暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第102話 朝廷、婚姻の縁と奥向きの火種を見つめる

 冬の底冷えが少しずつ緩み、京の都を囲む山々に、微かな春の気配が漂い始めた頃。

 

 禁裏の奥深くでは、梅の蕾が綻ぶ静寂の中で、極めて重大な密議が執り行われていた。

 

「……徳川の竹千代が元服し、同時に、鷹司の娘を正室に迎える、か」

 

 御簾の奥で、後の世で言われる後水尾天皇は、江戸から内々に届けられた書状の写しを前に、静かにそう呟いた。

 

 その御前に平伏しているのは、関白筋の重鎮、公家文書御用の窓口を担う者、鷹司家に近い公家、そして広橋筋の実務派公家たちである。

 

 彼らが持参した江戸からの打診は、次期将軍である竹千代の元服準備と、それに合わせた鷹司孝子との婚約発表、および朝廷側への内々の了承確認であった。

 

「はい。鷹司孝子姫は、五摂家の一つである鷹司家の御息女。父君は、かつて関白も務められた鷹司信房卿にございます」

 

 鷹司家に連なる公家が、恭しく説明を加える。

 

「家格におきましては、将軍家の御台所としていささかの不足もございませぬ。御年は竹千代君より少々上にはなりますが、政略の縁として見るならば、何ら障りとなるものではございません。むしろ、公家社会の深き礼法や、京の洗練された空気を江戸城の奥へ持ち込むには、少し年嵩で落ち着きのある姫君の方が、徳川にとっても望ましいはずでございます」

 

 帝は、静かに頷いた。

 

「家柄も、年も、申し分あるまい。徳川の次代の奥へ、摂家の娘が入る。これは、関東の武家が、京の文と礼を決して軽んじぬという、天下への確かな証にもなる」

 

 朝廷側の、江戸幕府に対する近年の評価は、決して悪いものではない。

 

 相次ぐ禁裏の修繕。

 

 手厚い献上品。

 

 公家文書御用による公家衆の重用。

 

 そして星の観測における、朝廷の造暦権への明確な配慮。

 

 だからこそ、この縁談は、朝廷にとって「武家が公家を完全に取り込もうとする危険」を孕みつつも、同時に「公家の持つ絶対的な礼法と権威を、将軍家の奥深くにまで根付かせる絶好の機会」でもあった。

 

 帝は、ふと問いかけた。

 

「鷹司の姫には……今の日ノ本の、この極めて微妙な釣り合いを、きちんと伝えてあるのか」

 

 公家が、背筋を伸ばして答えた。

 

「はい。単に武家に嫁ぐのではなく、徳川将軍家の奥向きにて、公家の礼と京の誇りを決して失わぬこと。されど、武家の家に入る以上、京の権威を無闇に振りかざし、江戸の政を乱すような愚は絶対に避けること。そのあたりの機微につきましては、父君の信房卿より、骨の髄まで厳しく教え含められております」

 

 孝子という姫は、何も知らない哀れな生贄ではない。

 

 朝廷と幕府の橋渡しとなり、公家社会の礼法を将軍家の奥向きへと持ち込む。

 

 だが、江戸の武骨な風習に完全に呑まれてはならず、かといって、京の誇りで武家を見下しすぎれば、たちまち孤立して失敗する。

 

 それは、若き女性の細腕に背負わせるには、あまりにも難しく、過酷な政治的役目であった。

 

「……鷹司の姫には、苦労をかけることになるな」

 

 帝が静かに言うと、公家たちは深く頭を下げた。

 

「されど、これは誇り高き公家の姫にしか果たせぬ、重き役目にございます」

 

 *

 

 朝廷は、この縁談の打診を、公的には「天下の吉兆」として扱う方針を固めた。

 

 理由は明確である。

 

 竹千代は、間違いなく次代の天下人となる男だ。

 

 その正室が摂家の娘となれば、天下の大名や民草に対して、「徳川と朝廷は対立していない」「公武は手を取り合い、協調して次代へと進んでいく」という、この上なく強烈な印象を与えることができる。

 

「民草は、徳川の若君の元服とこの縁談を、泰平の世が続くことの吉兆として、大いに喜んで受け取るであろう」

 

 帝の言葉に、広橋筋の公家が応じる。

 

「はい。近年の全国的な豊作、京への献上の増加、さらには江戸で大いに沸いているという相撲番付の噂。そこに重なる若君の華々しき縁談。民の耳には、天下が次代へと、いよいよ穏やかに移り変わっていく知らせとして響き渡りましょう」

 

 相撲番付の件は、京の公家たちの間でもちょっとした話題になっていた。

 

 竹千代自らが冬の奉納相撲を取り仕切り、かつての天下人である豊臣家の抱え力士までが、土俵の上で熱狂的に受け入れられているという。

 

 相撲の力比べにまで、いちいち帳面を作って管理するとは。

 

 公家たちはそう苦笑していたが、あれが「武家の荒ぶる闘争心と名誉欲を、血の流れない競技の場へと移す政」であることは、しっかりと理解していた。

 

 その相撲を巧みに操る竹千代が、今度は摂家の娘を正室に迎え、公武の縁を盤石なものにしようとしている。

 

「……相撲という武芸で、武家の荒ぶる力を礼の土俵に収め。婚姻によって、公武の重き縁を結ぶか」

 

 帝は、微かな感心の念を込めて言った。

 

「まだ若き身でありながら、徳川の次代は、なかなかよく育っておる」

 

 だが、帝の目は決して油断に緩むことはなかった。

 

「……よく育っておるからこそ。我らは決して、彼らから目を離してはならぬ」

 

 *

 

 竹千代と鷹司孝子の縁談が了承の方向で進む中、公家の一人が、さらに重く、深く息を吐いてから、別の話題を口にした。

 

「また、まだ数年先のことではございますが」

 

 その声に、座敷の空気が一段と張り詰める。

 

「江戸の公儀よりは、徳川和子姫の入内につきましても、変わらず進めたいとの強い意向が、内々に伝わってきております」

 

 竹千代に、鷹司孝子を迎える。

 

 そして、いずれ帝の後宮へ、徳川秀忠の娘である和子を入内させる。

 

 それは、公家と武家の婚姻を、双方向に結びつけるという、徳川幕府の巨大な構想であった。

 

 将軍家の奥には、摂家の娘が入る。

 

 そして、帝の奥には、徳川将軍家の血を引く娘が入る。

 

 これによって、朝廷と幕府の関係は、ただの文書のやり取りや献上品によるものから、断ち切ることのできない血縁の繋がりへと昇華されるのだ。

 

 帝は、しばし、深い沈黙に落ちた。

 

 帝は聡明である。

 

 徳川がこの入内に込めている圧倒的な政治的圧力を、理解していないわけがない。

 

 和子入内が、朝廷の歴史においてどれほど巨大な意味を持つかも分かっている。

 

 だが、朝廷としても、もはや後戻りのできないこの泰平の世の秩序の中で、戦乱を完全に遠ざけるためには、徳川との血の縁を真っ向から拒絶することはできなかった。

 

「……それもまた。帝としての務めであろう」

 

 帝の、その静かで重い一言が、座敷に響いた。

 

 公家たちは、一斉に平伏した。

 

「畏れながら。和子姫の入内の儀は、朝廷と徳川の縁を、いよいよ分かち難きものへと深めることになりましょう」

 

 帝は、御簾の奥から、どこか遠くを見るような目を向けた。

 

「子は、天より授かるもの。政で望んだからといって、必ずしも得られるものではない」

 

 そこで、わずかに声を低くする。

 

「されど、徳川が和子姫の腹に託すものが何であるかは、朕にもよう分かっておる」

 

 外戚としての地位。

 

 あからさまな言葉にはしないが、公家たちも皆、痛いほどに理解していた。

 

「いずれ生まれるであろう御子が、この天下を永遠に縛る、強固な鎹となることを。彼らは、心の底から望んでおるのであろう」

 

 朝廷は、無知ではない。

 

 徳川の真の狙いを完璧に理解した上で、この巨大な政略の盤上に乗るかどうかの判断を下しているのだ。

 

 *

 

 その重い空気の中で、広橋筋の実務派公家が、ふと、少しだけ表情を曇らせて懸念を述べた。

 

「ただし。婚姻というものは、いかに見事な文書や誓紙で整えようとも、それだけで完結するものではございませぬ」

 

 その一言が、政治婚というものの背後に潜む、人間関係の業を鋭く突いていた。

 

「鷹司の姫君が江戸へ入られれば、江戸城の奥向きに、京の礼法と誇りが入ります。そして、和子姫が入内されれば、禁裏の奥向きに、徳川の強大な影が入ります」

 

 広橋筋の公家は、慎重に言葉を選びながら続ける。

 

「いずれも、表の法や、武家の帳面などでは決して測りきれぬ、人の心の機微が渦巻く場所にございます」

 

 帝は、静かに頷いた。

 

「政の文言は、いかに雅に整えようとも。人の奥底にある情までを縛ることはできぬな」

 

 禁裏の女房たち。

 

 将軍家の奥向き。

 

 そこは、政治の理屈だけでは動かない、愛憎と面子と嫉妬が複雑に絡み合う、底なしの迷宮だ。

 

 帝の奥向きも、将軍家の奥向きも、生身の人間の心がある場所。

 

 そこに、国家の命運を懸けた強引な政の縁を結べば、必ず、どこかに激しい軋みが生まれる。

 

「それでも」

 

 帝は、己に言い聞かせるように、言葉を結んだ。

 

「天下の安寧のために、結ぶべき縁であるならば。我らは、結ばねばならぬ」

 

 この時点では、朝廷の者たちはまだ誰も知らなかった。

 

 その「人の情の軋み」が、いずれ朝廷と幕府の関係を根底から揺さぶりかねない、恐るべき火種として燻り始めていることを。

 

 *

 

 朝廷は、竹千代と鷹司孝子の縁談について、内々に了承する返書を整える作業に入った。

 

 ここからが、公家たちの真骨頂とも言える、果てしなく面倒な文言調整の地獄である。

 

「『徳川へ嫁ぐ』と書くのはいかがか。いや、それでは鷹司家が、初めから武家の下に平伏して下るように見えてしまう。却下じゃ」

 

「では、『迎え入れられる』と書くのは? これなら徳川側の面子は立つが、公家側の誇りがどうにも揺らぐ」

 

「姫を『差し出す』などというへりくだった言葉は、言語道断! されど、徳川家に迎えられる以上、あまりに上からの物言いでも角が立とう」

 

 激論の末、彼らが導き出した正解はこうだった。

 

「ならば。双方の面子が立ち、かつ対等の重みを持つ、『縁を結ぶ』という表現が最もよろしいかと」

 

 最終的に書き上げられた返書の文面は、このようなものになった。

 

『鷹司の姫をもって、徳川家次代との縁を結ぶこと。まこと、公武和合の嘉瑞に候』

 

 後に江戸でこの文面を読んだ俺は、そのたった一文に圧縮された「自分たちは絶対に下には立たないが、徳川の顔も完璧に立てる」という致死量の政治的配慮を察知して、胃液を逆流させることになるのである。

 

(うわぁ……京の公家って、本当に短い文章に呪いみたいな配慮を詰め込んでくるな……!)

 

 *

 

 場面は変わり、江戸城。

 

 御異物改方の自室。

 

 俺は、いつものように絶望的な高さに積み上がった帳面の山に囲まれながら、筆を走らせていた。

 

 机の上には、『明国第二箱貸与・厳格条件証文案』『竹千代君御元服・関連儀礼文書』『鷹司家への贈答品目録控』『公家文書御用から届いた縁談の文言案』、そして『朝廷からの返書の写し』が、地層のように重なっている。

 

(……婚姻外交って、米の蔵の増築や銀台帳の計算より、人間の感情や面子が複雑に絡む分、よっぽど厄介じゃないか?)

 

 俺が疲労の溜息を吐いた、その時だった。

 

『やっほー。いい感じに、およつ御寮人事件のフラグが、ビンビンに立ったわね』

 

 視界の端に、KAMI様が宙に浮きながら、ひどく楽しそうな顔で現れた。

 

 俺は、持っていた筆をピタリと止めた。

 

(……はい? およつ? 何ですか、急に)

 

『あんた、史実の歴史を知らないの? 三代将軍家光の時代を揺るがした、朝廷と幕府の超ド級の特大スキャンダルよ』

 

 KAMI様は、悪戯っぽく笑いながら、恐るべき未来の歴史の流れを解説し始めた。

 

『あのね。帝には、徳川和子姫が入内する前から、深く寵愛していた四辻与津子っていう女房がいたのよ。通称、およつ御寮人』

 

(……はい)

 

『で、徳川側が「和子姫を入内させて、徳川の血を引く皇子を産ませるぞー!」って意気込んで準備を進めていた頃に、そのおよつ御寮人との間に、帝の皇子と皇女が誕生したの』

 

(……えっ)

 

 俺の背筋に、嫌な汗が流れ落ちた。

 

『当然、徳川側は面子を潰されたと受け取ったわ。うちの姫を入内させる話が進んでいるのに、先に別の女性との間に御子が生まれた。そうなれば、奥向きの話では済まなくなる』

 

 KAMI様の声は軽い。

 

 だが、話している内容は、洒落にならないほど重い。

 

『史実では、幕府は朝廷の奥向きに強く介入して、与津子やその周辺の公家たちを厳しく処分した。けれど、帝からすれば、自分の私生活に武家が踏み込み、寵愛する女性やその縁者を処罰された形になる。面子は粉々よ』

 

(……えええええええええええ!?)

 

 俺は、内心で絶叫しながら頭を抱えた。

 

(何それ! 帝の奥向き、しかも一番プライベートな女性関係の話に、武家が怒鳴り込んで処罰するとか、外交として最悪の最悪じゃないか! まさに地雷原のど真ん中だよ!)

 

『そうよ。恋愛関係はいつだって制御不能のハリケーンなの。そこに、国家間の政略結婚と、奥向きの面子と、血筋が絡むと、もう台風どころか、全てを破壊する大災害になるわ』

 

 俺は、ガタガタと震え上がった。

 

(米の蔵は、湿気とネズミで腐る。集めた知識は、誤訳と知ったかぶりで腐る。有能な人材は、過労で腐る。……今度は、人間関係が嫉妬と面子で腐って爆発するのかよ!!)

 

『あんた、行政官として、帝の奥向きに口出しするのがどれだけ危険なことか、分かるわよね?』

 

(分かりますよ!! 暦の問題より遥かに危険です! 天体観測の比じゃない! 帝の私生活に武家が介入したら、朝廷の権威を物理的に殴り飛ばすのと同じです!)

 

『でも、徳川としては和子姫の入内は進めたい。徳川の面子も潰せない。かといって、すでに生まれた御子を「なかったこと」にもできない。与津子を苛烈に処分すれば帝が激怒するし、何も整理しなければ徳川の家中が舐められていると受け取る』

 

(やめて! 逃げ場のない地雷の選択肢を、一個ずつ綺麗に並べないで!)

 

 俺は、胃壁を削りながら、この世界線における最適解を必死に考えた。

 

(……史実のような過激な処罰と追放は、絶対に避けるべきだ。帝の奥向きに武家が土足で入るのは、下の下の策。でも、和子の入内と徳川の面子も守らなければならない)

 

 つまり。

 

 もしこの先、その事件が起きたなら、母子を力で罰するのではなく、政治的な位置づけを極めて冷静に整理しなければならない。

 

 和子姫の入内を妨げない形で、先に生まれた皇子女の扱いを文書化する。

 

 朝廷側に自主的な整理を促す。

 

 徳川は表立って怒りを見せすぎず、しかし引けない条件は明確にする。

 

 そして、帝の面子だけは、何があっても絶対に潰さない。

 

 だが、それはあくまで未来の事件に対する対処法だ。

 

 俺は、今すぐ動くことはできない。

 

(まだ起きてもいない、帝の極秘の女性関係の事件を、俺が「あの女房には気を付けてくださいね」なんて先回りして言えるわけがない! そんなことしたら、俺が帝の寝所を常時覗き見している、変態の妖怪か怪物みたいになっちゃうだろ!)

 

 KAMI様は、俺のそのジレンマを見て、実に楽しそうに頷いた。

 

『そう。だから、今は何もしない。ただ、巨大な地雷がそこにあるということだけ、知っておきなさい。恋愛と血筋と面子の問題は、米蔵に積んだ古米よりも、遥かに速く腐るわよ』

 

 *

 

 重すぎる歴史の爆弾を投げ落とした後、KAMI様は、にやにやと意地悪な笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込んできた。

 

『それにしても。あんたも、他人の恋愛関係や縁談ばかり気にしてる場合じゃないわよ。気をつけなさいよ? あんたも、決して他人事じゃないんだから』

 

(俺? 俺はいいですよ。仕事が恋人で十分です。米蔵と灰色本と婚姻外交の書類仕事で、心底手一杯ですから)

 

 俺が即答すると、KAMI様はつまらなそうに唇を尖らせた。

 

『つまんないこと言うわねぇ。案外、普通の人間じゃなくて、人間以外と恋愛関係になって、大炎上したりするんじゃないの?』

 

(……は?)

 

『ほら。八百比丘尼のお里とか。千年単位で生きてる超上位存在からしたら、あんたみたいな前世持ちの異常に過労な珍獣って、なかなか面白い観察対象でしょ? 最近、屋台の団子とかで仲も良いじゃない』

 

 俺は、全力で首を横に振った。

 

(ない! 絶対にない! あの千年ニートとの恋愛フラグとか、一ミリもあり得ないですから!)

 

『千年ニートって……。本人に直接聞かれたら、流石に怒られるわよ』

 

(怒られてもいいです! いや、よくないけど! あの人は恋愛対象とかそういうのじゃなくて、地震とか台風とか、そういう自然現象枠の人なんですよ!)

 

『ふーん。じゃあ、別の上位存在とか? 私とか?』

 

(やめろ。恋愛のジャンルを、人外魔境のクトゥルフ神話みたいな方向に広げるな)

 

 俺が心底嫌そうな顔をすると、KAMI様はケラケラと笑った。

 

『まあ、あんたの周囲は、普通の大人しい姫君との縁談だけじゃ済まないでしょうね。水神様扱いの徳川の次男坊。異常な実務能力あり、民の人気絶大。各国の大商人や神仏、異星文明の奇物とも繋がってる。今のあんた、日ノ本の縁談市場じゃあ、完全に化け物物件よ』

 

(婚活市場で化け物扱いされる人生……嫌すぎる……)

 

 そこで俺は、家康が以前放った「お前にも、いずれ話さねばならぬことがある」という爆弾発言を思い出し、一気に血の気が引いた。

 

(竹千代兄上の縁談の調整だけでも、死ぬほど大変なのに。帝の入内問題、和子姫、およつ御寮人事件の巨大な火種。さらには、俺自身の縁談という逃げられない問題まで!)

 

(……政治の帳面って、物の移動だけじゃなくて。人間のドロドロの感情と関係性まで、完璧に管理しないといけないのかよ……!)

 

 *

 

 深夜。

 

 俺は、いつものように自分の机の上に、新しく増えた白紙の帳面を並べていた。

 

『竹千代君御元服并鷹司家御縁組・朝廷返書受領控』

 

『鷹司孝子殿・江戸迎入作法并奥向き準備覚』

 

『公武婚姻贈答・文言調整記録控』

 

『徳川和子姫御入内・将来準備極秘控』

 

『禁裏奥向き関連・不用意介入絶対禁止覚』

 

『婚姻外交火種予防・未然注意事控』

 

『国松君御身上・縁談関連警戒控』

 

 俺は、そのタイトルを見つめながら、重すぎる溜息をついた。

 

(米は、湿気とネズミで腐る。知識は、誤訳で腐る。人材は、過労で腐る)

 

(そして、縁は……面子と嫉妬と血筋で腐るのだ)

 

 腐らせないためには、ただ氷箱に放り込んで冷やせばいいというわけじゃない。

 

 美しい文言を整え、双方の面子を立て、決して踏み込んではいけない「人の心の聖域」を正確に見極め、必要なところだけを、極めて慎重に帳面に載せていくしかないのだ。

 

『永冷石箱の氷でも冷やせない熱って……本当に、面倒ね』

 

 KAMI様が、珍しく同情するように言った。

 

「ええ。……人間関係の熱が、この世で一番厄介で、面倒です……」

 

 元和三年。

 

 京では、鷹司孝子が、いずれ江戸へ向かう未来に備え、公家の礼法と武家の奥に入る覚悟を厳しく教え込まれていた。

 

 江戸では、竹千代が次代の将軍として、公武の重い縁を背負う準備を静かに始めていた。

 

 そして、まだ誰も知らない帝の奥向きの火種が、静かに、しかし確実に、未来の逃れられない帳面地獄として、俺の視界の端に不気味な火を灯し始めていた。

 

 米も、知識も、人も、そして縁までも。

 

 この国を長く保ち、泰平を続けるためには、腐らせぬように血眼で見張らねばならないものばかりだった。

 

 俺は、氷箱の冷気でも決して冷やせない人の心の熱こそが、最も恐るべき爆弾なのだと悟り、まだ見ぬ奥向きの地雷原の気配に、今から限界まで胃を痛めることになったのだった。

 

 




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