暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第104話 水神様、葭原の帳面と瘡の恐怖に顔をしかめる

 元和三年、春。

 

 ローマ法王との水鏡会談で奇物管理という巨大な地雷をどうにか踏み抜かず、竹千代兄上の元服準備、鷹司家との縁談の文言調整、永冷石箱の東アジア貸与状況の追跡と、俺の精神が連日の実務でいい感じに削れきっていた頃。

 

 大御所・家康から、江戸城の小評定の間に呼び出しがかかった。

 

 集められたのは、家康、秀忠、竹千代、俺、本多正純。

 

 さらには、江戸の町方を取り締まる町奉行筋の役人たちである。

 

 この顔ぶれで呼ばれたということは、議題は外交でも米蔵でもない。

 

 もっと、足元の江戸そのものに関わる話だ。

 

「……江戸の町で、遊女屋が増えすぎておるな」

 

 家康が、静かだが重い声で切り出した。

 

 俺は、その言葉を聞いた瞬間、ピクリと眉を動かした。

 

 天下普請による巨大な土木工事。武家屋敷の建設。街道と橋の整備。米蔵の増築。外国御用屋敷の整備。

 

 それらのために、今の江戸には凄まじい数の大工、人足、職人、商人、浪人、血の気の多い若い武士たちが流れ込んでいる。

 

 当然、人口構成は歪む。

 

 男が多い。

 

 圧倒的に、男が多い。

 

 そうなれば何が起きるか。

 

 遊女屋、湯屋の裏で商いをする湯女、私娼、後の世で岡場所と呼ばれるような非公認の色町が、江戸の町中に無秩序に散らばって増えていく。

 

 正純が、いつもの冷徹な声で報告書を読み上げた。

 

「江戸の遊女屋、湯女、私娼は、町ごとに散り、奉行所の目が届きにくくなっております。取り締まれば、さらに裏へ潜りましょう。放置すれば、人買い、身売り、借金漬けによる搾取が横行いたします」

 

 正純は、淡々と続ける。

 

「さらに、女を巡っての武士と町人の刃傷沙汰。悪性の病の広がり。密集した宿場まがいの商売による火災の危険。いずれ、江戸の治安を根底から揺るがす穴となりましょう」

 

 来た。

 

 ついに来た。

 

 江戸の巨大風紀問題。

 

 これは、たぶん、吉原だ。

 

 後の世でも有名すぎる、あの遊郭の始まりである。

 

『ああ、江戸の風紀事情ね。これは史実通りに進みそうだわ』

 

 視界の端で、黒いゴスロリ姿のKAMI様が、いつものように宙に浮かんでいた。

 

『庄司甚右衛門が、公許の遊女町を願い出てくる流れね。あんたがどう介入するかは任せるけど、ここは下手に綺麗事だけで止めようとすると、もっと酷いことになるわよ』

 

 分かっている。

 

 需要がそこにある。

 

 金が流れる。

 

 男が集まる。

 

 それを道徳的な綺麗事で「全面禁止」と言ったところで、消えるわけがない。

 

 地下に潜るだけだ。

 

 役人の目が届かない闇の中で、女たちがさらに安く売られ、暴力が振るわれ、病が広がる。

 

 ならば、俺がやるべきことは一つしかない。

 

 見える場所へ引きずり出し、帳面に載せる。

 

 完全に救えなくても、最悪を減らす。

 

 そのための制度を作ることだ。

 

 *

 

 町奉行筋の役人が、一つの書状を差し出した。

 

「江戸の遊女屋の元締め格である、庄司甚右衛門という者から、公儀へ願い出が出されております」

 

 内容は、俺の知る歴史の流れとおおむね一致していた。

 

 江戸市中に遊女屋が散在しているのは、客にとっても、取り締まる奉行所にとっても都合が悪い。

 

 公儀の許しを得た一つの区画に遊女屋を集め、そこだけで営業を認めてほしい。

 

 その代わり、営業者の名、遊女の名、年季、客との揉め事、火の扱い、上納金などをすべて帳面に載せ、公儀の監督を受ける。

 

 そういう願い出だった。

 

 家康は、すでにその統治上の利を見抜いている。

 

「散らばっておるものを、一ところへ集めるか。悪くない。江戸の町方に散った危うい火種を、公儀の目の届く柵の内へ押し込めるということじゃ」

 

 予定地として候補に上がったのは、江戸の中心から少し外れた、日本橋葺屋町近くの原である。

 

 葦、あるいは葭が鬱蒼と茂る場所。

 

「葭の茂る原であるゆえ、葭原と呼んでもよかろう」

 

 家康がそう言う。

 

 葭原。

 

 後の世で、吉原と呼ばれることになる場所。

 

 ここで、その名が生まれるのか。

 

 俺が妙な感慨を覚えていると、竹千代兄上がこちらを見た。

 

「国松。後の世でも、この葭原は知られておるのか?」

 

 俺は一瞬、言葉を詰まらせた。

 

 そして、慎重に言葉を選ぶ。

 

「はい。場所を移し、形を変えながらも、この葭原は、何百年も名を残すことになります」

 

「ほう」

 

「歌や踊り、着物、粋な遊びといった、華やかな江戸の文化を生む場所にもなります。ですが……その裏には、女たちの逃げ場のない苦しみ、一生縛られる借金、恐ろしい病、そして暴力が、幾重にも積み重なる場所でもあります」

 

 座敷の空気が、沈んだ。

 

 家康の表情からも、先ほどまでの余裕が消える。

 

「ただの華やかな遊び場ではない、か」

 

「はい。ですので、これを作るならば、最初から帳面で極めて厳しく縛り上げるべきです。これは、単なる男の遊び場ではありません。江戸の風紀、治安、伝わる病、人買いを、公儀としてどう扱うかの問題です」

 

 *

 

「見えない暗がりで全てを腐らせるより、見えるところへ集め、帳面で縛り、公儀の厳しい目を入れる方が、まだ被害を小さくできます」

 

 俺は、公許遊女町を作る前提を語った。

 

 秀忠は苦い顔をする。

 

「公儀が、そのような場所を公に認めるのかと、徳川の威光を侮る者も出よう」

 

「出ます」

 

 俺は即答した。

 

「ですが、これは放縦を認めるのではありません。むしろ逆です。これまで野放しだったものを、公儀の柵と帳面の内側へ押し込めるのです」

 

 竹千代兄上が、少し考え込む。

 

「人と金が集まる場には、許可と記録と禁制が要る。相撲と同じか」

 

「はい、兄上。ただし、こちらは相撲よりもずっと重く、暗いです。純粋な武の勝負ではなく、女たちの身体と、悪辣な借金と、病が絡みます」

 

『ここで道徳的な綺麗事だけを言っても駄目よ、国松』

 

 KAMI様が、珍しく真面目な声で言った。

 

『需要を消せないなら、地下に潜らせず、最悪を減らす仕組みにするしかないわ。嫌な顔をしてでも、帳面に載せなさい』

 

 分かっている。

 

 俺だって嫌だ。

 

 こんな話、本当なら関わりたくない。

 

 だが、嫌だから見ないと言った瞬間、役人の目の届かない場所で、もっと酷いことが起きる。

 

 ならば、ここで綺麗なことを言うのが俺の仕事ではない。

 

 最悪を、少しでも減らす。

 

 それだけだ。

 

 *

 

「まず第一の柱は、場所を一箇所に集めることです」

 

 俺は、方針を一つずつ口にしていった。

 

「江戸市中に散った遊女屋を一箇所へ集め、公儀の許可を得た者以外の営業を江戸全域で禁じます。周囲には柵、堀、木戸を設け、木戸番を置き、夜間の出入りを記録します。火気の扱いも制限し、隣接する町への延焼を防ぎます」

 

「火を消すには、まず火元を見えるところに置く、か」

 

 家康が頷いた。

 

「はい。町中に火種がばら撒かれている状態から、火種を一箇所へ集め、そこに火消し、水桶、奉行所の目を置くのです」

 

 俺は続けた。

 

「第二の柱は、年季奉公と前借金の制限です」

 

 ここが一番重い。

 

 女を一度金で買えば、その借金を盾にして死ぬまで使い潰せる。

 

 そんな仕組みを公儀の名で認めれば、ただの地獄だ。

 

「遊女の年季奉公には、必ず契約書を作らせます。本人名、親族名、楼主名、年季の年数、前借額、返済条件を明記させる。年季には上限を定め、利息が無限に膨らむ仕組みや、借金を勝手に付け替えて年季を延ばすことを禁じます」

 

 秀忠が険しい顔をする。

 

「楼主どもは、強く反発するぞ」

 

「反発します。ですが、ここを曖昧にすれば、葭原は公儀公認の人買い場になります」

 

 俺は、はっきりと言い切った。

 

「病気や怪我で働けない期間の不当な借金増加も制限します。年季明けの退郭を妨害した楼主は、営業取り消し。年季明け後の支度金の積み立ても義務付けます」

 

「随分とはっきり言うのう」

 

 家康が俺を見据えた。

 

「大御所様。江戸の風紀を整えるための制度が、公儀の名の下に弱い者を食い潰す仕組みになれば、公儀そのものが腐ります」

 

 座敷が、静まり返った。

 

 竹千代兄上が、真剣な顔で言う。

 

「楼主にも商いとしての利を残しつつ、女たちを使い潰させぬ線を引くのだな」

 

「はい。商いとしての利を完全に消せば、彼らは地下へ潜ります。ですが、暴力と無限借金と退郭の妨害だけは、公儀の力で禁じます」

 

 *

 

「第三の柱。私が最も恐れる、病への対策です」

 

 俺は、ここで一番顔をしかめた。

 

 瘡。

 

 後の世でいう梅毒。

 

 この時代において、あまりにも恐ろしい病の一つである。

 

『この時代、梅毒はすでに日本に入って広がっているわ。治療法は怪しいものが多いし、水銀治療なんて最悪ね。表面の症状を抑えたように見えて、人体を内側から壊す猛毒でもあるわ』

 

 水銀。

 

 不老不死の霊薬としても扱われることがある、危険すぎる金属。

 

 俺は評定の場で説明した。

 

「まず、伝わる病について申し上げます。瘡は、祈祷だけでは治りませぬ」

 

 空気がわずかに張り詰めた。

 

 家康が問う。

 

「祈祷を否定するか」

 

「いいえ。心を鎮め、病人を支える祈りには意味があります。ですが、病の元が人から人へ移る類のものであるならば、祈祷だけに頼り、人を隔てずに放置すれば、病は際限なく広がります」

 

 俺は、具体策を示した。

 

「葭原の内に、公儀指定の医師と薬師を置きます。遊女の定期的な健康確認を義務化します。発疹、潰瘍、発熱など疑わしい症状がある者は、直ちに休養させ、客から隔離する。客側にも明らかな症状がある場合は、入場を拒否する」

 

 正純が、すぐに帳面の項目を拾う。

 

「症状、日付、担当医師、休養期間を記録する帳面が必要ですな」

 

「はい。さらに、病を隠して働かせた楼主、病中の女性に客を取らせた者は重罰です。病人用の休養所を設け、治療費の一部を楼主たちからの上納金積立で賄います」

 

 そして俺は、強く釘を刺した。

 

「それと、水銀を薬として飲ませる、塗り込む、蒸すといった療法は、葭原において厳重に制限すべきです」

 

「水銀は、古くより不老不死の霊薬とも言われるぞ?」

 

 家康が、少し目を細めた。

 

「それが危ういのです。水銀は確かに強い毒で、目に見えぬ小さな病の元を殺すこともあるのでしょう。ですが、人の体そのものにも猛毒です。病を殺す前に、人を内側から壊して殺します」

 

 竹千代兄上が、ぞっとしたように言った。

 

「毒をもって病を制するつもりが、病人を殺すか」

 

「はい。薬と毒は紙一重です。特に水銀は危うい。少なくとも、公儀が管理する葭原で、安易に使わせるわけにはいきません」

 

 *

 

「第四の柱。暴力、恐喝、楼主の権限の制限です」

 

 俺は、さらに続けた。

 

「遊女への私刑を禁じます。度を越えた折檻、過度な拘束、食事を与えない罰を禁じる。客の暴力や未払いに対して、遊女本人だけへ借金の責任を押し付けることも禁じます」

 

 そして、帳面の改竄。

 

 これは絶対に許してはならない。

 

「楼主が借金帳面を改竄した場合は、即座に営業許可を取り消します。また、遊女が奉行所へ直接訴え出られる窓口を置きます」

 

「武士が乱暴を働いた場合はどうする」

 

 秀忠が問う。

 

「家名ごと記録します。必要なら容赦なく処罰します」

 

「武士の恥も、帳面に載せるか」

 

「載せます。公儀公認の場所である以上、そこで法を破り暴れた者は、公儀の顔に泥を塗った者です」

 

 秀忠は黙って頷いた。

 

「第五の柱。私娼、岡場所、湯女の裏営業の取り締まりです」

 

 公許の場所を作る以上、それ以外の非公認の場所での商いは厳しく取り締まる。

 

 だが、女たち本人をただ罰して終わりにはしない。

 

「無許可営業の主、宿主、斡旋者を重く罰します。女性本人については、まず身元、借金、誘拐の有無を調べます。無理やり働かされていた場合は保護。生活困窮で行っていた場合は、別の奉公先、清書、針仕事などの救済口を探します」

 

「全てを救うことはできぬぞ」

 

 家康が、冷たい現実を突きつける。

 

「分かっております。ですが、全てを救えないからといって、何もしない理由にはなりません。少なくとも、公儀の目に入った者については、人買いと病と暴力の網から、少しでも引き剥がします」

 

 綺麗な話ではない。

 

 それでも、見えない闇の中で食い潰されるより、帳面に載る方がまだマシだ。

 

「第六の柱。出産、子ども、退郭後の生活についてです」

 

 俺は、最後の柱を示した。

 

「妊娠が判明した者は医師の確認を受け、無理な労働を禁じます。子を楼主の財産、商品として扱うことを禁じます。年季明けの女性には、最低限の支度金を積み立てさせる。希望者には、針仕事、茶屋の下働きなどの転職口を探し、退郭後すぐに高利貸しへ沈まぬよう、一定期間の制限をかけます」

 

「そこまで公儀が見るのか」

 

 秀忠が重く問う。

 

「全員を最後まで養うことはできません。ですが、退郭した途端に食えず、また別の闇へ落ちるのなら、この制度の意味がありません。出口がなければ、ここはただの牢獄になります」

 

「出口のない場所は腐る、か」

 

「はい。米蔵にも風が必要です。人にも、出口と風が要ります」

 

 *

 

 これらの重い条件を、庄司甚右衛門へ突きつけた。

 

 甚右衛門は、商売人として公許の利を見ていたのだろう。

 

 だが、俺の突きつけた異常なほどの縛りと帳面の数々を聞くうちに、顔を引きつらせていった。

 

「……国松様。これでは、ただの御免地ではなく、公儀の牢の帳面の中で商いをするようなものにございます」

 

「その通りです」

 

 俺は、一切の同情を見せずに言った。

 

「公儀の許しを得て江戸で商うとは、そういうことです。特権を得るならば、それに伴う責任も負ってもらいます」

 

 甚右衛門は沈黙した。

 

 家康が、上座から静かに言う。

 

「利だけ欲しければ、闇へ行け。公儀の御免を欲するなら、法の内に入れ」

 

 その言葉で、すべてが決まった。

 

 甚右衛門は深く平伏する。

 

「……承知、つかまつりました」

 

 *

 

 場所の名について、竹千代兄上がふと口を開いた。

 

「葭は、悪しにも通じる。ならば、縁起の良い字を当てて、吉原とするのもよいのではないか」

 

 葭原から、吉原へ。

 

 なるほど、ここで後の世の名に近づいていくのか。

 

 家康も頷いた。

 

「悪しきものを集める場ではない。悪しきものを野に散らさぬための場じゃ。ならば、吉の字を当てるのも悪くない」

 

 言い方が上手い。

 

 だが、中身はかなりエグい管理区画だ。

 

 俺は、この制度の限界を分かっていた。

 

 これは、現代的な意味で正しい制度ではない。

 

 遊女町そのものを作る時点で、苦しむ女性は必ず生まれる。

 

 借金で縛られる者も出る。

 

 楼主に搾取される者も出る。

 

 病で倒れる者も出る。

 

 全てを救えるなど、絶対に言えない。

 

 だが、何もしなければ、もっと悪い。

 

 町中に散った私娼。

 

 人買い。

 

 誘拐。

 

 賄賂で見逃す役人。

 

 病を隠して客を取らせる楼主。

 

 死んでも、誰の帳面にも残らない女たち。

 

 それよりは、公儀の帳面に名前が載る方がいい。

 

 病なら医師の目がある方がいい。

 

 年季が決まっている方がいい。

 

 出口がある方がいい。

 

 訴える窓口がある方がいい。

 

「……綺麗な制度じゃない。でも、何も見ないよりはマシにしなければならないんだ」

 

『そうね。あんたが作ってるのは楽園じゃないわ。地獄に、柵と帳面と医者を置いて、少しだけ人が死ににくくする仕組みよ』

 

「言い方が最悪ですけど……たぶん、その通りです」

 

 竹千代兄上が、静かに俺へ問いかけた。

 

「国松。この吉原は、いずれ江戸の華やかな場所になるのか」

 

「はい。歌、芸、衣装、流行……浮世の文化を生む場所にもなるでしょう。ですが、兄上。その華やかさだけを見てはいけません」

 

「裏に、借金と病と暴力があるからか」

 

「はい。華やかな灯りが生まれる場所ほど、影は濃くなります。公儀は、その影の方を常に見張らなければなりません」

 

 竹千代兄上は、深く頷いた。

 

「泰平の世とは、民が笑う相撲場だけではないのだな。笑いの裏で、涙を流す者も、病む者もいる。そこまで見ねば、天下を治めるとは言えぬか」

 

 家康は、その竹千代兄上の言葉を、静かに、満足そうに聞いていた。

 

 相撲では、人の力を土俵へ流した。

 

 吉原では、人の欲と病と金を柵の内へ入れる。

 

 どちらも、泰平には必要な囲いなのだろう。

 

 ただし、片方は明るく、片方はあまりにも暗い。

 

 *

 

 夜。

 

 自室に戻った俺の机には、またしても、地獄のように新しい帳面の束が積まれていた。

 

『葭原吉原遊女町御免地・地割控』

 

『庄司甚右衛門願書并裁可控』

 

『吉原楼主人別并営業許可帳』

 

『遊女人別并年季借銭改帳』

 

『瘡并病者休養診察控』

 

『水銀治療禁止并薬方注意書』

 

『吉原火気衛生管理控』

 

『私娼岡場所取締并保護調査帳』

 

『遊女訴訟聞届并楼主処分控』

 

『退郭支度金積立控』

 

『吉原木戸番出入人別控』

 

『吉原風紀并治安巡検帳』

 

「……また、地獄みたいな帳面が増えた」

 

 俺は、その白紙の束を眺めて、深い溜息を吐いた。

 

『でも今回は、帳面が増えない方が、よっぽど地獄よ』

 

「……それは、本当にそうですね」

 

 米は、蔵に入れなければ腐る。

 

 知識は、蔵に入れても、訳し方を間違えれば毒になる。

 

 人材は、休ませなければ過労で腐る。

 

 縁は、面子と嫉妬で腐る。

 

 奇物は、分からないまま祀れば暴走する。

 

 そして今度は、人の欲と病と借金が、江戸の町の裏側で腐ろうとしている。

 

 ならば、公儀はそこから目を逸らしてはならない。

 

 華やかな灯りが生まれる場所ほど、影は濃い。

 

 その影にいる者たちの名を、せめて帳面に残す。

 

 病めば、医師の目に入れる。

 

 年季が明ければ、出られる道を作る。

 

 暴力があれば、訴える窓口を置く。

 

 完璧な救いではない。

 

 美しい理想でもない。

 

 けれど、見えない闇に沈めたままにするよりは、きっと、少しだけマシだ。

 

 元和三年。

 

 江戸に、後の世で吉原と呼ばれることになる公許遊女町の設置が決まった。

 

 それは、泰平の華やかな江戸文化の種であると同時に。

 

 徳川の公儀が、人の欲と病と搾取という、最も見たくない都市の影にまで、冷徹な帳面を伸ばし始めた瞬間でもあった。

 

 




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