暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第133話 水神様、史書で暴君と呼ばれる名を授かる

 元和六年、九月。

 

 長崎から帰還した支倉常長の報告処理と療養の手配、そしてルイス・ソテロの屋敷指定と監視条件の策定という、気の抜けない異国対応の大仕事がようやく一段落した頃。

 

 江戸城、御異物改方の自室。

 

 俺の机の上には、ローマ側へ送る報告書の写しや、支倉たちが持ち帰った膨大な見聞録の仮まとめが山のように積まれていた。

 

 俺は、それらの書類に次々と目を通し、朱筆を入れていく。

 

 休む間もなく仕事に没頭している……ように、見せかけていた。

 

 俺の視線の端。

 

 机の右隅の最も目立つ場所に、一冊の真新しい帳面が鎮座している。

 

 その表紙には、極めて達筆な墨文字でこう書かれていた。

 

『国松君御元服御用』

 

 俺は、その帳面の存在を意図的に視界から締め出し、ひたすら異国の書類に齧りついていた。

 

『 ……さっきから、その一番上の帳面だけ、親の仇みたいに露骨に避けてるわね』

 

 脳内に、KAMI様の呆れたような声が響く。

 

「避けてない。これは単なる優先順位の問題だ。ローマ法王との取り決めと帰国使節の対応に比べれば、個人の儀式なんて後回しで当然だろう」

 

『 あのね。あなたの元服の儀、明後日よ?』

 

「今日を一日目として数えれば、まだ三日ある。二日と半日くらいは『国松君』という気楽な子供のままでいられる」

 

『 往生際が悪いわねぇ……』

 

 俺は、元服という儀式そのものが嫌なわけではない。

 

 派手な装束を着るのが恥ずかしいとか、髷を結うのが嫌だとか、そういう幼稚な理由でもない。

 

 怖いのは、その後に伴う『重さ』だ。

 

 今までは、俺がどれほど突拍子もない制度を作り、非常識な奇物を使って天下を動かそうとも、最後の最後、一番重い『責任』の部分は、家康や秀忠が「大御所の命」「将軍の命」としてドカッと引き取ってくれていた。

 

 周囲の重臣や役人たちも、俺のやることを「国松君という、恐ろしく賢い神童の知恵」「幼い若君の奇抜な発案」という枠の中で受け止め、どこか保護者のような目で見てくれていたのだ。

 

 だが、元服後は違う。

 

 正式に成人した『徳川一門の武将』として、自分の名で命令を下し、自分の名で予算の帳面に判を押し、そして……自分の名で、失敗の責任を負うことになる。

 

(……元服の儀を終えたからといって、急に中身まで立派な大人になるわけじゃない)

 

 俺は、机の上の書類を見つめながら内心でため息をついた。

 

(昨日まで子供だった人間が、烏帽子をかぶった瞬間に、完全で完璧な大人になるはずもない。……でも、世間はそう扱う。そして、この時代では、世間の『扱い』の方が、やがて逃れられない『現実』になっていくんだ)

 

 部屋の外では、役人や女房たちが足早に駆け回り、元服準備の騒がしい足音が絶え間なく響いている。

 

 装束の最終確認。

 

 烏帽子の仕立て。

 

 帯びる太刀の選定。

 

 祝膳の手配。

 

 諸大名から山のように届く祝い品の記録。

 

 そして何より、俺を最も憂鬱にさせているのが『公文書の書き換え』だ。

 

「……人が一人、名前を変えるだけで、一体どれだけの帳面と木札を書き直すんだ……」

 

 俺が思わず愚痴をこぼすと、横で書類を整理していた本多正純が、冷徹に、そして淡々と答えた。

 

「若君が、ただの『一人』ではございませぬゆえ」

 

「そういうところなんだよなぁ……」

 

 俺が『国松』でなくなるということは。

 

 御異物改方への命令者名。

 

 各国の水利普請の裁可名。

 

 奇物の受領証。

 

 外国御用屋敷の閲覧許可。

 

 寺社ノードの検分記録。

 

 全国の公儀蔵、材木、種籾備蓄の責任者名。

 

 それら、俺が今まで構築してきた日本列島の仕組みに組み込まれた『国松』という全ての署名を、一斉に変更しなければならないということだ。

 

 名前が、ただの記号ではなく、天下の制度の根幹に深く食い込んでいる。

 

 その事実が、俺の胃をキリキリと締め付けていた。

 

     ◆

 

「国松様。上様が、御居所にてお待ちにございます」

 

 小姓の呼び出しを受け、俺は正純とともに秀忠の居所へと向かった。

 

 室内には、秀忠、家康、家光、金地院崇伝、土井利勝の姿があった。

 

 大人数ではあるが、役人が居並ぶような正式な評定の場ではない。

 

 元服名を最終確認するための、家族と中枢の幕臣だけの『内々の場』だ。

 

 崇伝の前には、白木の三方に載せられた、細長い巻紙の包みが置かれている。

 

 俺は、座る前から直感で察した。

 

(……名前だ)

 

 幼名から成人名へ変わることは、当然分かっていた。

 

 徳川家の男子である以上、先祖代々の「家」の字か、あるいは忠誠を示す「忠」の字のどちらかが含まれる可能性が高いことも、予想はしていた。

 

 それでも。

 

 前世の歴史知識を持つ俺は、その包みを見た瞬間、嫌な汗が背中を流れるのを感じた。

 

 妙な胸騒ぎが止まらない。

 

 崇伝が、重々しく一礼し、静かに口を開いた。

 

「……此度の御元服に際し。恐れながら、御名の文字を撰び奉りました」

 

 崇伝の手によって、ゆっくりと巻紙が開かれる。

 

 そこに、力強い墨の文字で、二つの漢字が書かれていた。

 

『忠長』

 

 俺の思考が、一瞬だけ完全に停止した。

 

 俺は、顔の筋肉を総動員して、表情だけは平静を保った。

 

 だが、内心では全力でドン引きしていた。

 

(うわ。……知ってる名前だ)

 

 徳川忠長。

 

 前世の歴史の授業で、そこまで詳しくない人間でも、辛うじて名前くらいは聞いたことがあるかもしれない程度の、徳川一門の武将。

 

 三代将軍・家光の弟。

 

 駿河大納言。

 

 問題行動を重ねたとも、兄との冷酷な権力争いに敗れたとも言われ、最後には所領を没収されて改易。

 

 そして、高崎の地で若くして『自害』させられる。

 

 後世の史書には、暗愚だの暴君だのと、ろくでもない書かれ方をする人物だ。

 

 そして何より、俺がこの世界に生まれた時から、いつか自分が名乗ることになるかもしれないと恐れていた名前でもある。

 

 俺は、巻紙の文字を見つめたまま、心の底から思った。

 

(……縁起悪いなぁ……)

 

 深刻な絶望というよりは、宝くじで大外れを引いた時のような、間の抜けた嫌悪感だった。

 

 KAMI様が、脳内で即座に反応する。

 

『 ……やっぱり、その名前になったわね』

 

「……『やっぱり』って言ったか?」

 

『 言ったわ』

 

「……知ってたのかよ」

 

『 家康や秀忠の思考傾向と、歴史の収束率から計算すれば、候補としては一番強かったもの』

 

「だったら! 心の準備があるんだから、先にこっそり教えてくれてもよかっただろ!」

 

『 教えたら、あんた三日前から「嫌だ嫌だ」って落ち込んで、絶対仕事にならなかったでしょう?』

 

「…………」

 

 完全に図星だったので、俺は反論できなかった。

 

 現実の世界では、俺が巻紙を見つめたまま、口を半開きにして黙り込んでいるように見えたらしい。

 

 秀忠が、少し不安そうな顔で尋ねた。

 

「……どうした、国松。気に入らぬか」

 

「あ、いえ! そういうわけでは……」

 

 俺は慌てて顔を上げた。

 

 完全な嘘ではない。

 

 文字の響きや形そのものが嫌なのではなく、その名前にこびりついている『史実の破滅の未来』が嫌なのだ。

 

 だが、そんな未来知識を説明することは当然できない。

 

 家康が、俺の顔をじっと探るように見て言った。

 

「……『忠』の字が、重いか」

 

 俺は答えに詰まった。

 

 下手に言葉を濁せば、家康や秀忠、そして次代将軍である家光に対する『忠義』を疑っていると誤解されかねない。

 

「いえ。ただ……」

 

 俺は前世の知識を隠したまま、必死に違和感を表現した。

 

「ずいぶんと、自分には『大きな名』に感じまして……。少し、圧倒されておりました」

 

 崇伝が、名の選定理由と出典を形式的に説明しようと息を吸い込んだ。

 

 しかし、秀忠が軽く右手を上げ、崇伝の言葉を制した。

 

「よい、崇伝。……ここは、儂から話そう」

 

 それは、将軍としてではなく、『父親』として自分で名付けの意味を教えたいという、秀忠の静かな意思だった。

 

     ◆

 

 秀忠は、巻紙の『忠長』という文字を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。

 

「国松。……名とは、それだけでその人間の全てを決めるものではない」

 

「されど。人が、この世で『何を忘れぬため』に生きるのか。……その道標を定めることはできる」

 

 秀忠は、まず『忠』の字を指した。

 

「……『忠』は、兄への忠だ」

 

 その言葉に、同席していた家光がわずかに背筋を正した。

 

 だが、秀忠は家光をちらりと見て、さらに続けた。

 

「ただし。兄の言葉ならば、目をつぶって何でも黙って従え、という意味ではない」

 

「……兄が政を誤れば、恐れずに諫めよ。兄が重圧に倒れそうならば、横から支えよ。兄が一人で天下を背負い込もうとするならば、その重い荷を奪い取ってでも分けて持つ。……その『忠』だ」

 

 俺は、はっとして家光を見た。

 

 家光も、真っ直ぐに俺を見返していた。

 

 それは、俺がこれまでずっとやってきたこと、そのものだった。

 

 家光を次代将軍として立て、神輿ではなく血の通った人として支え、未来知識を使って治世の地盤を安定させ、自分が将軍になる道から全力で離れる。

 

 秀忠は、さらに言葉を重ねた。

 

「そして。……『民への忠』でもある」

 

「民への……?」

 

 この時代において、「忠」という言葉は、己の主君や目上の者に向ける概念だ。

 

 それを「民に向ける」という秀忠の言葉に、俺は少し驚いた。

 

「田を泥まみれで耕す者。水を引く者。海で船を動かす者。病人を不眠不休で看る者。……お前は、その者らの暮らしを、常に帳面で数え、守ろうとしてきた」

 

「人の上に立つ者が、決して民を捨てず、己の『天下を預かる務め』を違えぬこと。……それもまた、立派な『忠』であろう」

 

 俺は胸が熱くなった。

 

 秀忠が、俺のやってきた泥臭く細かな仕事を、俺が思っていた以上によく見て、評価してくれていたことが分かったからだ。

 

 続いて、秀忠は『長』の字を指した。

 

「……『長』は、ただお前自身が長く生きよという、凡庸な意味ではない」

 

 家康が、満足そうに小さく頷いた。

 

「お前が整え、水を引いた田を。……今年一年だけ実らせて、それで良しとするのではない」

 

「お前が泥を上げて掘った水路を、一度水が通っただけで、終わりとするのでもない」

 

「蔵も、橋も、井戸も、寺社も、法も。……我ら人の代が替わり、お前がいなくなった後まで、残さねばならぬ」

 

 秀忠は、俺の目を見て、はっきりと言った。

 

「……『長』とは。この国の仕組みを、長く保ち続ける者ということだ」

 

 俺がこれまでやってきたのは、一発逆転の派手な発明ではない。

 

 田法。

 

 水番。

 

 用水路の整備。

 

 種籾の二重封印。

 

 蔵の在庫回転。

 

 火災対策の権限委譲。

 

 疫病対策の井戸管理。

 

 寺社ノードの確立。

 

 長崎の港別登録。

 

 奇物の厳格管理。

 

 全て、作って終わりではなく、『長く保つ』ための仕事だったのだ。

 

 秀忠は、静かに締めくくった。

 

「兄と民に忠を尽くし、この国の仕組みを長く保つ」

 

「……ゆえに、『忠長』だ」

 

     ◆

 

 俺は、改めて巻紙の『忠長』という文字を見た。

 

 ほんの少し前まで、俺の頭の中では「自害」「改易」「暴君」という、血なまぐさく不吉な単語としか結びついていなかった二文字。

 

 だが今は、全く別の、輝くような意味に見え始めている。

 

 忠。

 

 兄上を支える。

 

 民を見捨てない。

 

 長。

 

 作って終わりにせず、壊れないように保守運用し続ける。

 

(……あれ?)

 

 俺の心の中で、名前に対する評価が急速に反転していく。

 

(なるほど? ……そう言われると、なんか、すごく『いい意味』に思えてきたぞ……)

 

『 ……あんた、本当に流されやすいわね』

 

 KAMI様が、呆れ果てた声でツッコミを入れてくる。

 

「いや、でも! 父上の説明を聞いてみたら、本当に俺の仕事にぴったりの、いい名前じゃないか?」

 

『 さっきまで、この世の終わりみたいな「縁起悪い」って顔をしてたでしょうが』

 

「それは、名付けの本当の意味を知らなかったからだよ」

 

『 前世で知ってる「暴君」の名前だから、ただ怯えて嫌だったんでしょう?』

 

「それはそれ! これはこれだ!」

 

『 切り替えが早いわねぇ……。まあ、あんたらしいけど』

 

 俺とKAMI様の脳内での軽いやり取りのおかげで、名前に対する重苦しい恐怖は、嘘のようにすっと薄らいでいた。

 

     ◆

 

 俺は姿勢を正し、秀忠を真っ直ぐに見た。

 

「……父上」

 

「この名、謹んで頂戴いたします」

 

 秀忠は、心底安心したように、深く、優しく頷いた。

 

 崇伝も安堵して頭を下げる。

 

 家康は、俺の吹っ切れた表情をしばらくじっと見てから、静かに言った。

 

「……国松。名を、背負うな」

 

 俺が少し戸惑うと、家康は諭すように続けた。

 

「……名に、背負われるな、と申しておる」

 

「名に良き意味が込められているからとて、何もせずとも自然と良き者になれるわけではない。……逆に、いかに悪しき、呪われた名であろうと、その者が必ず悪しき道へ落ちると決まっているわけでもない」

 

「お前が、どのような『忠長』になるかは。……お前が日々、何を選ぶかよ」

 

 その言葉は、史実の忠長の残酷な運命を恐れていた俺の心に、一番欲しかった救いとして深く突き刺さった。

 

 家光が、少しだけ意地悪く笑いながら、俺へ声をかけた。

 

「……国松。『忠』の字を、私一人に使い切るなよ」

 

「え?」

 

 俺が目を瞬かせると、家光は肩をすくめた。

 

「父上が申された通り、民にも向けるのだろう? 私一人にばかり、お前のその重い忠を尽くされては、息が詰まってかなわぬ」

 

 俺も笑って返した。

 

「それは、兄上が何でもかんでも、一人で全部背負い込もうとするからでしょう」

 

「ならば、これからもお前が半分持て」

 

「半分は多いです。押し付けないでください」

 

「では四分か」

 

「せめて三分で手を打ちましょう」

 

 家康がそのやり取りを聞いて苦笑し、秀忠は「そこはもう少し頼もしく請け負えんのか」と呆れたように額を押さえた。

 

 兄弟の間に、対立や嫉妬の気配は微塵もない。

 

 あるのは、互いの背中を預け合う『役割分担』の確かな空気だけだった。

 

     ◆

 

 名前を正式に受け取り、退出した後。

 

 俺は一人で、江戸城の長い廊下を歩いていた。

 

 表面上は平静を装っているが、心の中ではまだ、ほんの僅かな不安の滓が揺れていた。

 

「……本当に、同じ『忠長』という名前になるんだな」

 

『 まあ、名前っていうのは、ある種の因果に絡みついているものだからね。名は体を表すっていうでしょ?』

 

 俺は足を止めかけた。

 

「……おい。嫌な言い方するなよ」

 

『 嫌も何も、歴史の事実でしょう』

 

「それ、史実の暴君の末路を知ってる今の俺には、全然洒落にならないんだけど」

 

 KAMI様は、軽い調子を保ちながらも、その言葉の内容はどこまでも真面目だった。

 

『 歴史の細部が変わっても、その時代、その家、その因果の位置に与えられる「名前」という特異点は変わらない。歴史改変モノだと、よくあることよ』

 

「何を基準にした『よくあること』なんだよ」

 

『 私基準』

 

「全然参考にならないなぁ……」

 

 俺がため息をつくと、KAMI様は少し間を置いて、静かに言った。

 

『 ……同じ時代に、同じ家へ生まれて、全く同じ名前を与えられても。全く同じ人生を歩くとは限らないわ』

 

『 名前は、因果に絡む。……でも、「鎖」じゃない。忠長という名前そのものが、強制的にあんたを暴君や自害へ引きずり込むわけじゃない』

 

『 ただ。……その名前を与えられた者が、最終的にどういう人間になったかを、歴史が冷酷に覚えるだけよ』

 

 俺は黙った。

 

「……じゃあ、俺がここで失敗して、政を投げ出したら?」

 

『 後世の史書に、「徳川忠長が失敗した」と書かれる』

 

「俺が成功して、この国を長く保たせたら?」

 

『 「徳川忠長が成功した」と書かれる』

 

「……単純だな」

 

『 歴史なんて、後から紙に書かれてしまえば、どれも驚くほど単純に見えるものよ。……実際に泥まみれで生きている側は、全然単純じゃないけどね』

 

     ◆

 

 自室へ戻る前、廊下の角で母・江が待っていた。

 

 明後日の元服用の装束の、最終的な仕立ての確認を女房たちとしていた帰りらしい。

 

 江は、俺の顔を見るなり、少しだけ心配そうに尋ねた。

 

「……名は、決まりましたか」

 

 俺は少し躊躇してから、はっきりと答えた。

 

「……『忠長』となりました」

 

 江は、その響きを味わうように、静かに繰り返した。

 

「……忠長」

 

 俺は、母がどう反応するか、少し緊張した。

 

 だが、江はごく自然に、心からの優しい微笑みを浮かべた。

 

「……良い名ですね」

 

「……そう、でしょうか」

 

「ええ。今のあなたに、とてもよく似合います」

 

 前世を知らない母にとって、『忠長』は決して不吉な名ではない。

 

 今まで国松が必死にやってきたことを、そのまま真っ直ぐに表す、誇り高い名に見えているのだ。

 

 江はそっと手を伸ばし、俺の着物の襟元を軽く整えてくれた。

 

「……名が変わったからといって、急に全く別の立派な人になるわけではありませんよ」

 

「明後日、元服の儀を終えてからも。……あなたは、私の大切なあなたのままです」

 

 それは、元服を前にしたただの母親としての、温かい言葉だった。

 

 だが同時に、「史実の忠長という別人へ変貌してしまうのではないか」と恐れていた俺の心に対する、何よりの救いでもあった。

 

     ◆

 

 夜。

 

 御異物改方の自室。

 

 お里が、すり減った墨をすり直し、新しい名前を書くための練習用の和紙と筆を用意してくれた。

 

 明後日の元服の儀の直後からは、大量の公的な文書に、俺自身の手で『忠長』と署名して判を押さなければならないのだ。

 

 俺は筆を持った。

 

 最初の一枚。

 

『徳川忠長』

 

 ……少し、字が固く、震えている。

 

 二枚目。

 

『忠長』

 

 ……まだ、他人の名前を書いているような違和感がある。

 

 三枚目。

 

『徳川忠長』

 

 ……徐々に、筆の運びが滑らかになり、自分の名前として脳に馴染んでいく。

 

『 どう? 史書に悪名高い「暴君」の名前を、自分で書いた気分は』

 

「……最悪のタイミングで、最悪の聞き方をするな」

 

『 でも、前世ではずっとそう思ってたんでしょう?』

 

「……まあね」

 

 俺は、墨がゆっくりと和紙に染み込み、乾くのを待ちながら、自分の書いた名前を見つめた。

 

 前世の俺が知っていた『徳川忠長』は、もうどこにもいない。

 

 いや、最初から同じ人間ではないのだ。

 

 生まれた場所と、親と、兄と、そして『名前』が同じというだけだ。

 

 それでも、歴史は俺のことを『徳川忠長』と呼ぶ。

 

 俺は、新しい真っ白な和紙を置いた。

 

 今度は、微塵も迷わずに、一気に書き抜いた。

 

『徳川忠長』

 

「……だったら、俺がこの名前でやるしかないだろう」

 

『 何を?』

 

「兄上を支える。民を見捨てない。俺が作った仕組みを、俺がいなくなった後まで、長く壊れないように保ち続ける」

 

「父上が、そういう意味だと言ってくれたんだから。……俺が、そういう名前にしてやる」

 

 KAMI様が、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

『 ……やっぱり、あんたは流されやすいわね』

 

「……納得した、と言え」

 

     ◆

 

 翌日。

 

 元服の前夜。

 

 正純から、「御元服後、若君が最初に確認し、裁可を下される予定の文書でございます」と、山のような帳面が届けられた。

 

 その内容は、華々しい成人祝いなどではない。

 

 京の仮住まいの整備状況。

 

 焼失地域の井戸の復旧進捗。

 

 冬用の材木の輸送手配。

 

 支倉常長の療養費の捻出。

 

 ソテロの指定屋敷の監視人員記録。

 

 各地の用水修繕の嘆願書。

 

 種籾備蓄の不足地域の割り出し。

 

 寺社ノードの秋季検分結果。

 

 俺は、呆れてため息をついた。

 

「……元服して、大人になって最初の仕事が、井戸の泥さらいと、材木の勘定と、種籾の計算ですか」

 

 正純は、悪びれもせず当然のように答えた。

 

「若君に、最も相応しい泥臭い仕事を揃えさせていただきました」

 

「そこは、まだ『忠長様』とは呼ばないんだな」

 

「御元服の儀は、明日にございますので」

 

「こういうところだけ、ものすごく厳密だよなぁ……」

 

「公文書と御名の扱いに、曖昧さは不要にございます」

 

「元服の、めでたい祝いの余韻とかは?」

 

「元服の儀を終えた後にございます」

 

「……この山のような仕事の後ですか」

 

「当然にございます」

 

 相変わらずの、ブラック企業じみた扱いに俺は苦笑した。

 

 この日常的な軽さが、今は何よりもありがたい。

 

 しかし。

 

 俺は、その文書束の一番上に置かれた仮の整理札を見て、息を呑んだ。

 

『御元服後 忠長様御裁可』

 

 まだ、正式な署名はされていない。

 

 だが、この『名前』は、すでに天下の仕事と制度の中へ、確実に接続され始めているのだ。

 

 俺は、窓の外の夜空を見た。

 

 明日。

 

 髪の形を改め、烏帽子をかぶり、太刀を帯びる。

 

 失敗を大人に庇ってもらえた、『国松君』と呼ばれる子供の時間は、完全に終わる。

 

 前世の歴史では、この『忠長』という名前の先にあるのは、兄への嫉妬、狂気、そして完全な破滅と死だった。

 

 だが、この世界では。

 

 家康が生きている。

 

 秀忠が、名前の本当の意味を教えてくれた。

 

 家光と、権力争いなどしていない。

 

 江も、すぐ側で微笑んでくれている。

 

 家臣たちは、俺の作った帳面を残し、動かしている。

 

 水路も、蔵も、制度も。

 

 少しずつだが、確実に形になり、民を生かしている。

 

 何もかもが、あの破滅の史実とは違っている。

 

 俺は、昨日練習した和紙を、もう一度見た。

 

 徳川忠長。

 

 史書の中では、愚かな暴君と呼ばれた名。

 

 けれど、この世界の歴史の書物には、まだこの名前の下に何一つ書かれてはいない。

 

 白紙のままだ。

 

(……なら。これから、俺が書けばいい)

 

 兄と民への忠を、決して忘れず。

 

 この国を。

 

 ここで生きる人々の暮らしを。

 

 少しでも長く、壊れぬように保ち続けた者の名として。

 

 明日。

 

 徳川国松は、元服する。

 

 そして俺は――『徳川忠長』になる。

 




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