暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
元和六年、二月下旬。
過酷な旱魃をどうにか乗り越え、質素ながらも正月を祝ってから、しばらく後。
江戸の御異物改方では、俺が机へ向かい、帳面へ筆を走らせていた。
広げているのは、
『元和六年 春作再興控』
各地から届く報告は、決して手放しで喜べるものではない。
それでも、村々が次の春へ向けて、少しずつ前へ進んでいることを示していた。
厳重に封印していた種籾が、村の蔵へ無事に届いた。
春の苗代を作る場所が決まった。
旱魃と水争いで傷んだ堰の仮修理が終わった。
生き残った牛馬を、どの家がいつ共同で使うのか、その順番も定まり始めている。
疫病で働き手を失った家の田を、近隣の者が一時的に耕すための取り決めも結ばれていた。
昨年の飢えと渇きが残した傷は、まだ深い。
だが、来春の田植えへ必要な土台は、確かに組み上がりつつあった。
「……よかった」
俺は筆を置き、小さく息を吐いた。
「このまま大きな事件が起きず、平穏に田植えの時期まで進んでくれれば、ひとまず最悪の事態は脱せるな」
『 あなた、そういうことを口にすると、大抵ろくでもないことが起きるわよ』
視界の隅へ現れたKAMI様が、冷ややかに告げる。
「やめてくださいよ。そういう縁起の悪いことを言うから、本当に――」
俺が言い返そうとした時だった。
廊下から、いつもより速い足音が近づいてくる。
襖が開き、本多正純が部屋へ入ってきた。
息こそ乱していない。
だが、その顔には張り詰めた緊張が浮かんでいた。
「国松様。京より急報にございます」
差し出された書付を受け取る。
「二月二十七日。上京方面より出火。春先の乾いた強風に煽られ、町屋複数へ延焼。火勢、いまだ定まらずとのことにございます」
俺は、先ほどまでの安堵を忘れた。
最初の報告書には、錯綜した情報が並んでいる。
被害規模は、
『数十軒』
とするものから、
『数百軒に及ぶ』
とするものまで、全く一致していない。
火元も、
町家の竈。
職人町から飛んだ火の粉。
夜中の不審火。
あるいは放火。
いくつもの説が混在している。
「被害の確報を待ちますか」
正純が厳しい顔で尋ねる。
「待ちません」
俺は立ち上がった。
「ただし、出所も確かでない数字を、確定した事実として扱うこともしません」
京へ送る返書の内容を、すぐに口にする。
「火元調査、被害確認、避難民の保護、水と食料の確保を、一つの担当へ背負わせないよう伝えてください」
「焼失した家の総数を、今すぐ正確に出させる必要はありません。確認済みの町と、まだ確認できていない町を分ければ十分です」
「全てを同じ役人に抱え込ませれば、どの仕事も遅れます」
正純が頷く。
だが、俺たちが江戸で返書を作っている今も。
遠く離れた京では、すでに火と人との戦いが続いていた。
*
京都所司代・板倉勝重の前には、煤と汗にまみれた役人たちが、次々と駆け込んできていた。
「火は上京の町屋を南へ広がっております!」
「風向きが変わりました! 火の粉が西へ飛んでおります!」
「避難民が道を塞ぎ、火消し人足が入れませぬ!」
当然ながら、江戸からの返書など、まだ届くはずもない。
だが勝重は、江戸の判断を待って立ち止まることはなかった。
「禁裏の周囲へ火が回らぬか、風向きを常に確かめよ!」
「町年寄には、寺社と空き地を一時の避難場所として確保させよ」
「伏見と大津へも使いを走らせろ。米、味噌、塩、筵の用意を始めさせよ」
「火消し人足は一度に出し切るな。交代の組を必ず残しておけ」
勝重の前では、所司代配下の役人たちが、
『京中寺社井戸并蔵所控』
を開いていた。
寺社の名。
境内の広さ。
平時から水量が多いと記録された井戸。
公儀や町方の蔵。
そこへ次々と印が付けられ、使者の向かう先が決められていく。
長く京を預かってきた勝重自身の経験。
誰でも参照できるよう整えられた帳面。
その二つが噛み合ったことで、初動は江戸の返答を待たずに始まっていた。
だが、京の町の混乱は激しかった。
乾ききった強風に煽られた炎は、木造の屋根から屋根へ飛び移っていく。
人々は、
先祖代々の位牌。
長持。
布団。
商売の帳面。
職人道具。
米俵。
それらを荷車へ積み、狭い通りへ殺到した。
荷車同士がぶつかり、道を塞ぐ。
火から逃げようとする者と、大切な家財を取りに戻ろうとする者が、逆方向から押し合う。
「家財は置け! 命を守って逃げよ!」
町年寄が叫ぶ。
だが、一人の商人は、必死の形相で荷車へしがみついていた。
「これを焼かれたら、火から逃げ延びても、一家が食っていけなくなるんだ!」
彼らは愚かだから、荷物に執着しているのではない。
商売道具や帳面は、火災の後も家族を養うために必要な物だ。
命を守るために道を空けなければならない。
同時に、火災後の暮らしを守るため、家財も可能な限り残したい。
その二つが、狭い京の道で激しくぶつかっていた。
さらに、風下へ火が広がりかけた場所では、鳶口を持つ火消し人足たちが、一軒の町家を引き倒そうとしていた。
「やめてくれ!」
家主が人足へしがみつく。
「まだ火は移っておらぬ! 我が家を壊さないでくれ!」
「退け! ここを落とさねば、向こうの町まで燃える!」
町年寄と火消し頭が、燃え移る火の粉を見ながら、苦渋の判断を下した。
町家は引き倒された。
そこに生まれた空間によって、炎は一部で食い止められた。
だが。
崩れた我が家を見つめる家主の顔には、深い絶望があった。
「火に焼かれたのではない」
「町を守るために、町の決め事で壊されたのだ」
「それでも我が家は、被害なしとされるのか……」
*
二月二十七日の火災。
後に続く大火の前触れとなった炎は、広い被害を出しながら、どうにか火勢を弱めた。
だが、それで終わりではなかった。
三日後。
二月晦日。
上京の別の場所から、再び火の手が上がった。
今度の炎は、前触れとなった火災よりも遥かに大きい。
強風に乗った火は、上京の町屋へ次々と燃え移った。
公家屋敷。
職人町。
寺院。
火は区別なく襲いかかり、相国寺にも被害が及んだ。
禁裏北西の市街も、黒煙と火の粉に覆われる。
禁裏の内部では、次々と報告が飛び交っていた。
「主上! 御所の宝物を運び出す支度を!」
「帝の御避難先を定めねばなりませぬ!」
「女房衆と御子様方を、奥へ!」
公家たちは帝を守ろうとしていた。
だが同時に、自らの屋敷や家族の安否も気にかかる。
情報は入り乱れ、禁裏は統制を失いかけていた。
「騒ぐな」
後水尾天皇の声が響く。
「朕の御所だけを固く守り、逃げ場を失った町の者を、門外へ追いやってはならぬ」
とはいえ、禁裏の内側へ無制限に避難民を入れれば、さらなる混乱を招く。
そこで朝廷は、
周辺寺院。
公家屋敷の広い庭。
火の手から離れた空地。
それらを一時避難先として開くよう、手配を始めた。
それは何より、後水尾天皇自身が、町の民を見捨てなかった結果だった。
だが同時に。
幕府が先のおよつ御寮人問題で禁裏の領分を尊重したことで、公武が互いを警戒するだけでなく、災害へ協力できる余地が残されていたようにも見えた。
*
江戸では、鷹司孝子殿のもとへ、京の実家から報せが届いていた。
親族の無事。
焼けた公家屋敷。
寺へ逃げ込んだ人々。
道を塞ぐ牛車と荷車。
火が近くまで迫った時の様子。
孝子殿は、親族が無事であったことには安堵した。
だが、故郷の混乱を記す文字を見つめる表情は硬い。
「上京の道は、普段は広く見えても、牛車や家財を積んだ荷車が重なれば、すぐに塞がります」
小評定へ呼ばれた孝子殿は、京で育った者として、具体的な危険を語った。
「寺の境内を避難先として開いたとしても、ただ人を入れるだけでは数日で立ち行かなくなります」
「飲み水と厠を離し、病の者と健康な者を分けなければ、火を逃れた後に病が広がりましょう」
俺は制度を考えることはできる。
だが、京の道の幅も、公家社会の感覚も、寺院ごとの事情も、孝子殿の方が遥かに深く知っている。
彼女は故郷を案じるだけの姫ではなかった。
江戸と京の間で、それぞれの事情を相手へ伝わる言葉へ直す、重要な翻訳者となっていた。
*
二月二十七日の急報を受けた俺たちが、京へ返す書付を整えている最中。
次の早馬が江戸へ到着した。
「二月晦日、上京にて再び大火!」
「先の火災を上回る範囲へ延焼! 相国寺にも火が及んだとの報にございます!」
「また……」
俺は、新たな書付を握り締めた。
最初の報告へ対応するために、江戸で話し合っている間に。
京では、すでに次の大火が起きていた。
届いた報告の数字は、やはり一致していない。
『焼失、千軒余り』
『二千軒を超える』
『上京の広い範囲が焼けた』
死者の数も分からない。
火元も、
竈。
放火。
前の火災の残り火。
寺院の灯明。
鍛冶の火。
報告ごとに違っている。
「結局、何軒焼けたのだ」
秀忠が苛立ちを隠さず尋ねた。
「現時点では、確かな総数を申し上げられませぬ」
正純が答える。
「分からない数字を、江戸で無理に一つへ決めなくてよいです」
俺は、机の上へ広げた報告を指した。
「最低でも、どの町まで焼けたことが確認できているのか」
「まだ確認できていない町はどこか」
「その二つを分けてください」
「千軒か二千軒かを決めるために時間を使っている間にも、京には今夜眠る場所のない人がいます」
正純が俺を見る。
「放火の疑いがあるならば、下手人の探索を急がせるべきではございませぬか」
「火付けの者がいるなら、必ず捕らえなければなりません」
俺は否定しなかった。
「ですが、最初に数えるべきものは、犯人の足跡ではありません」
指を折りながら、確認するべきものを挙げる。
「一。生きている人と、行方の分からない人」
「二。火傷、煙、倒壊、避難中の事故で傷ついた人」
「三。灰や汚れが入っておらず、飲むことができる井戸」
「四。焼け残った米、味噌、塩と、炊き出しができる場所」
「五。今夜、雨風をしのげる寝床」
「六。まだ火がくすぶり、再び燃え広がる危険のある場所」
「下手人を捕らえても、今夜の水と寝床は増えません」
「犯人捜しと人命救助を、一つの担当へ背負わせないでください」
俺たちは、京へ返す書付を書き直した。
だが。
その返書が江戸を発つより前に。
三頭目の早馬が、御異物改方へ到着した。
*
「京より、再度の急報にございます!」
使者は煤と泥にまみれていた。
「三月四日、上京にて再び出火!」
「二月晦日の火を免れた町へ、火勢が広がっております!」
「避難所にも火の粉が降りかかり、焼け出された者が、再び逃げております!」
俺は、言葉を失った。
二月晦日の第一の大火から、わずか四日後。
京は、第二の大火に襲われていた。
「私たちが最初の火災について話している間に……」
俺は、三通の報告を見比べた。
「京では、その後に二度も大きな火が起きていた……」
江戸に届く情報は、常に過去の京だ。
今、俺たちが地図の上で見ている火は、もう燃え尽きているかもしれない。
逆に、地図にはまだ描かれていない場所で、新たな火が上がっているかもしれない。
「これでは、江戸から今燃えている家へ、細かな命令など出せません」
俺が呻くと、家康が深く頷いた。
「遠く江戸の安全な城から、古い火の絵図を眺め、今燃えておる現場へ指図するな」
「我らが決めるべきは、板倉と京の者たちが、次に何か起きた時、すぐに動くための権限と備えじゃ」
「はい」
俺は考えを切り替えた。
江戸から送るのは、今燃えている家を消す命令ではない。
現地が次の判断を下すための権限。
必要な物資。
そして、適切な緊急対応を行った者が、
『江戸の事前許可を取らなかった』
という理由だけで、後から処罰されないための保証だ。
「京都所司代の裁量で、定めた範囲まで米、薪、筵、材木を買い上げられるようにします」
「何を、誰から、いくらで買ったかは、後から帳面へ残してもらいます」
「ですが、江戸の許可を待たずに動いたこと自体は、責任にしません」
正純が確認する。
「白紙の委任ではなく、支出の上限と記録の義務を定めた緊急権限ということにございますな」
「はい」
「現場を縛らないために権限を与えます。ですが、後から何をしたのか分からなくしてよいわけではありません」
物資も、江戸から直接送るだけでは遅い。
大坂。
伏見。
大津。
近江。
京に近い複数の土地から、分散して集める。
大坂は、すでに豊臣家から切り離された、公儀側の重要な物流拠点だ。
だが大坂から一度に大量の米を抜けば、今度は大坂の相場が崩れる。
そこで、
大坂から米と塩。
伏見から舟と人足。
大津と近江から薪、木材、筵。
京周辺の寺社から炊き出し場所。
それぞれ、無理のない範囲で分担させる。
淀川の水運だけにも頼らない。
陸路も併用する。
「現地へ与えるのは、細かな命令ではありません」
「すぐに判断するための権限と、使える物資と、正しく動いた者を後ろから支える仕組みです」
*
だが、江戸でその方針が決まるより先に。
京では板倉勝重と町衆が、すでに必要な運用を始めていた。
後から届いた報告の中に、俺は意外な記述を見つけた。
『焼残井戸、三種の札を掛け分けたり』
『飲用可』
『消火并洗浄用』
『使用停止』
札の形や縄の結び方も変え、文字が読めない者にも区別できるようにしたという。
「もう始めている……」
俺が思わず声を漏らす。
「板倉殿が、現場で必要と判断されたのでございましょう」
正純が答えた。
「なら、この運用を邪魔しないよう、札、縄、人足、井戸を浚う道具を補いましょう」
俺が何もかも考え、京へ教える必要などなかった。
現場には現場の知恵がある。
中央の役割は、それを自分たちの手柄として奪うことではない。
役に立つ運用が続けられるよう、後ろから支えることだった。
避難所となった寺社や空地では、生存者の名と出身町を記す作業も始まっていた。
身元確認が終わるまで食料を渡さない、という運用にはしない。
まず食べさせ、休ませる。
その後に、
『誰が』
『どこから来て』
『どの避難先にいるか』
を記録する。
記録の目的は、配給の重複を見つけるためだけではない。
火災で離れ離れになった家族を、もう一度引き合わせるためでもある。
町会所や寺の門前へ、避難者の名を記した書付が張り出された。
文字を読めない者のために、係の者が声に出して読み上げる。
避難所の境内も、
家族世帯。
単身者。
負傷者。
病人。
炊き出し。
厠。
可能な範囲で区画を分けた。
もちろん、現代の避難所のように整っているわけではない。
筵も布団も足りない。
寒さに震える者もいる。
食料の配分を巡る争いも起きる。
それでも、井戸の脇へ厠を掘るような混乱だけは、減らすことができた。
飲用を止められた井戸の前では、
「水神様の仕組みだというのに、目の前の水を飲ませぬのか」
という恨み節も出た。
だが、水があることと、その水を飲めることは別だ。
灰や汚れの入った水を飲み、火災後に病が広がれば、さらに多くの命が失われる。
飲用可能な井戸には人足を置き、順番を守って水を汲ませた。
*
最初の火災で、延焼を防ぐために壊された町家についても、問題が起きていた。
「我が家は焼けたのではない!」
「町を守るため、町年寄と火消し頭の判断で壊されたのだ!」
「それなのに、焼失家ではないから助けは出ぬと言われた!」
家主たちが所司代へ訴え出ているという。
俺は報告を読み、方針を定めた。
「公の判断によって壊した家を、被害なしとして帳面から消してはいけません」
被害区分へ、
『延焼防止のための破却』
を追加する。
ただし、誰かが勝手に隣家を壊した場合まで、自動的に補償することはしない。
所司代配下。
町役人。
火消し責任者。
そうした複数の者が、延焼防止のため必要と判断した破却を対象とする。
支援内容も、家一軒の価値を全て公儀が現金で払うようなものにはできない。
仮住まい。
再建用材を購入する際の優先。
一定期間の負担軽減。
町内での共同再建。
公儀、町、家主が、それぞれ負担を分ける。
「全体を守るために家を壊したのなら、その損を家主一人だけへ背負わせてはいけません」
*
三月四日の第二の大火以降。
京の町には、黒い疑念が広がっていた。
「これほど火が続くのは、偶然ではない」
「火付けが町に潜んでいる」
火事場泥棒。
商売敵。
夜道を歩いていた旅人。
普段から町内で嫌われていた者。
根拠もないまま疑われ、捕らえられかける者が出た。
恐怖に駆られた町人が、不審者とされた男へ手を上げ、私刑へ発展しかけた例も報告された。
「放火ならば、直ちに下手人を捕らえ、火刑に処すと布告すべきではないか」
秀忠が険しい表情で言った。
「厳罰を示せば、民の不安も少しは収まるであろう」
家康は、静かに首を横へ振った。
「まだ下手人も、それぞれの火が同じ者の仕業かも分かっておらぬ」
「分からぬうちから罰だけを叫べば、恐怖に駆られた者たちへ、誰でもよいから犯人に仕立てて差し出せと命じるのと同じじゃ」
家康は秀忠を見た。
「人は、誰か一人を殺せば、それで安心できるわけではない」
「次に火が出た時、どこへ逃げるのか」
「水はどこにあるのか」
「家を失えば、今夜どこで眠れるのか」
「それが分かって、初めて少し安心できる」
前話で語られた、民の得心。
それは凶作と正月だけに必要なものではない。
災害の混乱の中でこそ、
『公儀が何を知っているか』
『何をまだ知らないか』
『今、何をしているか』
を正直に伝えなければならない。
「下手人を捕らえると叫ぶだけでは、民の得心は得られぬ」
家康は言った。
「分かっておることと、分からぬことを分けて語れ」
*
所司代から、京の町へ新たな書付が出された。
現時点で確認されていること。
二月二十七日、二月晦日、三月四日に、大きな火災が起きた。
複数の場所で、不審な火を見たという証言がある。
まだ分からないこと。
全ての火が同じ原因なのか。
放火犯が一人なのか複数なのか。
全てが放火なのか、一部に失火が混じっているのか。
そして、公儀が今行っていること。
火元と風向きの調査。
目撃者の聞き取り。
夜回りの登録。
避難路の確保。
水桶、縄、梯子の補充。
被災者の保護。
噂も、私刑の危険も消えなかった。
不審火は、その後もしばらく京を脅かし続けた。
それでも、公儀が確認した事実と、町で流れる噂を見分けるための、最低限の物差しにはなった。
火元調査のため、
『元和六年 京師連日出火見聞控』
も作られた。
日付。
時刻。
場所。
風向き。
最初に炎を見た位置。
油や火を持つ者を見たか。
証言者と火元とされた家の関係。
自分で見たのか、誰かから聞いたのか。
同じ噂を十人が語っても、元を辿れば一人の見間違いかもしれない。
又聞きと目撃を分けなければ、噂の数を証拠の数と取り違える。
この回では、火付けの下手人はまだ特定しない。
調査は、その後も続けられる。
*
大火が続いたことで、自発的な夜回りも増えた。
だが、無秩序な夜回りは、
旅人を勝手に捕らえる。
商売敵を放火犯扱いする。
夜回り同士が衝突する。
そうした新たな混乱を生む。
そこで、
担当区域。
交代時刻。
夜回りの名。
腕札と提灯の印。
不審者を引き渡す場所。
それらを町ごとに記録させた。
夜回りへ、
『捕らえた者を殴ってよい権利』
は与えない。
危険物を持つ者を止め、役人へ引き渡すところまでだ。
火を扱う商売についても、
「危険なのだから、全て止めよ」
という意見が出た。
風呂屋。
鍛冶屋。
煮売り。
蝋燭作り。
焼物。
しかし、それらを全て止めれば、避難民の衛生と食事が悪化する。
鍛冶を止めれば、火消し道具の修理もできない。
「全面禁止にはしません」
俺は方針を示した。
「強風時は火を使わない」
「夜間に火を使う場合は町へ届ける」
「水桶と濡れ筵を用意する」
「火を消した時刻を、隣家と確かめ合う」
「危険な時間と場所を絞ってください」
正月の祝いと同じだ。
全てを止めれば、管理する側は楽になる。
だが、町の暮らしそのものが止まってしまう。
*
一度目の大火で道端へ運び出された家財も、第二の大火では大きな障害となった。
荷車と長持が避難路を塞ぐ。
積み重ねられた布団や木箱へ火の粉が移り、新たな燃料となる。
「財産を捨てろとは言いません」
俺は、京へ送る方針書へ書いた。
「ですが、人が逃げる道へ置くことは認められません」
河原。
広い寺社の境内。
安全を確認した焼け跡。
そうした場所を家財の仮置場とし、持主の名を書いた木札を付ける。
盗難を全て防ぐことはできない。
それでも、誰の物か分からないまま、道へ積み上げるよりはよい。
さらに。
京の一つの町では、二度の大火を経験した町衆が、自分たちで新たな火事の掟を作っていた。
町境を越えて消火を助け合う。
水桶、梯子、鳶口を、決めた場所へ置く。
強風の夜には交代で見回る。
延焼を止めるため家を壊す時は、町役人と火消し責任者など、複数の同意を得る。
壊した家の再建を、町全体で助ける。
不審者を見つけても、勝手に殺さず役所へ渡す。
板倉勝重は、その町掟を読んだ。
「他の町でも使える部分を写させよ」
「ただし、そのまま押しつけるな。道幅、井戸、空地は町ごとに違う。各町の事情に合わせて改めさせよ」
後から報告を読んだ俺は、驚いた。
「江戸が考えた制度じゃない」
「京の人たち自身が作ったんだ……」
家康は薄く笑った。
「火の熱さを知っておるのは、遠く江戸にいる我らより、町の者じゃ」
「筋の通った掟ならば、公儀が手柄として横取りするな」
「必要な物を補い、他の町へ伝える手助けをせよ」
旱魃を経験した村人たちが、自ら次の渇水へ備え始めたように。
京の町衆もまた。
幕府に守られるだけの被災者から、自分たちの町を守る主体へと変わり始めていた。
*
夜回り。
火扱いの制限。
避難路の確保。
井戸の分類。
町掟。
それらによって、出火の発見と初動は、以前より早くなった。
だが、不審火が消えたわけではない。
小さな火は、その後もしばらく続いた。
夜ごと見張りへ立つ者たちの疲労も重なっていく。
京の町は広く焼けた。
家を失った者は多い。
死者も負傷者も出た。
火災そのものを防げなかった事実は、消えない。
それでも。
町全体が統制を失い、疑心暗鬼と私刑によって内側から崩れていくことだけは、少しずつ防がれ始めていた。
そして。
火が鎮まり、本格的な復旧へ移ろうとした頃。
京から、復旧と全く同じ人と物を求める、厄介な書付が届いた。
『和子御入内諸支度 火災影響書上』
*
和子姉上の入内行列に使う予定だった宿の町屋が、焼失している。
大工の多くは、被災した家の仮修理へ回っている。
畳。
建具。
材木。
どれも足りない。
荷車と馬は、救援物資の輸送に使われている。
警固の人員は、夜回りと火元調査へ割かれている。
行列の沿道には、焼け跡と避難民の仮屋が残る。
和子姉上の入内まで、あと数か月。
小評定では、二つの意見がぶつかった。
「焼けた京へ、大行列を通すべきではない」
「入内は翌年へ延期し、まず京の再建を優先すべきだ」
延期論。
だが、ここで延期すれば、
『およつ御寮人問題に不満を抱いた徳川が、火災を口実に入内を渋った』
と朝廷側に受け取られかねない。
ようやく確かめ直した公武の約束が、再び揺らぐ危険もある。
一方。
「公武の約束を天下へ示すため、予定どおり盛大に行うべきだ」
という強行論も出た。
しかし、それを行えば。
被災者の仮屋に使う材木を奪う。
町を直す大工を入内支度へ回す。
避難民を宿から追い出す。
救援用の米と馬を、行列のために使う。
「どちらを選んでも」
俺は呻いた。
「誰かが、徳川は自分たちを軽んじ、見捨てたと思うことになります」
小評定へ呼ばれた和子姉上が、静かに口を開いた。
「私の入内のために、焼け出された方々の仮の屋根を奪わないでください」
「私が眠るための畳を整えるために、京の方々を冷たい土の上で眠らせることも望みません」
「約束を守ることと、被災した方々を押しのけることは、同じではないはずです」
孝子殿も、深く頷いた。
「入内の礼を守りながら、京の復旧を妨げない形を探すべきにございます」
家康が俺たちを見回した。
「ならば、その形を探せ」
「延期するか、被災者を押しのけて強行するか」
「初めから、道を二つに狭めるな」
*
御異物改方の自室。
俺の机の上には、二冊の帳面が並べられていた。
一冊目。
『元和六年 京師焼失町并避難者控』
京の復旧に必要なもの。
材木。
大工。
畳。
筵。
荷車。
馬。
米。
味噌。
宿。
二冊目。
『和子御入内諸支度控』
入内を約束どおり行うために必要なもの。
材木。
大工。
畳。
荷車。
馬。
米。
宿。
警固の人員。
「……見事に、全部同じですね」
俺は疲れた目をこすった。
『 災害復旧と、天下最大級の公的儀礼を、同じ町で同時に動かそうとしているんだもの。必要な資源が競合するのは当然でしょう』
「姉上の入内まで、もう数か月しかありません」
『 だからといって、被災者の仮屋から柱を抜いて、入内の支度へ回すわけにもいかないわね』
最初の火は、京の家を焼いた。
二月晦日の第一の大火は、町を広く焼いた。
四日後に上がった第二の大火は。
一度目の大火を生き延びた人々の体力と。
焼け残った水と。
運び出された家財と。
これから町を立て直すために残されていた、僅かな余裕まで奪っていった。
炎は、ようやく鎮まり始めた。
だが。
火を消す仕事が終われば。
今度は、焼けた家を建て直す仕事が始まる。
焼けた家を建て直そうとすれば。
数か月後に迫る、和子姉上の入内と。
同じ材木を求め。
同じ大工を求め。
同じ宿と、馬と、米を求めることになる。
京の町の復旧も。
和子姉上の未来を懸けた入内も。
どちらも、後へ回してよい仕事ではない。
だから俺は。
二冊の帳面の、どちらか一冊だけを諦めて閉じるのではなく。
二冊とも開いたまま。
焼けた京の町と。
姉上の未来を。
同じ町の中で、互いに踏み潰さず動かす方法を。
何としても探さなければならなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!