暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第119話 水神様、借金にも堤が要ると知る

 元和五年、旧正月。

 

 去年の冬の夜空を不気味に切り裂いたあの大彗星は、すでに完全に姿を消していた。

 

 だが、あの巨大な天変を見た人々の心の中には、まだほんの少しだけ、「あんな恐ろしい星が出たのだから、今年は何か悪いことが起きるのではないか」という薄い不安が残っていた。

 

 とはいえ、江戸の町方の空気は、決して暗いものではなかった。

 

 ここ数年、米の収穫は比較的安定している。冬の相撲興行は血を流さずに熱狂を生み、先日の囲碁・将棋の御前試合も大きな話題を呼んだ。家光の元服と鷹司孝子(たかこ)殿の江戸入りで、公武の橋はより強固なものとなり、徳川の次代の安泰は誰の目にも明らかとなった。

 

 だからこそ、江戸の民草たちの間に漂う空気は、どこか楽観的でもあった。

 

「あの不吉な尾星は怖かったが、結局、去年もこれといった大きな災いは起きなかったしな」

 

「それに、何か悪いことが起きても……今の公儀の差配なら、きっと何とか帳尻を合わせてくれるに違いないさ」

 

 俺は、市中見回りの報告からその空気を感じ取り、少しだけ安堵しつつも、決して口には出せない重い懸念を抱いていた。

 

(……この先に何が起きるかを、予言して回るわけにはいかない。でも、『絶対に何も起きない』と保証することもできない)

 

(民草が『公儀が何とかしてくれる』と公儀の(まつりごと)を信頼してくれるのは、為政者としてはこの上なくありがたいことだ。……だけど、その信頼が『完全な依存』に変わってしまったら。それはそれで、公儀の背負う重さが限界を突破して、いつか国が壊れる)

 

『公儀への「信用」が増えれば、公儀への「期待」も増える。……信用は莫大な資産だけれど、使い方を間違えれば、一瞬で国を押し潰す「巨大な負債」にもなるのよ』

 

 KAMI様が、俺の内心を見透かしたように、鋭い言葉を投げかけてきた。

 

 その一言が、この直後に俺が直面することになる『徳川の経済改革』という、途方もない地雷原への入り口になるとは、この時の俺はまだ気づいていなかった。

 

 *

 

 正月行事の一環として、今年も江戸城の大広間にて『囲碁と将棋の御前試合』が執り行われていた。

 

 俺が去年の正月に突貫工事で作り上げた、大盤表示と伝令による手動実況連携の仕組みは、今年は劇的な改善を遂げていた。

 

 盤面のサイズを見やすく調整し、将棋の持ち駒の置き場を明確化。伝令には必ず「上座基準の座標」の復唱を義務付け、棋譜を記録する係は二人体制で相互確認。解説役の棋士たちにも、「難解な読み筋を、武士や文官にも一発で分かる言葉に翻訳して語る」という訓練を徹底させた。

 

 その結果、御前試合は去年以上の熱気と盛り上がりを見せていた。

 

 家光は、去年よりも遥かに深く盤面を読む目を養っており。孝子殿も、京で培った遊戯文化や和歌・連歌の先を読む感覚からか、盤上の高度な読み合いに強い興味を示していた。

 

 お里に至っては、横で団子を頬張りながら「ほら、そこに打たれたら右辺の石が全部死ぬねえ」などと、妙に鋭すぎる一言を放って俺の背筋を凍らせていた。

 

 だが、この御前試合の熱狂は、城内だけに留まらなかった。

 

 江戸の町にもその話は漏れ伝わり、民草の間でも「公儀の御前で、碁や将棋が行われたらしいぞ」「相撲の次は、盤上の戦いか」「町でも、ああやって解説付きで見られるようにしてほしいものだ」という声が、日に日に高まっていたのである。

 

 娯楽が民草へ広まること自体は、決して悪いことではない。

 

 刀を抜かずに、知恵だけで勝ち負けを味わえるのは、泰平の世の文化として非常に好ましい。

 

 だが、俺と秀忠は、実務者としてこのブームに強い『警戒感』を抱いていた。

 

「娯楽を禁ずる必要はない。……だが」

 

 秀忠は、冷徹な将軍の目で言った。

 

「囲碁や将棋は、相撲と同じく『勝敗』がはっきりと出る。……ならば、そこに『銭を賭ける者』が必ず現れる」

 

「賭け事と、そこから生まれる『借金』が混ざれば。……血を流さぬはずの娯楽も、たちまち町を焼く治安の火種となる」

 

 俺も、深く頷いた。

 

「ええ。相撲の興行は、田畑の仕事が減る『冬』に時期を限定して開催しているから、まだ管理できています。……しかし、碁や将棋は季節を問わず、いつでも、屋内のどこででもできてしまいます」

 

「賭場が町中に増えすぎれば、農繁期に若者が集まって遊び続け、田畑が荒れます。……それに、賭け金や揉め事で『返せない借金』を背負う者が増えれば、公儀の帳面には載らない治安の悪化を招きます」

 

(……この『賭博と借金』の問題が、実は江戸時代の経済の大きな爆弾なんだよな)

 

 江戸の旧正月は、基本的には明るく華やかだった。

 

 武士たちは祝賀や贈答のやり取りに忙しく、寺社には参詣する者が群れをなし、商人たちは新年の商いに精を出している。

 

 だが、俺は、その華やかさの裏で動いている『巨大な金と借金の流れ』に気づいていた。

 

 正月はめでたい。

 

 しかし、めでたい行事には、必ず金がかかるのだ。

 

 婚礼、葬儀、元服、祝賀、贈答、寺社参詣、宴席、そして武家の格式を保つための豪華な衣装や調度品。

 

 これらは全て、文化として必要なものだ。

 

 ……だが、それを無理な借金をしてまで見栄を張って行えば、家は必ず傾く。

 

 *

 

 正月行事が一段落した、ある夜。

 

 俺は、家康、秀忠、家光、正純、土井利勝らと共に、密室の小評定の間に呼ばれていた。

 

 家康は、茶をすすりながら、極めて静かに切り出した。

 

「……国松。今の公儀の財政と蔵の具合は、決して悪くはないな」

 

「はい。ここ数年の豊作と、蔵の整備、流通の統制により、今の公儀の懐具合は極めて健全にございます」

 

 俺が答えると、家康は目を細めた。

 

「……だからこそ、儂は恐ろしいのじゃ」

 

 俺は、一瞬言葉に詰まった。

 

「世が豊かであり、蔵に米が満ちている時ほど。……人は慢心し、国を永く保つための『仕組み』を作ることを怠る」

 

「貧しくなり、借金に首が回らなくなってから慌てて手を打っても……その時はもう、遅いのだ」

 

 家康の目は、何百年も先の徳川の未来を見据えていた。

 

「……国松。お主の知る『後の世』で。徳川の金と米の流れ、そして武士たちの懐具合は、一体どうなるのじゃ」

 

 俺は、深く息を吐き出した。

 

 ……ここを誤魔化すことは、できない。

 

 だが、俺は経済学者でもなければ、江戸時代の貨幣制度の専門家でもない。

 

「……大御所様。私は、金座や銀座、銭の相場や、札差(ふださし)の商いの専門家ではございません。……ですから、経済を完璧に治める『正解』を出せるとは、とても口が裂けても申せませぬ」

 

 俺は、未来知識の限界を明確に宣言した。

 

「……ですが。後の世の徳川幕府が、財政で『何に失敗して壊れていったか』。……その大まかな失敗の歴史だけは、うろ覚えながら知っております」

 

 後の世の徳川幕府は、何度も何度も「倹約令」を出し、贅沢を禁止するが、結局守られない。

 

 武士は米価の下落と見栄の出費で困窮し、札差からの借金漬けになる。

 

 公儀は、一時しのぎで借金を棄てさせる令を出すが、それによって『信用』が根底から壊れ、経済がさらに首を絞められる。

 

 商人をただ頭ごなしに締め付けるだけでは、国の経済の血液は止まって死ぬ。

 

「……以前、私自身の頭を整理するために書いた、自分用のメモがございます」

 

 俺は、覚悟を決めて言った。

 

「後の世の数々の『失敗』を見て、こうすれば少しは防げたのではないか、と私が勝手に整理しただけのものです。……これが正しいとは限りません。一気に導入するものでもありません」

 

「……むしろ。今、これらを一気に天下に布告したら、日ノ本の経済と役人の帳面が完全にパンクして、国が壊れると思います」

 

「構わぬ。その帳面を、すぐにここへ持って参れ」

 

 家康の即答に、俺は自室へ走り、極秘の分厚い帳面を取りに戻った。

 

 *

 

『いよいよ、本格的に「経済」の領域に手を出すのね』

 

 自室で帳面を抱えた俺に、KAMI様がニヤリと笑った。

 

「……本当は、絶対に手を出したくなかったんです。経済なんて、下手に触ったら全部が連鎖して壊れる、最悪のブラックボックスじゃないですか」

 

『その通りよ。人間の果てしない欲、信用、不安、見栄、災害、物流、制度、貨幣、米、税……。その全てがドロドロに絡み合った、超巨大なカオスシステムよ。一つ数字を弄れば、全く別の場所で致命的なバグが噴き出すわ』

 

「だから、これは『実装の仕様書』じゃありません」

 

 俺は、分厚い帳面を握りしめた。

 

「これは、これから起きるであろう経済のバグをまとめた……『障害予防リスト』です」

 

『なるほど。保守運用型らしい、正しいアプローチね』

 

 *

 

 小評定の間へ戻り、俺がその分厚い帳面を置くと、家康は目を丸くした。

 

「……多いな」

 

「全部やろうとしたら、公儀の算用役が全員、過労で泡を吹いて死にます」

 

 正純が、無言のまま、氷のような目で俺の帳面を凝視している。

 

 俺は、膨大なリストの中から、最も重要で、今から少しずつでも『堤』を築いておくべき五つの中核案を提示した。

 

「第一の柱。……『徳政令』、つまり借金帳消しを、原則として公儀の法から廃止することです」

 

 この言葉に、秀忠が眉をひそめた。

 

「借金を一方的に帳消しにする政策は、短期的には借り手を救い、民の心を掴むように見えます。……ですが」

 

 俺は、家康の目を見てはっきりと言った。

 

「それをやれば。金を貸す者は、次から金を貸さなくなります。あるいは、踏み倒される危険を見越して、最初から『法外な高利』をふっかけるようになります」

 

「結果として。……本当に金が必要で困っている者ほど、どこからも金を借りられなくなり、首を吊るしかなくなるのです。……徳政令は、国の『信用』という土台を完全にぶち壊す劇薬です」

 

 家康は、徳政令の持つ甘い麻薬のような魅力を知っていた。

 

 だが、俺の説明を聞いて、それが最終的に国の首を絞める毒になることを即座に理解した。

 

「だからこそ。借金の『帳消し』ではなく……『返済の猶予』『利息の一時停止』『分割への再計算』、そして『悪質な高利貸しの契約のみの無効化』へと、公儀の法の舵を切るべきなのです」

 

 正純が、「貸借の法的安定性」という観点から、深く頷いた。

 

「第二の柱。……『借金の限度額制度』です」

 

「借り手の収入、石高、扶持米、商いの規模に応じて……『公儀が保護してやる借金の上限』を、あらかじめ法で定めます」

 

「もし、貸し手がその上限を超えて無謀に金を貸した場合。……その超えた分については、公儀は『取り立ての訴え』を一切保護しません。勝手に貸したお前の自己責任だ、と突っぱねるのです」

 

「……なるほど」

 

 正純が、目を細めて身を乗り出した。

 

「公儀が『取り立てを守る範囲』を明確に区切ることで、借り手だけでなく、金を貸す側にも『貸し倒れの責任』を負わせ、無謀な貸し付けを未然に防ぐのですね」

 

「はい。ただし、ここで一つ注意がございます」

 

 俺は、資料の端を指で叩いた。

 

「この仕組みを作るには、帳面が要ります。けれど、帳面を増やしすぎれば、今度は誰も正しく書けなくなります。……全部を記録させようとすれば、全部が嘘になります」

 

 正純の目が、わずかに細くなる。

 

「項目を絞る、ということですか」

 

「はい。最初は最低限でよろしいかと。誰が、誰に、いくら、どの利息で、いつまでに返すのか。担保は何か。何のために借りたのか。……それ以上は、制度が育ってから増やすべきです」

 

 正純は少しだけ不満そうだったが、すぐに頷いた。

 

「帳面は、使える者がいて初めて帳面。……確かに、読めぬ帳面を山にしても、火付けの薪にしかなりませぬな」

 

「第三の柱。……『登録借金制度』です」

 

「正式な借金は、必ず村、町、藩、あるいは公儀の『帳面』に載せることを義務付けます。……借り手、貸し手、元金、利息、期限、担保、証人、そして『用途』をです」

 

「公儀の帳面に載っていない裏の借金、口約束の闇貸しは……一切、公儀の裁判では保護しません」

 

(ログに残っていない非公式な借金取引は、システムの障害対応の対象外とする。これぞ、完璧な運用監査だ!)

 

「第四の柱。……贅沢の『完全禁止』、つまり倹約令一辺倒をやめ、借金による贅沢を禁じ、見える贅沢から『税』を取ることです」

 

 この言葉に、家康が「ほう」と興味深そうに声を上げた。

 

「後の世の幕府は、何度も何度も『贅沢禁止』の触れを出しますが……結局、金のある者は隠れて買い、職人は食えなくなり、賄賂と裏取引が横行して失敗します」

 

「悪いのは、高級な織物や茶道具などの『品物』そのものではありません。見栄を張るために、『返せない借金』をしてまでそれを買うことが悪いのです」

 

「現金で買う高級品は、許可します。職人の生業と文化を殺してはなりません。……その代わり、高級衣装、茶道具、刀装具などは『登録制』とし、購入時に薄く広く手数料を取る仕組みを作るのです」

 

 秀忠が、現実的な税収増の観点から真剣に検討を始めた。

 

 その一方で、この件については後ほど奥向きにも話を回し、孝子殿にも意見を求めることになった。

 

 孝子殿は、俺の案を聞くと、少し考えてから静かに言った。

 

「衣装や贈答、調度は、ただの浪費とは限りませぬ。時に、それは礼法であり、相手を軽んじていないと示すための言葉にもなります。……けれど、礼と見栄は似て非なるもの。借金で礼を飾り、家を傾けるならば、それはもはや礼ではなく、見栄にございます」

 

 その言葉で、俺の中でも少し整理がついた。

 

 殺すべきは文化ではない。

 

 職人の技でもない。

 

 殺すべきは、返せない借金で礼の皮を被った見栄を膨らませる仕組みなのだ。

 

「第五の柱。……米札・蔵札の『発行上限』を厳密に定めることです」

 

 すでに俺たちが運用し始めている蔵札だが、ここが一番危ない。

 

「蔵にある米の量以上の札を、大名が勝手に刷って出すことを、絶対に禁じます。……むしろ、蔵米の全量ではなく、常に一定の割合までに留めるよう、公儀が監査します」

 

「引き換えられない札が出回れば、それはただの紙切れになり、世の中の全ての帳面と信用が崩壊します」

 

 *

 

 これら五つの柱は、全て一つの強固な思想で繋がっていた。

 

『信用を壊さない』

 

『借金を無制限に膨らませない』

 

『見えない裏の金の流れを減らし、帳面に載せる』

 

『札の裏付けとなる現物を絶対に守る』

 

『贅沢を地下化させず、公儀の税と登録の枠内に置く』

 

「……多いな」

 

 家康は、分厚い帳面を見て苦笑した。

 

「しかし。……これは、武家諸法度や一国一城令よりも、ある意味では遥かに厄介で、骨の折れる政じゃな」

 

 刀で天下を従わせるのではない。

 

 武士と民の「財布」と「見栄」と「生活」の全てに、冷徹な法の網を掛けるのだ。

 

 家光が、ふと、重要なことに気がついた。

 

「……国松。同じ『借金』であっても。……水路を直したり、農具を買うための借金は、翌年の米を『増やす』よい借金だ。だが、身分に合わぬ豪華な宴席や、賭博で作る借金は、米を『増やさぬ』悪い借金だ」

 

 俺は、兄のその言葉に深く頷いた。

 

「はい、家光様。……借金そのものが、悪なのではありません。増える借金と、消える借金があるのです」

 

「……公儀は、その『悪い借金』の氾濫を防ぐための、巨大な『堤』を作らねばならぬのだな」

 

 家光は、次代の将軍として、経済の根幹をなす「信用」と「借金」の恐ろしさを、確実に見据えていた。

 

 *

 

 会議が終わり。

 

 この途方もない経済改革案は、「いきなり天下に布告して混乱させるのではなく、まずは江戸、大坂、長崎などの一部の天領で、試験的に導入して不具合を洗い出す」という現実的な方針に落ち着いた。

 

 俺は自室に戻り、新しい帳面の表紙に筆を入れた。

 

『|公儀貸借并信用仕法試案《こうぎ・たいしゃくならびにしんよう・しほうしあん》』

 

 そして、副題として書き添える。

 

『徳政に頼らず、破綻を未然に防ぐための控』

 

『……借金にも、堤が要る、ということね』

 

 KAMI様が、帳面を覗き込んで言った。

 

「はい。……水は必要です。水を流す水路も必要です。でも……頑丈な堤がなければ、水は必ず溢れ出し、全てを押し流す大洪水になります」

 

 金も同じだ。

 

 借金も同じだ。

 

 適切に流れれば、田畑を潤し、商いを豊かにする。

 

 だが、限界を超えて溢れ出せば……家も、村も、藩も、そして幕府という国そのものすらも、容赦なく根底から押し流して崩壊させるのだ。

 

 元和五年の江戸は、旧正月の穏やかな祝いの空気に包まれていた。

 

 だが、その華やかな祝いの裏で、俺はようやく、この国の本当の恐ろしさに気づき始めていた。

 

 泰平の世とは。ただ刀を置き、戦を止めるだけでは足りない。

 

 人が笑い、安心して金を使える豊かな世を永く続けるためには。

 

 ……その『金』と『見栄』が、人を殺し、国を壊さぬように。

 

 目に見えない、強固で巨大な『帳面の堤』を、血反吐を吐きながら築き上げ続けなければならないのだ。




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