暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第116話 水神様、兄上に自慢されて逃げ場を失う

 元和四年の六月も半ばを過ぎ、江戸城にはじっとりとした初夏の湿気が漂い始めていた。

 

 兄上が元服を済ませ、徳川家光として次代の中心に立つことが天下に示されてから数日。

 

 さらに、鷹司孝子殿が江戸へ入り、婚約者としての正式な顔合わせも無事に終わった。

 

 城内も町方も、まだまだ晴れやかな祝賀の空気に包まれている。

 

 三十年戦争という血なまぐさい情報の管理や、新しい城郭修理の帳面作りに追われてはいるものの、俺自身は、これでやっと、少しは通常の実務に専念できると胸を撫で下ろしていた。

 

 だが、そんな淡い期待は、あっさりと打ち砕かれた。

 

「……なぜ俺は、こんな居心地の悪い席に座らされているんだ」

 

 俺は内心で深い溜息をつき、膝の上で手を組んだ。

 

 江戸城の奥、家光の私的な座敷。

 

 そこには大御所、家康、将軍、秀忠、そして元服を終えたばかりの家光と、京から下向した鷹司孝子殿が顔を揃えていた。

 

 俺は家光のすぐ隣に座らされている。

 

 少し離れた縁側寄りの場所には、八百比丘尼の姿もあった。

 

 公の儀式ではない。

 

 身内だけを集めた、極めて内輪の茶会だ。

 

 だが、このメンバーが揃って、ただの世間話で終わるわけがない。

 

 まだ江戸の奥向きの空気に慣れていないであろう孝子殿は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、静かに控えている。

 

 家光は、婚約者である彼女を前にして、何か場を和ませる話題を探しているようだった。

 

 そして、なぜか急に俺の方へ身を乗り出した。

 

「孝子よ」

 

「はい」

 

 孝子殿が、涼やかな声で応じる。

 

 家光は、満面の笑みを浮かべて、誇らしげに言った。

 

「国松は、すごいのだ」

 

 俺は、飲み込みかけた茶を盛大に吹き出しそうになった。

 

「……は? 兄上?」

 

 俺の狼狽など意に介さず、家光は熱っぽく語り始めた。

 

「国松にはな、後の世の知識があってな! 田の植え方から、米の算段、蔵の建て方、病の防ぎ方、果ては異国の奇物の扱いに至るまで、国松は次々に妙案を出すのだ。……だが、こやつはすぐに『自分はただの人だ』と逃げようとする」

 

「兄上! いきなり何を言い出すんですか!」

 

 俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、必死で止めに入った。

 

「そなたは、国松が何をしてきたかを知っておいた方がよい。これから徳川の内側に入るならば、国松という存在は絶対に避けては通れぬからな」

 

 家光は、どこまでも大真面目だ。

 

 上座の家康は、この展開を面白そうに黙って見守っている。

 

 秀忠は少しだけ頭を押さえたが、あえて止めようとはしなかった。

 

 八百比丘尼に至っては、にやにやと笑いながら茶菓子を頬張っている。

 

『やっほー。身内による、熱烈な業績プレゼンが始まったわね』

 

 俺の視界に現れたKAMI様が、拍手喝采を送ってきた。

 

 やめてください。

 

 完全に地獄です。

 

 孝子殿は、突然の弟自慢に一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに姿勢を正し、俺の方を真っ直ぐに見た。

 

「……後の世の知識、でございますか」

 

 その目は、ただの怪談話や夢物語を聞く目ではなかった。

 

 公家の姫として、目前の事実をどう評価すべきか、冷静に見極めようとする目だ。

 

 俺は観念した。

 

 家康が同席し、それを止めていないということは、孝子殿を名実ともに徳川家の内側に入れると判断した証拠だ。

 

 ここで曖昧に誤魔化すのは、かえって不誠実になる。

 

「……はい」

 

 俺は、居心地の悪さに耐えながら、正直に答えた。

 

「私には、後の世の記憶が少しだけあります。……ですが、この世の全てを知っているわけではありませんし、私の記憶にある知識が、今の世で必ずその通りに動くわけでもありません。決して、万能ではないのです」

 

 孝子殿は、俺の言葉を一つも漏らさぬように静かに聞いていた。

 

 だが、家光が横からすかさず口を挟む。

 

「それでも、国松はすごいのだ!」

 

「だから兄上、本当にやめてくださいってば!」

 

 *

 

「最初は、田であったな」

 

 家光は、懐かしむように語り始めた。

 

 塩水選による種籾の選別。

 

 正条植え。

 

 水番という役目の設置。

 

 そして、水争いを防ぐための水札。

 

 家光の言葉を聞きながら、俺は少しだけ遠い目になった。

 

 そうだ。

 

 最初は本当に、目の前の泥だらけの田んぼの水を、どう分けるかっていうだけの話だったんだ。

 

 農民たちが飢えないように。

 

 米が少しでも多く取れるように。

 

 孝子殿は、微かに驚いたような表情を見せた。

 

 京の公家の娘にとって、政といえば、朝儀の作法や官位の調整、文書の文言を整えることが中心だったはずだ。

 

 それが、江戸の若君の口から真っ先に出てきた政の始まりが、田んぼの泥と水の話だったからだ。

 

「……天下を治めるとは。田の水を治めることでもあるのですね」

 

 孝子殿が、感心したようにぽつりと言った。

 

 俺は、少し驚いて彼女を見た。

 

「……はい。民がその日の飯を食えなければ、どれほど立派な法や雅な文書を作っても、国は絶対に続きません」

 

「そういう重いことを、国松は平然と言うのだ」

 

 家光が、これ見よがしに胸を張る。

 

「……だから兄上、いちいち自慢げに挟んでこないでください」

 

 だが、家光の自慢は止まらなかった。

 

「米が取れすぎて、今度は蔵が足りぬと頭を抱えたこともあったな」

 

「米が取れすぎて、お困りになるのですか?」

 

 孝子殿が不思議そうに問う。

 

「困ります」

 

 俺は食い気味に答えた。

 

「保存する場所がなければ、米はすぐに湿気を吸って腐ります。流通が乱れれば、米の価格が暴落して武士も商人も立ち行かなくなります。……豊作には豊作の、過酷な運用と帳面管理が必要なのです」

 

 さらに、脚気、足弱りの話。

 

 白米ばかり食べていては体を壊すという事実。

 

 孝子殿は、食の贅沢が身分や文化と直結している京で育ったからこそ、その豊かな食が人を病にするという話に、極めて真剣に耳を傾けていた。

 

 そして話題は、永冷石を使った氷箱へと移る。

 

「氷を、夏でもその箱の中に保つことができるのですか……」

 

「そうだ。国松は、夏でも熱病の薬を冷やす箱を作ったのだぞ」

 

「私は、石の管理と用途の帳面を作っただけで。箱そのものを組み上げたのは、職人や御異物改方の者たちです」

 

「だが、それを最初に考えたのは国松だ!」

 

 もう、穴があったら入りたい。

 

 *

 

 だが、ここで家康が静かに口を挟んだ。

 

「孝子よ。……徳川には、普通の武家にはない、極めて厄介なものがある」

 

 大御所の低く重い声に、孝子殿はすっと背筋をさらに伸ばした。

 

「……奇物、でございましょうか」

 

 彼女は、公家文書御用のやり取りの中で、ある程度の噂は聞いているはずだ。

 

 だが、その詳細は知らない。

 

 家康は頷いた。

 

 魔鏡、永冷石箱、水鏡、八百比丘尼という存在。

 

 その全てを細かく話す必要はない。

 

 この場では、あくまで奇物という存在の危うさだけを共有した。

 

 俺は、真面目な声で言った。

 

「奇物は、手放しで喜べる便利な宝ではありません。……人間の手で制御できぬものを無理に使おうとすれば。扱いを一つ間違えただけで、人と、家と、国を内側から壊します」

 

 孝子殿は、その言葉に、先日江戸で聞いた太閤の千成瓢箪の噂を重ねたようだった。

 

「……力あるものは。ただ与えられるのではなく、それを持つ者の器を試すのですね」

 

「はい。だからこそ……使えそうに見えても、あえて使わず、封印して帳面で縛るという選択をしなければならない物があるのです」

 

 家康が、満足そうに目を細めた。

 

 孝子殿の理解の速さは、為政者の伴侶として申し分ないものだった。

 

 *

 

 家光の弟自慢は、さらにスケールアップしていく。

 

「朝鮮からの使者が来た時も、国松はよく考えて動いたのだぞ」

 

 俺は、奥歯を噛み締めた。

 

 朝鮮通信使、回答兼刷還使との外交は、俺にとって決して華々しい成功談などではない。

 

 秀吉の残した途方もない朝鮮出兵の傷。

 

 被虜人の返還。

 

 豊臣を絶対に許さないという朝鮮側の深い遺恨。

 

 その重さを前に、ただ記録の帳面を作ることでしか応えられなかった。

 

「……過去の傷は、こちら側が『もう終わったことだ』と勝手に忘れても、傷つけられた相手は永遠に忘れません」

 

 俺は、ぽつりと言った。

 

「だから、こちらの都合だけで、勝手に終わったことにしてはいけないのです。怒りや悲しみを、ただ記録として残すだけでも……それは必要な政だと思っています」

 

 孝子殿は、静かに、深く頷いた。

 

 京の公家社会でも、過去の怨恨や名誉の傷は、何百年経っても消えることはない。

 

 彼女は、俺の言わんとするその痛みを、痛いほど理解してくれたようだった。

 

 次に、話題はローマとの水鏡会談へと及ぶ。

 

 禁教令の運用の線引き。

 

 奇物管理の協力。

 

 そして、最近になって勃発したばかりの、欧州の宗教戦乱。

 

 ここで、家康が軽く手で制した。

 

「……そのあたりの西の国の戦乱については、今はまだ、概要だけでよい」

 

 俺も頷いた。

 

 欧州の戦乱は、幕府中枢の機密中の機密だ。

 

 孝子殿には、最低限、遠い西の国々で、大きな争いが始まりつつある。それが日ノ本の港や銀の流れに影響するやもしれぬ、という程度に留めた。

 

 だが、彼女の聡明さは、その僅かな情報だけでも、事態の途方もない重さを感じ取っていた。

 

 *

 

 一通り、俺のこれまでの歩みを聞き終えた孝子殿は、しばらく深い沈黙に落ちた。

 

 家光が、少しだけ不安そうに身を乗り出した。

 

「……驚いたか?」

 

 孝子殿は、真っ直ぐに家光を見て、そして俺の方へと視線を移し、正直に答えた。

 

「……はい。驚きました」

 

 そして、彼女は静かに、だが確かな実感を持って言った。

 

「後の世の記憶、ですか。……それはそれは。……本当に、大変なものをお持ちなのですね」

 

 俺は、予想外の言葉選びに、一瞬だけ呼吸が止まった。

 

 すごいですね、ではない。

 

 まるで神のごときお力ですね、でもない。

 

 大変なもの、だ。

 

 孝子殿は、少しだけ悲しげな目をして続けた。

 

「……先を、未来を知るということは。決して、良いことばかりではないのでしょう」

 

「知っていても、自分一人の力ではどうにも止められぬこと。……他人に言えぬこと。そして……うっかり口に出してしまえば、かえって人の心を乱し、世を狂わせてしまうことも、山ほどおありなのでしょうね」

 

 俺の胸の奥で、何かが強く締め付けられた。

 

 三十年戦争の知らせを聞いた時の、あの絶望感。

 

 予定通りに人が死ぬとしか思えなかった、あの暗い無力感。

 

「……はい」

 

 俺は、掠れた声で答えることしかできなかった。

 

「あります。……知っているのに、言えないことばかりです」

 

「ならば」

 

 孝子殿は、優しく、しかし確固たる声で言った。

 

「その記憶は。国松様にとって、大いなる力であると同時に。……常に背負い続けねばならぬ、重すぎる荷でもありますね」

 

 俺は、深く、深く息を吐き出した。

 

 肩に入っていた余計な力が、すっと抜けていくのを感じた。

 

 この人は、俺のことを、何かを解決してくれる便利な未来知識の箱として見ていない。

 

 ただの、分不相応な重荷を背負わされてしまった、一人の生身の人間として、見てくれているんだ。

 

 *

 

 その時、家康が、極めて静かに、鋭い口を開いた。

 

「孝子よ」

 

「はい」

 

「……今、この座敷で聞いたことは。朝廷にも、そなたの実家である鷹司家にも。……一言半句たりとも、漏らしてはならぬ」

 

 座敷の空気が、一気に冷え込んだ。

 

 孝子殿にとって、それは、想像を絶するほど重い命令だ。

 

 彼女は鷹司家の娘であり、公武の橋として江戸へ下ってきたのだ。

 

 京の朝廷や実家に、徳川の奥の情報を伝えることも、彼女の持つ重要な役割の一つのはずだ。

 

 だが、家康は容赦なく続けた。

 

「お主は、公武の橋になりたいと言うたな。……ならば、覚えておけ」

 

「橋というものは、何でもかんでも、無差別に両岸へ渡すものではない。……渡してしまえば、国を根底から壊してしまうものもあるのだ」

 

 大御所様は、試しているんだ。

 

 孝子殿が、ただ京の利益のために動くスパイになるか、それとも、徳川の真の内側の人間になれる器かどうかを。

 

 孝子殿は、しばらく深く考え込んだ。

 

 やがて、彼女はゆっくりと、しかし微塵の迷いもない動作で、深く頭を下げた。

 

「……承知いたしました」

 

 顔を上げた彼女の瞳には、強い覚悟の光が宿っていた。

 

「私は、江戸で聞いたもの全てを、ただ無思慮に京へ運ぶだけの、空ろな橋ではございません」

 

「……渡すべきものと、決して渡さずに留めるべきものを。自らの意思で冷徹に見極める橋になります」

 

 家康は、その答えを聞いて、心底満足そうに目を細めた。

 

「……よい」

 

 俺は、内心で震えていた。

 

 孝子殿、やっぱり精神的に強すぎる。

 

 大御所様のこの圧力を前に、一歩も退かずに、自分の役割を完全に定義し直したぞ。

 

 秀忠も、現将軍としての立場から、現実的な釘を刺した。

 

「……知らぬままでは、いずれ足元が危うい。だが、知れば、それに伴う責任も生じるということだ」

 

「はい」

 

「江戸で見聞きしたことの全てを、京の言葉に直して伝えてよいわけではない。反対に、京の全てを、江戸にそのまま持ち込めばよいわけでもない」

 

「……両岸を繋ぐ橋にも。堅く閉ざすべき門が要るのですね」

 

 孝子殿のその返答に、秀忠は少し驚いたように目を見開き、そして深く頷いた。

 

「……その通りだ」

 

 家光が、嬉しそうに破顔した。

 

「……な? 孝子なら、きっと国松の抱える重さも、徳川の背負うものも、全て分かってくれると思ったのだ!」

 

 兄上、純粋に嬉しそうなのは分かりますけど、俺は恥ずかしくてまた逃げたくなってきましたよ。

 

 *

 

「孝子よ。そなたにも、これからは、大いに政務を手伝ってもらおうぞ」

 

 家光が、無邪気に、しかし極めて大真面目な顔で言った。

 

「兄上!?」

 

 俺はぎょっとして声を上げた。

 

 いくらなんでも、元服したばかりで、まだ正式な婚礼も挙げていない婚約者に、幕府の政務を手伝わせるなんて前代未聞だ。

 

「何を驚く、国松」

 

 家光は胸を張った。

 

「孝子は、公武の橋になると自ら言ったのだ。……ならば、奥向きの差配だけでなく。京との文のやり取り、朝廷との微妙な間合い、公家特有の作法、女房たちの扱い……。そういった、我ら武骨な武家には分からぬものを、孝子に教えてもらい、整えてもらえばよいではないか!」

 

 それは、理屈としては完璧に理にかなっていた。

 

 孝子殿も少しだけ驚いたようだったが、すぐに姿勢を正して答えた。

 

「……私にできることであれば。微力ながら、必ずやお役に立ちたく存じます」

 

 俺は、慌てて家康と秀忠を見たが、二人は止める気配が全くなかった。

 

「うむ。好きにしたらよい」

 

 家康は、茶をすすりながら鷹揚に言った。

 

「奥向きの繋がりも、立派な政じゃ。京の作法も政じゃ。……知らぬ馬鹿が力任せに扱えば、大火事の火種になるが。知る者が細心に扱えば、天下を繋ぐ強固な橋になる」

 

 孝子殿は、深く頭を下げた。

 

 この瞬間。

 

 彼女の役割は、単なる将軍家の婚約者から、徳川幕府の公武連携の要へと、明確に一歩踏み込んだのである。

 

 *

 

 話が一段落し、俺はふと、自分がこれまでやってきたことを改めて振り返っていた。

 

 最初は、ただの田んぼの泥仕事だった。

 

 農民が飢えないように。

 

 米が少しでも多く取れるように。

 

 水を公平に分けるように。

 

 そこから、気づけば、巨大な蔵の建設、脚気対策、医療、氷箱の奇物、朝廷の造暦権、ローマとの水鏡会談、朝鮮使節との外交、欧州戦乱の監視、大名統制の城郭修理届、相撲興行、御前試合。

 

 そして、兄上の元服と縁談の調整。

 

「……本当に。最初はただの、田んぼの泥遊びから始まったはずなんですけどね……」

 

 俺が遠い目をして呟くと、八百比丘尼がけらけらと笑った。

 

「田んぼは、国の根っこだからねえ。……根を弄り回せば、そこに繋がってる幹も枝も葉も花も、全部ぐらぐらと揺れるに決まってるんだよ」

 

『依存関係が広すぎる、超巨大なスパゲティコードのシステムね』

 

 国っていうのは、そういうものなんでしょうね。

 

 直したと思ったら、別のところで必ずバグが出る。

 

 *

 

 そこで、家光がふと何かを思い出したように、ぽんと手を打った。

 

「そうだ、孝子よ」

 

「はい」

 

「……国松によれば。この年の冬に、天に大ほうき星が現れるそうだな」

 

 俺の心臓が、跳ね上がった。

 

「あ、兄上! なんで今、そこでその話をぶっ込むんですか!」

 

「よいではないか。孝子はもう、身内であろう。……知らぬまま空を見て怯えるより、あらかじめ知っておいてもらった方がよい」

 

 家康も秀忠も、特に止めようとはしなかった。

 

 ただ、表情は少し重い。

 

 孝子殿の目が、わずかに見開かれた。

 

「……大ほうき星。……巨大な彗星でございますか」

 

「はい。……私の後の世の記憶では、この元和四年の冬に、非常に巨大で恐ろしい彗星が、夜空に見えるはずなのです」

 

「それも……後の世にまで伝わっているほど、有名な天変なのですか」

 

「はい。歴史に残るほど、大きなものです」

 

 家光が、渋い顔で言った。

 

「国松は、天の星の理と、地上の世の政は、何の関係もないと申す。……だが、民草や朝廷はそうは思わぬ。あのような巨大な異形の星が現れれば、必ず天下の乱れの不吉な兆しだと騒ぎ立てよう」

 

 孝子殿の表情が、極めて真剣な為政者の顔になった。

 

「それは……朝廷に、あらかじめこの冬に大彗星が出ると、知らせておくべきではございませんか? そうすれば、陰陽寮や星見の公家の方々も、心の準備と観測の手立てができます」

 

 俺は、苦い顔で首を振った。

 

「お気持ちはよく分かります。……ですが、それには致命的な問題があります」

 

「問題、ですか」

 

「……まだ起きてすらいない天変を、こちらがいついつの冬に出ると日取りまで完璧に知っているかのように告げれば。……朝廷は、それをどう受け止めるでしょうか」

 

 孝子殿は、はっとして口を噤んだ。

 

 家康が、重く引き継いだ。

 

「……国松の後の世の記憶が、朝廷にまで露呈する。……あるいは、国松が天の星すら操る水神の恐るべき予言として、狂ったように祭り上げられる」

 

 秀忠も言う。

 

「しかも。彗星が来る前から不吉な星が来るぞと公儀が騒ぎ立てれば。……民はパニックを起こし、米の買い占めや暴動が起き、世が根底から乱れる」

 

「はい」

 

 俺は頷いた。

 

「準備のために知らせたい。でも、知らせることで、かえって不安と狂気を爆発させてしまう。……未来の知識というのは、そこが一番、取り扱いが難しいのです」

 

 孝子殿は、先ほど自分が言った大変なものという言葉の真の重さを、さらに深く理解したようだった。

 

 知っているからといって、何でもかんでも事前に周りに言えば解決するわけではないのだ。

 

「……儂も、それをどうすべきか、ずっと困っておったのじゃ」

 

 家康が苦笑した。

 

「大御所様も、でございますか」

 

「うむ。冬に大ほうき星が出ると分かっておる。だが、今から朝廷へ触れを出せば、なぜ知っておると問いただされる。……かといって、黙っておって、実際に星が出た後で『公儀はなぜ何も備えておらなんだ!』と責め立てられるのも、業腹じゃ」

 

 さらに、俺が付け加える。

 

「しかも、です。実際にどれほどの大きさで見えるかは、その時の天候や方角にもよります。……私の記憶の歴史と、この世界で全く同じように見えるという確証すらないのです」

 

『観測条件未確定。過剰な事前通知は、システムノイズの増大とパニックを引き起こす恐れあり、ね』

 

「KAMI様の言い方はともかく、全くその通りです」

 

「不吉と噂されて民が暴れるのも困る。だが、不吉ではないから安心せよと公儀が言い切ったところで、迷信を信じる民が大人しく納得するとも限らぬ」

 

 *

 

 皆が頭を抱える中。

 

 孝子殿が、すっと背筋を伸ばし、極めて慎重に、一つの解を提示した。

 

「……ならば。今すぐ、大ほうき星が出るという確かな予言として告げるのではなく……」

 

「星見の公家の方々や、陰陽寮に向けて。近頃、天の星の巡りに微かな揺らぎがあるやもしれぬゆえ、通常の観測と記録を、決して怠らぬようにと、少しずつ体制を整えさせておくのはいかがでしょう」

 

 俺は、目を丸くして彼女を見た。

 

「また、朝廷に対しても、いざ天変があった時に、幕府の観測と記録を速やかに照合できるよう、日頃から星の記録の帳面を厳密に整えるようにと申し上げるのです。……大ほうき星という名を出さずに、ただ制度としての準備だけを、粛々と進めるのです」

 

 家康が、ぽんと膝を打って笑った。

 

「うむ! よい!」

 

「それならば、決して怪しげな予言にはならぬな」

 

 秀忠も深く頷く。

 

 孝子殿、すごい。

 

 俺は、感嘆した。

 

 公武の橋として、強すぎる未来の情報を、どうやって角が立たないように包んで伝えるか。

 

 すでに、為政者としての判断ができている。

 

「孝子殿、本当にすごいですね」

 

 俺が素直に感心すると、彼女は静かに微笑んだ。

 

「いえ。……京の都では、言葉の置き方一つ、包み方一つで、一瞬にして家を焼く火がつくことが多々ございますので」

 

「……公家社会、怖すぎません?」

 

「江戸の武家の社会も、同じくらい恐ろしいのではございませんか?」

 

 そう言われては、俺は返す言葉がなかった。

 

「……結局、実際に空に来てみて、確かめるしかないですね」

 

 俺は、結論をまとめた。

 

「未来の記録を知っていても。今、この元和四年の空で、我々の目にどう見えるかは……自分の目で見てみないと、分かりませんから」

 

「はい」

 

 孝子殿が頷く。

 

「……未来の知識を知っていても。最後は、今を見る目が絶対に必要なのですね」

 

 *

 

 密やかな茶会が終わり、お開きになる直前。

 

 孝子殿が、俺に向かって静かに声をかけた。

 

「……国松様」

 

「はい」

 

「後の世の知識を全て持っていると聞けば。……世の多くの者は、あなた様を神仏のごとき力を持つ者だと恐れ、あるいは崇めるでしょう」

 

 俺は、嫌な顔をした。

 

「私は、神ではありません」

 

「はい。……今日のお話を聞いて、よく分かりました。それは神の奇跡などではなく、むしろ……人の心を持った人でなければ、到底耐えられぬほどの、重く苦しい荷なのだと」

 

 俺は、言葉に詰まった。

 

「ならば。……私は、国松様を、遠い空の神棚に上げるような真似はいたしません」

 

 孝子殿は、温かく、しかし凛とした微笑みを浮かべた。

 

「共に国を支え、共に重い荷を持つ、身内の一人として見るよう、努めさせていただきます」

 

 家康が、その言葉を聞いて、心底満足げに深く頷いた。

 

 家光も、弟の理解者が増えたことを、自分のことのように嬉しそうにしている。

 

「……いいねえ」

 

 八百比丘尼が、横から小さく笑って言った。

 

「坊や。……無事に、遠い神棚から一段下ろされて、ただの人間に戻してもらえたねえ」

 

「だから、最初から勝手に俺を神棚に上げないでくださいって!」

 

 *

 

 退出する前、家光が孝子殿に寄り添い、静かに言った。

 

「……今日は、初日から、随分と重い話ばかりを聞かせてしまったな」

 

「はい。……ですが。今日、この場で聞かせていただけて、本当に良かったと思います」

 

「……怖くは、ないか?」

 

 家光の問いに、孝子殿は、真っ直ぐに夫の目を見た。

 

「怖くないと申せば、嘘になります。……ですが。何も知らぬまま、目隠しをされて橋になる方が。……よほど、怖いです」

 

 家光は、少しだけ驚いたように目を見開き、そして、深く、力強く頷いた。

 

「……ならば。これからも、共に、互いに学ぼう」

 

「はい」

 

 それは、甘いだけの恋物語などではない。

 

 これからこの天下という激動の海に、共に重い橋を架けていく戦友としての、確かな信頼の第一歩だった。

 

 *

 

 夜。

 

 俺は一人、自室から縁側に出て、初夏の生暖かい風に吹かれていた。

 

 見上げた夜空には、まだ、あの恐ろしい大ほうき星の姿はない。

 

 だが、今年の冬には、必ず現れる。

 

 後の世の知識がある。

 

 それは、決して何でも解決できる便利な未来予測チートなんかじゃない。

 

 他人に言えないことがある。

 

 言ってはいけないことがある。

 

 言っても絶対に止まらない、残酷な歴史の流れがある。

 

 そして、下手に言えば、人の心を乱し、世を狂わせてしまうことがある。

 

 それでも、今できる準備を、泥臭く帳面に残していくしかないんだ。

 

 孝子殿は、その重さを、少しだけ理解してくれた。

 

 家光兄上は、相変わらず俺のことを自慢しすぎる。

 

 大御所様は、それを笑って見守っている。

 

 俺は、徳川家の内側というものが、今日、少しだけ暖かく広がったような気がしていた。

 

 これから、大彗星が来る。

 

 その時、天変を恐れる民草は必ずパニックになるだろう。

 

 朝廷も、陰陽寮も、星見の公家たちも、激しく揺れるはずだ。

 

 だが、今日の話し合いで、少しだけ、パニックを最小限に抑えるための観測の準備が始まった。

 

「……未来の知識を知っていても。結局、今の現実を、自分の目で見なきゃいけないんだな」

 

 俺がぽつりと呟くと、KAMI様が現れた。

 

『未来のログデータは、あくまで参考資料よ。……現在の環境での実測値の計測こそが、いつだって本番なのよ』

 

「言い方は相変わらずシステム用語ですが……今回は、本当にその通りだと思います」

 

「いいじゃないか」

 

 八百比丘尼が、どこからともなく縁側に座り、夜空を見上げていた。

 

「……見る目が、一つ増えたんだよ」

 

「見る目?」

 

「坊や一人で、天の空も、地の田んぼも、人間の心も、全部いっぺんに見るには。……どうやったって、目が足りないからねえ」

 

 俺は、孝子殿が去っていった奥向きの廊下の方を見た。

 

 公武の橋。

 

 家光兄上の婚約者。

 

 徳川の身内。

 

 そして、俺の秘密を共に背負ってくれる者。

 

 確かに、俺たちの戦いを共有してくれる確かな目が、今日、一つ増えたのだ。

 

 六月の夜空は、まだ静かだった。

 

 冬に現れる大ほうき星の不吉な気配など、微塵も感じられない。

 

 それでも俺は、そのまだ見えない彗星の巨大な尾を、心のどこかで、確かに見上げていたのだった。




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