暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
元和三年、秋。
後陽成院崩御の報せを受け、京の都は深い、深い白い喪の気配に包み込まれていた。
五摂家の一つ、鷹司家の屋敷の奥深く。
庭の木々がわずかに色づき始めた景色を前に、鷹司孝子は、静かに正座して、屋敷の中を行き交う女房や家人たちの慌ただしい足音を聞いていた。
御所からは、追号の決定、儀礼の作法、弔意の使者の往復など、喪に関する厳格な文書が次々と届けられる。
だが、それと全く同時に、鷹司家の奥では、江戸との縁組に関わる結納の品や、文言の調整の書状が、ひっきりなしに飛び交っていた。
人が亡くなっても。
政というものは、一刻たりとも止まらないのですね。
孝子は、自身の膝の上に置かれた、江戸から届けられた分厚い目録を見つめながら、静かにそう思った。
弔いの黒と白の文書。
祝いの金と朱の文書。
相反するはずの二つの色を持つ紙が、鷹司家の同じ屋根の下で、当たり前のように処理されていく。
誰も、それをおかしいとは言わない。
まだ年若い孝子であるが、彼女はただ奥で花を愛でて守られているだけの、か弱い姫ではなかった。
背筋は常に真っ直ぐに伸びている。
無闇に言葉を発さず、しかし周囲の空気は鋭く読む。
公家の最高峰である摂家の娘として、彼女は幼い頃から、家に生まれた女が背負うべき政の重さを、骨の髄まで教え込まれていた。
*
江戸の徳川将軍家、次代の竹千代殿。
その名が、自身の婚約の相手として鷹司家の奥で囁かれ始めたのは、およそ二年ほど前のことだった。
『徳川家より、摂家との御縁を重んじる強い意向あり』
『竹千代君の御将来を見据え、公武の結びをいよいよ厚くしたき由』
『鷹司家の姫君に、相応しき御役目があるやもしれぬ』
最初は、ただの噂だった。
孝子自身も、まさか私が、と半信半疑に思っていた時期がある。
だが、決して他人事として聞き流してはいなかった。
鷹司家の娘として生を受けた以上、己の婚姻が家の政の大きな武器となることは、ずっと前から分かりきっていたことだからだ。
そして今。
喪の最中であるにもかかわらず、今の帝より、滞らせるな、との強い命が下った。
自身の縁組は、もはや引き返せない現実として動き出したのである。
喪が明けるまで、棚の上に置かれる飾りではない。
私は、この厳しき喪の最中であっても、止めずに動かさねばならぬほどの、朝廷と武家を繋ぐ重い橋なのだ。
孝子は、その重さを静かに胸の内へ沈めた。
*
孝子は、女房や侍女たちから聞かされてきた、江戸の噂を思い返していた。
最初は、ただ遠い東の武家の噂に過ぎなかった。
徳川家の嫡男、竹千代。
そして、その弟、国松。
だが、年を追うごとに、京へ届く彼らの評判は、尋常ではない質と重さを帯びていくようになった。
まず、夫となる竹千代について。
京へ届く彼の評判は、単なる血筋のよい将軍家の嫡男というだけではない。
大御所・家康公のすぐそばで、天下の政を直に学んでおられる。
秀忠公の後を継ぐ者として、すでに諸大名の前に堂々と姿を見せ、言葉を交わされている。
相撲という武の興行を差配し、大名たちの外交の場を自ら回された。
朝鮮からの使節の場に同席し、海の向こうの深い恨みと、冷徹なる政の重さを学ばれた。
そして、後陽成院崩御の喪と、自身の婚約の重みを、決して逃げずに受け止められた。
京へ届く話は、あくまで断片的な噂でしかない。
だが、その断片を拾い集めるだけでも、彼がただ神輿の上に乗せられているだけの普通の若君ではないことが、はっきりと分かる。
徳川の嫡子は、もう子供ではない。
孝子は、少しだけ口元を引き締めた。
ただ血筋が良いだけの、己の重さを知らぬ若君であれば、嫁ぐのが怖かったかもしれません。
血筋だけで大きな座に座る方の隣は、かえって危ういものです。
ですが、竹千代殿は。
すでに、その将軍という座の真の重さと恐ろしさを、しかと見ておられるのでしょう。
それでこそ。
孝子は、胸の奥で静かな誇りを燃やした。
それでこそ、私が己の生涯を懸けて背負う役目に相応しい、夫というものです。
*
一方で。
弟である国松の評判は、竹千代とは全く別の意味で、恐ろしいほどに異常であった。
水神様。
日ノ本の米を増やした。
巨大な蔵を無数に建てた。
見たこともない、妖術のような南蛮の奇物を扱う。
京の公家文書御用の公家たちを江戸へ呼び寄せ、武家の中に巨大な文官の場を作った。
星見の公家たちを巻き込み、天の星の帳面を作らせた。
吉原という遊女の町を、冷酷な法と制度に押し込めた。
朝鮮使節との応対では、被虜人の細かな記録を提案し、人を返す実務をやってのけた。
屋敷の女房たちは、半ば畏れを抱きながら噂し合っている。
「国松様という御方は、誠に、神仏に近い御方なのでしょうか……」
孝子は、その言葉を聞いて、静かに、だが明確に首を振った。
「……神仏と呼ばれる人ほど、人の世の政の中では、危うくなるものです」
女房たちは、姫の冷静な言葉に驚いて顔を見合わせた。
孝子は、国松をただ凄い奇跡の神として盲信しているわけではない。
朝廷の政治の中枢で育った姫として、その存在の強烈な政治的火種を見抜いていた。
「竹千代殿が、将軍家の嫡男として天下に立たれるなら、その弟君が神のように崇められ、力を持つことは、大いなる祝福であると同時に、恐るべき危うさでもあります」
孝子は、膝の上で静かに指を重ねた。
「その方を、ただの兄弟の情としてだけでなく、天下の形の中に、安全に収めねばなりません。竹千代殿の隣に立つ者は、その重い事実を、誰よりも知っていなければならないのです」
いつか必ず会うことになるであろう、その恐るべき弟君。
孝子は、まだ見ぬ国松の姿を思い浮かべ、少しだけ笑った。
「……恐ろしい方ですね、国松殿は」
「姫様、恐ろしい所に嫁がれるのですね……」
女房が、震えながら言う。
孝子は穏やかに答えた。
「よいのです。恐ろしいというのは、悪いという意味ではありません。人の世の形を大きく変えようとする方は、いかに善であっても、恐ろしいのです」
そして、少しだけ遠い目をする。
「竹千代殿も、国松殿も、同じ時代に生まれたこと自体が、何かの大きな天の巡り合わせのように思えます。そして、その激動の時代の橋に、私もまた、置かれるのだということです」
*
夜。
鷹司家の当主であり、孝子の父である信房が、娘の部屋を訪れた。
「……怖いか、孝子」
父は、遠く離れた武家の都へと送り出す娘へ、静かに問うた。
孝子は、目を伏せることなく、真っ直ぐに父を見て答えた。
「怖くないと申せば、嘘になります」
彼女は、強がるために恐怖を否定するような愚かな真似はしない。
恐怖を正確に抱え、理解した上で、その上に立つのが真の強さだ。
「江戸は遠い。武家の家風は、我ら公家の家とは全く違う。まして、相手は徳川の次代を担う嫡子じゃ」
父の顔には、摂家の当主としての顔と、娘を案じる父親としての顔が混ざり合っていた。
「そなたの一挙手一投足。発する言葉の一つ一つが、朝廷と幕府の間の重い言葉となる」
「承知しております」
「そなたは、橋になるのだ」
父の言葉に、孝子は少しだけ沈黙した。
そして、静かに、しかしはっきりと言い直す。
「父上。私は、橋にされるのではございません」
信房が、驚いたように目を上げた。
孝子は、畳に両手をつき、毅然とした声で言った。
「私が、私自身の足で、公武を繋ぐ橋になります」
運命に流されて運ばれる、哀れな駒ではない。
摂家の姫として生まれ、その教育を受けてきた己自身の矜持として。
自ら選び取り、その重い役目を背負うのだ。
信房は、しばらく黙り込んだ。
やがて、深く、安心したような、そして少しだけ寂しそうな息を吐く。
「……ならば、そなたを江戸へ出しても、決して折れることはあるまい。橋は、強くなければならぬ。だが、橋には、雨風に打たれる痛みも必ずある。それを、忘れるなよ」
「はい。肝に銘じます」
*
江戸へ向かうための、莫大な荷物の支度が進む中。
孝子は、己が江戸の奥向きへと持ち込むべき私物を選び出していた。
豪華な着物や、美しい調度品は、家の者たちが山のように用意してくれている。
だが、孝子が何よりも大切に己の手元へ引き寄せたのは、最高級の白い和紙の束と、選び抜かれた幾本もの筆、そして小さな硯であった。
「姫様。そのような地味な紙や筆よりも、もっと華やかな品を、奥へお持ちになりませぬか?」
女房が、心配そうに尋ねる。
孝子は、白い紙の束を愛おしそうに撫でながら答えた。
「華やかなものは、向こうの武家の方で、いくらでも用意されましょう」
「では、何を江戸へお持ちになるのですか?」
「紙と、筆を」
孝子は、凛とした声で言った。
「橋というものは、時に鉄や木ではなく、言葉で架かることもあるのです」
江戸で、ただ美しく座っているだけの妻でいるつもりはない。
竹千代が、外で重い政の帳面を見るというのなら。
自分もまた、奥向きから公家の言葉、朝廷の記憶、儀礼の感覚を駆使して、夫と共に重い政の橋を架けなければならない。
*
その頃。
江戸城。
御異物改方の俺の元へ、京の公家文書御用を通じて、鷹司孝子殿に関する評判の報告が届いていた。
『鷹司の姫君は、深い喪中にあっても、縁組の準備を怯まず、毅然と受け止めておられる由』
『姫は、父君に向かって、私は橋にされるのではなく、自ら橋になります、と仰せられたとか』
『江戸へ持ち込む荷物には、華美な品よりも、多くの紙と筆を選ばれたとのこと』
俺は、その報告書を読みながら、完全に固まっていた。
「……え、待って。この姫君、メンタル強すぎない?」
『強いわよ』
KAMI様が、空中で足を組みながら得意げに言った。
『あんたたち徳川の男だけが、重い覚悟を決めて政をやってると思ったら、大間違いよ。京の姫も、ちゃんと自分の足で、自分の戦場に立っているの』
「戦場、って……」
『婚姻も、政治も、この時代に生まれた身分の高い女にとっては、立派な戦場なのよ。刀を持たないだけで、家と国の間に立ち、全ての重圧を一人で受け止めるんだから』
俺は、鷹司孝子という人物への認識を、完全に改めた。
竹千代兄上の婚約者。
俺が想像していた何倍も、いや何十倍も、精神的に強くて賢い人だ。
『むしろ、それくらいの強さと覚悟がないと、今の異常に仕上がっちゃってる竹千代の隣には、到底立てないわ』
確かに。
俺は、深く頷いた。
今の竹千代兄上は、史実の家光よりもはるかに早く政治の残酷さを見極め、俺という異常なバグ弟を抱え込み、大御所様から直接、帝王学を叩き込まれている。
その隣に立つ妻は、ただ保護されるだけの存在ではなく、それに並ぶだけの強さを持っていなければならないのだ。
この二人が揃えば。
単なる政略結婚の駒ではない。
次代の公武を支える、恐ろしく強い夫婦になるかもしれない。
*
京の、静かな夜。
孝子は、縁側に出て、遠く東の方角、まだ見ぬ江戸の空を見つめていた。
江戸は、遠い。
そこには、まだ顔も声も知らない夫がいる。
水神と呼ばれる恐ろしい弟がいる。
天下を治める大御所と将軍がいる。
米が動き、蔵が建ち、相撲が沸き、朝鮮の使節が訪れ、そして朝廷の喪の波紋が押し寄せている。
その全ての巨大なうねりの中心へ、自分は向かうのだ。
孝子は、袖の内に忍ばせた、小さな白い紙束にそっと触れた。
まだ、何も書かれていない、純白の紙。
これから、自分が己の意思で言葉を書き記し、架けるべき橋のための紙。
鷹司孝子は、ただ運命に流されて江戸へ送られる、哀れな姫ではなかった。
京と江戸の間に、自らの足で歩み出て、自ら強固に架かる橋となることを。
その夜、彼女は静かに、己の意思で選んだのである。
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