暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
元和六年、八月。
京の復旧が続く中、和子姉上の入内を終えて、俺が江戸へ戻ってからしばらく後のことだった。
御異物改方の自室で、俺は京から届いたばかりの和子姉上の私書を読んでいた。
書かれているのは、難しい政治上の要望ではない。
御所での暮らしには、まだ慣れないこと。
後水尾天皇とは、少しずつ言葉を交わしていること。
母上から出立の日に渡された小さな手箱を、居所のすぐそばへ置いていること。
そして、京の町を直す大工たちの槌音が、毎日聞こえてくること。
「……よかった」
俺は、自然と口元へ浮かんだ笑みを抑えられなかった。
私書と公書を分けた定めが、さっそく小さく機能している。
少なくとも姉上は、徳川の使者としてではなく、和子自身の言葉で、家族へ手紙を書くことができている。
そこへ、本多正純が書付を手に入ってきた。
いつも冷静な男にしては、僅かに表情が明るい。
「国松様。長崎奉行より、帰朝者についての急報にございます」
「帰朝者?」
俺は最初、漂着者か、新たな異国船の入港報告だと思った。
だが、受け取った書付に記された最初の名を見て、思わず姿勢を正した。
『奥州仙台伊達家臣 支倉六右衛門常長』
「……帰ってきた」
震えるような声が、口から漏れた。
水鏡越しには、すでに何度も顔を見ている。
ローマの石室で法王の前へ座る姿も。
伊達政宗と言葉を交わす姿も見た。
だが、水鏡の向こうに映っていることと。
生身の人間として、日本の土を踏んで帰ってきたことは、まるで重さが違う。
そして、その下には、もう一つの名が記されていた。
『フランシスコ会修道士 ルイス・ソテロ』
「ソテロ殿も、本当に帰ってきたんだ」
『KAMI:帰国条件を受け入れたのだから、帰ってくるでしょう』
「理屈では分かっていましたよ」
「でも、元の歴史での最期を知っていると、どうしても素直に安心できなくて」
俺は書付を置き、正純へ向き直った。
「正純殿」
「すぐに江戸へ連れてきて、七年間のことを全て報告させろ、とは命じません」
「では、いかがなさいますか」
「異国から戻った者です。確かめるべきことも多くございましょう」
「必要な確認はしてください」
俺は頷いた。
「ですが、帰国したその日に役所の座敷へ座らせ、夜通し問い詰めるような真似はやめてください」
「体調を確かめる」
「温かい食事を出す」
「湯を使わせ、清潔な衣服へ着替えてもらう」
「そして、十分に眠ってもらう」
「報告は逃げません」
「彼らを怪しい密入国者としてではなく、七年の務めを終えて帰った正式な使節として扱ってください」
正純は、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
*
支倉常長は、奥州伊達家の家臣である。
公儀への報告は必要だ。
だが、まず帰国を知らせるべき相手は、主命を与えた伊達政宗だった。
「六右衛門は、伊達の家臣だ」
小評定で、秀忠が言った。
「公儀が先に囲い込み、報告を全て聞き出してから主へ返すような真似はせぬ」
家康も頷く。
「長く働いた家臣を、主へ会わせる前に取り上げれば、労を褒めるどころか、主から家臣を奪っておる」
仙台城の伊達政宗へ、早馬が送られた。
政宗は帰国の報せを受けても、表向きには、
「……左様か」
とだけ答えたという。
だが、その直後には、江戸へ向かう支度を命じた。
家臣が、
「江戸から示された日までは、なお数日の余裕がございます」
と伝える。
政宗は、しばらく黙ってから、低い声で答えた。
「七年待たせた男に、さらに儂を待たせるつもりか」
それ以上、止める者はいなかった。
*
支倉たちが長崎から江戸へ到着すると、町ではちょっとした騒ぎが起きた。
「南蛮の海の向こうから、七年ぶりに帰った侍らしいぞ」
「ローマ法王へ会ったという支倉殿か」
「水鏡会談の噂は、本当だったのか」
珍しい帰朝者を一目見ようと、人が集まり始める。
だが、彼らを凱旋行列の見世物にはしなかった。
帰国を祝うことと、長旅で疲れた人間を町中へ晒すことは別である。
正式な登城の日までは、公儀が用意した宿で休ませた。
ソテロについても、すでに決められた帰国条件に従い、
身元。
滞在先。
同行する役人。
持ち込んだ書簡。
それらを確認する。
だが、条件を一から交渉し直すことはしない。
本人も、ローマ側も、水鏡会談ですでに了承している。
*
数日後。
俺は、水鏡を介さずに、初めて支倉常長とルイス・ソテロへ直接会った。
支倉殿は、水鏡越しに見た時と同じように、背筋を伸ばして立っていた。
だが、同じ部屋で向かい合えば、水面越しには分からなかったものが見える。
顔へ刻まれた皺。
日に焼けた肌。
長い旅で痩せた体。
一歩を踏み出すたびに僅かに見える、足の重さ。
水鏡には、声と姿が映った。
だが、船の揺れで痛めた足も。
見知らぬ土地で気を張りながら眠り続けた疲れも。
七年という時間が、一人の人間へ残したものまでは映らない。
「水鏡にては、幾度か御尊顔を拝しております」
支倉殿が深く頭を下げた。
「私もです」
「ですが、こうして直にお会いすると、全く違いますね」
「はい」
支倉殿が、僅かに口元を緩めた。
「海を隔てずに声を交わしたことも、いまだ不思議に感じております」
一方のソテロは、水鏡越しに会った時よりも近い場所から、俺をじっと観察していた。
「……やはり、私を見ますよね」
俺が苦笑すると、ソテロは真顔で頷いた。
「はい」
「私が厳しい制約のある日本へ戻ることを決めた、大きな理由の一つでございますので」
「正直すぎませんか?」
重かった部屋の空気が、僅かに緩んだ。
*
江戸城の一室。
諸大名を集めた大広間ではない。
使節の帰朝を正式に確認するための、小規模な場が設けられた。
家康。
秀忠。
伊達政宗。
俺。
本多正純。
金地院崇伝。
そして、必要な通詞と記録役。
支倉常長が、主君である伊達政宗の前へ進み出た。
深く平伏する。
「支倉六右衛門常長。ただいま、帰着仕りました」
政宗は、すぐには答えなかった。
七年前より老い、痩せた家臣を、黙って見つめている。
やがて、支倉殿の報告が始まった。
新イスパニヤへ到着したこと。
大西洋を渡り、イスパニヤ本国へ至ったこと。
国王側へ政宗の書状を届けたこと。
ローマへ入り、法王へ謁見したこと。
政宗の願いを伝えたこと。
しかし、通商と宣教師派遣について、望んだ確約を得られなかったこと。
日本国内の禁教の動きが、交渉へ影響したこと。
長く返答を待ち、再び交渉を重ねたこと。
そして水鏡会談によって、徳川公儀とローマが直接言葉を交わす形へ移ったこと。
最後に、支倉殿は、さらに深く頭を下げた。
「主命、十分に果たせず」
「申し開きの言葉もございませぬ」
その声には、通商を成立させられなかった責めを、自ら一人で負おうとする響きがあった。
水鏡会談によって交渉の形が変わったことさえ、支倉殿は自分の働きとは数えていないようだった。
政宗は、報告が終わるまで、一度も口を挟まなかった。
そして、静かな声で問う。
「六右衛門」
「はっ」
「儂の書状を、国王と法王の御前へ届けたか」
「はっ。直接、御前へ捧げました」
「儂が何を求めておるのかを、そなたの都合で曲げずに伝えたか」
「伝え申しました」
「相手が応じぬ理由を、その目で確かめたか」
「可能な限り、確かめました」
「帰国を望んだ者を、見捨てず帰路へ連れたか」
「はっ」
政宗は、一度息を吸った。
「そして、お前自身が、生きて儂の前へ帰ったか」
支倉殿は、顔を上げられないまま答えた。
「……帰り申しました」
政宗は、支倉殿へ届くよう、一語ずつ明瞭に告げた。
「ならば、お前の役目は果たした」
支倉殿の息が止まる。
「通商を認めるか否かを決めるのは、イスパニヤの王と、その臣どもじゃ」
「法王が宣教師を送るか否かを決めるのも、お前ではない」
「お前の役目は、儂の言葉を海の向こうへ届け」
「向こうの答えと、答えを得られぬ理由を、日ノ本へ持ち帰ることだった」
政宗は、平伏する家臣へ向けて告げた。
「支倉六右衛門」
「七年に及ぶ役目、大儀であった」
「天晴れである」
支倉殿の肩が、ほんの僅かに落ちた。
七年の間、張り詰め続けていたものが、初めて緩んだように見えた。
泣き崩れはしない。
平伏した姿勢も崩さない。
だが、
「ありがたき、御言葉にございます」
と答えた声は、僅かに震えていた。
政宗は続ける。
「大海の向こうへ手を伸ばしたのは、儂じゃ」
「その願いが叶わなかった責めを、命じられて海を渡ったお前一人へ負わせるつもりはない」
家康は、政宗の横顔を見て、僅かに目を細めた。
秀忠も頷く。
「主命が望んだ結果へ届いたか」
「家臣が、自らの務めを果たしたか」
「その二つは、分けて考えねばならぬな」
命じた仕事が、望んだ結果へ届かなかった時。
その責めを、命を受けて動いた者一人へ負わせない。
上に立つ者の言葉として、これほど働いた者を救うものはないと思った。
*
支倉殿の報告を、この一度だけで終わらせるつもりはない。
欧州の港。
イスパニヤの交渉手順。
ローマの役職。
旅の途中で起きた病。
現地での食事や宿。
それらは、今後何度かに分けて聞く。
この場で、俺は一つだけ尋ねた。
「支倉殿」
「水鏡だけでは、私たちに見えていなかったものは何でしたか」
支倉殿は、しばらく考えた。
「水鏡に映った方々の言葉は、偽りではございませぬ」
「ただ」
「あの会談へ至るまで、誰へ会うために幾月待ったか」
「どの役人が返答を先送りし、誰が判断を避けたか」
「幾人もの通詞を経るうち、同じ言葉が少しずつ異なる意味で受け取られたか」
「それらは、水面に映る一室だけでは見えぬことにございます」
ソテロも続けた。
「水鏡は、離れた二つの部屋を繋ぎました」
「ですが、そこへ至る街道と港、待ち続けた年月までを繋いだわけではありません」
水鏡が映したものと、支倉殿の報告は食い違っていない。
水鏡が映したのは、整えられた正式な会談だった。
支倉殿が持ち帰ったのは、その会談へ至るまでの七年間だった。
*
支倉殿への労いを終えた後。
政宗は、ルイス・ソテロへ向き直った。
政宗は交易を望んだ。
ソテロは、日本へ信仰の道を残すことを望んだ。
二人は互いの願いを重ね、海を渡った。
どちらか一方だけが、もう一方を利用した関係ではない。
「ソテロ殿」
政宗が口を開いた。
「そなたにも、詫びねばならぬ」
ソテロは、意外そうに政宗を見る。
「儂は、奥州と新イスパニヤの交易を望んだ」
「そなたは、日本へ信仰の道を残すことを望んだ」
「互いに願いがあり、海を渡った」
「されど、そなたが望んだ姿とは異なる日ノ本へ、再び戻ることとなった」
「儂の願いと、そなたの願いを重ねた旅の果てが、この形となったことは、済まなく思う」
大名としてではない。
七年の旅をともに背負わせた一人の人間として、政宗は詫びていた。
ソテロは、すぐには答えなかった。
自由な布教の道が閉じたことを、喜んで受け入れているわけではない。
それでも、やがて静かに口を開いた。
「政宗公」
「私は、誰かに命じられ、鎖に繋がれて海を渡ったのではありません」
「私もまた、自らの願いによって、あの船へ乗りました」
「ゆえに、旅の苦難の全てを、政宗公の罪とすることはできません」
そして、俺へ視線を向ける。
「確かに、私が望んだ形で、日本へ福音を伝えることは許されません」
「ですが、私の役目が終わったわけでもございません」
「まだ、役目があると申すか」
政宗が問う。
「ございます」
ソテロは、はっきりと答えた。
「ローマが日本を誤解し」
「日本がローマを誤解することで」
「無用な血が流れることを、少しでも防がねばなりません」
「そして」
「神でも悪魔でもなく、人であると仰った若君と、この国に存在する奇物を」
「悪魔の仕業と決めつけず、見て、記す役目が残っております」
「……やはり、私なんですね」
俺が苦笑すると、重かった場へ僅かな笑いが生まれた。
*
金地院崇伝が、水鏡会談ですでに合意されたソテロの帰国条件を、簡潔に確認した。
これは新たな処遇を決める裁きではない。
日本での運用を始める前の、最終確認である。
「制限付き記録官」
「神学顧問」
「日本事情観察者」
「自由な布教は行わぬこと」
「新たな信徒組織を作らぬこと」
「外国との秘密の連絡網を作らぬこと」
「公儀が定めた屋敷に住むこと」
「ローマとの書簡は、定めた手続きを通すこと」
崇伝が読み上げる。
ソテロは深く頷いた。
「承知しております」
「日本へ戻るならば、徳川公儀の法の内側へ入る」
「その条件を、自ら受け入れた上で帰りました」
厳しい制限であることに変わりはない。
だが、ソテロは怯えた囚人ではない。
与えられた条件を理解し、自分の意思で日本へ戻った。
帰国直後から、外交上の難題を全て背負わせることもしない。
当面は、
水鏡会談の記録確認。
ローマ側の役職や宗教用語の解説。
奇物に対する神学上の見方の整理。
欧州から届く書簡の翻訳補助。
そうした御異物改方の管理下で行う実務から始めてもらう。
「伴天連を、御異物改方へ入れてよいのでございますか」
警戒する役人もいた。
「自由に出入りさせるわけではありません」
俺は答えた。
「ですが、ローマ側が何を恐れ、どの言葉をどう受け取るのかを知らず、こちらだけで説明文を作れば、また話が噛み合わなくなります」
家康も頷いた。
「使える知恵を、恐ろしいからと耳ごと切り落とすな」
「されど、耳元で好き勝手に囁かせるな」
「定めた役目と監督の内で、働いてもらえ」
正純が言う。
「ソテロ殿には、今後ローマと日ノ本を繋ぐ役を担っていただくことになりますな」
「役は担っていただきます」
俺は答えた。
「ですが、双方の都合を全て一人へ背負わせるつもりはありません」
ソテロが俺を見る。
「では私は、双方の道を知る旅人として働きましょう」
「はい」
「それが、ソテロ殿自身の選んだ役目である間は」
*
正式な報告が終わった後。
大規模な宴ではなく、帰国者を労うための小さな膳が用意された。
炊きたての米。
温かい味噌汁。
焼き魚。
漬物。
季節の野菜。
久しぶりに、主君の前で口にする故郷の膳だった。
支倉殿は、膳を前にして動きを止めた。
「どうした」
政宗が、少しだけからかうように言う。
「異国の食事に慣れ、米の食い方を忘れたか」
「いえ」
支倉殿は答えた。
「香りを、懐かしく思っておりました」
「ならば、ゆるりと食え」
「足りぬなら、後からいくらでも持ってこさせる」
支倉殿が、静かに箸を取った。
隣に座るソテロにも、同じ膳が出されている。
ソテロは、慣れた手つきで箸を使っていた。
「支倉殿は向こうの作法を覚え、ソテロ殿は箸を覚えたんですね」
俺が言うと、支倉殿が僅かに笑う。
「互いに、覚えねば食事にも困りましたゆえ」
大きな歴史を背負った使節であっても。
七年の旅では、食べ、眠り、言葉を覚えながら生きてきた。
*
宴の後。
家康たちが席を外し、政宗と支倉殿は、近習を離して短く言葉を交わした。
「六右衛門」
「はい」
「帰らぬと思ったこともある」
支倉殿は黙った。
「海で死んだか」
「異国へ残ったか」
「無謀な命を下した儂を恨み、戻らぬことを選んだか」
「どれであっても、不思議ではなかった」
「主命を受けて発った身にございます」
支倉殿は静かに答える。
「戻り、御前で報告するまでが役目と心得ておりました」
「そう申すと思った」
政宗が、僅かに笑った。
「だが、役目という言葉だけで、七年の旅を支えられるものでもあるまい」
「その間に何を見て、何を思ったかは」
「仙台へ戻ってから、ゆるりと聞かせよ」
この場で、支倉殿の七年間を全て語らせることはしなかった。
旅には、苦しみだけでなく、異国で得た出会いや誇りもあったはずだ。
そして、主君であっても、すぐには聞かぬ方がよいこともある。
*
その夜。
俺は御異物改方の自室で、ソテロの登録書と滞在先の書付を眺めていた。
「……本当に、大丈夫かな」
『KAMI:何が?』
「ソテロ殿ですよ」
「元の歴史では、日本へ戻った後に捕らえられ、火刑にされるじゃないですか」
『KAMI:状況を整理しなさい』
KAMI様が答える。
『本来なら前年に起きていた京都の大殉教は、すでに起きていない』
『この世界のソテロは、禁教下へ密かに入った不法入国者でもない』
『法王と徳川公儀の合意に基づいて帰国し、身元も滞在先も役目も、公儀へ登録されている』
『定められた条件を守り、無断で巡回布教へ出なければ、元の歴史と同じ経緯で捕らえられる可能性は、大きく下がっているわ』
「なら、殉教しない?」
『KAMI:おそらくはね』
「おそらく……」
『KAMI:未来に絶対の保証はないわ』
『本人が条件を破るかもしれない』
『この先、宗教政策が変わる可能性もある』
『別の事件へ巻き込まれることもあり得る』
『でも、“歴史に書かれているから、必ず同じ死に方をする”段階では、もうない』
俺は、少しだけ息を吐いた。
だが、
「死なせないため」
という理由で、屋敷から一歩も出さないような扱いはしない。
それでは保護ではなく、監禁である。
決めた条件の範囲で、本人に仕事と生活を選んでもらう。
*
翌日。
俺はソテロへ、公儀が用意した屋敷と、当面の仕事について説明した。
俺があまりにじっと見ていたため、ソテロが首を傾げる。
「国松様」
「私の顔に、何かございますか」
「いえ」
俺は少し迷ってから答えた。
「布教を警戒していないわけではありません」
「ですが、それ以上に」
「この国で、信仰のために命を落とすことにならないかと、心配になったんです」
ソテロは、僅かに目を見開いた。
「私は、危険がないと思って戻ったわけではありません」
「ですが、無用に死に、殉教の誉れを得るために戻ったのでもありません」
「私に許された範囲で、見て、記し、言葉を伝えます」
「無理に殉教者になろうとは、しないでくださいね」
ソテロは少し困ったように笑った。
「殉教とは、自ら望んで作る手柄ではございません」
「まずは生きて、務めを果たすつもりでおります」
その言葉を聞いて、俺はようやく少し安心した。
*
その後、俺はソテロを、水鏡が置かれた部屋へ案内した。
まだローマとの通信は開いていない。
静かな水面が、部屋の灯りを映している。
ソテロは、水鏡の前へ立った。
「以前、私は、この水面の向こう側におりました」
「次の会談では、こちら側から法王猊下と話していただくことになります」
俺が言うと、ソテロは不思議そうに水面を見つめた。
「七年をかけて海を往復した後に」
「声だけなら一瞬で届く場所へ座ることになるとは」
「奇妙なものですね」
「はい」
俺も水面を見る。
「ですが、距離が消えても、言葉の意味まで同じになるわけではありません」
「日本側が当然だと思う言葉を、ローマ側が全く違う意味で受け取ることもあります」
「その行き違いを止めるのが、ソテロ殿の仕事です」
ソテロは頷いた。
「七年の旅で、言葉の行き違いが、海より越え難いことを学びました」
「次は、この水面の両側で、互いの言葉を確かめることにいたしましょう」
水鏡の向こう側にいた男が。
今度は、日本側に立ってローマの言葉を待つ。
それが、ソテロの新しい務めの始まりだった。
*
数日後。
江戸城の門前。
支倉常長は、伊達政宗とともに、仙台へ戻る支度を整えていた。
ルイス・ソテロは、公儀が定めた屋敷へ向かう。
七年をともに旅した二人が、ここで別々の道へ進む。
「ソテロ殿」
支倉殿が声をかける。
「次に会う時は、水鏡の向こうではないようですな」
「はい」
ソテロが答える。
「今度は、同じ国の中におります」
「ですが、互いの務めは、まだ続くようです」
「左様ですな」
二人は、大げさに抱き合うことはしなかった。
ただ、長い旅をともにした者だけが分かる、静かな礼を交わした。
俺は、少し離れた場所から二人を見送った。
『KAMI:七年の使節は、これで終わりかしら』
「使節としての旅は終わりました」
「ですが、二人が持ち帰ったものを、この日ノ本でどう生かすかは、これからです」
水鏡は、ローマの一室を江戸へ映した。
だが、支倉常長が持ち帰ったのは、会談の言葉だけではなかった。
海を渡る怖さ。
答えを待つ時間。
異なる言葉を重ねる難しさ。
そして。
望んだ答えを得られなくとも。
生きて帰り、主の前へ報告することの重さだった。
支倉常長は、主君のもとへ帰る。
ルイス・ソテロは、徳川の法の内側で、新しい務めへ進む。
七年の旅は、終わった。
だが、その旅で得たものを。
日ノ本とローマの間で、どのように生かすのか。
それは、これからだった。
その前に。
生きて帰った男へ、まず贈るべき言葉がある。
「役目、大儀であった」
「天晴れである」
それは、七年の務めを終えた家臣へ、主君が贈る。
何よりも先に必要な、労いの言葉だった。
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