暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第107話 水神様、院の崩御で帝の親子喧嘩の重さを知る

 元和三年、八月末。

 

 朝鮮からの使節対応が一段落し、江戸城の空気がようやく一息ついたかに見えた頃。

 

 京の都から、江戸へ一つの重い急報が届いた。

 

『後陽成院、崩御』

 

 御異物改方の俺の机にも、公家文書御用の公家たちを通じて、関連する文書が山のように積まれた。

 

 喪の儀礼に関する手配。

 

 使者の往復。

 

 院号の決定。

 

 陵所の確認。

 

 朝廷への弔意を示す文面。

 

 そして、現在江戸で進めている、竹千代と鷹司孝子殿の婚約準備への影響。

 

「……後陽成院」

 

 俺は、その文書を前にして、少しだけ固まっていた。

 

 知識として、その名前は前世の歴史で聞いたことがある。

 

 だが、俺はあくまで武家の、しかも実務担当の人間だ。

 

 星見の公家たちや、江戸へ下向している公家文書御用を通じて、朝廷の実務とは関わっている。だが、院個人の人柄や、朝廷の中枢深くについては、正直言ってよく知らない。

 

 朝廷のことって、俺、全然詳しくないんだよな。

 

 そう内心で呟いていると、視界の端に黒髪ゴスロリ姿のKAMI様がふわりと現れた。

 

『やっほー。また一つ、大きな時代が動いたわね』

 

「KAMI様。これ、歴史通りの流れですか?」

 

『歴史通りよ。あんた、今回は京の奥向きにはほとんど関与してないもの。後陽成院の崩御は、予定通りの流れね』

 

「朝廷のこと、俺は直接はあまり関わってないんだけど……後陽成院って、どんな人だったんだ?」

 

 KAMI様は、少し真面目な声色で答えた。

 

『一言で言えば、朝廷にとってかなり大きい人よ。戦国末期から江戸初期にかけての、一番厳しい時代の朝廷を支えた帝ね。古典の収集、和歌、書、学問の振興、木活字による出版事業、朝儀の整備。後世に残る文化面の実績は、とても大きいわ』

 

「へえ」

 

 俺は素直に感心した。

 

「じゃあ、すごい人だったんだな。戦国末期なんて、武家が異常な力を持って、朝廷は金も人も足りなくて大変だっただろうし。そんな中で、文化や儀礼をきちんと後世に保ったんなら、普通に立派な帝じゃないか」

 

『そうね。少なくとも、何もしていないただの飾りの人ではないわ。血なまぐさい武家の世の中で、朝廷の文化的な体力を意地でも残した人、と言ってもいいわね』

 

 俺は頷いた。

 

 後陽成院は、立派にその職務を果たした人物なのだろう。

 

 そう思った。

 

『ただし』

 

 KAMI様が、冷たい声で言葉を反転させた。

 

「……ただし?」

 

『今の帝が、それを素直に敬えるかというと、話は別よ』

 

「今の帝って……後水尾天皇?」

 

『そう。はっきり言うわね。この親子の仲は、最悪に近い。今の帝は、父である院を恨んでいる、と言ってもいいくらいよ』

 

「……えっ」

 

 俺は、思わず声を漏らした。

 

『譲位と皇位継承をめぐって、この親子の間では修復不可能なほどに揉めているのよ。しかも、そこには当然、徳川幕府の意向も深く絡んでいる。純粋な親子の確執だけの問題じゃない。皇統、院政の権力、朝廷内の面子、徳川の武力の介入。全部がどろどろに混ざった、最悪の毒壺ね』

 

「うわぁ……生々しいな……」

 

 俺は、引いた。

 

『当たり前じゃない。帝よ? 神仏じゃないの。人間よ? 親子でありながら、同時に国家の政治の中枢なのよ。綺麗な絵巻物みたいな、お行儀のいい関係だけで済むわけがないでしょう』

 

「いや……俺、どうしても前世の現代の感覚があるから。天皇陛下っていうと、常に穏やかで平和な、象徴としてのイメージで固まっちゃってて……こういう、権力と血筋が絡んだ親子関係の泥臭さが、ちょっと脳の処理に追いつかないというか……」

 

『その現代の認識は、一度捨てなさい。この元和の時代の帝は、祈りと儀礼の中心であり、絶対的な血筋の中心であり、武家の政治の駒にもされるし、逆に政治を強かに動かす側でもある。感情がない神棚じゃないわ。血の通った、人間よ』

 

     *

 

「……そこまで、親子の仲が悪かったのか?」

 

 俺が恐る恐る尋ねると、KAMI様は少し声を潜めた。

 

『後世の歴史にはね、こんな話も伝わっているわ。後陽成院が亡くなった後、今の帝である後水尾天皇が、父に送る死後の名前、つまり追号として、陽成天皇を思わせる不名誉な名を考えた、とね』

 

「陽成天皇?」

 

『平安時代の帝よ。後世には、乱行や暴君のイメージが強く語られる名前ね。もちろん、歴史の見方や解釈にはいろいろあるわ。でも、少なくともこの親子の確執の文脈で、その名を父の追号に重ねようとするなら、それはただの前例探しじゃない』

 

「……つまり」

 

 俺は、背筋が寒くなるのを感じた。

 

「死んだ後の名前で、父親に対する強烈な恨みを、永遠の歴史に刻み込もうとしたってことか?」

 

『そういう風に、後世には受け取られた、ということね。さすがに絶対にそれが真実だと断言するのは避けるけど、それほどの底知れぬ遺恨が二人の間にあったと見せるには、十分すぎる話でしょ?』

 

「……帝の親子喧嘩、重すぎないか?」

 

『親子喧嘩じゃないわ。皇統と、譲位と、幕府の介入と、朝廷内の面子が全部絡んだ、絶対に逃げ場のない断絶よ。死んだ後の名前にまで、それが滲みかねない。それが、朝廷という場所の本当の怖さなのよ』

 

 俺は、しばらく黙り込んだ。

 

 前回は、秀吉が朝鮮に残した、国際的な恐ろしい傷を見た。

 

 そして今回は、同じ血の中にある、決して消えない傷を見ることになるのか。

 

 死んだ後の名前すらも、どろどろの政治になる。

 

 俺は、山のように積まれた弔いの文書を見つめながら、深いため息をついた。

 

     *

 

 江戸城、小評定の間。

 

 京より正式にもたらされた後陽成院崩御の報告を受け、家康、秀忠、竹千代、俺、正純が集まり、対応の協議が行われていた。

 

 弔意の使者の人選。

 

 香典と供物の手配。

 

 喪中の江戸城内における文書の形式。

 

 朝廷への弔意の言葉。

 

 そして、最も重要な、竹千代と鷹司孝子殿の婚約文書の扱い。

 

「院の崩御を、軽んずることは決してできぬ」

 

 家康が、静かに、だが重く言った。

 

「されど、竹千代と鷹司家の話も、公武の縁を固める重き儀。今さら、無闇に止めるわけには参りませぬ」

 

 秀忠が、将軍として頷く。

 

 俺は、その言葉の応酬を聞いて、微かな違和感を覚えた。

 

 喪と、婚約が、同時に動く。

 

 祝いと弔いが、全く同じ机の上に並んでいる。

 

 先日、家康の死期について思い知らされた。

 

 その直後に朝鮮使節との間で、戦争の深い傷跡を見た。

 

 そして今ここでも、国家の政治は、個人の感情が整理されるのを一秒たりとも待ってはくれない。

 

 家康は、後陽成院と後水尾天皇の親子関係が、いかに険悪であったかを熟知しているはずだ。

 

 しかも、その皇位継承のごたごたを巡って、徳川幕府も無関係ではない。

 

 むしろ、強烈に介入した当事者でもある。

 

 家康が、ふと、ぼそりと呟いた。

 

「……親と子の間に、公儀の武力をもって手を入れてしまえば、血は必ず濁る」

 

「大御所様……」

 

 俺は、思わず声を漏らした。

 

「天下の安寧のためには、必要なことであった。だがな、必要なことであったからといって、それが人の心に決して傷を残さぬとは限らぬのじゃ」

 

 家康は、竹千代を見た。

 

「血筋を整え、家を保つとは、ただ形式の婚姻を結べば済むような軽いことではない。親子の間に残った恨みもまた、必ず次の世の政に影として残るのだ」

 

 竹千代は、後陽成院の崩御という知らせを、ただの遠い朝廷の儀礼としてではなく、家と血の重さとして真っ直ぐに受け止めていた。

 

     *

 

 その頃。

 

 京の都、御所。

 

 後陽成院崩御の報せは、すでに朝廷の内部を重く、暗く覆い尽くしていた。

 

 公家たちは血相を変えて喪の手配に追われ、女房たちは声を潜めて廊下を行き交い、書役たちは追号、弔意、儀礼のための無数の文書を書き整えている。

 

 その混乱の中心に、後水尾天皇はいた。

 

 まだ若い帝である。

 

 だが、彼は今、父を失った悲しき子という純粋な顔だけでいることは許されなかった。

 

 帝として、全ての喪の儀礼を、一分の隙もなく正しく動かさなければならない。

 

 しかし。

 

 帝は、父の死の報せを聞いても、己の目から一滴の涙も出ないことに、静かに気づいていた。

 

 私は、薄情な子なのであろうか。

 

 だが、そう単純な話ではない。

 

 父である後陽成院に対する敬意は、確かにある。

 

 父がこの厳しい時代に、朝廷の文化や朝儀を必死に保ち続けたことは知っている。

 

 父が、決してただの愚かな帝ではなかったことも、よく分かっている。

 

 しかし、父との間に、あまりにも高く、深く積もりすぎたものがあった。

 

 譲位を巡る争い。

 

 皇位継承の理不尽。

 

 自分の立場。

 

 父の意向。

 

 そして、そこへ土足で踏み込んでくる、幕府の武力と意向。

 

 それらが全てどろどろに絡み合い、もはや、純粋な父子の情だけで涙を流せるような状態では、とうになくなっていた。

 

「……院は、この朝廷を確かに支えられた。書を愛し、古きを守り、儀を失わせぬよう、懸命に努められた。それは、知っている」

 

 帝は、側近の公家たちに対して、静かにそう言った。

 

 しかし、帝は微かに唇を噛んで続けた。

 

「だが、私にとって、心安らぐ父であったかと問われれば……答えに、詰まる」

 

 側近の公家たちは、一斉に息を潜め、深く首を垂れて黙り込んだ。

 

「父は、院であり、先帝であり、朝廷そのものであった。だが、私の父として、私に何を残してくれたのか」

 

 それは、ただの親不孝者の陰湿な恨み言ではない。

 

 国家と血筋の重圧に押し潰され、深く傷ついた、一人の子としての痛切な吐露であった。

 

     *

 

 そして、最も恐るべき、追号を巡る評議の場が訪れた。

 

 通常であれば、先帝の功績と吉例の前例を踏まえ、穏当で美しい名を選ぶべき場面である。

 

 しかし、御所の奥深い密室で、公家たちの中から、冷たい一言が落ちた。

 

 ある公家が、古き帝の名を、前例の候補の一つとして口にしたのだ。

 

「……陽成の字は、いかがにございましょうか」

 

 その瞬間。

 

 評議の場の空気が、水を打ったように静まり返った。

 

 筆を持つ書役の手が、ぴたりと止まる。

 

 誰も、すぐには反応できない。

 

 それは、単なる字面ではない。

 

 後世の歴史において、乱行や暴君のイメージが強く語られる名。

 

 その不穏な響きを持つ字を、父院の追号に重ねる。

 

 その意図するところは、朝廷内部の者たちには、あまりにも残酷なほどに分かりすぎる提案だった。

 

 後水尾天皇は、その名を聞いて、すぐには否定しなかった。

 

 それが、側近たちにとって何よりも恐ろしかった。

 

 帝の目には、父への深い怒りがある。

 

 長い確執による、底知れぬ疲れがある。

 

 そして、一瞬だけ。

 

 それでも、よいのではないか。

 

 そんな、氷のような冷たさが過ぎった。

 

 父が、私に最後まで残した冷たいものを。

 

 私もまた、父の名に、永遠に返してやりたい。

 

 だが、直後に、帝の心の中にもう一つの、全く別の強い声が浮かび上がった。

 

 それをすれば、私は帝ではなくなる。

 

 ただ、私怨で死者を鞭打つ、愚かな子に成り下がる。

 

 帝は、己の中にある煮えたぎる私怨と、天下を統べる帝としての責務の間で、激しく揺れ動いていた。

 

     *

 

 永遠にも思える、長い沈黙の後。

 

 帝は、静かに、だが決然と命じた。

 

「……その名は、用いぬ」

 

 公家たちが、一斉に、張り詰めていた息を細く吐き出した。

 

 後水尾天皇は、己の感情を封じ込めるように続けた。

 

「院の御事を、私の胸の内にある私情だけで裁くことはできぬ。院は私にとって父であった。だが、同時に先帝であり、この朝廷を確かに支えた方でもある」

 

 言葉は静かだった。

 

 だが、その静けさの奥には、血を吐くような苦さがあった。

 

「父として許せぬことがあったとしても、帝として、それを死後の名に刻むような真似はせぬ」

 

 許したわけではない。

 

 父の所業を、心から受け入れたわけではない。

 

 だが、追号という公の歴史において、復讐はしない。

 

 後陽成院。

 

 その穏当な名に収める方向へと、評議は静かに進んでいった。

 

 側近の公家たちは安堵した。

 

 しかし、後水尾天皇の心が、それで晴れやかに救われたわけではないことは、誰の目にも明らかだった。

 

 帝の表情は、むしろ全てを背負い込んだように、深く疲れ切っていた。

 

 私怨を飲み込み、公を優先することは、決して美しいだけの美談ではない。

 

 ただ、口の中に酷く苦い味が残るだけの、過酷な決断なのだ。

 

     *

 

 追号の件がなんとか落ち着いた後。

 

 側近の公家が、恐る恐る次の重い議題を切り出した。

 

「……鷹司家より、江戸との御縁組の文言につきまして……院の御喪中にあたりますゆえ、これはしばし控えるべきかとの声も上がっておりますが……」

 

 後水尾天皇は、静かに、しかし力強く首を振った。

 

「滞らせるな」

 

 側近たちが、驚いて顔を上げる。

 

「喪は、法に則り正しく行え。院への礼を、決して欠くな。だが、公武の約を、私の胸の内や御所のざわめきで、無闇に乱すな」

 

 後水尾天皇の言葉には、すでに次代を担う帝としての、圧倒的な政治的成熟があった。

 

「鷹司の姫が江戸へ結ばれることは、朝廷の軽い遊び話ではない。武家と公家、徳川と朝廷の間に置く、極めて大きな橋である」

 

 父を悼むことと、次代の天下の橋を架けることは、決して相反せぬ。

 

 そう告げる声には、若さに似合わぬ重みがあった。

 

 後水尾天皇は、徳川幕府への複雑な感情も抱えている。

 

 徳川の力が朝廷に深く入り込んでくることの危うさも、完璧に理解している。

 

 だが、その上で、彼は進める決断を下した。

 

「……好む好まぬで、架けるべき橋は選べぬ」

 

 その決断によって、後陽成院の崩御は、竹千代の婚約を止める障害とはならなかった。

 

 むしろ、この国難の時だからこそ公武が結びつくという、婚約の重さをさらに増すことになったのである。

 

     *

 

 後日。

 

 江戸。

 

 公家文書御用を通じて、京の朝廷から正式な文書が届いた。

 

『後陽成院崩御に伴う喪の儀礼』

 

『追号および弔意の扱いについて』

 

『竹千代君と鷹司孝子殿の婚約準備は、形式を整えた上で、滞りなく進めること』

 

『ただし、文言の一部を、喪中にふさわしく改めること』

 

 俺は、その文書を読んで、少しだけ驚いた。

 

「……止めないんだ」

 

『止めないわね』

 

 KAMI様が、ふわりと現れて補足した。

 

『今の帝は、父への深く複雑な感情を抱えながらも、政は政として止めずに進めるという判断を下したわ』

 

「すごいな……」

 

『すごいのよ。冷たいんじゃない。激しい感情や恨みがあるのに、それを全部、国を動かす政の場にぶつけない。若いけど、本物の帝なのよ』

 

 俺の、後水尾天皇という人物への認識が、ここで完全に変わった。

 

 現代的な、穏やかな象徴としてのイメージではない。

 

 血の通った感情も、恨みも、複雑な政治的判断も抱えながら、それでも帝として毅然と立つ、一人の強烈な政治的存在。

 

 後水尾天皇とは、そういう人なのだ。

 

     *

 

 江戸城にて。

 

 家康は、京から届いた文書を読み、後水尾天皇が喪の儀礼と婚約の準備を見事に切り分けたことを知ると、しばらく深い沈黙に落ちていた。

 

「……若いが、帝じゃな」

 

 家康が、ぽつりと呟いた。

 

「喪を乱さず、公武の重い話も止めぬ。誠に、難しいことをなされました」

 

 秀忠も、深く感心したように言う。

 

「うむ。父への思いが軽ければ、簡単であったろう。思いが重く、深かったからこそ、その私情を切り離すのは難しい」

 

 家康は、後水尾天皇の深い苦しみを理解している。

 

 俺は、その横顔を見て、そう確信した。

 

 家康は、静かに自省するように言った。

 

「……儂もまた、あの親子の間に、武力をもって手を入れた一人じゃ」

 

 秀忠が、少しだけ緊張する。

 

「天下の安寧のため、必要であった。だが、必要であったという言葉は、決して人の心の傷を癒す薬にはならぬ」

 

 前と同じだ。

 

 家康は、自分のしたことの結果と傷を、死ぬ前に全て見届けようとしている。

 

 勝利の果実だけではない。

 

 自分が強引に切り開き、時に切り捨て、残してしまった傷も含めて。

 

 全てを背負って、次代へ渡そうとしているのだ。

 

     *

 

 竹千代が、俺に小声で問いかけてきた。

 

「……国松。帝は、父君である院を、許されたのか」

 

 先日、朝鮮の使節の時に聞いた「朝鮮は豊臣を許したのか」という問いと、全く同じ響きだった。

 

 俺は、少しだけ苦笑した。

 

「最近、兄上は、難しいことばかり聞きますね」

 

「難しいことばかり、見せられているからな」

 

 俺は、真っ直ぐに答えた。

 

「……許したとは、違うと思います」

 

「では、何だ」

 

「心から許せないからといって、死後の名や、国の婚約の文書に、恨みを刻み切ることはしなかった。そういうことだと、私は思います」

 

 竹千代は、小さく息を呑んだ。

 

「……恨んでいても、政を止めぬのか」

 

「はい。多分、それが帝であり、将軍でもあるのだと思います」

 

 竹千代は、深く沈黙した。

 

 朝鮮外交では、恨みを次の戦にしないのが外交だと学んだ。

 

 そして今回は、恨みを次の政にそのまま刻み込まないのが、統治だと学んだのだ。

 

     *

 

 この一連の出来事は、俺にとっても他人事ではなかった。

 

 俺の縁談や、身分処理の問題も、絶対に俺個人の好き嫌いだけの話ではない。

 

 俺は、自分と家康、秀忠、竹千代の関係を考えた。

 

 俺は家康に助けられ、秀忠に守られ、竹千代とは兄弟として良い関係を築いている。

 

 けれど、俺の水神としての存在は、あまりにも強大で、危険すぎる。

 

 もし、扱いを一つでも間違えれば。

 

 後陽成院と後水尾天皇のように、親子や兄弟の愛憎の感情が政治と混ざり合い、国を真っ二つに割る血みどろの悲劇に、簡単になり得るのだ。

 

     *

 

 だが、そんな重い思索に浸る暇もなく。

 

 公家文書御用の作業場では、かつてない実務の地獄が発生していた。

 

「ああっ! 祝いの言葉を少しでも削れば、不吉に見えますし! かといって、弔いの言葉を軽くすれば、朝廷への不敬になります!」

 

「文言一つ誤れば、朝廷の御面目、徳川の御面目、鷹司家の格式、竹千代君の御先々にまで、取り返しのつかぬ禍根を残しまするぅぅぅ!」

 

 公家文書御用の担当たちが、髪を振り乱して悲鳴を上げている。

 

 一方には、後陽成院崩御に伴う弔いの文書。

 

 もう一方には、竹千代と鷹司孝子殿の婚約準備に関わる祝いの文書。

 

 相反する二つの極限の文書が、全く同じ机の上に山積みになっているのだ。

 

「……文言一つで火種の山じゃないか」

 

 俺も、頭を抱えて机に突っ伏した。

 

『祝いと弔いが、同時に容赦なく来るのが政治よ。人の心は順番待ちしてくれないし、政は感情が落ち着くまで止まってくれないわ』

 

「せめて、別々の机でやってほしいんですけど……!」

 

『無理ね。全部、同じ天下っていう机の上よ』

 

     *

 

 京から届いた、完成した美しい文書を、俺は静かに見つめていた。

 

 そこには、後陽成院の深い弔いの文言と、竹千代と鷹司孝子殿の未来へ向けた縁組の文言が、並んで記されていた。

 

 一つは、死者の名を整えるための筆。

 

 もう一つは、生きている者の未来を結ぶための筆。

 

 後水尾天皇は、父を許したわけではない。

 

 だが、父への恨みを、死後の名に刻み切ることはしなかった。

 

 そして、重い喪の中にあっても、次代へ架ける橋の歩みを止めなかった。

 

 院の名は、子が父への恨みをすべて消し去ったから、美しく整えられたのではない。

 

 決して消えぬ恨みを抱えたまま。

 

 それでも、次の世へ渡す橋を折らぬために。

 

 ただそれだけのために、静かに整えられたのだった。




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