暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第112話 水神様、兄上の元服祝いで自分の縁談に怯える

 元和四年、旧正月。

 

 厳しい冬の寒さの中にも、江戸城はどこか春を待ちわびるような、華やいだ祝賀の空気に満ちていた。

 

 大広間から続く廊下には、松飾りが立てられ、新年の挨拶に登城した諸大名たちの色鮮やかな直垂(ひたたれ)(かみしも)が列をなしている。供される祝いの酒、ふっくらと搗かれた餅、湯気を立てる赤飯に小豆粥。

 

 城内は、誰もが声を弾ませ、新しい年の訪れを寿(ことほ)ぐ空気に包まれていた。

 

 思えば、俺がここ数年迎えてきた旧正月というものは、常に何かしらの重苦しい影が付き纏っていた。

 

 全国的な豊作と水害の調整、一国一城令の後の処理、蔵不足と米札の管理、朝廷の造暦権への配慮、あるいは血なまぐさい相撲興行の風紀問題。どれもこれも、一つ間違えれば天下を揺るがす火種ばかりだった。

 

 今年も、もちろん水面下にはいくつもの火種が燻っている。

 

 けれど、今日の表向きの江戸城の空気は、混じり気なく明るかった。

 

 なぜなら、徳川家にとって、そして天下にとって、極めて重大な『お祝い』が控えているからだ。

 

(ローマの老教皇と死なない怪異の面談っていう、寿命と魂をすり減らすような密談を終えた直後に、この底抜けに明るいお祝いムード……。温度差がひどすぎて、変な風邪を引きそうだ)

 

 俺は、大広間の奥で準備が進む様子を眺めながら、密かにため息をついた。

 

『やっほー。めでたいお祝いの席じゃない。よかったわね、今日くらいは血を吐くような帳面地獄じゃなくて』

 

 俺の視界の端に、KAMI様がふわりと現れて軽口を叩いた。

 

(……そうやって、俺を油断させるの、やめてもらえます?)

 

『あら。あなたのこれまでの経験上、徳川のお祝いの席に、爆発寸前の火種が隠されていなかったことなんて、ただの一度でもあったかしら?』

 

(縁起でもないこと言わないでください!)

 

 俺は内心で抗議したが、胃の辺りがきゅっと縮むのを感じずにはいられなかった。

 

 *

 

 大広間の上座。

 

 大御所・家康が泰然と座し、その横に将軍・秀忠、そして次代を担う竹千代兄上、さらに俺が並んで座っていた。

 

 平伏する諸大名たちを前に、秀忠が将軍としての威厳に満ちた声で、天下に向けて正式な発表を行った。

 

「皆も承知の通り、我が長男・竹千代は、これまで大御所様の膝元にて天下の政を直に学び、また国松と共に諸事を見届けてきた。未だ若年ではあるが、今年の中頃をもって、正式に『元服』の儀を執り行うこととする。今後は徳川の嫡流として、さらに重く公儀を支えさせる所存である」

 

 秀忠の言葉には、父親としての確かな喜びと、公儀の頂点に立つ者としてのずっしりとした重みが同居していた。

 

 その宣言が終わるや否や、広間に居並ぶ大名たちから、一斉に祝賀の声が沸き上がった。

 

「竹千代様、誠におめでとう存じまする!」

 

「御元服の儀、我が事のように喜ばしゅうございます」

 

「これで徳川家の御代も、いよいよ盤石にございますな!」

 

 譜代の大名たちは、次代の継承が明確な形となったことに、安堵の表情を隠さない。

 

 外様の大名たちもまた、次代の顔がはっきりと示されたことを歓迎していた。「徳川の継承が揺るがない」ということは、すなわち、彼らが最も恐れる『戦乱の世の再来』が、さらに遠のいたということを意味するからだ。

 

 俺は、隣に座る竹千代兄上の横顔をそっと盗み見た。

 

 兄上は、無数の視線と重圧を浴びて、確かに緊張している。だが、決してそこから逃げようとはしていなかった。以前よりもずっと背筋が真っ直ぐに伸び、為政者としての顔つきになっている。

 

(兄上……本当に、将軍としての立派な『器』になってきたんだな)

 

 俺は、一人の弟として、その成長に静かな感動を覚えていた。

 

 *

 

 祝賀のざわめきが少し落ち着いたところで、秀忠が再び口を開いた。

 

「さらに。……この元服の儀にあわせ、朝廷ならびに摂家との深い協議により。五摂家の一つたる鷹司(たかつかさ)家の姫君、孝子(たかこ)殿と、竹千代との『縁約』を正式に進めることと相成った」

 

 広間の空気が、もう一段階、熱を帯びた。

 

「婚礼の儀そのものはまだ先となるが。準備を整え次第、孝子殿には江戸へ御下向いただき、徳川家の奥向きにて暮らしていただくこととなる」

 

 その言葉に、大名たちからさらなる感嘆の声が漏れた。

 

「公家の最高峰より御縁を迎えられるとは、誠にめでたきこと!」

 

「これで、禁裏と公儀の結びつきは、さらに堅きものとなりましょう」

 

「竹千代様の御将来に、これ以上相応しき御縁はございませぬな」

 

 特に譜代の重臣たちの喜びはひとしおだった。公家、しかも摂家との婚姻によって、竹千代の将軍としての正統性は、もはや誰にも覆せないほど強固なものとなるからだ。

 

 外様大名たちも、公武が協調して世を治めるという姿勢に、深く頭を下げている。

 

 だが、俺は知っている。彼らの胸の内には、ただの祝いだけでなく、冷徹な政治的計算も渦巻いていることを。

 

(これで竹千代様の立場は、完全に不可侵のものとなる。……ならば、その強大すぎる弟であり、水神様とも呼ばれる国松様の『扱い』は、今後どうなるのだ?)と。

 

 とはいえ、今はあくまで祝いの席だ。

 

 俺は、遠い京の都にいる、一人の少女の顔を思い浮かべていた。

 

 先日、朝廷が喪に服す重苦しい空気の中で、「橋にされるのではなく、私自身の足で橋になります」と覚悟を決めた、あの誇り高き鷹司家の姫君。

 

(兄上と孝子殿の間に結ばれるのは、きっと、歌物語にあるような甘く派手な恋物語ではないのだろう)

 

(けれど。公武を繋ぐ橋として、互いに背負うものの重さを理解し合える……強い信頼で結ばれた、最高の夫婦になれるはずだ)

 

 *

 

 その頃。

 

 遠く離れた京の都、鷹司家の屋敷。

 

 江戸からの正式な知らせは、厳粛な手続きを経て、すでに彼らの元にも届けられていた。

 

 先帝の崩御による喪の気配がまだ残る中ではあったが、鷹司家の奥向きは、確かな祝いの空気に包まれていた。

 

「姫様。いよいよ、江戸へ御下向なされるのですね」

 

「徳川の若君様の御元服と並び立つ、誠にめでたき御縁にございます」

 

 女房たちが、華やいだ声で口々に祝辞を述べる。

 

 孝子は、その言葉を、静かに、だが凛とした態度で受け止めていた。

 

 彼女はすでに、自分の役目への覚悟を完全に定めている。だからこそ、今さら未知の東国へ行く恐怖に震えるような真似はしなかった。

 

「……橋というものは。ただ『架ける』と決めただけでは、真の橋にはなりません」

 

 孝子は、静かに言った。

 

「人が渡り、時代が行き交うその『場所』に。……己の足で立たねばならないのです」

 

 父である鷹司信房が、娘の顔を静かに見つめた。

 

「……怖くは、ないか」

 

「怖くないと申せば、嘘になります。……けれど、父上。これは、怖さに負けて私が退いてよいような、軽い縁ではございません」

 

 孝子は、江戸へ向けて持ち込む荷物の支度を見やった。

 

 美しい装束や調度品に混じって、彼女が自ら選んだ質の良い筆、重厚な硯、そして真っ白な和紙の束が収められた文箱がある。

 

 女房たちが、荷を縛るための祝いの色の紐をどれにするかと、楽しげに話し合っている。

 

 孝子は、その様子を見つめながら、微かに、しかし力強く微笑んだのだった。

 

 *

 

 江戸城の祝賀の宴は、華やかに続いていた。

 

 諸大名や幕府の重臣たち、公家からの使者、そして寺社関係者に至るまで、次々と竹千代の元へ進み出ては祝いの言葉を述べていく。

 

 竹千代は、その一つ一つに対して、驕ることなく、威厳を保ったまま丁寧に応えていた。

 

 俺は、少しだけ場が落ち着いた隙を狙って、兄の隣に座り、小声で茶化した。

 

「兄上。なんだか、ずいぶんこういう場に慣れてこられましたね」

 

 竹千代は、前を向いたまま、口元だけを微かに動かして答えた。

 

「……慣れてなどおらぬ。内心では、今すぐにでもここから逃げ出したい気分だ」

 

「全然、そんな顔には出ていませんよ」

 

「出してはならぬ顔を、決して表に出さぬというのも……将軍家に生まれた者の、逃れられぬ務めであろう」

 

 その言葉に、俺は少しだけ黙り込んだ。

 

(兄上、本当に強くなったな……)

 

 竹千代は、俺の沈黙を照れ隠しと取ったのか、少しだけ意地悪く言った。

 

「それに、国松。お前とて、すぐに私と同じような場に立たされることになるのだぞ」

 

「やめてください。今日はあくまで、兄上のためのお祝いの日ですから」

 

「そうだな」

 

 竹千代は、ふっと表情を和らげた。

 

「今日は、私の祝いだ。存分に祝ってもらうとしよう」

 

 *

 

 だが。

 

 俺のそのささやかな願いは、宴が進むにつれて脆くも崩れ去っていった。

 

 祝い酒が振る舞われ、大名たちの緊張が解けてくると。

 

 なぜか、複数の人間たちの視線が、不自然なほどチラチラと俺の方へ向けられ始めたのだ。

 

「……竹千代様がいよいよ御元服となれば。次なる慶事は、当然、国松様でございましょうな」

 

「左様。水神様とも呼ばれるあの方にも、そろそろ良き御縁が必要でございましょう」

 

「御異物改方という公儀の要を支え、数多の奇跡を起こされる国松様の奥方とは……一体、いかなる御方になられるのやら」

 

 ひそひそとした噂話が、俺の耳にも届くほどの音量で広がり始めている。

 

「しかし、国松様の御威光を考えれば。並の大名家の姫では、いささか器が小さすぎはしませぬか?」

 

「ならば、公家の姫君はどうか?」

 

「いやいや。竹千代様が鷹司家と結ばれるのに、国松様まで公家から娶られては、朝廷との繋がりが濃くなりすぎる。それは公儀としても避けたいところであろう」

 

「……ならば、やはり寺社の筋か?」

 

「おお。水神様であられるのだから、神仏に近き御縁こそが、最もよろしかろう!」

 

(……いやいやいや!)

 

 俺は、顔を引きつらせながら盃を持ったまま固まった。

 

(誰も、俺本人の許可なんて一言も取ってないのに! なんで勝手に、俺の嫁候補の分類と絞り込みが始まってるんですか!?)

 

『ふふっ。大人気じゃないの』

 

(人気の方向性が完全に間違ってます! これ、絶対に変な火種になるやつだ!)

 

 *

 

 祝賀の宴が終わった後。

 

 家康、秀忠、竹千代、俺、正純、土井利勝、そして天海と崇伝という、いつもの胃が痛くなる内輪の顔ぶれだけが、密室の小評定の間に残された。

 

 家康は、上機嫌で茶をすすりながら言った。

 

「うむ。竹千代の元服と縁約は、まずはめでたく、天下に隙を見せることなく整ったな」

 

「はい。これで、我ら徳川の次代の形は、誰の目にもかなり明らかなものとなりました」

 

 秀忠も、ほっとしたように頷く。

 

 よし。

 

 これで今日のお仕事は終わりだ。

 

 帰って寝よう。

 

 俺がそう思って腰を浮かせかけた、その瞬間だった。

 

「うむ。……では、次は。国松の縁談も、早急にまとめなければならぬな」

 

 俺は、腰を浮かせた中途半端な姿勢のまま、完全にフリーズした。

 

「……なぜ、急にそうなるんですか」

 

「当たり前であろう」

 

 家康は、悪びれもせずに言った。

 

「竹千代の身の回りが固まれば。次に片付けるべき天下の懸案は、お前じゃろうが」

 

「いや、まだ早いですよ……!」

 

「早くはない」

 

 家康の目が、すっと細められた。

 

「お前の今の立場は。……もう、ただの将軍家の次男坊などという軽いものでは済まぬのだ」

 

 *

 

「大御所様の仰る通りです。国松様の御縁は、公儀の根幹に関わる問題として、極めて慎重に扱う必要がございます」

 

 正純が、冷徹な実務家の顔で割って入った。

 

「慎重に扱う必要があるなら、お願いですから、今は扱わないでそのまま封印しておいてください!」

 

 俺の悲痛な叫びは、当然のように無視された。

 

「まず、武家の大名家の姫を迎える案ですが」

 

 土井利勝が、冷静に分析を始める。

 

「その場合、選ばれた家が国松様の外戚に近い扱いとなり、絶大な権力を持つことになります」

 

「それは危ういな」

 

 秀忠が渋面を作った。

 

「はい。国松様は現在、御異物改方を預かり、諸国の米蔵、城郭、港、南蛮の奇物、そして神仏の事象まで深く関わっておられます。……特定の大名家と強く結びつけば、国松様の名を不当に担ぎ上げようとする危険な徒党が出かねませぬ」

 

「……誰も、私を担ぎ上げないでください。神輿にするには重すぎますよ」

 

「お前はそうやって軽く言うがな、国松」

 

 竹千代が、真剣な顔で俺を見た。

 

「お前が背負っている力は、本当に、天下を揺るがすほど重いのだ」

 

「では、公家筋はいかがか」

 

 崇伝が提案するが、それも即座に否定された。

 

「竹千代が、すでに鷹司家と結ぶのだ」

 

 秀忠が首を振る。

 

「国松までが公家と結べば、徳川と朝廷の間の結びつきが複雑になりすぎる。竹千代の縁が公武の橋である以上、国松まで同じ橋を架ければ……橋が多すぎて、逆に重みで軋むことになろう」

 

「橋も、架けすぎると保守対象になるんですね……」

 

『当たり前でしょ。無駄な橋は、いつか必ず落ちるわよ』

 

 ただの比喩じゃなくて、物理的なインフラの話になってきたな。

 

 ちなみに、誰かがうっかり「では、豊臣家や西国の大名との……」と言いかけた瞬間、座敷の全員が氷のように冷たい沈黙に陥った。

 

「……それ以上は、絶対に言わない方がいいと思います」

 

 俺が真顔で言うと、家康も深く頷いた。

 

「うむ。……そこは、触れれば吹き飛ぶ火薬庫じゃ」

 

 千姫様は秀頼公の妻だ。

 

 豊臣家と俺を結びつけるような政治的狂気は、一瞬で却下された。

 

 *

 

「……やはり。国松様の場合、武家や公家の大きすぎる家よりも……寺社に縁のある家筋から迎えられるのが、最もよろしいのではございませぬか」

 

 天海が、静かに、しかし確信を持って言った。

 

「なるほど。水神様と呼ばれる国松様であれば……生臭い俗世よりも、神仏に近き御縁の方が、民の納得も得やすいかと」

 

 他の重臣たちも、それに賛同し始める。

 

 家康が、ポンと膝を打った。

 

「仏閣の娘か! ……うむ。儂も、それが一番良いと思うぞ!」

 

「ちょっと待ってください、大御所様!」

 

 俺はたまらず声を荒げた。

 

「仏閣の娘って、なんですか!? 寺や神社という建造物が、人間の娘を産み落とすわけじゃないですよね!?」

 

「ええい、細かいことを気にするな。寺社や門跡に連なる、社家の娘という意味じゃ」

 

「言い方が雑すぎますよ!」

 

 正純が、大真面目な顔でその案の利点を整理し始めた。

 

「……確かに。寺社筋や社家に縁のある家であれば、大名家のように軍事的な派閥を作る危険は少ない。また、公家のように朝廷の政治争いに直結しすぎることも避けられます」

 

「ですが」

 

 崇伝が、鋭い視線を俺に向けた。

 

「それは同時に。……国松様を、人の世からさらに遠ざけ、完全な神仏の類として神格化しすぎる危険も孕んでおりますぞ」

 

 その言葉に、竹千代が強く反応した。

 

「……国松は。民から水神様と呼ばれていようと、ただの人だ」

 

 竹千代の言葉には、次代の将軍としての威厳と、弟を思う確かな情があった。

 

「国松の縁談も。……彼が、一人の人として、穏やかに暮らせる形でなければならぬ」

 

 家康も、深く頷いた。

 

「そこじゃな。国松の嫁は、ただ水神様を祀り上げる巫女であっては困る。……国松を、一人の人間として、地に足をつけて支えられる者でなければならぬ」

 

 俺は、二人の不器用な優しさに、少しだけ胸が熱くなり……思わず照れ隠しに言った。

 

「……いや。ですから、私にはまだ、縁談なんて早すぎますって……!」

 

 *

 

「私はまだ、御異物改方の仕事だけで、毎日手一杯なんですよ!」

 

 俺は全力で逃げを打った。

 

「だからこそ、今のうちに奥の家を固める必要がございます」

 

 正純が冷たく返す。

 

「私の仕事が増えるたびに、結婚の圧力まで増える仕組みなんて、絶対に納得できません!」

 

「国松。お前はもう、ただの子供ではないのだぞ」

 

 秀忠が咎める。

 

「父上まで、そんなこと言うんですか!」

 

「お前がただの子供ではないからこそ、皆がこうして気にかけているのじゃ」

 

 家康が笑う。

 

「私にはまだ、心の準備というものが……!」

 

「縁談というものはな。当人の心の準備ができるずっと前から、周囲が勝手に動かして始まるものじゃ」

 

「それ、為政者として一番恐ろしい言葉ですよ!」

 

『諦めなさい。人間の人生イベントに、都合のいい事前メンテナンス期間なんて用意されてないのよ』

 

「せめて、相手の仕様書くらいは事前に読ませてくださいよ!」

 

『恋愛相手の仕様書?』

 

「……やめてください。自分で言ってて、ちょっと嫌な気持ちになりました」

 

 *

 

 騒がしい評定の後。

 

 少しだけ静かになった廊下で、俺は竹千代兄上と二人きりになった。

 

「……国松。今日まで、私をよく支えてくれたな。礼を言う」

 

 竹千代が、ふと、柔らかな声で言った。

 

「急に何ですか、兄上。らしくないですよ」

 

「私は、まだ元服すら終えていない身だ。だが……この年齢になるまでに見たものは、普通の若君が見るような綺麗な景色ばかりではなかった」

 

 竹千代は、遠くを見るような目をした。

 

「米の枯渇、巨大な蔵の管理、城郭の修補の裏側、相撲を通じた大名操作。朝鮮使節の抱える深い恨み、ローマ法王との水鏡、不可思議な奇物、そして朝廷の喪と政治の狭間……」

 

「お前が隣にいなければ。……私はきっと、何も分からぬまま、ただ言われるがままにあの重い座に座らされていたことだろう」

 

「そんなことはありません」

 

 俺は、真っ直ぐに答えた。

 

「兄上は、ちゃんとご自分の目で見て、ご自分の頭で考えて、決断していますよ。私は、少しだけ帳面の計算を手伝っただけです」

 

「……ならば、それも。お前が隣で、その帳面を見せてくれたからだ」

 

 竹千代は、少しだけ笑った。

 

「孝子殿が江戸に来られれば、私はもう、さらに逃げ道はなくなる。……だが、決して逃げぬ」

 

「はい。兄上なら、絶対に大丈夫です」

 

「だから」

 

 竹千代は、俺を見た。

 

「お前も、逃げるなよ」

 

「……それ、私の縁談の話ですか?」

 

「そこからも、だ」

 

「兄上。今日というおめでたい日に、私に対して一番ひどいプレッシャーをかけましたね」

 

 竹千代は、少しだけ真面目な顔に戻った。

 

「……国松の縁談は、政治的に極めて難しい。だがな、私は……お前を、顔の見えない誰かの神棚に置かせるような真似だけはしたくないのだ」

 

「神棚?」

 

「お前が水神様として崇められ、祀り上げられるのではなく。……一人の人間として、ただ温かい飯を食い、疲れを癒し、つまらぬ文句を言える場所。……お前には、そういう居場所が必要なのだ」

 

 俺は、その言葉に、返す言葉を見つけられなかった。

 

 俺の縁談は、天下の政治の駒だ。

 

 だけど同時に、俺という人間が、この時代で壊れずに生きていくための、たった一つの居場所を作る話でもあるんだな。

 

「……兄上。今日は、兄上のためのお祝いの日のはずですよ」

 

「そうだな。……だから、己の祝いのついでに、こうして弟の心配をしてやっているのだ」

 

「……そのついでが、重すぎるんですよ」

 

 *

 

 その夜。

 

 奥向きの女中たちの間でも、竹千代の元服と鷹司孝子の江戸入りの話題で持ちきりになっていた。

 

「竹千代様も、いよいよ御元服なされるのですねぇ」

 

「しかも、あの格式高き鷹司家の姫様が、この江戸にお越しになるなんて……。一体、どれほどお美しく、立派な御方なのでしょう」

 

 そこから、噂はごく自然な流れで、明後日の方向へと飛躍する。

 

「では。……国松様は、どうなられるのでしょうね?」

 

「水神様と呼ばれる国松様の御方様になる方は……一体、いかなる姫君なのでしょう」

 

「やはり、名のある大きな寺社に連なる御方?」

 

「いやいや。水神様なのですから、いっそ海の底の龍宮の姫君をお迎えになるのでは……」

 

「さすがに、それはお伽話すぎますわよ!」

 

 たまたま廊下を通りかかってしまった俺は、その噂話をがっつり聞いてしまい、思わず口を挟んだ。

 

「……あの。龍宮の姫って何ですか。私は浦島太郎じゃないんですけど」

 

「ひゃああっ!? く、国松様!!」

 

 女中たちは悲鳴を上げて平伏したが……その顔には、隠しきれない祝いの日の笑いが浮かんでいた。俺も、本気で怒る気にはなれなかった。

 

 *

 

「国松の嫁、ねえ」

 

 気がつくと、廊下の柱の影から、お里がひょいと顔を出していた。

 

「……お里さんまで、冷やかしに来たんですか」

 

「水神様の嫁なんて、嫁ぐ相手の娘も死ぬほど大変だと思うよ? 朝起きたら、屋敷の周りの人間が全員、自分の夫に向かって拝んでくるんだろう?」

 

「やめてください、そんなカルト宗教みたいな新婚生活、想像しただけで胃が痛くなります」

 

「だからさ」

 

 お里は、千年の時を生きる怪異とは思えないほど、俗っぽくて、しかし的を射たことを言った。

 

「夫を神様扱いして拝まれて喜ぶような子じゃなくて。……忙しいあんたに、無理やり飯を食わせて、もう遅いから早く寝ろ! って、尻を叩いて怒れるような子がいいねえ」

 

 本当に。

 

 お里さんの言葉は、時々、恐ろしいほど核心を突いてくる。

 

 偶然通りかかった家康と秀忠も、その言葉を聞いて深く頷いていた。

 

「飯を食わせて、寝ろと怒れる娘か……」

 

「それは、政を支える妻として、極めて重要かもしれませぬな」

 

「……だから、そこで妙に真面目に、為政者の顔で検討に入らないでください!」

 

 竹千代も、うんうんと頷いている。

 

「国松には、絶対にそういう強さが必要だ」

 

「兄上まで! もう、本当にやめてください!!」

 

 江戸城の廊下に、明るい笑い声が響いた。

 

 *

 

 夜も更けた。

 

 江戸城には、至る所に祝いの灯りがともり、その明るさは冷たい冬の空を暖かく照らしている。

 

 竹千代の元服と、孝子殿との縁約の発表は。諸大名にも、公家にも、寺社にも、この上なく明るい吉兆として受け止められた。

 

「竹千代様、誠におめでとうございます」

 

 その声が、まだ城のあちこちに心地よい余韻として残っている。

 

 俺は、その祝いの声を遠くに聞きながら、少しだけ広くなったような気がする兄の背中を見つめていた。

 

 兄上はもう、ただの守られるだけの若君ではない。将来の将軍として元服し、公家の姫を迎え、公武を繋ぐ重い橋をその背に負うのだ。

 

 嬉しい。

 

 一人の弟として、本当に嬉しい。

 

 ……だが。

 

 その温かい祝いの拍手の奥底から。

 

 明らかに俺を標的とした、別の拍手とざわめきが、ひたひたと近づいてくるのが聞こえるのだ。

 

「国松様にも、早く良き御縁を」

 

「水神様の御方様は、いかなる御方に」

 

「寺社筋か、公家か、はたまた……」

 

 俺は、両手で顔を覆った。

 

『おめでとう。……次のあんたの大型案件は、国家規模で管理されるあなた自身の人生設計ね』

 

(……頼むから。俺の個人の人生を、公儀の案件にしないでくれ……!)

 

『でも、優れたシステムの保守運用には、管理者の良好な家庭環境の構築も、必須の条件に含まれるわよ?』

 

(……急に、反論できない正論を混ぜてこないでください……!)

 

 兄上の祝いは、誠にめでたかった。

 

 本当に、心からめでたかったのだ。

 

 ……ただ、その盛大なめでたさが、なぜか勝手に春を飛び越えて、俺の縁談という恐ろしい火種にまで容赦なく燃え移ってくるのかだけは……俺は、最後まで全く納得できなかったのである。

 




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セララ・シュトーレンは転生者だ。天使っぽい種族で魔法も使える。▼だけどワープ事故で戦国時代に漂着。▼困ってる人を助けたら神様と勘違いされてしまった。▼人々を助けていたら有名になり、尾張の殿様に呼ばれて……▼信長の友人として過ごす日々が始まった。


総合評価:2130/評価:8.09/連載:64話/更新日時:2026年07月05日(日) 21:20 小説情報

賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

フリーランスのWebデザイナーとして、都心のマンションで静かな日々を送る橘栞(たちばな しおり)。彼女の趣味は、複雑なルールのゲームを解析し、最適解を導き出すこと。そんな彼女の日常は、ある日、目の前に現れた【スキル『賢者の石』を入手しました】というウィンドウによって、静かに終わりを告げる。▼万物を対価(コスト)に変え、新たな能力を獲得できるその力に、栞は恐怖…


総合評価:5448/評価:7.08/連載:280話/更新日時:2026年06月16日(火) 20:30 小説情報


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