暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第125話 水神様、枯れる田に見切りをつけて蔵を開く

 元和五年。

 

 御異物改方の自室。

 

 俺の机の上には、先日ようやく書き終えたばかりの、重苦しい『遼東四路敗報并薩爾滸合戦聞書』の帳面が置かれていた。

 

 そのすぐ隣には、昨夜、関東郡代の役人から届けられた、紙切れ一枚の小さな報告書がぽつんと置かれている。

 

『関東諸国、春より雨少なし』

 

 俺は、その一文を読んで、最初はそこまで深刻に受け止めきれなかった。

 

(……昨日まで、明の大軍が壊滅して、東アジアの勢力図が大きく変わる話をしていたせいか。『雨が少ない』というだけの報告が、妙に穏やかな日常の出来事に見えてしまうな)

 

 だが、隣でその報告書を覗き込んだ本多正純が、冷静な声で即座に返した。

 

「国松様。百姓にとっては、海の向こうの明の大軍よりも、己の田へ降る一滴の雨の方が、はるかに己の生死に近うございます」

 

 俺は、はっとして言葉を失った。

 

 その日の昼。

 

 さらに追加の報告が、次々と届き始めた。

 

 武蔵。

 

 相模。

 

 上総。

 

 下総。

 

 常陸。

 

 上野。

 

 甲斐。

 

 駿河。

 

 一つ一つは、

 

『例年より雨が少ない』

 

『田植えが少し遅れている』

 

『溜池の水位が低い』

 

 という、個別の小さな不調に見える報告だった。

 

 しかし。

 

 全く別々の国から、同じ時期に、同じ傾向の報告が上がってきている。

 

 俺は、先日のサルフの戦いを分析した時と同じ思考回路を働かせた。

 

「一つの村だけなら、局地的な水不足です。ですが、別々の国から一斉に同じ報告が来るなら、これは一つの広域障害として扱うべきです」

 

『今度は四つの敗報じゃなくて、何十もの乾いた田んぼから、同じ障害報告が届き始めたわね』

 

 俺は、真新しい帳面を急いで開いた。

 

 表題は、

 

『元和五年 諸国雨水用水并作柄早見控』

 

 この段階では、まだ『大旱魃』や『飢饉』とは書かない。

 

 確定していない災害の名を先に広め、民の不安を無闇に煽らないためだ。

 

 だが、作柄報告の頻度は大きく引き上げた。

 

 通常は月ごとだったものを、十日ごと。

 

 危険な地域には、五日ごとの報告を義務付ける。

 

 報告の項目も統一した。

 

 雨が降った日数。

 

 川や水路の水量。

 

 溜池の水位。

 

 田植え済みの割合。

 

 苗の色と枯れ具合。

 

 井戸の水位。

 

 米、麦、粟の市場価格。

 

 牛馬の衰弱の有無。

 

 村を離れた者の数。

 

 発熱や腹下しなどの病人の数。

 

 そして、

 

『種籾を売却、または食用へ回した家の有無』

 

「被害が出て、死者の数を数えるだけの帳面では遅いんです」

 

 俺は正純に言った。

 

「破滅へ向かっている兆候の数字を、今すぐ数えさせてください」

 

 *

 

 日が進む。

 

 空は、皮肉なほどに青く、残酷に晴れ続けた。

 

 一度だけ、黒い雲が出た日があった。

 

 村人たちは泣いて喜び、雨を待って田へ集まった。

 

 しかし、生温かい風だけが強く吹き抜け、雲は一滴の雨も落とさずに流れ去っていった。

 

 局地的な夕立が降る場所もある。

 

 だが、隣の村には一滴も落ちない。

 

 用水路の流れが、日に日に細くなっていく。

 

 水車が止まる。

 

 田の泥が白くひび割れ、乾き始める。

 

 植えたばかりの青い苗が、黄色く縮れていく。

 

 水が足りず、田植えそのものを終えられない村も出始めた。

 

 飲み水を確保するための井戸すら水位が下がり、村の中で使用順を巡る諍いが起きる。

 

 農民たちは夜中にも水路へ出て、自分の田へ少しでも多くの水を引こうと、血走った目で動き始めた。

 

 俺が過去に水路へ設置させた水番や水札の制度は、平時には機能していた。

 

 しかし。

 

 分けるべき水そのものが、根本的に足りなくなれば。

 

 決められた規則どおりに水を分けても、全員を救うことはできない。

 

「分け方をどれほど綺麗に決めても、分ける水そのものがなければ意味がない……」

 

『そうね。絶対量が足りない時に、無理に平等を貫いて不足を全員へ等しく配れば、全員が仲よく少しずつ死んでいくだけよ』

 

 俺は、KAMI様のその残酷な言葉を、すぐには受け入れられなかった。

 

 *

 

 旱魃の噂が深刻になるにつれて。

 

 皮肉なことに、俺への水神様としての信仰と期待が、異常な勢いで膨れ上がり始めた。

 

 各村から、悲痛な嘆願書が次々と届く。

 

『水神様が御自ら祈り給わば、必ず天より雨降るべし』

 

『国松様が御手を川へ浸せば、水満ちるとの噂あり』

 

『先日のローマの水鏡会談で出たという夜光石を池へ沈めれば、天が応えて雨が降ると申す者あり』

 

 さらに、町方では便乗した詐欺商法まで飛び出し始めた。

 

『水神様が清めた雨呼びの水』

 

『国松様直筆の雨乞い護符』

 

『夜光石の欠片』

 

「いい加減にしろ!」

 

 俺は激怒した。

 

「私は雨など降らせられません! 夜光石を池へ沈めても、石が水底で光るだけで雨雲は来ません! それ以前に、厳重に管理している奇物を勝手に池へ沈めようとしないでください!」

 

 だが。

 

 雨を求める民の祈りそのものを、完全に禁じることはできなかった。

 

「追い詰められた民から、祈ることまで法で奪う必要はない」

 

 家康が静かに言った。

 

「されど、その切実な祈りを食い物にして、詐欺を働く者は許すな」

 

 俺は寺社へ向け、すぐに触れを出した。

 

 雨乞いの祈祷は認める。

 

 ただし、祈祷の名で法外な金を取ってはならない。

 

 水源へ汚物や大量の供物を投げ込み、水を腐らせてはならない。

 

 農作業を何日も止めるような、大規模で狂騒的な祭礼は禁止する。

 

「そして、祈祷を行った寺社の者は、その後、必ず井戸さらい、水路の泥上げ、病人への粥運び、旅人や流民への飲み水の配布にも人を出してください」

 

「祈るなとは言いません。ですが、祈った後には、自分たちの手で井戸も掘ってください」

 

 宗教と実務を対立させるのではない。

 

 祈りという行為を、生きるための共同作業へ接続したのだ。

 

 *

 

 武蔵国のある地域から、一触即発の急報が入った。

 

 上流の村が、少ない水を独占するために堰を閉じ、自分たちの田へ水を集めた。

 

 その結果、下流の村へ水が行かなくなり、下流の田が急速に干上がっている。

 

 下流村の若者たちが夜中に鍬を持って堰を壊そうと押し寄せ、上流村も槍や竹槍を持って見張りを置いた。

 

 水を巡る殺し合いが起きる寸前だという。

 

 現地の役人が双方を集め、主張を聞いた。

 

 上流村は訴える。

 

「我らが今の少ない水を下へ分ければ、我らの田まで全て枯れまする!」

 

 下流村も叫ぶ。

 

「上だけ稲を残し、下の村は飢えて死ねと申すか! それではあんまりだ!」

 

 これまでの水番制度であれば、村ごとに定めた持分に従って、公平に分けるのが正しい。

 

 だが、俺が算用方へ詳細な試算を命じると、絶望的な事実が明らかになった。

 

「残った僅かな水を、上流と下流の全ての田へ均等に薄く流せば、水深が足りず、全ての田が弱り、上も下もほぼ全滅する可能性が高いです」

 

 もし、水持ちのよい田。

 

 用水路に近い田。

 

 まだ苗の状態が比較的よい田。

 

 それらへ残った水を集中させれば、全てへ薄く水を流すより、はるかに多くの稲を残せる見込みがある。

 

 つまり。

 

 全ての田を平等に救うことを諦めれば、一部の田は救える。

 

 逆に。

 

 全員を平等に救おうとすれば、全員が大部分を失う。

 

 俺は両手で顔を覆った。

 

「数字の理屈では分かります。でも、誰かの先祖代々受け継いできた田へ向かって、『あなたの田には、今年はもう水を入れません。枯らしてください』と、俺が命じるんですよね」

 

『ええ』

 

「それでも、やるしかない?」

 

『全部を救おうとして全部を失うなら、それは優しさじゃないわ。ただ、為政者が見切りをつける責任から、綺麗事で逃げているだけよ』

 

 *

 

 江戸城、小評定。

 

 家康、秀忠、家光、俺、正純、土井利勝。

 

 俺は、田の作柄と残り水量の状態から、田を三つに分ける臨時制度を提案した。

 

 制度名は、

 

『旱損田畑早見并用水配分定』

 

 第一段階。

 

 まだ稲を救える田。

 

 用水に近く、泥が完全には乾いておらず、苗の根がまだ生きている田。

 

 現在の少ない水量を集中させれば、一定の収穫を見込める。

 

 ここには、残った水を優先的に回す。

 

 第二段階。

 

 稲は難しいが、別の作物へ移れる土地。

 

 田植えを終えられなかった場所や、苗が大きく傷んだ場所。

 

 稲の収穫は期待できないが、粟、稗、大豆、蕎麦、芋、大根などへ植え替えれば、僅かでも食糧を得られる可能性がある土地。

 

 ただし、作物を江戸から一律に押し付けることはしない。

 

 庄屋や老農、その土地で長く耕作してきた者の意見を聞き、土地に合った作物を選ばせる。

 

 公儀は、不足する種を補助する。

 

 第三段階。

 

 今年の稲作を断念する田。

 

 完全に乾ききり、苗の根が死んでいる。

 

 残った水を入れても回復が見込めず、水を運ぶための労力が得られる収穫を上回る土地。

 

 ここへ水を流し続けることを止める。

 

 俺は、声の震えを抑えながら強調した。

 

「田を捨てるのではありません。今年の稲を諦めるだけです。土地そのものを取り上げたり、荒地扱いにしたりしてはいけません」

 

 家光が痛ましそうな顔で問うた。

 

「国松。田を諦めさせても、公儀は年貢を取るのか」

 

「取りません」

 

 俺は即答した。

 

「秋の収穫後まで待つ必要はありません。第三段階に分類された田は、直ちに今年の年貢の徴収見込みから外します」

 

 正純が鋭く確認する。

 

「まだ刈り入れ前であるにもかかわらず、公儀として、今年は取れぬと認めるのでございますな」

 

「はい。取れないと分かっている田を、秋まで帳面の上だけ収穫の見込みありとして残しておく方が、はるかに間違っています」

 

 家康が重く頷いた。

 

「帳面という紙の体裁を守るために、民へ存在せぬ米を出させるな。現実に合わせ、帳面の方を直せ」

 

 こうして。

 

 田を救うためではなく、村を残すための見切りが決定された。

 

 *

 

 制度が発表されると、各村から凄まじい反発と怒号が巻き起こった。

 

「水神様が我らの田を見捨てた!」

 

「雨を降らせられぬから、田を諦めて枯らせと言うのか!」

 

「よい田を持つ名主ばかり助けるつもりだ!」

 

「公儀は蔵の米を出したくないから、百姓へ雑穀ばかり食わせるのだ!」

 

 少なくとも、見切りを命じられた村々では。

 

 俺の水神様としての評判は、地に落ちた。

 

 水路を直し、田を増やし、米を多く取らせ、水害を抑えた。

 

 その実績によって得た信仰だった。

 

 だが今回は、その水神様自身が、

 

『全ての田は救えない』

 

 と公言し、一部の田への水を止めたのだから当然だ。

 

 家光が、俺の横顔を見て心配そうに言った。

 

「国松。このままでは、民に嫌われ、恨まれるぞ。水神様と呼ばれるお前が、田を諦めろと言うのだ。裏切られたと思う者も出る」

 

「そうでしょうね。でも、構いません」

 

 俺は兄上の目を見て言った。

 

「私が水神様として崇められ続けることより、一つでも多くの残せる田を残す方が大事です」

 

「全員へ薄く水を配って、全ての田を枯らした後に、『公儀は平等に努力しました』と言っても、飢える民にとっては何の意味もありませんから」

 

 家康が家光へ、為政者としての重い哲学を説いた。

 

「家光。見切りとは、ただ見捨てることではない。己の限られた力の中で、何を残すかを決めることじゃ」

 

「全てを救うと綺麗事を口にする者ほど、いざという時に何も選べず、結局は全てを失う」

 

 家光は深く唇を噛み締め、為政者としての苦しい選択を、その心へ刻み込んだ。

 

 *

 

 俺は、江戸城の机の上だけで帳面に線を引き、田へ見切りをつけることを嫌った。

 

 自ら、武蔵の農村へ馬を走らせた。

 

 容赦なく照りつける日差し。

 

 完全に泥が乾き、亀の甲羅のように白くひび割れた田。

 

 黄色く縮れ、ぱりぱりに枯れた苗。

 

 底が見え、泥まで乾いた用水路。

 

 泥の中で干からびた魚。

 

 水を求め、悲痛な声で鳴く痩せた牛。

 

 濁った井戸の底を、泥まみれになってさらう村人たち。

 

 村人たちは、俺の姿を見ても喜ばなかった。

 

 以前なら、

 

「水神様が来てくださった」

 

 と集まった者たちが、今回は暗い目で、遠巻きにこちらを見ている。

 

 第三段階に分類され、水を回さないと決定された枯れた田の前に、一人の老農が座り込んでいた。

 

「この田は、父も、祖父も、そのまた前の代も、汗水垂らして耕し、守ってきた田にございます」

 

「承知しています」

 

「水神様は、この田を殺せと申されるか」

 

 俺は逃げなかった。

 

 誤魔化さなかった。

 

「今年の稲は、諦めていただきます」

 

 老農の泥だらけの拳が、激しく震えた。

 

「では、我らは今年の冬、何を食えばよい!」

 

 俺は、老農の目を見て答えた。

 

「公儀の蔵の米です」

 

 老農や、周囲で聞き耳を立てていた村人たちが、一斉に顔を上げた。

 

「そのために、米が余って困った豊作の年にも、全てを酒や金へ変えず、鼠や湿気と戦いながら、公儀の蔵へ入れ続けてきました」

 

「今年、この田から取れない分の飯は、公儀の蔵から出します」

 

「後に、倍にして返せと、法外な利をつけて申されるのでは」

 

「申しません。これは高利の貸付ではありません。凶作の時に民を生かすため、公儀が貯めてきた米です」

 

「生きるための最低限の食糧は、働けるかどうかにかかわらず配ります」

 

「その上で、働ける方には、水路の補修、井戸掘り、炊き出し、米の運搬などの仕事をお願いします。その働きには、追加の米を賃として支払います」

 

「病人、老人、幼子、身重の者など、働けない方へは、働きを求めずに配ります」

 

 俺は、枯れ果てた稲の苗に、そっと触れた。

 

「この枯れた稲を救うために、皆さんまで一緒に死ぬ必要はありません」

 

「田は、来年もここにあります。人と種が残っていれば、来年、もう一度植えられます」

 

 老農は枯れた田を見つめたまま、声を出さずに泣いた。

 

 *

 

 江戸城へ戻った俺は、すぐさま公儀蔵の段階的な開放を提案した。

 

 しかし、勘定方や蔵奉行の役人たちから、猛烈な反対が巻き起こった。

 

「まだ六月を過ぎたばかりです! 刈り入れの時期には早すぎまする!」

 

「今後まとまった雨が降れば、持ち直す地域もありましょう!」

 

「今、公儀が蔵を開けば、天下へ今年は大凶作だと認めたことになり、米価がさらに上がります!」

 

「早く出しすぎれば、本当に米が必要となる冬に、蔵が空になってしまいます!」

 

「各村が被害を大きく偽り、米を求めて殺到する恐れもございます!」

 

 いずれの意見も、為政者としては正論だった。

 

 俺は、彼らの反対意見を頭ごなしに否定しなかった。

 

 その上で、秋の収穫まで待つことの危険を説明した。

 

「米価が完全に上がり切ってから出せば、途中で買い占めた者だけが大きく儲けます」

 

「農民が、来年の種籾まで食い尽くした後では遅い」

 

「農民が、田を起こすための牛馬を売り払った後では、来年、誰が田を耕すのですか」

 

「村人が村を捨て、江戸や街道へ流民として流れ出した後では、疫病の蔓延も、治安の悪化も、止めることが難しくなります」

 

「人が飢え、衰弱して病へ倒れてからでは、同じ一升の米を配っても、救える命が減るのです」

 

 俺は、決定的な言葉を放った。

 

「秋になって、『やはり凶作だった』と結果が分かってから蔵を開くのでは、半年遅いんです」

 

 正純が苦渋の顔で言う。

 

「されど、今、全ての蔵を開けば、冬を越せませぬ」

 

「全ては開けません。先に、蔵の米を用途ごとに分けます」

 

 *

 

 全国の公儀蔵。

 

 主要な城下蔵。

 

 御異物改方が把握する備蓄量。

 

 まず、帳面上の米と、実物が本当に一致しているか、抜き打ちで確認させた。

 

 結果。

 

 一部の蔵では、湿気、鼠害、虫、俵の破損、蔵番の不正や数え間違いにより、帳面よりも実物が少ないことが判明した。

 

 俺は内心で激怒した。

 

 だが、今は処罰を優先しなかった。

 

「責任追及は後です! まず、確実に食べられる米が何俵あるのかを、今日中に確定させてください!」

 

 そして、確定した米を三つに分けた。

 

 一つ。

 

 絶対に食べない種籾。

 

 来春の作付けに必要な分。

 

 地域ごとに必要量を計算し、救済米とは別の蔵へ移す。

 

 封印を二重にし、公儀役人と村方の双方の印がなければ開けられないようにする。

 

「種籾は、ただの米ではありません。来年の田そのものです。何があっても食わせないでください」

 

 二つ。

 

 翌春まで残す最低備蓄。

 

 冬の街道停止。

 

 積雪。

 

 河川の凍結。

 

 洪水や強風による輸送停止。

 

 それらを考慮し、翌春まで絶対に下回れない最低線を計算する。

 

 三つ。

 

 今すぐ使う救済米。

 

 古い米から先に出す。

 

 入れ替え時期の近い米。

 

 湿気る前に使うべき米。

 

 さらに、米だけでなく、麦、粟、稗、大豆、芋、味噌、塩、干魚などを組み合わせる。

 

「米だけで全員の腹を満たそうとすれば、蔵はすぐに空になります。食べられる物を組み合わせて、一日でも長く持たせます」

 

『備蓄の在庫回転ね。古い物から出し、新しい物と種を残す。基本よ』

 

 *

 

 小評定の間。

 

 家康の前に、蔵の在庫表が置かれた。

 

 今、蔵を開けば。

 

 数年をかけて増やしてきた備蓄が、目に見えて大きく減る。

 

 勘定方の者たちは、不安を隠せなかった。

 

 家康が俺の目を見て問うた。

 

「国松。この後に、もし大雨が降り、思ったほどの凶作にならなかったら、どうする」

 

「古い米を少し早く入れ替え、民へ食べさせたことになります。備蓄の米は無駄になりません」

 

「では、蔵を出し渋り、本当に大凶作となったら」

 

「米は、蔵に綺麗に残ります。ですが、その米を食べるはずだった民が先に失われます」

 

 深い静寂。

 

 家康は、短く、しかし絶対の権威を持って命じた。

 

「開けよ」

 

 勘定方の役人たちが、一斉に息を呑んだ。

 

 家康は厳しい顔で彼らを見据えた。

 

「蔵というものは、米を満たし、その数字を眺めて満足するために作ったのではない」

 

「民が食えぬ、いざという時に、躊躇なく空にするために作ったのじゃ」

 

 秀忠も続ける。

 

「ただし、無秩序にばら撒くのではない。どの蔵から何俵を出し、どの村へ運び、何人へ渡し、残りがいくらあるか。その全てを記せ」

 

 家光が、俺を見て深く頷いた。

 

「蔵を開くことと、蔵を無駄に空にすることは違うのだな」

 

「はい、兄上。使うために残し、残すために使うのです」

 

 公儀の蔵の扉が、ついに開かれた。

 

 *

 

 救済は、餓死者が出てから始めては遅い。

 

 対象地域を、赤札、黄札、白札の三段階へ分けた。

 

 赤札は、今年の米作が大きく損なわれる見込みの地域。

 

 直ちに配給を開始する。

 

 黄札は、収穫不足が見込まれる地域。

 

 米価、種籾、牛馬の売却を監視し、必要に応じて補助を行う。

 

 白札は、現時点で持ちこたえている地域。

 

 余裕がある場合は、近隣の赤札地域へ米や雑穀を回す。

 

 村ごとの人口と世帯数を確認する。

 

 乳幼児。

 

 老人。

 

 病人。

 

 孤児。

 

 身重の女。

 

 生きるための最低限の配給は、働きの有無を問わず行う。

 

 その上で、働ける者には、

 

 水路の補修。

 

 井戸掘り。

 

 溜池の泥さらい。

 

 米の運搬。

 

 炊き出し。

 

 病人用小屋の建設。

 

 牛馬の世話。

 

 そうした仕事を用意し、働きに応じた追加の米を賃として支払う。

 

「最低限の食糧は、働けるかどうかにかかわらず配ります」

 

「その上で働ける方には、復旧の仕事を頼み、その働きへ正当な賃を支払ってください。これは、哀れみという名の褒美ではありません」

 

 名主や村役人による横取りを防ぐため、

 

『村の人口』

 

『届いた俵数』

 

『一世帯当たりの配給量』

 

『次回の配給日』

 

 を村の入口や寺社へ掲示する。

 

 帳面に載っていない流民も、追い払わない。

 

「帳面にないから食べさせないのではありません。食べさせるために、臨時の帳面へ入れてください」

 

 *

 

 旱魃が長引く中。

 

 最も恐ろしい疫病の報告が増え始めた。

 

 高熱。

 

 疱瘡らしき発疹。

 

 激しい腹下し。

 

 嘔吐。

 

 原因の分からない衰弱。

 

 俺は、全てを一つの疫病と決めつけず、報告欄を細かく分けた。

 

『疱瘡らしき発疹』

 

『熱病』

 

『腹下し并嘔吐』

 

『原因不明の衰弱』

 

『牛馬の病』

 

『飢え、水不足、汚れた井戸、人の移動、炊き出し場での密集。全部が、病を広げる条件になるわよ』

 

「分かっています。だからこそ……」

 

 飲み水と、洗濯や家畜に使う水場を分ける。

 

 井戸の周囲へ汚物を捨てさせない。

 

 病人の食器や寝具を、可能な限り分ける。

 

 病人がいる家へは粥を直接届け、外出を減らす。

 

 大規模な市や祭礼は、一時的に縮小する。

 

 街道で倒れた病人を村へ追い返さず、仮小屋へ収容する。

 

 死者を放置しない。

 

 そして、最も重要な原則。

 

「病人が出た村を処罰してはいけません! 病を隠した村ほど得をする制度にすれば、病は村から村へ、国から国へ一気に広がります!」

 

「早く報告した村が、先に米と薬で助けられるようにしてください!」

 

 薬で全てを治せるとは言わない。

 

 だが、病人を飢えさせず、清い水を届けることはできる。

 

 食糧を求めて村から村へ歩かせないことも、病を広げないための対策になる。

 

 *

 

 江戸近郊の公儀蔵。

 

 重い錠と封が解かれた。

 

 蔵番が帳面を読み上げる。

 

 俵数を一つずつ照合し、古米から運び出していく。

 

 川船。

 

 荷車。

 

 馬。

 

 人足。

 

 米俵とともに、麦、粟、豆、味噌、塩が次々と積まれていく。

 

 俺は、その光景を静かに見つめていた。

 

(あの、米が取れすぎて相場が崩れると頭を抱えた頃。蔵が足りない。種籾を分けなければならない。酒へ回しすぎてはいけない。鼠と湿気から守り、古い米から使わなければならないと、散々苦労した)

 

(あの時は、本当に面倒で、鬱陶しいだけの作業に思えたけど)

 

『あの時、余った米を邪魔な在庫だと思って、適当に売り払ったり処分したりしなくてよかったわね』

 

「ええ」

 

『蔵が満杯の間は、場所を取るし、番人の給金は要るし、鼠は出るし、米は古くなるしで、面倒なことばかりよ』

 

「でも、空腹で死にかけている村へ、この俵が一つ届いた瞬間、あの地道な帳面作業の全部が必要だったと分かります」

 

 俺は蔵番へ命じた。

 

「一俵も、帳面だけで誤魔化して消さないでください」

 

「ですが、一俵も、帳面を守るためだけに蔵へ残さないでください」

 

 *

 

 数日後。

 

 見切りを命じた武蔵の村へ、公儀の荷車が到着した。

 

 米。

 

 麦。

 

 粟。

 

 大豆。

 

 味噌。

 

 塩。

 

 村人たちは、最初は遠巻きに荷を見ていた。

 

「本当に返せと言われぬのか」

 

「後で年貢へ上乗せされるのではないか」

 

「名主の蔵へ消えるのではないか」

 

 疑いの声が消えない中。

 

 公儀の役人は、その場で届いた俵数を読み上げ、村の入口へ書き出した。

 

 村人の前で封を切り、大鍋へ米と麦と粟を入れる。

 

 豆と芋を刻み、味噌を溶く。

 

 豪華な食事ではない。

 

 米だけの飯でもない。

 

 だが、湯気が立っていた。

 

 温かい粥だった。

 

 最初に椀を渡されたのは、幼い子供と病人だった。

 

 続いて老人。

 

 身重の女。

 

 その後で、他の村人たちにも順に配られた。

 

 先日、枯れた田の前で俺へ怒りをぶつけた老農も、その中にいた。

 

 老農は、差し出された椀を両手で受け取った。

 

「……本当に、蔵を開けたのですな」

 

 役人が答える。

 

「国松様より、飢える前に配れとの仰せにございます」

 

 老農は、湯気の向こうにいる孫の姿を見た。

 

 幼い孫が、両手で椀を抱え、夢中で粥を啜っている。

 

 老農は、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、枯れた田の方へ顔を向けたまま、低く呟いた。

 

「田は、今年は戻らぬ」

 

「されど……孫は、冬を越せるかもしれぬ」

 

 その言葉は、現地役人の報告書へ記された。

 

 *

 

 季節が進む。

 

 一部の田では、穂が出る前に稲が完全に枯れた。

 

 一部では、穂が立っても中身が入らなかった。

 

 雨が降り、僅かに持ち直した地域もある。

 

 雑穀への植え替えが間に合い、少ないながら収穫を得た村もある。

 

 疫病による死者も出た。

 

 牛馬を失った家もある。

 

 俺たちの力では、全てを救うことはできなかった。

 

 しかし。

 

 集まってきた帳面の数字には、この制度と備蓄がなければ起きていたはずの崩壊との差が現れていた。

 

 村を捨てて逃げる者の増加が、目に見えて鈍った。

 

 来年の種籾を食べたり売ったりする家が、大きく減った。

 

 田を起こす牛馬の投げ売りも減った。

 

 米価の上昇が、幾分緩やかになった。

 

 水争いによる死傷者も、制度を導入する前より減少した。

 

 病人を隠さず、正直に報告する村が少しずつ増えた。

 

 蔵の米は、恐ろしい勢いで減っている。

 

 だが、人が村に残っている。

 

 家光が、その帳面を見て言った。

 

「蔵の米は、確かに大きく減った。されど、村から消える人間の数も減った」

 

「はい。米を残す代わりに、人が消えて国が痩せるより、ずっといいです」

 

 家康が静かに頷いた。

 

「蔵の米は、数えやすい。だが、救われた命は目に見えぬゆえ、数えにくい」

 

「ゆえに愚かな役人は、米が減ったことばかりを失政として恐れる。将となる者は、そこを間違えるな」

 

「帳面から消えずに済んだ人間の方を見よ」

 

 家光は、深く頷いた。

 

 *

 

 御異物改方の自室。

 

 俺の前に、二冊の帳面が並べられていた。

 

『元和五年 諸国雨水用水并作柄早見控』

 

『元和五年 公儀蔵救恤米出入控』

 

 一冊目では、作柄見込みの数字が、残酷なまでに下がっている。

 

 もう一冊では、公儀蔵の米の残量が、恐ろしい勢いで減っている。

 

 だが、その横には、短い現場からの報告が並んでいた。

 

『公儀米到着。村人離散、ひとまず止む』

 

『種籾売却を中止す』

 

『用水争論、配分定により収まる』

 

『病家へ日々粥を届ける』

 

『牛二頭、公儀預かりとして命を保つ』

 

『見切りに異議を申した老農、公儀粥を受け、「田は戻らぬが、孫は冬を越せる」と申す』

 

「……蔵が、随分と空きましたね」

 

 俺が呟くと、KAMI様が現れた。

 

『不安?』

 

「少しは。でも、今までで一番、この蔵が蔵として働いている気がします」

 

『当然でしょう。蔵というのは、満たしたまま眺めて悦に浸るためにあるんじゃないわ。民が死にそうな、本当に必要な時に空にするためにあるのよ』

 

 派手な奇跡は、何一つ起きていない。

 

 雨は、俺の願いどおりには降らなかった。

 

 枯れた稲も、青くは戻らなかった。

 

 病も完全には消えていない。

 

 死者も出た。

 

 それでも。

 

 人々は生きて、村に残っている。

 

 来年植えるべき種も残っている。

 

 田を起こすための牛も残っている。

 

 田を救うことを、無慈悲に諦めたのではない。

 

 今年の実りへ見切りをつけ。

 

 人と種と、来年の田を救う方へ、限られた力を振り分けたのだ。

 

 蔵の米は減った。

 

 だが、その減った分だけ、村から消えずに済んだ人間がいた。

 

 満杯の蔵を残して、民を飢え死にさせるくらいなら。

 

 蔵など、空になればいい。

 

 そもそも、こんな時のために。

 

 俺たちは、あれほど面倒な帳面を書き続け。

 

 米を腐らせず。

 

 鼠から守り。

 

 種籾を分け。

 

 公儀の蔵を、増やしてきたのだから。




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