAMI様はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた。

 

「へえ? ちょっと頑張れば天下人になれるかもしれない立ち位置なのに、真っ先に逃げるの?」

 

「逃げるに決まってるだろ! 全力で逃亡してやる。将軍候補なんて、お家騒動と暗殺と切腹のフラグの別名だろうが!」

 

「ふふふ、見ものね。どれだけ足掻いても、歴史のうねりがあなたを放っておくかしら」

 

 彼女は面白そうに宙を蹴り、ふわりと俺の目の前まで降りてきた。

 

「あ、そうそう、大事なことを言い忘れてたわ。この世界ね、あなたが知ってる普通の歴史世界じゃないのよ」

 

「……は?」

 

「SF要素があるの」

 

「江戸時代に!?」

 

 江戸時代とSF。

 

 水と油以上に混ざり合わない二つの単語に、俺は呆然とした。

 

「ええ。旧文明のネットワークノードとか、環境を制御するナノマシンとか、自動翻訳システムとか、地下水脈の立体マップとか、病原体の早期検知とか、そういうのが埋め込まれてる世界なの」

 

 それを聞いた瞬間、俺の胸の奥で、男の子特有のロマンが着火した。

 

「マジか! じゃあ、地中から発掘された宇宙船とか! 軌道上からのレーザー兵器とか! 反重力デバイスとかで無双できるのか!?」

 

 目を輝かせる俺に対し、KAMI様は冷ややかな、まるで哀れむような視線を向けた。

 

「……使えると思った? ざーんねん。少なくとも序盤のあなたにアクセス権限があるのは、ほぼ現代の便利機能レベルよ」

 

「しょぼっ!!」

 

「ちょっと、失礼ね! 江戸時代において、スマホの地図アプリや翻訳機能、水質検査キットが使えるだけでも十分すぎるチートでしょ! 文句言わないの!」

 

 俺は肩を落とした。

 

 SFチートと聞いて、てっきり大気圏を突破して星間帝国でも築くのかと期待した俺が馬鹿だった。

 

 蓋を開けてみれば、現代人が日常的に使っているツールが、江戸時代のインフラにこっそり実装されているだけじゃないか。

 

「なんだよそれ……。宇宙戦艦じゃなくて、ただのスマートウォッチ的なやつかよ……」

 

「まあまあ。使い方次第では、世界史のベクトルくらいなら簡単にへし折れるわよ。せいぜい私を楽しませるように、面白く立ち回りなさいな」

 

「しない! 俺は世界史なんて壊さないし、平穏無事に生き延びて、畳の上で死ぬんだ!」

 

「ふふっ。その台詞を言って、本当に平穏に生きられた人間を、私はあんまり見たことがないわね」

 

 KAMI様が指を鳴らした瞬間、俺の意識は強烈な光に飲み込まれ、再び深い泥の中へと沈んでいった。

 

     *

 

 次に目覚めたとき、俺は凄まじい息苦しさと寒さに襲われていた。

 

「……重っ」

 

 上に乗っている布団が、信じられないほど重いのだ。

 

 現代の軽くて温かい羽毛布団とは対極にある、綿がぎっしりと詰まった、まるで修行道具のような布団。

 

 重い体をなんとか起こすと、周囲には薄暗い行灯の光が揺らぎ、畳の匂いと、少し埃っぽいような、だがどこかお香の混じった独特の香りが鼻を突いた。

 

 手足を動かしてみると、自分の体がひどく小さいことに気づく。

 

 視界の高さも極端に低い。

 

 どうやら、数え年で五つか六つくらいの子供の体になっているようだ。

 

 これなら、多少おかしな言動をしても「神童」でごまかせるかもしれない。

 

「若君、お目覚めでございますか」

 

 ふすまが静かに開き、小袖を着た女性たちが恭しく頭を下げる。

 

 周囲を見渡せば、建物の造りや調度品は間違いなく最高級の品々だが、現代人の俺からすれば、ただただ不便な空間でしかなかった。

 

 部屋は隙間風が入り込んで芯から冷えるし、明かりは心許ない。

 

 着物は無駄に重ね着させられていて身動きが取りづらい。

 

 そして何より――。

 

(ウォシュレットがない……ッ!!)

 

 徳川家の若君という超絶VIP待遇であっても、現代の衛生概念やインフラには遠く及ばない。

 

 俺はここで改めて、江戸時代という過酷なサバイバル環境に放り込まれたことを痛感した。

 

「国松、よう眠れたか」

 

 不意に、柔らかな、しかしどこか圧倒的な存在感を放つ声が部屋に響いた。

 

 現れたのは、豪奢な打掛を羽織った美しい女性。

 

 彼女が俺を抱き寄せた瞬間、ふわりと高級な香木の匂いがした。

 

(この人が……母上。お江の方)

 

 浅井長政の娘にして、織田信長の姪、豊臣秀吉の養女であり、そして現在の将軍・徳川秀忠の正室。

 

 日本の戦国時代を象徴するような、血筋のサラブレッド。

 

 その背後に見え隠れする歴史の圧力が、六歳の体には重すぎる。

 

 父である二代将軍・秀忠は、政務に追われているのか、この場にはいない。

 

 だが、侍女たちの口ぶりからして、父上もまた母上ほど露骨ではないにせよ、国松を可愛がっているらしい。

 

 それがまた、俺にとっては洒落にならない火種だった。

 

 お江は、俺の頭を優しく撫でた。

 

 その手つきには、間違いなく本物の愛情がこもっていた。

 

 だが、その愛情こそが、俺にとっては猛毒なのだ。

 

「国松様は、まこと利発なお顔立ちであらせられますな」

 

「ええ。竹千代様よりも、ずっと御器量がよろしいかと……」

 

 周囲に控える侍女たちが、お江の機嫌を取るように、甘い声で囁く。

 

 その瞬間、俺の背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走った。

 

(やめろ。ストップ。その比較は絶対にダメだ。俺が死ぬ)

 

 無自覚な大人たちの賞賛が、確実に未来の俺の首を絞めていく。

 

 ここで初めて、俺は「兄との比較」という呪いの恐ろしさを肌で感じた。

 

     *

 

 それから数日後。

 

 俺はついに、最大のキーパーソンと対面することになった。

 

 のちの三代将軍、徳川家光。

 

 幼名・竹千代。

 

 年齢は俺より二つほど上。

 

 まだ幼い童ではあるが、少し線の細い、神経質そうな顔立ちをしていた。

 

 広い座敷の中心。

 

 大人たちが見守る中、俺たち兄弟は向かい合って座った。

 

 空気はひどくぎこちない。

 

 竹千代の目には、周囲の大人たちからちやほやされる俺に対する、微かな警戒と、埋めようのない距離感があった。

 

 当然だ。

 

 彼は長男でありながら、両親からの愛情を十分に受けられず、乳母の春日局に育てられているのだから。

 

(この人が……未来の将軍。俺が少しでも逆らえば、容赦なく俺を切り捨てる権力者。いや、違う。そうじゃない)

 

 俺は心の中で首を横に振った。

 

 敵対してはいけない。

 

 俺が生き残るためには、彼を支え、彼にとって手放せない絶対的な味方にならなければならないのだ。

 

 俺は姿勢を正し、あえて無邪気な、しかし真剣な瞳で彼を見つめた。

 

「兄上」

 

 静かな呼びかけに、竹千代の肩が少しだけピクリと動いた。

 

「国松……?」

 

「兄上に、教えていただきとうございます」

 

 俺が深々と頭を下げると、周囲の大人たちがざわめいた。

 

 常に甘やかされ、自分が一番だと思い込んでいるはずの国松が、兄に対して教えを乞うている。

 

 その光景が意外だったのだろう。

 

 竹千代もまた、戸惑ったように目を瞬かせた。

 

「私に……? 何をだ」

 

「徳川の武士としての、大切なことを。兄上は、某よりもずっと長く、この城で多くを学んでおられます。どうか、某を導いてくださいませ」

 

 静まり返る座敷。

 

 普通なら、大人が喜ぶような気の利いたことを言って自分をアピールする場面だ。

 

 だが、俺は徹底して「兄を立てる」ことを選んだ。

 

 竹千代の顔には、まだ疑念の色が残っていた。

 

 しかし、その瞳の奥にあった冷たい壁が、ほんのわずかだけ薄らいだように見えた。

 

(よし……。まずは敵意ゼロ、完全降伏アピール完了。ここから兄上の好感度をカンストさせるまでが勝負だ。信長の野望っていうか、完全に乙女ゲームの攻略ルートだな、これ)

 

 心の中で軽口を叩きながらも、俺の額には冷や汗が滲んでいた。

 

     *

 

 城での生活が始まり、俺が最も苦痛を感じたのは、皮肉にも「食事」だった。

 

 徳川の若君の膳には、海の幸、山の幸がこれでもかと並ぶ。

 

 しかし、その全てが「毒味」という儀式を経るため、俺の口に入る頃にはすっかり冷え切っているのだ。

 

(身分が高ければ、いつでも炊きたての温かいご飯が食べられると思っていた時期が、俺にもありました……)

 

 冷たい白米を噛み締めながら、俺はふと、茶碗の中の米粒を見つめた。

 

 俺は徳川の人間だから、冷めていても白い飯が食える。

 

 だが、この時代の九割以上の人間にとって、米は単なる食料ではなく、命そのものであり、経済の基盤なのだ。

 

 戦国時代も、江戸時代も、結局のところ国の力は「石高」で決まる。

 

 兵を養うのも、政を行うのも、年貢を取り立てるのも、全ては米が基礎になっている。

 

 歴史シミュレーションゲームでも、内政をおろそかにして軍備ばかり拡張すれば国はあっという間に破綻する。

 

 某稲作アクションRPGでも、良質な米を作ることこそが強さの絶対条件だったではないか。

 

(……米だ)

 

 俺の脳内で、バラバラだったピースがカチリとはまった。

 

 俺が死なないためには、兄・竹千代に「こいつは手元に置いておくべき便利な弟だ」と思わせる必要がある。

 

 そのためには、圧倒的な実績がいる。

 

 兵法や剣術で目立つのは危険だ。

 

「反逆の意志あり」とみなされかねない。

 

 だが、内政ならば?

 

 農業ならば?

 

(米を増やす。兄上が将軍になったとき、豊かで安定した国をプレゼントする。俺の死亡フラグを根こそぎへし折るために、俺は、田んぼを極める!)

 

     *

 

 数日後。

 

 俺の突拍子もない提案に、周囲の大人たちは大パニックに陥った。

 

「若君が、田をご覧になられる!?」

 

「なりませぬ! あのような泥と虫にまみれた場所、お武家様、ましてや上様の御子息たる若君様が赴かれるなど!」

 

「百姓どもの働く場にございますぞ!」

 

 必死に引き止める家臣たちに対し、俺はわざとらしく眉を寄せ、威厳を込めて言い放った。

 

「米は、徳川の根であろう」

 

 ピタリ、と周囲の動きが止まった。

 

「兄上が、いずれこの天下をお治めになられる時、民が飢え、米が足りねばお困りになる。ゆえに、某は自らの目で田を見たいのだ」

 

 兄上――竹千代の名を出した瞬間、家臣たちの顔つきが変わった。

 

「おお……なんと。国松様は、竹千代様がいずれ天下をお治めになる日のために……」

 

「まこと、ご兄弟の情の深さ、感服仕りましてございます……!」

 

(よし、完璧。大義名分ゲット)

 

 内心でガッツポーズを決めつつ、俺は江戸近郊にある御料地へと向かった。

 

 幕府が直接押さえている田なら、小さな試しをするにも都合がよい。

 

 案内されたのは、比較的小規模な、だが手入れの行き届いた田んぼだった。

 

 風に乗って運ばれてくる、泥と青臭い草の匂い。

 

 用水路を流れる水の音。

 

 等間隔に並んだ畦道。

 

(うーん……分からん)

 

 腕を組んで田んぼを睨みつけながら、俺は心の中で白旗を揚げていた。

 

 気合を入れて視察に来たはいいものの、俺の農業知識なんて、漫画やゲーム、ネット記事の斜め読みで得た浅薄なものだ。

 

 実際の田んぼを前にしても、何が良くて何が悪いのか、さっぱり見当がつかない。

 

「若君様には、田の風景など退屈でございましょうな」

 

 背後から、日に焼けて顔に深いシワを刻んだ老人が声をかけてきた。

 

 この田を束ねる百姓の長、与平だ。

 

 彼の声には、身分に対する畏れはあっても、「どうせお武家の道楽だろう」という諦めと冷めた感情が混じっていた。

 

 俺は振り返り、与平の目を真っ直ぐに見返した。

 

「いや。田が退屈なら、この天下は退屈でできていることになる」

 

 与平が、わずかに目を見開いた。

 

「米がなければ、武士とて腹が減る。腹が減れば、政も戦もできぬだろう。ならば、田はこの天下の根だ。決して退屈なものなどではない」

 

 俺の言葉に、与平の表情から少しだけ「お遊びへの呆れ」が消えた。

 

 しかし、完全に信用したわけではない。

 

「……恐れ入りまする。して、若君様は田の何をご覧になられますので?」

 

「種籾だ。来年に向けて、どうやって種を選ぶ?」

 

「は。目で見て、手で触り、実の詰まっておりそうなものを選び抜きまする。長年の勘でございますな」

 

「水に入れたりはしないのか?」

 

「水に? 水に浸しては、すぐに芽が出てしまいましょう」

 

(来た。塩水選のチャンス!)

 

 農業系なろう小説で幾度となく見た王道テクニック。

 

 塩水に種籾を入れ、中身が詰まって沈んだ優良な種だけを残すという画期的な手法。

 

 ……だが、待てよ。

 

 塩の濃度ってどれくらいだ?

 

 卵が浮くくらい?

 

 そもそも江戸時代にそんな簡単に大量の塩を使えるのか?

 

 知識の粗さに気づいた俺は、口に出しかけた言葉をぐっと飲み込んだ。

 

 ここで中途半端な知識をひけらかして失敗すれば、彼らの信頼を失うだけだ。

 

「いや……少し試してみたいことがあるだけだ。だが案ずるな。お前たちのやり方を全て変えろとは言わん」

 

 俺は田んぼの一角を指差した。

 

「あの隅の、ほんの小さな一区画だけを某に貸せ。そこで、某のやり方を試す。失敗しても、お前たちの年貢には響かせない」

 

 無理やり新しい農法を押し付ける暴君にはならない。

 

 まずはスモールスタート。

 

 実験区――テスト環境での検証からだ。

 

 与平は少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず、深く頭を下げた。

 

     *

 

 城に戻った俺は、泥を落として着替えた後、すぐに竹千代の元へと向かった。

 

「田は、面白かったか」

 

 竹千代は、書物から目を離さずに淡々と尋ねてきた。

 

「分かりませぬ」

 

 俺が正直に答えると、竹千代はわずかに眉をひそめてこちらを見た。

 

「分からぬのに、わざわざ泥にまみれに行ったのか」

 

「分からぬからこそ、見に行きました。そして、少しだけ分かりました」

 

 俺は、竹千代の正面に座り直した。

 

「兄上。米が増えれば、徳川の地盤はより強固になります。米が常に蔵にあれば、民も飢えにくくなり、世は治まります。某は……兄上がいずれ将軍になられる時、米と水で決してお困りにならぬよう、その礎を築きたいのです」

 

 竹千代の目が、大きく見開かれた。

 

 実の弟から向けられた、あまりにも純粋で、かつ自分の未来の統治を前提とした言葉。

 

 竹千代の中で、これまで俺に向けていた警戒の壁が、音を立てて崩れ去っていくのがわかった。

 

「お前は……私が将軍になると思うのか?」

 

「はい。兄上がなられます。必ず」

 

 俺の即答に、竹千代はしばらく言葉を失い、やがて視線を落として小さく息を吐いた。

 

 完全に信じたわけではないだろうが、その言葉は確実に彼の心の奥底に届いていた。

 

     *

 

 その夜。

 

 冷え切った自室で、俺は重い布団の中で考えを巡らせていた。

 

(塩水選の塩分濃度。正条植えのための道具作り。水路の引き込み。育成の記録……。どれもこれも、地道で地味な作業ばかりだ)

 

 溜息をつく。

 

(KAMI様のやつ、SF要素があるとか言ってたけど、俺がやろうとしてること、完全に現代知識チートを使った農業改革じゃねえか。SF要素どこ行ったんだよ)

 

 そうぼやいた、その瞬間だった。

 

 暗闇に包まれた部屋の空中に、唐突に、青白い光を帯びた奇妙な文字列が浮かび上がった。

 

『ユーザーの農業環境改善意図を確認』

 

『江戸城周辺環境制御ノード、低出力モードで待機中』

 

『管理者権限候補、生体認証未完了』

 

「……えっ? 今、何か……見えた?」

 

 俺が跳ね起きると、その文字はフッと空気に溶けるように消え去っていた。

 

 目をこすり、周囲を見渡すが、あるのは薄暗い行灯の光だけだ。

 

 だが、間違いなく見えた。

 

 あの無機質な、システムメッセージのような光の羅列を。

 

 布団を握りしめたまま、俺の背筋にゾクッとしたものが走った。

 

(KAMI様。あんたが言ってたSF要素、思ったよりもずっと、ヤバい形で近くにあるみたいなんですが……)

 

 返事はない。

 

 ただ、隙間風が障子を揺らす音だけが響いていた。

 

 その夜、国松はまだ知らなかった。

 

 彼が自分の生存ルートを確保するために増やそうとしているのは、単なる「米」だけではないということを。

 

 彼が田んぼに触れたその瞬間、徳川の未来とともに、日本列島の地下深くに眠る古く巨大なシステムまでもが、長い眠りから叩き起こされようとしているのだということを。




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