暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
元和四年、六月。
初夏の湿気を帯びた風が、江戸城の白壁を撫でていく。
ローマの老教皇から、血みどろの三十年戦争開始という絶望的な報告を受けた、あの重苦しい水鏡会談から少し時間が経っていた。
あの戦争の情報は、今のところ俺たち幕府中枢のごく一部が抱える最高機密だ。
諸大名や江戸の民草には、まだ知らされていない。
だからこそ、今の江戸城の空気は、混じり気のない明るい喜びに満ち溢れていた。
今日この日。
ついに、竹千代兄上の元服の本儀が執り行われるのだ。
「……元服、か」
俺は、自室で準備を進めながら、少しだけ首を傾げていた。
前世の現代人感覚が抜けない俺には、この時代の名前の変更というシステムの重さが、いまいちぴんと来ない。
「昨日まで竹千代って呼んでたのに。今日から急に、諱である家光って名前が変わる。……でも、諱は神聖なものだから、普段は軽々しくその名前では呼ばない。じゃあ、普段は何て呼ぶんだ? 官職名か、若君様か、大納言様か?」
俺は、頭を抱えた。
「……現代人からすると、ややこしすぎて全く意味が分からん!」
すると、視界の端にKAMI様が現れた。
『やっほー。子供用アカウントから、成人権限を持つ本番環境のメインアカウントへの、大規模な移行処理ね』
兄上の神聖な元服の儀式を、業務システムのアカウント移行みたいに言うな。
『でも、あなたにはその方が分かりやすいでしょ? 竹千代から家光へ、システム上のロールが完全に変更されるのよ。名前変更、権限付与、外部関係者への通知、祝賀イベント、関連部署への周知まで、全部セットの国家事業よ』
確かに、そう言われると完全に理解できる自分が少し嫌だった。
だが、KAMI様の言う通りだ。
名前が変わるということは、ただの記号の変更ではない。
背負う役割が、根底から変わるということなのだ。
兄上はもう、守られるだけの若君ではない。
徳川の次代の中心として、その身一つで天下に立つ日が来たのである。
*
そして、俺は今日のこの儀式において、自分自身に一つの強固なルールを課していた。
俺は今日、絶対に前に出ない。
目立たない。
徹頭徹尾、大人しく控える。
俺の水神としての影響力は、自分で言うのも何だが、少々異常なまでに膨れ上がっている。
もし俺が、今日の兄上の晴れ舞台で変に目立ったり、しゃしゃり出たりすれば、外様の大名や一部の悪意ある者たちが、「やはり水神様が次代の陰の権力者だ」「後継争いの火種になる」と、勝手に邪推して騒ぎ立てるに決まっている。
だから、今日は俺の出番ではない。
俺の役割は、ただの一人の弟として、兄上が大人になる瞬間を、静かに見届けることだけだ。
*
大広間に設けられた儀式の場は、厳粛な空気に満ちていた。
朝廷との関係が改善しているため、京の陰陽寮や公家との日取りの調整も極めてスムーズに進み、完璧な吉日が選ばれている。
まず、理髪役が進み出て、竹千代兄上の髪形を改める。
若君としての可愛らしい前髪や童形が切り落とされ、月代と髷が、凛々しい成人武家の姿へと整えられていく。
髪形が変わるだけで、急に、遠い大人の武士に見えるな。
俺は、少しだけ寂しさを覚えつつも、その見違えるような精悍な姿に胸が熱くなった。
そして、加冠の儀。
この儀式全体の主宰は、当然ながら現将軍であるお父様、秀忠だ。
だが、竹千代の頭に成人の証である烏帽子を直接授ける、烏帽子親格という最も重い役目は、大御所であり、祖父である家康が担っていた。
家康が、ゆっくりと前に進み出る。
その手には、黒く輝く烏帽子があった。
家康の動きが、ほんのわずかに、一瞬だけ止まる。
大御所様。
俺には分かっていた。
家康が今、何を噛み締めているのかを。
本来の歴史の流れであれば、家康は去年の春に、とうにこの世を去っていたはずだった。
だが、今、生きている。
生きて、こうして次代の将軍となる孫の元服を、この手で、この目で見届けているのだ。
家康の顔には、公の場としての老獪で厳格な威厳が張り付いている。
だが、その瞳の奥には、間に合ったという、一人の祖父としての深すぎる喜びと安堵が、確かに揺れていた。
家康の手から、烏帽子が授けられる。
その瞬間、幼き竹千代の時代が完全に終わり、次代の徳川家光が、この世に誕生した。
「……これより。徳川家光と名乗るがよい」
家康の低く重い声が、広間に響き渡る。
「はっ」
竹千代、いや、家光が深く頭を下げた。
声は、緊張で少しだけ硬かった。
だが、その声に、逃げや怯えの響きは一切なかった。
続いて、秀忠が、父として、そして現将軍として、静かに言葉を贈る。
「……家光」
「はい」
「名は、飾りではない。徳川の家を背負い、天下の安寧を支えるための重しである。己一人の才だけで立つと思うな。家臣を用い、民の暮らしを見、法を守り、乱れを鎮めよ」
秀忠の目は、厳しかった。
「……勝つことだけを、覚えるな。負けた者、退いた者、そして……声を上げられぬ者のことも、常に見よ」
それは、先日の盤上の御前試合で、そして凄惨な朝鮮使節との外交の場で学んだ、為政者としての本当の重さを説く言葉だった。
「……承知いたしました」
家光は、深く、深く頭を下げた。
秀忠の顔が、ほんの少しだけ、厳しい将軍の顔から、安堵した父親の顔へと緩んだ。
*
そして、俺も弟として祝意を述べる順番が来た。
俺は、絶対に大げさにしないよう、静かに進み出て、深く礼をした。
「兄上。……御元服、誠におめでとうございます」
広間の空気が、微かに緊張したのが分かった。
諸大名の視線が、俺の背中に一斉に突き刺さる。
水神様と呼ばれる弟が、次代の将軍となった兄に対して、どう振る舞うのか。
俺は、迷わず、はっきりとした声で続けた。
「……これよりも。ただの弟として。……兄上を、全力でお支えいたします」
それだけだ。
短く、しかし絶対に揺るがない、忠誠の言葉。
この一言で、見ている諸大名たちに、俺は絶対に兄を押しのけたり、後継争いの火種になる気はない、ということを、公の場で示した。
家康が、満足げに目を細める。
秀忠も、かすかに頷く。
家光は、俺の目を見て、少しだけ口元を緩め、小さく頷いた。
「……頼りにしている」
俺は、深く礼をして、静かに元の席へと退いた。
*
少し離れた奥向きの控柱の陰で。
竹千代を幼い頃から育て上げてきた乳母の福が、その一部始終を、微動だにせず見守っていた。
いつものように、装束の乱れや女中たちの配置に厳しい目を配る彼女だが、今日だけは、その手が袖の奥で震えるほどに固く握りしめられていた。
幼い頃はひどく病弱で。
吃音があり、気弱に見え、一時は後継者から外されるのではないかと危ぶまれた若君。
その子が今、立派な成人の装束を身にまとい、徳川家光として、天下の中心へと歩みを進めている。
福は、決して公の場で泣き崩れるような、はしたない真似はしない。
奥向きの長として、完璧な礼を保っている。
だが、その目元だけは、どうしても隠しきれないほどに、真っ赤に染まっていた。
俺は、遠くからその姿を見て、そっと目を逸らした。
あの人にとっては、兄上は、本当に、自分の命を削って育て上げた我が子みたいなものなんだな。
今日は、あの人の、人生最大の報いの瞬間だ。
邪魔しちゃいけない。
*
母である江もまた、家光の立派な姿を見て、静かに安堵の息を吐いていた。
本来の歴史であれば、この時期、家光と忠長を巡る母子の偏愛や後継争いがどろどろに渦巻いていたはずだ。
だが、この世界線では、俺が実務全振りで完全に後継争いから降りているため、その対立構造はかなり緩和されていた。
江は、俺の方を見て、穏やかな声で言った。
「……国松。あなたも。……これからも、兄をよく支えなさい」
「はい、母上」
俺は、素直に頷いた。
そこには、何の嘘もわだかまりもなかった。
*
大名向けの公的な儀礼が終わり、江戸の町にも、竹千代君が家光と名を改め、鷹司家の姫君との縁約が整ったという触れが出された。
江戸の町は、一気に祝賀ムードに包まれた。
「若君様が、立派な大人になられたそうだぞ!」
「京の公家様から、お美しい姫君が来られるらしい!」
「これで、徳川様の次の御代も完全に安泰だな。戦が戻ってこないなら、それが一番ありがたい!」
商人たちは祝いの餅や酒を売り出し、寺社では祈願が行われ、町人たちは心から喜んでいる。
俺は、その朗らかな報告を聞いて、少しだけ心が軽くなった。
三十年戦争の絶望的な情報を抱えている幕府中枢とは違って、民草は、目の前のこの平和な祝いを、純粋に喜んでくれている。
全部を知る必要はないんだな。
民には民の、平和な日々がある。
俺たちの仕事は、彼らに知らないで済む平穏を守り抜くことなんだ。
*
そして、この日、もう一つの極めて重要な対面の儀が、江戸城の奥向きで静かに執り行われた。
京の都から、長い旅路を越えて江戸へ下向してきた、五摂家の一つ、鷹司家の姫君。
鷹司孝子殿と、家光の、婚約者としての正式な初対面である。
場には、家康、秀忠、江、俺、そして奥向きの重鎮たちだけが控えていた。
二人を必要以上に見世物にしないための、配慮された場だ。
家光は、がちがちに緊張していた。
孝子殿も、美しい装束の奥で、確かに緊張しているのが分かった。
だが、二人とも、決して逃げ出したり、礼を崩したりはしなかった。
家光が、先に口を開いた。
「……徳川家光である」
その声は、驚くほど硬かった。
だが、嘘のない、誠実な響きがあった。
「……至らぬ身ではあるが。……よろしく、頼む」
孝子殿は、静かに、深く、洗練された京の作法で頭を下げた。
「……鷹司孝子にございます。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
彼女の声は、涼やかで、そして芯が通っていた。
「江戸のこと、武家のこと、そして徳川のこと。……これより、一つずつ、学ばせていただきます」
家光が、少しだけ驚いたように目を見張る。
孝子殿は、真っ直ぐに家光の目を見て、言葉を続けた。
「……そして、私も、京のこと、朝廷のこと、公家のこと。必要とあらば、全てお伝えいたします。公武の橋となるには、両方の岸のことを深く知らねばなりませぬゆえ」
強い。
俺は、内心で立ち上がって拍手したくなった。
ただ守られるだけの飾りじゃない。
自分から両岸を知って橋になると宣言した。
孝子殿、やっぱり精神的にめちゃくちゃ強い人だ。
家光は、一瞬言葉に詰まったが、すぐに力強く頷いた。
「……ならば。互いに、学ぼう」
孝子殿の唇が、ほんの少しだけ、柔らかく綻んだ。
「……はい」
*
『……へえ』
対面が終わった後、俺が少し離れて余韻に浸っていると、KAMI様が現れて言った。
『史実の歴史では、この家光と孝子の二人は、お世辞にも相性が良い夫婦とは言い難かったし、完全に冷え切っていたけれど。……この世界線では、二人の出会いの初期条件が、随分と良い方向に変わっているわね』
「俺、前世は仕事ばっかりしてて、婚約も結婚もしたことないので。夫婦仲のことについては、何とも言えませんが」
『なら、余計な口を出さず、未来知識で介入しようとせず、ただ静かに観測に徹していなさい』
「……そのつもりです」
『珍しく正解ね』
俺は少しむっとしたが、否定はできなかった。
この二人の関係は、この二人が長い時間をかけて作っていくものだ。
俺が口出しすることじゃない。
ただ、史実よりも少しでも良い始まりの空気が流れたなら、弟として、それだけで十分だ。
*
祝いの行事が全て終わり。
家康が、廊下の隅で俺を呼び止めた。
「……国松」
「はい」
「今日は。……よう控えたな」
俺は、目を瞬かせた。
「……私は、何もしておりませんが」
「だから、良いと言うておるのだ」
家康は、満足そうに笑った。
「今日は、家光の晴れ舞台じゃ。……お前が、一歩引いて、何もしなかったこと。一切目立たなかったことに、絶対的な意味がある」
家康は、俺の肩にぽんと手を置いた。
「お前は、少し動きすぎる。動けば、天下が揺れるほどに大きい。……ゆえに、動かぬことにも、絶大な意味と力があるのだ」
「……はい」
俺は、深く頭を下げた。
「竹千代は、家光となった。……だが、お前は、国松のままでよい」
家康は、遠くの月を見上げて言った。
「弟として。……そして、一人の人として。兄を、支えてやれ」
「はい。……必ず、支えます」
*
夜。
江戸城のあちこちには、祝賀の灯りがまだ美しく残っていた。
俺は一人、庭先に出て、夏の夜空を見上げていた。
六月の空に、まだ、あの不吉な大彗星の姿はない。
ただ、静かで穏やかな星々が瞬いているだけだ。
今日。
兄上は、竹千代から、家光になった。
名前が変わった。
役割が変わった。
周囲の大名たちの呼び方も、目線も、彼に懸ける期待の重さも、全てが変わった。
現代人の俺には、やっぱり少し分かりづらいシステムだけど。
それでも、一つだけ、はっきりと分かったことがある。
名前というものは、ただの音の響きではない。
人を縛り、人を支え、そして、その人が人生を懸けて立つべき場所を決める、魔法の呪文のようなものなのだ。
「……兄上。……いや。家光様、か」
俺が小さく呟くと、少しだけ違和感があった。
だが、悪い違和感ではない。
大人になって遠くへ行ってしまう兄を見送るような、少しの寂しさと、それ以上の大きな誇らしさが混ざり合った響きだ。
『ふふ。典型的な、兄離れの初期症状ね』
「違いますよ」
『では。後継者ロール確定に伴う、弟側システムの立ち位置再定義処理』
「だから、言い方!」
「いい日だったねえ」
いつの間にか、八百比丘尼が縁側に座って、月を眺めていた。
「はい。……本当に、いい日でした」
「こういう、分かりやすくて馬鹿みたいに明るい日があるから。……人間は、面倒な家だの、名だの、重い役目だのを背負わされても、なんとか狂わずに生きていけるんだろうねえ」
八百比丘尼の言葉は、相変わらず千年の重みがあった。
俺は、江戸城の温かい灯りを見つめた。
ローマの水鏡の向こうでは、すでに三十年戦争という地獄が始まっている。
遠い欧州では、これから長い長い、血の流れる火が燃え続ける。
だが、今日の江戸は、間違いなく、平和な祝いの灯に包まれている。
兄上は、家光になった。
孝子殿も、覚悟を持って江戸へ来た。
徳川の次代が、少しだけ、確かな形になったのだ。
俺は、静かに、深く息を吐き出した。
「……おめでとうございます。兄上」
その言葉は。
もう、竹千代へ向けたものなのか、それとも家光へ向けたものなのか、自分でも少し分からなかった。
だが、それが心からの祝福であることだけは、誰の帳面に記すまでもなく、確かな事実だった。
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