暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
和子姉上の部屋。
二冊の帳面から目を上げると、姉上は膝の上で両手を静かに重ねたまま、俺を真っ直ぐに見つめていた。
「その整えられた道を通った先で、私は、どのように生きればよいのでしょう」
「徳川の娘として、帝と幕府を繋ぐための冷たい橋になればよいのでしょうか。それとも、帝の妻となるのですから、徳川の家族であったことは忘れるべきなのでしょうか」
その問いに、俺は反射的に、為政者としてもっともらしい答えを返しかけた。
「姉上は、徳川と朝廷を平和に繋ぐ、立派な橋として――」
だが。
俺は、その言葉を最後まで口にすることができなかった。
姉上は何も言わない。
責めるでも、悲しそうに笑うでもなく、ただ俺の続きを待っていた。
橋とは、誰かが向こう岸へ渡るために使うものだ。
橋自身が、どちらの岸へ行きたいかを決めることはできない。
両側から人と荷を載せられ、それでも壊れぬことを求められる。
「……すみません」
俺は、答えを取り繕うことをやめ、姉上へ頭を下げた。
「今、私は、姉上が何を望んでいるのかより先に、天下のためにどのような役目を果たしていただくかを考えてしまいました」
「道や宿を整えるのと同じように、人の生き方まで、こちらで整えられると思っていたようです」
姉上は、静かに首を横へ振った。
「国松が、私を粗末に扱おうとしたとは思っていません」
「ですが」
姉上の声が、僅かに震えた。
「皆が私を公武の橋と呼べば呼ぶほど、私はその橋から降りることを、許されなくなるのでしょうね」
俺は、すぐに答えを作ることをやめた。
「少しだけ、考える時間をください」
「今度は、天下の仕組みや役目ではなく、和子姉上自身のことを考えます」
姉上は、小さく頷いた。
*
御異物改方の自室へ戻った俺は、机の前に座り込んでいた。
目の前には、
入内行列の道筋。
宿。
荷駄。
仮設施設。
京への引渡し先。
それらを細かく記した帳面が並んでいる。
だが、和子姉上の問いに答えるための帳面など、どこにもない。
『 随分と難しい顔をしているわね』
「道や資材の問題なら、条件を分けて並べれば、解決の糸口が見えてきます」
「ですが、姉上が京で誰として、どのように生きるべきかなんて、私が決めてよいことではありません」
『 当然でしょう』
『 人間は、役目を割り当てれば、仕様書どおりに黙って動く部品ではないもの』
「分かっていたつもりだったんですけどね」
『 あなたは、悪意で人を道具にしているわけではないわ』
『 でも、大きなものを守ろうとする時、全員へ役目という札を付けて、全体を動かそうとする癖がある』
俺は否定できなかった。
旱魃の時は、田、人、牛、種籾を分けた。
京の大火では、井戸、避難所、人足を分けた。
入内では、物資と工事を朱札、白札、合札に分けた。
それらは、多くの人を守るために必要な仕事だった。
だが。
和子姉上の人生へ、
『公武を繋ぐ橋』
という札を貼り、その役目から降りられなくすることはできない。
『 制度は、その人が理不尽に押し潰されないための壁にはなれる』
『 でも、その壁の内側で、誰を愛し、何を思い、どう生きるかは、本人が決めることよ』
俺は、ようやく考える方向を変えた。
姉上の人生へ、俺が答えを与えるのではない。
姉上が自分で答えを選べるように。
徳川と朝廷の双方から、際限なく役目を背負わされないための壁を作る。
それが、制度を扱う俺にできる仕事だった。
*
俺は、京の朝廷社会に詳しい鷹司孝子殿へ、私的な相談を持ちかけた。
「孝子殿。姉上は、京で徳川の娘として生きるべきなのでしょうか」
「それとも、帝の妻となる以上、徳川のことは忘れるべきなのでしょうか」
孝子殿は静かに茶を一口飲み、明確に答えた。
「どちらも違うと存じます」
「婚姻によって住まいが変わっても、それまで生きてこられた年月が消えるわけではございません」
「徳川の家族であったことを捨てねば、帝の良き妻になれぬというものでもございません」
「ですが、徳川と朝廷の利害がぶつかった時は?」
孝子殿は、少し考えてから答えた。
「その時こそ、和子様ご自身が、双方の言葉を聞いてお考えになるべきなのでしょう」
「実家の言葉を、そのまま夫へ押しつける妻になる必要はございません」
「夫の言葉を、そのまま実家へ運ぶ使者になる必要もございません」
孝子殿は、和子姉上が御所で向き合うことになる、複雑な人間関係についても隠さず語った。
長く帝へ仕えてきた女房衆。
すでに帝との間に御子をもうけた、およつ御寮人をはじめとする女性たち。
徳川家から正室として迎えられる姫へ、期待と警戒の双方を抱く公家たち。
和子姉上を通じ、御所の内々の事情を知ろうとする幕臣たち。
「全ての方へ優しくするだけでは、ご自身の礼を守れぬこともございましょう」
「ですが、入内される御方としての礼を守らせることと、先にその場所におられた方々を辱めることは、別でございます」
およつ御寮人や、すでに生まれている御子たちを、自分の立場を脅かす敵と決めつける必要はない。
同時に、波風を立てぬために、自分の立場を曖昧にして全てを譲る必要もない。
「国松様」
孝子殿は、静かな確信を込めて告げた。
「譲らぬことと、踏みにじることは違います」
「和子様には、どなたかを消すことで居場所を作るのではなく、ご自身の言葉で、ご自身の居場所を作っていただくしかございません」
*
俺は、和子姉上の生き方そのものを制度で定めることを諦めた。
代わりに。
徳川と朝廷の間で、姉上が便利な使者や密偵として使われ続けないための境界を整えることにした。
まず、江戸と和子姉上の間で交わす文を、二つに分ける。
【私書】
家族として交わす手紙。
家族の近況。
体調。
季節の贈り物。
個人的な悩みの相談。
これらは、公儀の命令や朝廷からの正式な回答として扱わない。
幕府側で写しを取らず、内容も改めない。
差出人。
運搬者。
封印の形。
それだけを帳面へ記し、途中で封が破られていないことを確かめる。
封に異常があった場合も、役人が勝手に開くことは認めない。
和子姉上か、姉上があらかじめ定めた女房の立会いを求める。
【公書】
幕府と朝廷の間で交わす正式な要請。
御所の修理。
儀礼。
費用。
法度。
使者の往来。
これらは、京都所司代や武家伝奏など、既存の公的な窓口を通す。
和子姉上の私室へ、直接政治上の要求を持ち込まない。
和子姉上が家族へ漏らした私的な言葉を、
『朝廷が正式に約束した』
と幕府が都合よく利用することは許さない。
逆に、家族からの手紙の中へ、幕府の命令を隠して運ばせることも認めない。
「姉上を、御所の奥を探るための目にしてはいけません」
俺は小評定で告げた。
「幕府の要求を帝へ押しつけるための口にもしてはいけません」
「姉上が自分の意思で何かを伝えることは止めません」
「ですが、家族からの文を装って、公儀の命令を持ち込ませることは認めません」
正純が、実務上の問題を口にした。
「されど、和子様を内々に通した方が、朝廷との話が早く、角も立たぬ場合もございましょう」
「ならぬ」
家康が即座に退けた。
「話が早いからと、一人の女の私室を、公武の裏廊下にするな」
「便利だからと筋を曲げれば、いずれ全ての話が和子を通らねば進まなくなる」
「それでは橋どころか、人を関所にして使い潰しておるだけじゃ」
幕府側で定めるだけでは足りない。
孝子殿と公家文書御用を通じ、朝廷側へも同じ原則を伝えた。
和子の私的な言葉を、公武間の正式な約束とは扱わない。
政治上の要請は、所司代と武家伝奏を通す。
後水尾天皇側からも、
『和子の私室を、公武交渉の抜け道とはしない』
との了承が返された。
もちろん、これで圧力が消えるわけではない。
「内々に姫君からお伝え願いたい」
と頼む者は、今後も現れるだろう。
だが少なくとも、和子姉上には、
「公武の定めにより、お受けできません」
と断るための根拠ができた。
制度は、姉上の代わりに人生を選んではくれない。
だが、姉上が選びたくない役目を断るための壁にはなれる。
*
和子姉上の江戸出立が目前に迫った、ある夜。
大掛かりな送別の宴ではなく、家族だけの小さな夕餉が設けられた。
家康。
秀忠。
江。
家光。
和子姉上。
そして俺。
孝子殿は途中まで同席していたが、
「最後は、ご家族だけで」
と席を外した。
膳は華美ではない。
昨年の凶作の傷が残る中であり、正月と同じように節度を守ったものだった。
最初は、誰も別れの話を切り出せなかった。
沈黙に耐えかねた家光が、唐突に実務の話を始める。
「京へは、さらに警固を増やした方がよい」
「姉上の側へ、腕の立つ者を、あと百人ほど――」
「兄上」
和子姉上が、小さく笑って遮った。
「私は、戦へ行くのではありませんよ」
「だが、何かあったらどうする」
家光が身を乗り出す。
「京の公家どもが、姉上を侮って何かを企めば――」
「馬鹿者」
家康が杯を置いた。
「兵を隙間なく並べて妻を御所へ入れれば、帝へ嫁がせるのか、御所を攻めるのか分からなくなるわ」
皆から小さな笑いが漏れ、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
だが、家光の過剰な警護案は。
姉を、手の届かぬ場所へ失うことへの恐れの裏返しだった。
「困った時は、必ず知らせてくれ」
家光は俯きながら言った。
「何もできぬかもしれぬ」
「それでも、何も知らぬままでいるよりはよい」
「はい、兄上」
和子姉上は微笑んだ。
だが、続けて静かに言う。
「ただし、私が江戸へ知らせなかったことを、裏切りだとは思わないでください」
「夫婦の間だけに留めるべきことも、これからは生まれるでしょうから」
家光は寂しそうな顔をした。
それでも、やがて小さく頷いた。
*
秀忠が、将軍と父の顔を重ねたような表情で口を開いた。
「この入内は、公武の間で交わした大切な約束だ」
「将軍としては、お前に京へ行ってもらわねばならぬ」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、一人の父として申せば」
「行かせたくない」
江が俯いた。
家光も、俺も、何も言えなかった。
「将軍としての言葉も、父としての言葉も、どちらも偽りではない」
「その矛盾を、お前一人に背負わせることになる」
「すまぬ」
和子姉上は、
「父上が将軍でなければよかった」
とは言わなかった。
「私が徳川の娘でなければよかった」
とも言わなかった。
「父上が将軍であることも、私が徳川の娘として生まれたことも、嫌ってはおりません」
「私は、この家で皆に愛されて育ちました」
「その全てを捨てて、逃げるように京へ行くのではありません」
「ですが、徳川のためだけに、自分を犠牲にして行くのでもありません」
秀忠は、成長した娘の言葉を、黙って受け止めた。
江は、政治の言葉ではなく、日々の暮らしのための言葉を贈った。
「どうしても食べられない時は、無理に膳を空けなくてよいのです」
「眠れない時は、女房へ伝えなさい」
「体調を崩したら、我慢してはなりません」
「帝と意見が違う時も、黙ったまま心の内へ恨みを溜めてはなりません」
「実家へ手紙を書くことも、遠慮してはなりませんよ」
江の目から、一筋の涙がこぼれた。
「朝廷へ入れば、どれほど辛くとも、徳川の姫なのだから弱音を吐くなと言う者もおりましょう」
「ですが、その言葉を信じてはなりません」
「泣きたい時に泣くことも、助けを求めることも、弱さではありません」
江は、和子姉上へ小さな手箱を渡した。
豪華な政治上の贈答品ではない。
姉上が幼い頃から使っていた櫛。
針道具。
家族が書いた小さな書付。
そうした品々が収められていた。
「徳川の娘である証ではありません」
「あなたが、ここで私たちと暮らしていた和子であることを、忘れないための物です」
和子姉上は、その手箱を胸へ抱き。
初めて、声を震わせて泣いた。
*
最後に家康が、静かに語りかけた。
「和子」
「徳川を忘れる必要はない」
「されど、徳川の名を使い、御所の内を従わせようとするな」
「帝の妻として知った内々のことを、徳川のためだからと、我らへ漏らすな」
一言一言が、天下人から下される命ではなく、孫娘のこれからを案じる祖父の言葉として重く響いた。
「我らが間違ったことを求めたなら、徳川の娘として黙って従うのではなく、間違っておると申せ」
「朝廷がお前へ理不尽を求めたなら、帝の妻だからと黙って耐えるな」
家康は、
「公武の橋になれ」
とは言わなかった。
「お前は橋ではない」
「お前自身の足で京へ行き、お前自身の言葉で帝と話せ」
「その結果として、徳川と朝廷の間に道ができるのであれば、それでよい」
*
家族全員の言葉を聞いた後。
和子姉上は涙を拭い、しっかりと前を向いた。
「私は、徳川の娘であったことを捨てません」
「父上と母上の娘であり、兄上と国松の姉であることも忘れません」
「そして、京へ入った後は、帝の妻として、目の前のお方と誠実に向き合います」
「どちらか一つだけを選び、もう一つを捨てることはいたしません」
姉上は、さらに言葉を続けた。
「私は、江戸の目として御所へ入るのではありません」
「朝廷の言葉を、考えもせず江戸へ運ぶ口になるために入るのでもありません」
「徳川が間違っていると思えば、徳川へそう申します」
「朝廷が間違っていると思えば、朝廷へもそう申します」
「そのために疎まれることがあっても、自分の言葉を失わぬように生きたいと思います」
そして、俺を見た。
「私は、橋になるためだけに京へ行くのではありません」
「京で暮らし、人と出会い、喜び、怒り、悲しみ」
「私自身の生を生きるために、行きます」
俺は、その言葉を聞いて、ようやく答えを得た。
それは、俺が考えた答えではない。
和子姉上自身が、自ら選んだ答えだった。
*
家族の夕餉が終わった後。
俺は廊下で、和子姉上と少しだけ言葉を交わした。
「私はずっと、姉上の入内が天下へ何をもたらすかばかり考えていました」
「公武の関係がよくなる」
「争いを防げる」
「姉上が橋になってくださる」
「ですが、姉上自身が何を望んでいるのかを、最後まで聞いていませんでした」
「国松は、私が通る道を守ってくれました」
和子姉上は穏やかに微笑んだ。
「焼け出された方々から屋根を奪わずに、私を京へ送ろうとしてくれた」
「それを軽んじるつもりはありません」
「ですが、道を作った者が、そこを歩く者の行き先まで決めてはならないのでしょうね」
「はい」
俺は頷いた。
「姉上の行き先は、姉上が決めてください」
「私にできるのは、姉上が助けを求めたい時、戻って話をしたい時に、その道を閉ざさないことだけです」
「それで十分です」
姉上は、静かに笑った。
*
元和六年、五月八日。
出立の日。
江戸城では、正式な出立の礼が行われた。
先の決定どおり、大量の荷駄、予備人員、生活を支える者たちは、中心の行列から分けられている。
城門前へ並ぶのは、儀礼上必要な供奉だけだった。
江戸の町人たちは、道の脇から出立を見送った。
徳川の姫の入内を寿ぐ者。
凶作後の大事業を不安に思う者。
華やかな装束に見入る子供。
京の火災復旧を案じる商人。
反応は一様ではなかった。
俺も、和子姉上を御所の門前まで送り届けるため、供奉へ加わっていた。
秀忠は将軍として正式な言葉を贈った後。
父親として、ただ一言だけ呟いた。
「達者でな」
江は、人前では泣かなかった。
だが牛車が動き始めた時、袖の内で拳を握っているのが見えた。
家光は最後まで、
「やはり、警固をもう少し――」
と言いかけ、家康に睨まれて黙り込んだ。
俺は牛車の脇から、静かに告げた。
「姉上。行きましょう」
「はい」
長い旅が始まった。
*
東海道の旅。
和子姉上のために、宿場の民を理不尽に追い出すことはしなかった。
事前に公儀宿や、新たに借りた建物へ人員を分散させている。
それでも、
馬の飼葉不足。
人足の交代の遅れ。
見物人による混雑。
商人による値上げ。
小さな問題は次々と起きた。
昨年の旱魃の傷が残る村も通った。
苗代が作られ始めていたが、まだ仮屋で暮らす家もある。
和子姉上は、牛車の簾越しにその光景を見た。
「国松が帳面で案じていた村々は、こういう場所だったのですね」
「はい」
「帳面の数字の後ろには、こうして一軒ずつの暮らしがあります」
和子姉上は、自分の行列もまた、人々の暮らしの中を通っているのだと知った。
旅の途中のある夜。
姉上が、小さな声で言った。
「京へ着けば、もう家族へ気軽に会うことはできなくなりますね」
「今までと同じではなくなります」
俺は、安易に否定しなかった。
「ですが、手紙も道も残します」
「会いたい時に、いつでも会えるとは約束できません」
「それでも、家族でなくなるわけではありません」
姉上は、少し寂しそうにしながらも頷いた。
*
六月。
行列は伏見へ到着した。
荷駄の大半を伏見へ残し、儀礼に必要な者だけを改めて選ぶ。
京都所司代・板倉勝重からは、京の最終報告が届いていた。
「安全のため、当初の道から二か所を改めました」
「なお瓦礫の残る道もございますが、入内を実施できるだけの備えは整っております」
「それで構いません」
俺は答えた。
「江戸で決めた道を守ることより、今の京で人が死なないことを優先してください」
入内前夜。
和子姉上は、江戸に残った孝子殿から預かった私書を開いた。
『全ての女房へ、初めから好かれようとなさらなくてよいのです』
『分からない作法は、分からないとお尋ねください』
『間違いを隠すより、教えを請う方が、礼を守ることに繋がります』
『先に帝の側におられた方々を、存在しなかったことにはなさらないでください』
『徳川の力を示すために、誰かを辱める必要はございません』
『譲るべきでないことは、言葉でお伝えください』
『ですが、橋になろうとなさらないでください』
『和子様ご自身の足で御所へ入り、ご自身の居場所を作ってください』
和子姉上は、その手紙を、江から贈られた手箱の中へそっと収めた。
*
元和六年、六月十八日。
入内当日。
行列は、京の町へ入った。
荷駄は、すでに別の道と刻限で運ばれている。
交代用の馬と予備の警固は、京の外へ残した。
救援路は封鎖しない。
避難路へは見物人を入れない。
行列は華やかであり、朝廷との間で定めた礼も守られていた。
だが、焼け跡を美観のために隠す白幕は、どこにもない。
和子姉上の牛車から見えたのは。
黒く焦げた柱。
屋根を失った町家。
新しく作られた仮屋。
材木を運ぶ人足。
水桶を点検する町人。
再建の槌を振るう大工。
京の人々の反応も、さまざまだった。
深く頭を下げる者。
珍しそうに見つめる者。
手を合わせる老人。
「火事の後に大行列など」
と不満を口にする者。
「避難民を追い出さなかったのはありがたい」
と話す者。
ただ黙って見送る者。
姉上は、歓迎する声だけでなく、不満の声も聞いた。
それでも、簾を閉じて見ないふりをすることはなかった。
行列が救援路と交わる場所へ差しかかった時。
復旧用の材木を積んだ荷車が近づいてきた。
供奉の一人が、
「御行列を先に」
と命じかける。
だが、板倉勝重の配下が静かに止めた。
「救援路を止めぬことは、事前の定めにございます」
行列が、僅かな間だけ止まった。
材木を積んだ荷車が、その前を横切っていく。
荷車を引く町人たちは、行列を止めたことに気づき、慌てて深く頭を下げた。
和子姉上は、牛車の中から、近くの女房と俺にだけ聞こえる声で言った。
「謝る必要はありません」
「あの材木は、誰かの屋根になるのでしょう」
*
行列が、御所の門前へ到着した。
ここから先。
俺は和子姉上と、同じ場所で暮らすことはできない。
儀礼上の、正式な別れが行われた。
人前で姉弟として抱き合うことも、泣き崩れることもできない。
和子姉上は、隙のない正式な声で告げた。
「ここまでの供奉、大儀でございました」
俺も平伏し、答えた。
「御入内、謹んでお祝い申し上げます」
形式上は、それだけだった。
だが、姉上が牛車から降りる直前。
ほんの一瞬、二人の視線が交わった。
俺は声を出さず、僅かに頷いた。
ご自身の足で行ってください。
姉上も、小さく頷いた。
彼女は、誰かに運ばれる荷物ではない。
女房に支えられながらも。
自らの足で、一歩ずつ御所の中へ入っていった。
*
正式な儀礼を終えた後。
後水尾天皇と和子が、初めて落ち着いて言葉を交わす時が訪れた。
「焼け跡を隠す幕を張らぬよう求めたのは、そなたであると聞いた」
「はい」
和子は答えた。
「これから私が暮らす町を、見ぬまま御所へ入りたくはございませんでした」
「見れば、心を痛めるであろう」
「見ぬふりをすれば、痛みは知らぬままかもしれぬ」
「ですが、知らぬままでは、何を守るべきかも分かりませぬ」
後水尾天皇はすぐには答えず、初めて相手の顔を確かめるように、和子を見つめた。
「私は、徳川の娘であったことを捨てて参ったのではございません」
和子は続けた。
「ですが、江戸の目として御所へ入ったのでもございません」
「これよりは帝の妻として、分からぬことは尋ね、思うことは隠さず、帝ご自身と向き合いたいと願っております」
後水尾天皇は、静かに答えた。
「余も、そなたを徳川という名だけで見るまい」
「まずは、互いに知らぬことを、言葉にするところから始めよう」
二人が、その場で深く理解し合ったわけではない。
言葉には、まだぎこちなさが残っていた。
それでも。
政治上の役目だけではなく、互いを一人の人間として知ろうとする、最初の約束が生まれた。
*
入内から数日後。
新しい暮らしが僅かに落ち着いたところで、和子姉上は女房へ尋ねた。
「先に定めていた仮設施設の引渡しは、進んでいますか」
迷子預かり所は町会所へ。
手当所は寺社と町組へ。
水桶と梯子は火消し道具蔵へ。
鍵。
備え付ける道具。
管理する者。
修理の負担。
それらを記した帳面とともに、引渡しが進められていた。
後から報告を受けた俺は、
「姉上は、もう自分で動き始めている」
と知った。
*
俺は、入内を見届けた後、江戸への帰路についた。
京を出る前。
焼けた町の一角を通る。
入内行列のために置かれた水桶が、町の火消し道具として並べ直されていた。
仮設の会所では、町人たちが再建について話し合っている。
入内は終わった。
だが、京の復旧は終わっていない。
和子姉上の新しい生活も、始まったばかりだ。
『 無事に送り届けられたわね』
「送り届けただけです」
俺は答えた。
「姉上が、どのように生きるかを私が決めることはできません」
「ですが、姉上が幸せになれるかどうかを、姉上一人へ背負わせるつもりもありません」
『 本人の意思だけでなく、帝や周囲がどう向き合うかも必要だものね』
「はい」
「だから、姉上が困った時に助けを求める道だけは、閉ざさないでおきます」
「それが、私にできる保守運用です」
*
御所の一室。
江から受け取った小さな手箱が、静かに置かれている。
外からは、京の町を直す槌の音が聞こえていた。
雅な音だけに囲まれた宮中ではない。
焼けた京の町と同じ空気の中で、和子の暮らしは始まった。
橋には。
自分がどちらの岸へ行くかを、選ぶことはできない。
だが、和子姉上は橋ではなかった。
徳川の娘であり。
帝の妻となり。
それでも、和子という一人の人間だった。
その足で京へ入り。
その目で焼けた町を見て。
その言葉で、帝と向き合うことを選んだ。
公武の間に道が生まれるとすれば。
それは、姉上を橋として踏みつけたからではない。
両側にいる人々が。
自分の足で、少しずつ歩み寄った結果でなければならない。
入内は終わった。
だが。
姉上と帝の、夫婦としての日々も。
焼けた京の再建も。
この日、ようやく始まったばかりだった。
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