暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第114話 水神様、欧州の窓から戦争が落ちる

 元和四年、旧正月明け。

 

 江戸城は、先日執り行われた囲碁と将棋の御前試合の、心地よい余韻にまだ包まれていた。

 

 城内を行き交う武士たちは、顔を合わせれば盤上の熱い勝負の手を語り合っている。

 

「先日の黒のあの一手は、まことに見事であったな」

 

「将棋の、あの捨て歩の恐ろしさよ。……小者を捨てて大軍の道を開く。戦の理そのものよ」

 

「刀を抜かぬ勝負であっても、あれほどまでに人の心を熱くさせるものか」

 

 そんな平和な空気を余所に、俺は御異物改方の自室で、巨大将棋盤の持ち駒欄の改修案を練っていた。

 

「……成った駒を相手が取った時、自動でくるっと裏返って元の駒として表示されるような、からくりの仕組みがあれば楽なんだけど……いや、無理だ。人力でひたすら裏返して運用するしかない」

 

 俺が疲れた顔で愚痴をこぼしていると、視界の端にKAMI様が現れた。

 

『それなら、状態遷移表を細かく作りなさいよ。盤上と持ち駒で、フラグ管理を厳密にね』

 

「正月明けの遊びの盤面改修に、システム開発の専門用語を出さないでください……」

 

 俺がそう言ってげんなりしていると、不意に、部屋の空気を切り裂くように、本多正純が血相を変えて飛び込んできた。

 

「……国松様。急ぎの知らせにございます!」

 

「……え?」

 

 正純の、普段は能面のように動かない顔が、微かに、だがはっきりと強張っている。

 

「……ローマより。水鏡を用いた、緊急の会談要請が入りました」

 

 俺の心臓が、どくんと嫌な音を立てた。

 

 通常の月例連絡ではない。

 

 向こうから、急を告げてきたのだ。

 

 城内に残っていた、御前試合の穏やかな緩の空気が。

 

 一瞬にして、極寒の重さへと引き戻された。

 

 *

 

 江戸城の奥深く、水鏡の間に、家康、秀忠、竹千代、俺、正純、土井、天海、崇伝らが顔を揃えた。

 

 部屋の隅には、気配を消して八百比丘尼の姿もある。

 

 家康が、鋭い視線を俺に向けた。

 

「……欧州か」

 

「……はい。おそらく、以前の会談から警戒していた、あの件かと」

 

 俺の答えに、家康は無言で頷いた。

 

 水鏡の石盤に、清らかな水が張られる。

 

 微かな光が走り、水面が揺れ、遠い異国の映像が浮かび上がった。

 

 だが、そこに映し出されたのは、いつもの落ち着いたローマの部屋ではなかった。

 

 教皇の背後で、高位の聖職者や書記官たちが、血相を変えて慌ただしく動き回っている。

 

 無数の書簡が運び込まれ、枢機卿たちの表情は恐ろしく硬い。

 

 そして何より。

 

 水鏡の前に座る教皇、パウロ五世の顔には、隠しきれない深い疲労と、重い悲痛の色が刻まれていた。

 

 俺は、その荒れ狂う空気を見ただけで、全てを悟ってしまった。

 

 来た。

 

 ついに、来てしまったんだ。

 

 パウロ五世は、挨拶もそこそこに、ひどく沈んだ声で、遠い日本の我々に向けて事態の報告を始めた。

 

 彼は、東洋の我々にも伝わるよう、できるだけ言葉を選び、しかし事態の致命的な深刻さを正確に伝えようとした。

 

「……ボヘミアにて。極めて大きな、騒乱が起きた」

 

 教皇の声が、石室に重く響く。

 

「プラハの城にて。王権側の役人たちが、城の窓より、高く投げ落とされた」

 

 日本側が、一斉にざわついた。

 

「窓より……投げ落としただと?」

 

 家康が、眉を深くひそめる。

 

「これは、単なる一部の民の狼藉などではない」

 

 パウロ五世の目が、暗く沈む。

 

「信仰、王権、神聖ローマ皇帝の権威、そして諸侯の権利。……その全てが、どろどろに絡み合った暴挙だ」

 

「プロテスタントの諸身分は、これを、自らの自由と信仰を守るための正当なる防衛だと見ている」

 

「だが……皇帝側、そして我らカトリック側は、これを、神と帝国に対する許されざる反逆であると見ている」

 

 教皇は、重い息を吐いて、致命的な事実を口にした。

 

「……双方が。己の信じる正義を、微塵も疑っていない」

 

 日本の石室に、重い、重い沈黙が落ちた。

 

 双方が、自分たちの行いを絶対の正義だと信じ込んで、武器を取る。

 

 それほど、人間にとって残酷で、長引き、止められない凄惨な戦はない。

 

 戦国の世を嫌というほど見てきた家康や秀忠には、それが痛いほどに分かっていた。

 

 *

 

 パウロ五世の報告を聞きながら、俺の内心は、絶望の泥沼へと沈み込んでいた。

 

 プラハ窓外投擲事件。

 

 ボヘミア反乱。

 

 ……三十年戦争。

 

 起きた。

 

 やっぱり、起きてしまった。

 

 俺は、両手を膝の上で固く握りしめた。

 

 これだけ、日本で無数の歴史の火種を変え、奇物を管理し、制度を整え、必死に平和を作ろうと足掻いてきたのに。

 

 欧州の、あの巨大な歴史のうねりだけは、一ミリも変わっていなかった。

 

 ……予定通りだ。

 

 俺の頭に浮かんだその言葉は、これ以上なく、最悪で、残酷な言葉だった。

 

 予定通りに、人が死ぬ。

 

 予定通りに、国が焼かれる。

 

 予定通りに、飢えと疫病と、血に飢えた傭兵たちが、欧州の美しい大地を地獄に変える。

 

 歴史が変わらなくてよかったなどと、安堵できるはずがない。

 

 俺は、水鏡の向こうで顔を青ざめさせているパウロ五世を見つめながら、ただ、喉の奥から声が出るのを必死に堪えていた。

 

 パウロ五世は、教皇庁としての見解を語った。

 

 彼は決して、狂った悪意で戦争を望んでいるわけではない。

 

 彼にとっては、信仰の防衛、皇帝の権威、教会の秩序、そして、この反乱を放置した場合の帝国の完全な崩壊。

 

 それが、何よりの問題なのだ。

 

「……教会は。神の信仰と、正しき秩序を守らねばならない」

 

「反逆が、信仰という名で正当化され、帝国の秩序が砕かれるのであれば……我らは、これを放置するわけにはいかぬ」

 

「……ゆえに。我ら教皇庁は、カトリック諸侯と、皇帝側の秩序の回復を、支持する」

 

 言えない。

 

 俺の心が、張り裂けそうに痛んだ。

 

 それは間違いですとは、絶対に言えない。

 

 その強硬な姿勢が、結果的に戦争を泥沼化させます。

 

 この宗教戦争は、やがて王朝同士の血みどろの国際戦争へと変貌します。

 

 そして三十年後、最後の講和会議で、教皇の抗議すらも、各国の君主から完全に無視される時代が来ます。

 

 ……なんて。

 

 言えるわけがない。

 

 パウロ五世は、彼の生きる時代の、最高の責任者として、彼が最も正しいと信じる正義を選んでいるのだ。

 

 それを、安全な極東の島国から、後世の知識を使って、上から目線で断罪する資格など、俺にあるはずがない。

 

 そして、仮に俺がここで全てを叫んだところで、すでに火のついた欧州の諸勢力が、ぴたりと止まるはずがないのだ。

 

 俺は、ただただ、血が出るほど拳を握りしめ、重い沈黙を守るしかなかった。

 

 *

 

 水鏡の石室は、押し潰されそうなほどの沈黙に包まれていた。

 

 旧正月。

 

 御前試合の大広間で、竹千代兄上は言った。

 

 盤上ならば、兵を捨てる意味を学べる。

 

 だが、実の戦場で、生きた人間を単なる駒として扱ってはならぬ。

 

 だが今、水鏡の向こうの欧州で始まろうとしているのは、本物の、血の通った人間が、信仰や王の名の下に捨て駒として動かされ、無数に死んでいく、本当の戦争なのだ。

 

 竹千代は、唇を強く噛み締めていた。

 

 秀忠も、家康も、決して安っぽい慰めの言葉などを口にはしなかった。

 

 家康が、静かに、重い口を開いた。

 

「……聖下は。この戦を、どこまでのものになると、見ておられる」

 

 パウロ五世は、祈るように答えた。

 

「……願わくば。速やかに、秩序を元に戻すための戦であってほしいと」

 

 その言葉が、石室の冷たい空気に沈んだ。

 

 速やかには、終わりません。

 

 ……三十年です。

 

 俺の心の中の叫びは、どこにも届かない。

 

 パウロ五世は、ふと俺の方へ視線を向けた。

 

「……東の、水神の童よ。そなたは、この事態を、どう見る」

 

 この問いは、重い。

 

 俺は、長く、深く沈黙した。

 

 未来を知る者として、戦争の長期化を伝えるべきか。

 

 だが、具体的に言いすぎれば未来を漏らし、現地の当事者の判断を狂わせる。

 

 俺は、未来の固有名詞や結末を完全に伏せ、あくまで一人の為政者としての予測として、言葉を選んだ。

 

「……一度。信仰と、王権と、諸侯の権利が……同じ火の中に投げ込まれれば」

 

「その火は。……最初に火をつけた者の思い通りには、決して燃えませぬ」

 

 パウロ五世が、はっとして息を呑む。

 

「誰か一人の首を取って罰すれば終わるような、小さな火ではないように見えます。……兵を集めれば、兵を食わせるために莫大な金が要ります」

 

「金が動けば、商人が動きます。商人が動けば、武器も、悪意のある噂も、全てが遠くまで動きます。……周りの国々も、それをただ静観しているとは限りませぬ」

 

 それは、予言ではない。

 

 日ノ本が長く経験してきた、血みどろの戦国時代が証明する戦の真理だ。

 

 家康が、俺の言葉に深く頷く。

 

 秀忠も同意する。

 

 戦争が始まれば、兵站、金、商人、周辺国が必ずどろどろに絡み合うのだ。

 

「どうか」

 

 俺は、最後に、深く頭を下げて言った。

 

「戦を始める者だけでなく。……その戦の裏で食う者にも、最大の警戒をなさってください」

 

 パウロ五世は、俺のその傭兵や武器商人、戦争経済への警告を、重く受け止めて深く目を伏せた。

 

「……記しておこう」

 

 *

 

 パウロ五世は、俺の言葉を神の奇跡の予言としては扱わなかった。

 

 前回の会談での八百比丘尼との対話を経て、彼は安易に断じないという姿勢を貫いていた。

 

「……そなたは。未来の予言を告げたのではない。……人間の戦の性を、告げたのだな」

 

「はい。日ノ本も、百年以上続く凄惨な戦をしてまいりました。……戦というものは、必ず、始めた者の手を無残に離れることがございます」

 

 パウロ五世は、深く頷いた。

 

 しかし、彼の方針は、決して変わらなかった。

 

「……それでも。我ら教会が、秩序の崩壊を、ただ黙って見ていることはできぬのだ」

 

 俺は、静かに、深く頭を下げた。

 

「……承知しております」

 

 この承知は、納得でも、同意でもない。

 

 ただ、相手がその立場である以上、そうするしかないという事実を、承知しただけだった。

 

 *

 

 水鏡の向こう、ローマ側の慌ただしさは増すばかりだった。

 

 書簡が次々と教皇の元へ運び込まれる。

 

 ボヘミアからの報告。

 

 ウィーン方面からの情報。

 

 スペイン、帝国内のカトリック勢力、そしてプロテスタント諸侯の不穏な反応。

 

 だが、その情報の全てが、まだ不確かで、断片的だった。

 

 伝令ごとに内容が違い、誰がどこまで本気で戦うつもりなのか、誰も分かっていない。

 

 俺たちは、それを水鏡越しに見つめながら、言葉を失っていた。

 

 江戸城の御前試合では、座標を統一し、伝令を復唱し、盤面を揃えれば、全員が同じように、全体を俯瞰して勝負の行方を見ることができた。

 

 だが、現実の欧州の戦争では、その盤面そのものが、誰にも見えていない。

 

 誰も、戦の全体図を持っていないんだ。

 

 大盤がない戦争。

 

 それが今、欧州で始まってしまったのだ。

 

 *

 

 会談の後半。

 

 秀忠が、極めて現実的な質問を投げかけた。

 

「……この戦は。遠き日ノ本に、直接的な火の粉を及ぼすものであろうか」

 

 ローマ側は、直接の軍事的な侵攻や影響はほぼないと認めた。

 

 日本はあまりにも遠い。

 

 欧州の軍隊が極東の島国まで来るわけがない。

 

 だが、完全に無関係で済むはずがなかった。

 

「こちらで戦は起きない。……だが」

 

 俺は、重い声で言った。

 

「戦で動いた金と人と物は。……必ず、海を越えて日ノ本へやって来ます」

 

 宣教師たちの動きが過激化するかもしれない。

 

 カトリック陣営の莫大な軍事資金の需要が増え、日本の銀を求める商人たちの動きが血走る。

 

 武器商人が暗躍し、傭兵崩れや、怪しい奇物を売りつける詐欺師が海を渡ってくる。

 

 欧州での凄惨な殺し合いが、アジアの交易競争にも、確実に暗い影を落とすのだ。

 

「……ならば。港を見る」

 

 秀忠が、将軍として決断する。

 

「うむ。……港と、銀と、人じゃな」

 

 家康も、重く頷いた。

 

 パウロ五世は、最後に静かに言った。

 

「……遠き日ノ本に。この戦の火が及ばぬことを、心から祈る」

 

「聖下の国々にも。……火が広がりすぎぬことを、祈る」

 

 家康が返す。

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 広がります。

 

 ひどく、絶望的に広がります。

 

 そう知っているからこそ、祈りの言葉すらも、血の味がする。

 

 水鏡の光が、静かに閉じた。

 

 ローマの狂騒の気配が消え、江戸城の石室に、元の静寂が戻ってきた。

 

 だが、その空気は、鉛のように重かった。

 

 *

 

 水鏡が閉じた後。

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 

 やがて、家康が、低い声で俺に問うた。

 

「……国松」

 

「はい」

 

「……お主の知る、後の世の歴史通りか」

 

 俺は、逃げなかった。

 

「……そうですね。……始まって、しまいました」

 

 家康の目が、すっと細くなった。

 

「そうか」

 

 秀忠が、静かに、だが重く息を吐いた。

 

 竹千代は、膝の上で拳を白くなるほど握りしめていた。

 

「教皇庁は、カトリック側の秩序回復を支持し、強硬な姿勢を取ります。……私の知る後の世の流れでは、その選択が、戦を短く終わらせることにはなりません」

 

「……そのことを。なぜ、あの場で言わなんだ」

 

 家康が、試すように問う。

 

「言えません。聖下には、聖下としての責任と立場があります。あの場で、異教の国の私が『あなたは間違っています』と言ったところで、欧州の諸侯も皇帝も傭兵も、絶対に止まりません」

 

「むしろ、日本の奇妙な童が、教皇庁の政に口を出したという、最悪の火種になるだけです」

 

「言えば止まるというものでは、ないか」

 

 秀忠が頷く。

 

「はい。……止められない未来を無責任に告げることは。時に、相手への呪いになります」

 

 家康は、しばらく黙っていたが、やがて力強く言った。

 

「日ノ本が。海を越えて欧州の戦を止めに行くことなど、できぬ」

 

「はい」

 

「ならば。……こちらへ、絶対に火の粉が飛ばぬようにする」

 

「……はい!」

 

「それが。今の日ノ本の、政じゃ」

 

 俺は、深く頷いた。

 

 歴史を変えられなかった無力感はある。

 

 だが、国内の民を守ることはできる。

 

 欧州を救えなくても、日本に、同じ絶望の火を入れないことはできるのだ。

 

「港をただ閉じて塞ぐのではない。……見る目を増やせ」

 

 家康の命に、俺たちは一斉に動いた。

 

 *

 

 実務会議が始まった。

 

 正純、土井、秀忠を中心に、俺が補足しながら、矢継ぎ早に策を固めていく。

 

「既にある外国交易台帳に、欧州戦乱関連の注記欄を追加します!」

 

「船籍、商人の所属、宗派的背景、積荷。……特に、銀の持ち出し量と、武器、火薬、硝石、鉛の取引は、一匁の誤差も許さずに監視してください!」

 

「宣教師の動向も再確認します。ローマと水鏡で繋がっているからこそ、ローマ公認か非公認かの判別を慎重に。……戦争の混乱に乗じて、ローマの名を騙る過激派が出る可能性を警戒します!」

 

「戦争中は、怪しい道具や奇物が、戦に効くと売り込まれてきます。御異物改方と港の役人を連携させ、怪しいものは全て水際で没収、封印します!」

 

 会議の途中。

 

 竹千代が、静かに口を開いた。

 

「国松。……盤上の勝負なら。手順を記録すれば、後から学ぶことができた」

 

「はい」

 

「では。……この欧州の悲惨な戦も。我らは、記録すべきなのだな」

 

 俺は、深く頷いた。

 

「はい、兄上。遠い国の戦であっても。……なぜ始まり、何が長引かせ、何が国を壊すのか。記録し、学ぶべきです」

 

「……止められぬ戦でも。学ぶことはできるのだな」

 

「その通りです」

 

 竹千代は、少しだけ顔を歪めた。

 

「……人を駒にせぬために。……人が、本当に駒のように無残に扱われた戦を、記録するのか」

 

「はい。……そこから、決して目を逸らさないために」

 

 *

 

 会議の後。

 

 俺は少しだけ外の空気を吸いに出た。

 

 いつの間にか、八百比丘尼が横に立っていた。

 

「……分かっていたなら。止められればよかったのに」

 

 俺がぽつりと呟くと、八百比丘尼は答えた。

 

「人間はねえ。……火がつくって分かっていても、そこに薪を積んじゃう時があるんだよ」

 

「どうしてですか」

 

「火をつける者は。だいたい、自分がその火を上手く操れるって、過信してるからねえ」

 

 俺は黙った。

 

「でもね。……火がついた後で、隣の自分の家に水を撒いて延焼を防ぐことはできる。坊やができるのは、そっちだよ」

 

 その言葉で、俺は少しだけ立ち直ることができた。

 

 そうだ。

 

 俺は、日本の水神様だ。

 

 海の向こうの炎は消せなくても、こっちの火の粉は、全部叩き落とせる。

 

『歴史イベント、分岐せず発火。欧州方面で、大規模な連鎖障害が開始されたわ』

 

 部屋に戻った俺に、KAMI様が無慈悲なシステム報告を告げた。

 

「……本当に。変わらないんですね」

 

『あなたが日ノ本で変えたことは、日本を中心に確かに波及しているわ。でも、欧州の宗教、王権、帝国、軍事の何百年もの絡み合いは、今のあなたの手の届く系ではないわ』

 

「分かってます」

 

『遠隔地の巨大火災を消せないなら、自国システムへの延焼防止。……やることは決まっているわね』

 

 俺は、机の前に座り、真新しい帳面を開いた。

 

 昨日まで、江戸の武士たちは石と駒の勝負に熱くなり、平和を謳歌していた。

 

 だが、水鏡の向こうの窓からは、本物の血の流れる戦争が落ちてきたのだ。

 

 盤上の戦なら、記録すれば学びになる。

 

 現実の戦も、記録しなければ、ただの無意味な惨禍で終わってしまう。

 

 だから、記録する。

 

 止められない戦でも、そこから目を逸らさない。

 

 俺は、筆を取り、最初の行に、こう書いた。

 

『欧州宗教戦乱・関連監視控 元和四年』

 

 その筆先が、わずかに震えた。

 

「……三十年戦争、開始」

 

 それは、誰にも聞かせない、俺だけの小さな呟きだった。

 

 KAMI様も、八百比丘尼も、その言葉には一切茶々を入れなかった。

 

 ただ、部屋の隅にある水鏡の水だけが。

 

 遠い異国の血の匂いを感じ取ったかのように、静かに、揺れていた。

 




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