暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第113話 水神様、御前試合を実況中継する

 元和四年、旧正月。

 

 竹千代兄上の元服予定と、鷹司孝子殿との縁約が正式に発表された江戸城内は、晴れやかな祝賀の空気に包まれていた。

 

 大広間から続く廊下には、年始の挨拶に訪れた諸大名たちの華やかな衣擦れの音が絶えず、供される祝い酒の香りも漂っている。

 

 だが、その華やかな空気の裏側で、俺は相変わらず胃の痛くなるような噂話から逃げ回っていた。

 

「水神様にも、そろそろ良き御方様が必要でございましょうな」

 

「大名家の姫君か、公家か、はたまた寺社に縁ある方か……」

 

「いや、水神様なのだから、竜宮の姫君など……」

 

 俺は、廊下でそんな声を聞くたびに、聞こえなかったふりをして足早に立ち去った。

 

「……今日は正月行事です。私の縁談の話は絶対にしません。一切聞きません!」

 

 そんな俺の切実な逃避先として用意されたのが、本日、江戸城内で大々的に執り行われる『囲碁と将棋の御前試合』の会場であった。

 

 俺は内心で安堵していた。

 

 今日は遊びだ。

 

 ただの娯楽だ。

 

 去年の冬の相撲興行の時みたいに、大御所様や諸大名のみんなで、楽しく勝負を見物すればいいだけだ。

 

 きっと、いつものような地獄の帳面仕事もそんなに増えないはずだ。

 

 もちろん、そんな甘い考えで終わるはずがなかった。

 

 *

 

「……どうして、こうなった」

 

 俺は、観戦用に広々と用意された大広間の壁際に設えられた、巨大な大盤表示装置を見上げて、疲労困憊で呻いた。

 

 そもそも、この御前試合の準備段階で、俺は一つの極めて基本的な問題にぶち当たったのだ。

 

 囲碁も、将棋も、盤が小さすぎる。

 

 小さな盤を挟んで向かい合う二人の対局者。

 

 その盤面を正確に見下ろせるのは、ごく近くに座る数名だけだ。

 

 大御所様、将軍、竹千代兄上、諸大名、公家、僧侶、棋士関係者。

 

 その全員が同じ空間に集まっても、大半の人間にとっては、遠くで二人が黙って下を向いているだけの、まったく意味不明な光景にしかならない。

 

 見えない勝負を御前でやっても、周囲には何が起きているか全く伝わらないのだ。

 

 誰かが、「では、御前の中央に盤を置き、対局者を皆様のすぐ近くに座らせればよろしいのでは」と提案した。

 

 だが、それは駄目だ。

 

 御前という極度に緊張する場で、周囲の大勢の咳払い、衣擦れ、厳しい視線を浴びながらでは、対局者の集中力が削がれ、最高の勝負などできはしない。

 

 そこで、俺が提案したのがこれだ。

 

「なら、対局そのものは静かな別室で行ってもらいましょう。そしてこちらの大広間には、観戦する皆様のために、盤面だけを大きく写す仕組みを作りましょう」

 

 周囲の者たちは、意味が分からず首を傾げた。

 

「盤面だけを写す? 絵師に描かせるのか?」

 

「一手指すたびに、絵を描き直すというのか?」

 

「違います」

 

 俺は、城郭普請の職人たちを総動員して、徹夜で巨大な木枠を作らせたのだ。

 

 *

 

 完成したその装置は、二つある。

 

 一つは、囲碁用の巨大な格子の木枠。

 

 碁盤の線に当たる部分は、墨で太くはっきりと引かれている。

 

 そして、線の交点ごとに浅いくぼみが作られており、そこへ黒漆と白塗りで仕上げた巨大な丸板をはめ込んでいく。

 

 これなら、遠くからでも白と黒の石の配置が一目で分かる。

 

 ただし、丸板が大きいため、置く側には地味な重労働が強いられる。

 

 もう一つは、将棋用の大きな升目の木枠。

 

 各マスに、『歩・香・桂・銀・金・角・飛・王』と書かれた木札を差し込むための小箱が取り付けられている。

 

 成った駒は札を裏返す。

 

 持ち駒は盤の横に別枠を作り、どちらの持ち駒か分かるように並べる。

 

 俺は、この将棋盤の試作品を作らせている途中で真っ青になった。

 

 将棋、表示装置としては囲碁より遥かに面倒くさいぞ。

 

 囲碁は石を置いていくだけだ。

 

 だが将棋は、駒が動く。

 

 成る。

 

 取る。

 

 取った駒が持ち駒になり、再び盤上へ打たれる。

 

 徹夜の作業中、八百比丘尼が横で茶菓子をかじりながら笑っていた。

 

「人間っていうのは、面倒なことほど夢中になって遊びにしたがる生き物だねえ」

 

 *

 

 御前試合の前夜。

 

 俺、職人、記録役、伝令役の者たちは、観戦部屋でこの巨大盤面の試運転を行っていた。

 

 案の定、問題が次々と噴出する。

 

「国松様! 囲碁の石がくぼみに上手く入りませぬ!」

 

「白石の塗りが反射して、遠目だと見えづらいぞ!」

 

「将棋の駒札が逆さまに差し込まれておる! これでは敵陣か自陣か分からぬ!」

 

「持ち駒の欄から、札が落ちました!」

 

「対局室から観戦部屋までの伝令の通り道で、給仕の者とぶつかりそうです!」

 

 そして、最も致命的な重大問題が発生した。

 

「伝令が『三の四』と叫んでも……これ、どちらの側から数えた数字なのか全く分かりませぬ!」

 

「囲碁で『右上』と申しても、対局室の打ち手から見た右上なのか、こちらの観戦部屋から見た右上なのか、向きが違いすぎます!」

 

 俺は頭を抱えた。

 

 座標が、全く統一されていない。

 

 ただの正月の遊びのはずなのに、なんで俺は、通信プロトコルの座標標準化のバグ取りで徹夜しているんだ。

 

『KAMI:やっほー。おめでとう。盤上記録における、座標系統一問題の発生ね』

 

 KAMI様が、空中で楽しそうに拍手をした。

 

 ちっともおめでたくないです。

 

『KAMI:仕様書もなしに、手動でリアルタイム同期システムをやろうとするからよ。対局室側の座標基準、観戦室側の盤の向き、伝令の読み上げ規則、復唱のルール、そして記録紙のフォーマット。全部、今すぐ厳密に決めなさい』

 

 俺は、しばらく疲労で沈黙した後、記録係たちに向かって大声で指示を飛ばした。

 

「……盤の向きは、全て上座を基準として完全に統一しろ! 対局室と観戦室の盤の向きを絶対に合わせるんだ! 着手は、必ず座標の数字で読み上げろ! 伝令は、対局室を出る前に一度復唱! 観戦部屋の記録係も、書き込む前に必ず復唱! 盤面を更新した後、解説役がもう一度盤面を確認しろ! 少しでも疑義があれば、即座に対局室へ確認を戻せ!」

 

 視察に来ていた秀忠が、その血走った俺の指示を聞いて、半ば呆れたように言った。

 

「……国松。たかが遊びの場に、そこまで厳密な軍法のような決まりが要るのか」

 

「皆で、同じものを見て楽しむためには、絶対に要るんです!」

 

 俺は、血眼で言い返した。

 

 *

 

 そして、御前試合の当日朝。

 

 巨大な木枠盤面は、何とか無事に観戦用の大広間に据え付けられていた。

 

 囲碁用大盤。

 

 将棋用大盤。

 

 その横には、手の意味を語る解説役の座。

 

 対局室から走ってくる伝令の専用通路。

 

 筆を構える記録係の机。

 

 そして、それらを特等席で見下ろせる、大御所様、将軍、竹千代兄上の席。

 

 その周囲には、諸大名、公家、僧侶、文官たちの席がずらりと並んでいる。

 

 俺は、徹夜明けの眠そうな目で、全体を見渡した。

 

 隣には、八百比丘尼が立っている。

 

「……盤面、ヨシ。石、ヨシ。駒札、ヨシ。伝令の経路、ヨシ。記録係、ヨシ。解説役、ヨシ。大御所様の席からの視界、ヨシ」

 

 俺は、一つ一つ指差呼称をして、小さく呟いた。

 

「……とりあえず、間に合った……ヨシ!」

 

 八百比丘尼が、横でにやりと笑った。

 

「そのヨシは、後で絶対に何か問題が出る時のヨシだねえ」

 

「聞こえません。何も聞こえません」

 

 *

 

 家康、秀忠、竹千代が大広間へ入場してきた。

 

 家康は、壁際に設えられた巨大な木枠盤面を見て、目を細めた。

 

「ほう。これは、何じゃ」

 

「実際の対局は、静かな別室で行っていただきます」

 

 俺は、声を張り上げて説明した。

 

「打たれた手を、伝令が走り、こちらに伝え、この大きな盤に全く同じように並べます。これにより、こちらにおられる皆様全員が、遠くからでも盤面の戦いをはっきりと見ることができる仕掛けにございます」

 

 家康は、面白そうに髭を撫でた。

 

「なるほど。離れた別室の勝負が、ここへ居ながらにして全て見えるということか」

 

「はい。……人が必死に走って伝えているだけですが」

 

「それでも、見えることには違いあるまい」

 

 秀忠は、すぐに実務家としての穴を突いてきた。

 

「伝令が、聞き違えて誤った手を伝えたらどうする」

 

「対局室側で読み上げ、伝令が復唱し、こちらの記録係がまた復唱します。記録の帳面も、双方の部屋に置きます」

 

「……また帳面か」

 

「試合であっても、記録の帳面は絶対に要るのです」

 

 竹千代は、その巨大な大盤をじっと見つめていた。

 

「……これならば、打つ者だけでなく、周囲で見ている者たちも皆、全く同じ勝負の流れを追えるのだな」

 

 兄上は、ただの珍しい道具としてではなく、ちゃんと情報を共有する仕組みとして見ている。

 

 俺は、その頼もしい視線に少しだけ胸を撫で下ろした。

 

 *

 

 まずは、囲碁の御前試合が開始された。

 

 実際の対局は別室。

 

 観戦部屋では、巨大な碁盤が空の状態で置かれている。

 

 その横に、本因坊筋の碁打ちが解説役として座った。

 

 タッタッタッ、と伝令が対局室から走ってくる。

 

「黒! 右上、小目!」

 

 俺は一瞬固まり、確認した。

 

「右上とは、対局室の上座基準で右上だな?」

 

「は、はい! 上座基準、右上、小目にございます!」

 

 伝令が慌てて復唱し、俺は巨大な黒石の丸板を持ち上げ、盤のくぼみにはめ込んだ。

 

「坊や、そこじゃないよ。一つ下だよ」

 

 八百比丘尼が横から小声で突っ込む。

 

「分かってます! 今、最終確認してるだけです!」

 

 観戦席から、少しだけ笑いが起きた。

 

 次に白の手が伝えられ、白石が置かれる。

 

 最初は、武士たちの反応は薄かった。

 

 ただ石が一つ、二つと置かれただけでは、何がどう面白いのか全く分からないからだ。

 

「……なぜ、いきなり中央で激しく斬り合わぬのだ?」

 

 武士の一人が、小声で不満をもらした。

 

 すると、解説役の碁打ちが、穏やかで通る声で答えた。

 

「碁というものは、最初から石を取り合うものではございませぬ。まずは地を定め、己の陣の厚みを作り、その後に起こる戦いのための場所を選んでいくものにございます」

 

 武士たちが、少しざわついた。

 

「……戦う場所を、選ぶ、か」

 

 この時点で、武士たちは、ただの白黒の石の遊びを、自らの血肉に染み付いた戦の軍略に引き寄せて理解し始めていた。

 

 *

 

 数手進む。

 

 黒が、一見すると無防備で弱そうな場所に石を打った。

 

「……そこは、すぐに白に攻め込まれぬか?」

 

 武士の一人が身を乗り出す。

 

「今すぐには、弱く見えまする」

 

 解説役が、盤面を指し示した。

 

「されど、右辺に白の陣が寄れば、先ほどの左の黒が、後から厚くなります。ここは、後の戦いのために、あえて相手を誘い込む手にございます」

 

 武士たちは首を傾げた。

 

 だが、さらに十手ほど進んだ時。

 

 白が黒を攻めようと踏み込んだ瞬間、先ほど弱そうに打たれた黒石が完璧な位置で働き、白の進路を塞いだのだ。

 

「おおっ!」

 

 武士たちが息を呑む。

 

「なるほど……! 先にあえて退いて見せた手が、ここでの攻めに利いてくるのか!」

 

「目先ですぐに取らぬのは、後でさらに大きく囲んで取るためか……!」

 

「一所の局地戦だけ勝っても、盤面全体を失えば、結局は負けるのだな……!」

 

 家康が、その武士たちの熱狂を静かに見渡して、楽しそうに笑った。

 

「……盤上の戦も、国の政も。似たようなものよ」

 

 俺は、その言葉を聞いてハッとした。

 

 この御前試合は、ただの正月の遊びではない。

 

 血を流さない盤上の勝負が、武家にとっての高度な戦略の学びの場になり始めている。

 

 *

 

 だが、囲碁が進むにつれ、俺と八百比丘尼の仕事量は限界に達していた。

 

 伝令が走る。

 

 俺が重い石の丸板を持ち上げる。

 

 八百比丘尼が位置を確認する。

 

 記録係が筆を走らせる。

 

 解説役が手の意味を語る。

 

 観客が熱狂してざわつく。

 

 これ、完全に手動のリアルタイム実況中継じゃないか。

 

 八百比丘尼は、面白そうにけらけらと笑っている。

 

「昔はねえ、こういう勝負っていうのは、すぐ近くに座れる一握りの人間しか楽しめなかったんだよ。けど、こうやって大きな盤と声があれば、遠くの者もみんな一緒に分かった気になれる。人間は、また妙な仕組みを作るねえ」

 

「分かった気ではなく、分かるようにしてるんです!」

 

「そういう屁理屈をこねるところが、坊やらしいねえ」

 

『KAMI:江戸城内・手動実況同期システム、絶賛稼働中ね。現在の遅延は、伝令一名の脚力ぶん。障害発生時は、復唱と再照会でリカバリ可能よ』

 

 だから、遊びの説明にシステム障害の用語を使わないでください。

 

『KAMI:でも、実際の運用障害は、必ず起きるわよ』

 

 その直後、伝令が対局室から血相を変えて戻ってきた。

 

「黒! 上辺、十六の三!」

 

 俺は眉をひそめた。

 

「……十六の三? さっき上座基準で統一したのに、そこは上辺ではなく右辺の座標になるはずですが」

 

 伝令が青ざめ、解説役も盤面を見て首を傾げる。

 

 すぐさま、確認のために伝令を対局室へ走らせて戻した。

 

 しばらくして、伝令が息を切らして戻ってくる。

 

「も、申し訳ございません! 黒、右辺、十六の三にございます!」

 

 秀忠が、冷たい目で俺を見た。

 

 俺は、小さく安堵の息を吐いて言った。

 

「……復唱規則と、記録の照合作業を作っておいてよかったです」

 

「遊びであっても、帳面と復唱は絶対に要る、ということか」

 

 秀忠が渋面で頷いた。

 

 *

 

 囲碁の対局中、俺は記録係の手元の紙を覗き込んだ。

 

 そこには、着手の順番が一手ずつ座標とともに書き込まれていた。

 

 黒一、白二、黒三、白四……。

 

「これ。……後から、全く同じ手順を盤の上に並べ直すことができますよね」

 

 俺が言うと、記録係が不思議そうに頷いた。

 

「そのように書いておりますゆえ、できるかと」

 

「なら、勝負が終わった後で、あの手が良かったとか、ここで形勢が変わったということを、皆で並べ直して検討できますね」

 

 その言葉に、解説役の碁打ちがハッと顔を上げた。

 

 棋士にとって、これまで口伝や記憶でしか残せなかった勝負の軌跡が、正確な記録、つまり棋譜として保存され、研究の対象になる。

 

 その意味は計り知れない。

 

「……御前試合の正式な記録として残しましょう。後の者たちが、いつでもそこから学べるように」

 

 俺が宣言すると、周囲の武士たちがざわついた。

 

 勝負を、その場の一時の勝敗だけで終わらせず、後世の教材にする。

 

 それは、戦で言えば軍記や合戦図に近いが、それよりも遥かに緻密で正確な手順の記録である。

 

 竹千代が、大盤を見つめながら静かに言った。

 

「……勝負を記録として残せば、負けた者のその手も、無駄にはならず、後の者の役に立つのだな」

 

「はい。負けも正確に記録すれば、それは次の時代の知になります」

 

 家康が、そのやり取りを聞いて満足げに目を細めた。

 

 *

 

 囲碁の御前試合が終局した。

 

 武士たちは、最後まで食い入るように盤面を見つめ、これがただ石を置くだけの遊びではないと完全に理解していた。

 

「序盤のあの一見無駄な手が、最後の最後まで利いていたのか……!」

 

「下手な刀の斬り合いより、よほど恐ろしいな」

 

「負けているように見えて、実は完璧な形を作っておったのか」

 

 続いて、将棋の御前試合が開始された。

 

 将棋は、囲碁よりもさらに武士たちの食いつきが早かった。

 

 歩を進め、王を守り、飛車角で敵陣に攻め込み、敵の駒を取って自軍の兵として再投入する。

 

 戦の比喩として、これほど分かりやすいものはない。

 

「これは戦そのものだな!」

 

「飛車角が、あの大筒のようなものか!」

 

「桂馬の跳びは、実に厄介じゃ!」

 

 解説役が、駒の動きと狙いを丁寧に説明していく。

 

 駒ごとに役割が違い、弱い歩兵にも絶対的な意味がある。

 

 捨て駒がある。

 

 守りを固める。

 

 攻めを急ぎすぎると、自陣の王が薄くなる。

 

 だが、中盤に入り、駒が取られて持ち駒になり始めると、大盤の表示装置が完全に混乱を来し始めた。

 

「成銀の札は、取ったら元の銀の札に戻して裏返して! そのまま成銀の札のまま持ち駒欄に入れないで!」

 

「持ち駒は、先手と後手、どっちの欄か絶対に間違えないように!」

 

 俺と記録係が、悲鳴を上げながら札を差し替える。

 

「人間の遊びなのに、死人が寝返ってまた生き返ってくるみたいだねえ」

 

 八百比丘尼がけらけら笑いながら札を拾う。

 

「将棋の素晴らしい持ち駒制度を、そういうゾンビみたいな言い方しないでください!」

 

『KAMI:駒状態管理、完全にパンクしてるわね。盤上の位置、所有者、成り状態、持ち駒状態。データ構造としては、囲碁より遥かに面倒よ』

 

「本当に面倒です!」

 

 秀忠が、またしても冷たい目で俺を見た。

 

「……これも記録を誤れば、後で勝敗に異議が出るな」

 

「はい。将棋の方は特に、記録係を倍に増やした方が良いです」

 

 俺が白旗を上げると、土井利勝が即座に控えた。

 

「次回より、将棋方には専属の記録役を二名配置いたしましょう」

 

 次回が、もう完全に前提になっている。

 

 *

 

 将棋の中盤。

 

 先手があえて、重要な局面で歩を捨てた。

 

「なぜ、あんな無駄な所に歩を捨てるのだ?」

 

 武士の一人が怪訝な声を上げる。

 

「無駄ではございませぬ」

 

 解説役が即答した。

 

「あの歩を捨てることで、相手の陣の形を強引に乱し、後の飛車の道を大きく開くための捨て石にございます」

 

 数手後。

 

 本当に、その空いた空間を縫って飛車が躍動した。

 

「おおっ……!」

 

 武士たちが低く唸る。

 

「捨てた歩が、大軍の道を作ったのか」

 

「小者をあえて捨てて、大物を通す。……いや、これは恐ろしいな」

 

「……生きた兵を捨てるのとは違う。盤上の駒だからこそ、冷静に見える戦略だ」

 

 竹千代が、その言葉に強く反応した。

 

「……盤上ならば、兵を捨てる意味と恐ろしさを学べる。だが、実の戦場で、生きた人間を同じように単なる駒として扱ってはならぬ」

 

 俺は、兄のその横顔を見て、深く安心した。

 

 将棋を戦の教材として見るだけでなく、人命の重さと、盤上の駒の違いを、為政者として理解している。

 

 家康も、その言葉を聞き、心底満足そうに頷いていた。

 

 *

 

 将棋の終盤。

 

 王が追い詰められ、武士たちは固唾を呑んで見守った。

 

「逃げ道はないのか!」

 

「まだ金がある!」

 

「いや、そこへ打たれては……!」

 

 解説役が、一手ずつ詰みの手順を説明する。

 

 そして、最後。

 

 対局室の棋士が、深く頭を下げた。

 

 伝令が走り、解説役が静かに告げる。

 

「……ここにて、後手の勝ちにございます」

 

 観戦部屋から、深いため息と感嘆の声が漏れた。

 

 しかし、勝者も敗者も、最後まで礼を崩すことはなかった。

 

 勝負は極限まで熱い。

 

 だが、刀は決して抜かれない。

 

 負けた者も、それを恥辱として腹を切るのではなく、盤上の学びとして静かに受け止めている。

 

「……勝って驕らず、負けて乱れず。よい勝負じゃ」

 

 家康が、深く頷いた。

 

 俺は、戦国という血なまぐさい勝負の熱が、こうして少しずつ、別の安全な形へと移り変わっていくのを確かに感じていた。

 

 *

 

 御前試合が終わった後。

 

 家康、秀忠、竹千代、俺、正純、土井、天海、崇伝らが残り、軽く言葉を交わしていた。

 

「相撲の肉弾戦もよいが、碁将棋の知の戦いも良いな。刀を抜かずに、武士たちをこれほどまでに熱くさせるとは」

 

 家康は上機嫌だ。

 

「ただし、熱くなりすぎれば、必ず賭けに走る者が出ます」

 

 秀忠が現実的な釘を刺し、崇伝も同意する。

 

「寺社や町方に広がれば、勝負事として必ず銭が絡む恐れがございます」

 

「やっぱり、賭博対策が要りますよね……」

 

 俺が肩を落とすと、正純が淡々とリストアップを始めた。

 

「御前試合の名を使った裏の賭け、勝手な順位の番付、偽の棋譜の販売、そして御用棋士を名乗る詐欺師なども、必ず出ましょう」

 

「娯楽が増えると、必ず詐欺も増える……」

 

 俺は顔を覆った。

 

『KAMI:正常な普及フェーズね』

 

「正常って言わないでください」

 

 この場で、すぐに巨大な法を作るわけではない。

 

 だが、いくつかの重要な方向性が決まった。

 

 御前試合の記録、つまり棋譜を残し、後の学びに使うこと。

 

 御前試合では、打つ者とは別に解説役を正式に置くこと。

 

 大盤表示装置は壊さず、江戸城内に保管すること。

 

 御前試合の勝敗を使った賭博は厳禁とすること。

 

 竹千代の学びの一つとして、囲碁・将棋の解説付き観戦を取り入れること。

 

「……正月の、ちょっとした遊びだったはずなのに」

 

 俺は、激増した仕事の帳面のリストを見て、小さく呟いた。

 

「遊びを長続きさせるにも、面倒な手入れがいるんだよ」

 

 八百比丘尼が横で笑う。

 

 俺は反論できなかった。

 

『KAMI:娯楽インフラの運用も、立派な保守対象よ。あなたの仕事がまた増えたわね』

 

「言わないでください」

 

 *

 

 帰り際。

 

 竹千代が、俺に声をかけてきた。

 

「……国松。盤上の勝負は、刀を抜かぬのに、人の心をあそこまで熱くするのだな」

 

「はい。だからこそ危うくもあります。熱くなりすぎれば、賭けにも、争いにもなりますから」

 

「だが」

 

 竹千代は、俺の目を見た。

 

「礼と記録があれば。……負けも、次の者への学びにできる」

 

 俺は、少し驚いて兄の顔を見た。

 

「……兄上。その通りです」

 

「政も、同じか」

 

 竹千代は、静かに言った。

 

「勝ち負けという結果だけを見れば、人は必ず恨む。だが、なぜそうなったのかという過程を記録として残せば、次の者が誤らずに済む」

 

 俺は、竹千代が確実に次代の将軍として成長していることを感じていた。

 

 嬉しい。

 

 本当に、心強い。

 

 同時に、少しだけ寂しい気もした。

 

 兄上は、もうただ俺に守られるだけの、小さな若君ではないのだ。

 

 *

 

 片付けられていく巨大な盤面を見ながら、八百比丘尼がふと呟いた。

 

「……昔はねえ。勝負っていったら、すぐに血が出たものだよ」

 

 俺は、黙ってその声を聞いた。

 

「でも今日は、みんな顔を真っ赤にして、ただの石と木の駒を見てた。悔しがって、唸って、なるほどって言って、それでも誰も、刀を抜いて斬り合わなかった」

 

「それが泰平の世なら、いいですね」

 

「うん。刀を抜かずに悔しがれるなら、人間は、少しだけ長持ちするねえ」

 

 俺は、巨大な盤を見た。

 

 今日作ったのは、ただの大きな木枠ではない。

 

 勝負を大勢に見せる仕組み。

 

 読みを共有する仕組み。

 

 負けを学びに変える仕組み。

 

 そして、戦国の熱を、泰平の遊びへと安全に逃がすための仕組み。

 

「……でも、次までに、将棋の持ち駒欄の表示システムは改良しないと駄目ですね」

 

 俺が小さく息を吐くと、八百比丘尼が笑った。

 

「結局、心配事はそこかい」

 

 御前試合は、無事に終わった。

 

 江戸城には、刀ではなく、石と駒で熱狂した武士たちの、心地よい余韻が残っている。

 

 泰平とは、何も起きない退屈な世の中のことではない。

 

 人が争わずに、血を流さずに熱くなれる場所を、少しずつ、泥臭く増やしていくことなのかもしれない。

 

 そしてそのためには、盤も、記録も、解説も、座標の統一も、復唱のルールも、全部要るのだ。

 

 俺は、空になった巨大盤面を見上げながら、ぼそりと呟いた。

 

「……泰平の娯楽って。思ったより、運用が重い」

 

『KAMI:やっほー。ようこそ、娯楽インフラ保守の世界へ』

 

 俺は、KAMI様のその声には返事をしなかった。

 

 ただ、次回までに絶対に改良すべき、巨大将棋盤の持ち駒欄のバグ修正案を、自らの手元の帳面に、がりがりと書き込んだのだった。

 




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