暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
元和六年、九月七日。
夜明け前の江戸城は、深い静寂に包まれていた。
俺は、布団の中で目を覚ましていたというより、そもそもほとんど眠れていなかった。
暗がりの中、枕元には、昨夜自分で何枚も書き殴った「徳川忠長」の練習紙が白く浮かんで見える。
『……眠れなかったの?』
脳内に響く声に、俺は少しだけ寝返りを打って答えた。
「眠ったよ。たぶん、一刻くらいは」
『それを世間一般の言葉では、ほとんど眠っていないって表現するのよ』
俺は布団からゆっくりと身を起こし、自分の両手を見つめた。
手も足も、昨日と何も変わっていない。
頭が急によくなった気もしないし、天下を背負うぞという威厳が湧いてきたわけでもない。
「今日の儀式が終わったら、本当に『大人』として扱われるらしい」
『よかったじゃない。烏帽子を一個頭に載せるだけで、人格と判断力が自動的に大人用へ更新されるんだから。ずいぶん便利な仕様だわ』
「俺だって、そんな安直な仕組みだとは思ってないよ……」
ただ、今日を境に、最後の責任を大人たちへ預けることのできた『子供の立場』が終わる。
その重圧が、俺の胃のあたりを冷たく、重くしていた。
◆
やがて、部屋に障子越しの白みが差す頃、お里をはじめとする女房たちが入ってきた。
これまでの元服前の髪形を解き、成人した武士としての髪へ整えるのだ。
今回の元服では烏帽子を用いるため、加冠に支障がないよう、髪を丁寧に結い直していく。
手際よく動く女房たちだが、俺は部屋の空気が妙に重く、静かなことに気づいた。
普段なら、お里がちゃきちゃきと手順を確認し、明るく指示を飛ばしているはずだ。
だが今日は、皆が言葉少なに、俺の髪を梳く手つきにどこか名残惜しさを滲ませている。
「……あのさ。別に、今日を境に俺がどこか遠くへ消えていなくなるわけじゃないぞ」
俺が堪りかねて言うと、お里の手が一瞬止まった。
「……存じております」
お里は、努めて平坦な声を作ろうとしていたが、微かに震えていた。
「ですが……『国松様』の愛らしいお姿を、この手でお整えするのは、これが最後にございますから」
その言葉に、俺は初めて気づいた。
俺にとっては、呼称や責任が変わる日だ。
だが、俺が生まれた時から仕えてきてくれた彼女たちにとっては、一人の子供の時代が終わるという、明確な別れの日なのだ。
そこへ、襖が静かに開き、母・江が入ってきた。
俺は反射的に立ち上がろうとしたが、「そのままお座りなさい」と手で制された。
江は女房たちの手元を優しく見届けた後、俺の背後へ回り、その両手を俺の肩へそっと置いた。
「国松」
江が、意識してその幼名を口にした。
俺は、鏡越しに母の顔を見た。
「この名で呼ぶのも、表向きにはこれが最後ですね」
「……表向きには、ですか」
「ええ。母が、手塩にかけて育てた息子の幼名を、そう簡単に忘れると思いますか」
江の優しい眼差しに、俺は少しだけ笑みをこぼした。
江は、結い上げられた俺の髪へ、愛おしそうに一度だけ触れた。
「……忠長という立派な大人となっても、苦しい時や辛い時にまで、無理に強がって大人の顔をし続ける必要はありませんよ」
「母の前では……時には、国松へ戻ってもよいのですよ」
前世で成人した時、誰かに「子供へ戻っていい」などと言われたことは一度もなかった。
その母の無償の愛に、俺はどう返事をしていいか分からず、少しだけ目を伏せた。
「……なるべく、戻らなくて済むように頑張ります」
「ふふ。そこは素直に、戻ると申せばよいのです」
『本当に、あんたのそういう意地っ張りなところよ』
KAMI様までが、江に同意するように呆れた声を上げた。
◆
江戸城内に設けられた、元服の儀の間。
華美に過ぎず、しかし徳川将軍家の男子にふさわしい、ぴんと張り詰めた格式の空気が漂っていた。
正面には大御所・家康、将軍・秀忠、そして兄・家光が座している。
進行は金地院崇伝と故実役が務め、控えている重臣は、本多正純、土井利勝、酒井忠世など、必要最小限に絞り込まれていた。
諸大名をこぞって集めない理由は明白だ。
俺の元服を、周囲に「新たな将軍候補の出現」と誤読させないためである。
祝賀は行う。
だが、家光の揺るぎない後継者としての立場を脅かすような政治集会には、決してしない。
(……俺の元服は、徳川一門にとって大事な節目だ。だが、次の将軍を決め直す儀式じゃない)
(兄上は、すでに家光として立っている。俺は、その隣で『別の役目』を持つために大人になるんだ)
「……これより、加冠の儀を執り行う」
故実役の厳かな声が響く。
何度も予行演習はしたはずだが、極度の緊張で頭の中が真っ白になりかけた。
『はい、そこ。右足から進み出る』
「……分かってる」
『今、一瞬左足を出そうと迷ったでしょう。心拍数上昇、発汗増加。緊張メーターを振り切ってるわよ』
「健康診断みたいに実況するな。黙っててくれ。余計に足の出し方が分からなくなる」
外から見れば、国松は緊張を微塵も表に出さず、堂々と歩みを進めているように見えただろう。
だがその実、俺は脳内でKAMI様とくだらない小声の喧嘩を繰り広げていた。
俺が所定の位置で深く頭を下げると、正面から家康がゆっくりと立ち上がり、烏帽子を手に取った。
俺は、目の前に差し出された家康の手を見た。
以前より細く、血管が浮き出し、僅かに震えている。
どれだけ未来の知識や食事管理で延命を試みても、人間は不死にはならない。
本来の史実であれば、俺が元服する頃には、家康はすでにこの世にいない。
だが今、改変された歴史の果てに、祖父は生きて、俺の元服を見届けてくれている。
その少し震える手が、俺の頭上へゆっくりと、だが確かな重みを持って烏帽子を載せた。
結び紐が整えられ、家康が誰にも聞こえないほどの小さな声で尋ねた。
「……重いか」
俺は、頭上の烏帽子そのものの感触を確かめた。
「……思っていたより、軽うございます」
家康は、口元だけで僅かに笑った。
「左様か。……軽い物ほど、人が後から勝手に重くしていくものよ」
俺は、先日言われた「名に背負われるな」という言葉を思い出した。
家康は、俺を見下ろしたまま続けた。
「……重くなりすぎた時は、一人で頭を支えようと気負うな。父がおる。兄がおる。家臣もおる。……我らがおる」
俺は、目の前が少しだけ滲むのを感じながら、深く頷いた。
「……はい」
家康が生きている。
そして、この日を共に見届けてくれている。
その事実だけで、烏帽子よりも遥かに尊く、重かった。
◆
崇伝が、名乗りの儀を進める。
秀忠が、将軍として、そして父として、厳かに宣言した。
「……国松」
最後に一度だけ、俺を幼名で呼んだ。
俺が顔を上げる。
「これより、忠長と名乗れ」
「徳川忠長として、兄を支え、民を守り、公儀の務めを違えずに果たせ」
俺は、烏帽子を落とさぬよう気をつけながら、これまでにないほど深く頭を垂れた。
「謹んで、御名を頂戴いたします」
「徳川忠長。兄上と民に忠を尽くし、託された仕組みを長く保つ者となります」
長い言葉はいらない。
先日得た決意を、短い誓いに圧縮して返した。
崇伝が、改めて深く頭を下げる。
「忠長様」
正純や利勝たちも、新たな名を受けた俺へ続けて一礼した。
初めて公の場で呼ばれたその名に、俺は一瞬だけ反応が遅れた。
自分が呼ばれていると、脳が即座に認識できなかったのだ。
『あんたよ』
「……分かってる。まだ耳が慣れてないだけだ」
続いて、家光が俺の前へ進み出た。
成人の武士として帯びる太刀を、俺へ授けるためだ。
それは単なる武器ではなく、武士として人を斬る権限と、それに伴う責任の象徴でもある。
俺が少し複雑な顔で太刀を見つめていると、家光がふっと笑った。
「……刀が、嫌か」
「嫌というわけではありません」
俺は正直に答えた。
「ただ、俺の仕事は、人を斬らなくても済むように、帳面と水路を整えることですから」
家光は、太刀を俺の手に押しつけるようにして言った。
「ならば、そのために帯びよ」
「刀を持つ者が、刀を抜かずに済ませられるなら、それに越したことはない。……一度も抜くなとは言わぬ。だが、必要な時に迷うな」
統治者として、平和を願うだけでは国は守れないと分かっている兄。
そして、武力を否定するのではなく、武力を使わずに済む状態を保守し続ける役目を選ぶ弟。
「……兄上から渡されたこの刀を、なるべく抜かずに済むよう努めます」
俺は、太刀をしっかりと受け取った。
儀式の最後、形式的な祝いの酒が出された。
『飲みすぎて、元服初日にひっくり返って倒れたら、史書の一行目に書かれるわよ』
「そんな最悪のデビュー戦は絶対に嫌だ」
俺は儀礼として口をつける程度にとどめ、杯を下ろした。
家康が「飲めぬなら無理をするな」と庇ってくれたので、俺はもっともらしい理由をつけた。
「……元服直後に、急性アルコール中毒で倒れるのは、あまりにも間抜けですので」
「きゅうせい……あるこおる……何じゃ?」
「あ、いえ。祝いの席で倒れては、頂いたばかりの御名に傷がつきますゆえ」
『今、うっかり現代医学の言葉で説明しようとしたわね』
◆
内々の儀式が終わった後、大広間での、範囲を広げた披露へ移った。
諸大名、旗本、奉行衆がずらりと控えている。
俺が、徳川忠長として姿を現すと、一斉に彼らが頭を下げた。
「忠長様。御元服、恐悦至極に存じ奉ります」
昨日までは、どこか愛玩動物を見るような、「国松君」への微笑ましい視線だった。
だが、今日からは違う。
大名たちは、成人した『徳川一門の武将』として俺を見ている。
向けられる礼の深さも、居並ぶ人数の圧も、昨日までとは明らかに違った。
そして、その祝辞の裏側で、彼らの目が抜け目なく動いているのが分かる。
(どれほどの所領を与えられるのか。どの家臣が付属するのか。婚姻相手は誰になるのか。次期将軍の家光と、どのような権力関係になるのか。あの御異物改方を、個人の家へ取り込むのか……)
俺は、背筋が寒くなるのを感じた。
(ああ。元服とは、俺が大人になる儀式であると同時に……天下の連中が、俺を『大人の政治物件』として品定めし始める日でもあるのか)
俺の立つ位置は、家光より明確に下座でありながら、徳川一門の中では極めて高い場所に定められていた。
俺は、その絶妙な配置を見て心底安心した。
家光より上でもなく、並列でもない。
弟として、裏から支える位置だ。
家光が、扇子で口元を隠しながら小声で言った。
「……昨日までと、立つ場所はさほど変わらぬな」
「それでいいんです。むしろ、今日急に兄上より前へ出されたら、本気で逃げます」
「逃げるな。探し出して連れ戻すのが面倒だ」
二人の軽いやり取りを見た大名たちは、「兄弟対立の兆候」を探していた視線をわずかに緩めた。
だが、全員が安心したわけではない。
逆に、
「仲がよすぎる。忠長が家光の最側近として、巨大すぎる裏の権力を持つのではないか」
という、別の厄介な警戒を生んでいる気配もあった。
(……近いうちに、俺自身の役目と権限の『制度整理』をやらなきゃな)
◆
祝賀が一段落し、控えの間で一息つこうとしたところで、本多正純が顔をしかめながら俺へ近づいてきた。
その後ろには、祝賀後の実務調整を担う土井利勝も控えている。
「忠長様。……早速にございますが、御耳へ入れるべき不穏な件が」
新しい呼び名に、俺の反応が一拍遅れる。
「……ああ、俺のことか。何かあったのか?」
「左様にございます」
正純が差し出した報告書には、『水神様御成人祝賀ニ付』と書かれていた。
俺の顔が、一瞬で引きつった。
江戸の町では、俺の元服を勝手に祝おうと、暴走気味の祭りが起きているという。
井戸へ新しい注連縄を張る。
水路へ大量の花を流す。
勝手に作った水神札を配る。
「これを飲めば万病に効く『忠長水』だ」
と称して、川の水を売る。
商人が勝手に記念の酒を仕込む。
さらには農村から、来年のための大切な種籾まで、「祝い」として献上しようとする動きがあるという。
中には、極めて悪質な詐欺もあった。
「元服の今日の良き日に汲んだ水を飲めば、男児が丈夫に育つ!」
「忠長様へ米を献上しなければ、来年必ず水害に遭うぞ!」
などと脅し、金銭や米を巻き上げる輩まで現れたらしい。
俺は、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「……俺が烏帽子をかぶって大人になっただけで、どうして水に『新しい御利益』が追加されるんだよ!」
『水神様の、大型更新記念行事だからじゃない?』
「勝手に新機能を実装するな!」
正純は、
「直ちに町奉行を動かし、厳しく取り締まりましょう」
と提案した。
しかし俺は、頭を振った。
「一律に禁止して押さえつければ、反発を生んで地下に潜るだけだ。民は、悪意だけで祝っているわけじゃない」
彼らには、彼らなりの切実な思いがある。
飢饉の時に種籾が届いた。
大火の後に井戸が直った。
疫病から水を守ってもらった。
その実感があるから、「何かを水神様に返したい」と思っているのだ。
俺は、善意と詐欺を明確に分けることにした。
「……御利益を騙った水や札の販売、強制的な米や銭の徴収、俺への高額な献上品。これらは厳禁だ」
「川や井戸を塞ぐような参詣も、農作業を止めてまで行う大騒ぎも許さない」
「だが……家や町単位での、ささやかな祝いは許す。そして……」
俺は、正純と土井利勝を見た。
「祝ってくれるというなら、米も銭も俺のところへ持ってこなくていい。その代わり、自分たちが毎日使っている井戸を見てくれ、と触れを出してくれ」
「井戸の蓋が腐っていないか。縁が崩れていないか。汚れた水が流れ込む隙間がないか。子供が落ちるような穴が空いていないか。外から見て分かるところを確かめてもらう」
俺は、さらに念を押した。
「ただし、勝手に井戸の底へ人を下ろすな。泥さらいや内部の点検が必要なら、井戸番か町奉行所へ届け出させろ。素人へ危険な作業をさせるなよ」
「壊れていたら町役人へ届け出る。その点検と修理を、俺への何よりの祝いとする、と」
正純が、目を丸くして確認する。
「……御元服祝として、江戸中の井戸と水路を一斉に見回らせると」
「強制じゃないぞ。祝いを理由にただ働きを押しつけるな。各町の水番と井戸番には、公儀から別途手当を出す」
「祝いなのに、公儀の側から銭が出るのですか?」
「祝いにかこつけて、現場の末端だけに苦労を押しつける方がおかしいだろ」
土井利勝が、その場で素早く制度の枠組みへ落とし込む。
「……では、仮に『御成人御用水見回り』という名目で進めましょう」
俺は心底嫌そうな顔をした。
「俺の元服と、用水の見回りをくっつける必要ある?」
「すでに民が勝手に結びつけて熱狂しておりますゆえ。無理に切り離すより、安全な形へ整えて誘導する方がよろしいかと」
「……俺の人生で一度きりの儀礼が、またしても行政の保守制度に吸収されていく……」
『あんたの成人祝いが、そのまま江戸一斉メンテナンスになるなんて。……実にあんたらしい着地じゃない』
「せめて今日一日くらい、普通におめでとうって祝われたかったよ」
『普通の十五歳は、江戸中の井戸を管理していないわよ』
俺は、何も言い返せなかった。
◆
祝賀の儀が全て終わり、ようやく御異物改方の自室へ戻る。
そこには、昨夜見たあの『文書の束』が、本当に俺を待っていた。
一番上に置かれているのは、京の焼失地域における、仮住まいと井戸復旧の優先順位に関する裁可願である。
問題は、冬までに全てを直すだけの材木と人手が、決定的に足りないことだ。
焼け出された民の仮住まい。
寺社の本格修復。
公家屋敷の再建。
避難や物資搬送に必要な小橋。
飲用井戸と防火用井戸の蓋。
食料を保管する倉。
それらが、同じ材木と人手をめぐって競合している。
京側の担当者は判断がつかず、江戸へ裁可を求めてきたのだ。
昨日までなら、俺が案を作り、最後は秀忠か家康の名で裁可してもらえた。
だが、今日は違う。
正純が、新しく作られた俺自身の『印判』を差し出した。
「……忠長様の、御裁可を」
俺は、一瞬だけ、書類を抱えて家康や秀忠のところへ相談に行きたくなる衝動に駆られた。
(いや……相談することはできる)
(でも、最初から『責任ごと』投げ返すことは、もう許されないんだ)
俺は、案件を慎重に分類した。
「第一優先。人命に直接関わる民の仮住まい、飲用井戸と防火用井戸、避難と物資搬送に欠かせない小橋、食料を守る最低限の倉」
「第二優先は、雨漏りや倒壊を防ぐための寺社と公家屋敷の応急修繕」
「装飾や見栄えを目的とする本格的な堂宇や屋敷の再建は、春以降へ回す」
俺は、正純へ念を押した。
「今、屋根のない者の頭上へ、一枚でも多くの板を置く」
「寺社と公家屋敷には、本格再建を春まで待ってもらう。だが、雨風と倒壊を防ぐ応急修繕までは必ず行う」
「……仏様にも公家衆にも、この冬だけは少し我慢してもらおう」
そして、最も重要な点を付け加える。
「ただ『後で直す』という口約束にするな」
「使えなかった材木、遅らせた工事、春に必要な人足を、今のうちに全て帳面へ記録させろ」
「延期と放置は違う。後回しにした相手へ、将来の優先権を保証するんだ」
正純は、深く頷いた。
「……先送りを、忘却に変えぬために、でございますな」
裁可書が清書され、俺の目の前に置かれた。
俺は筆を取った。
昨日、何度も練習した名前だ。
しかし、練習用の紙と、天下を動かす公儀の裁可書では、筆の重さが全く違った。
『徳川忠長』
そう署名し、続いて新しい印を押す。
朱肉が、白い紙へ鮮やかに移る。
俺は、その印影をじっと見つめた。
『本番環境への初回反映、完了ね』
「……不吉な言い方をするな。問題が起きても、簡単には元に戻せないみたいじゃないか」
『公文書は、そう簡単に巻き戻せないでしょう?』
「……だから怖いんだよ」
それでも。
俺は、印を押した手を決して引っ込めなかった。
正純が裁可書を受け取り、深く、静かに頭を下げた。
「……徳川忠長様。最初の御裁可、確かに承りました」
この瞬間。
俺の名前が、本当にこの国の制度へ接続された。
征伐命令でもない。
加増の願いでもない。
焼け出された者へ屋根を用意し、井戸を直し、冬を越させるための裁可。
兄と民への忠を尽くし、仕組みを長く保つ。
俺が選んだ名前の誓いが、さっそく行動になったのだ。
(……まあ、大人になって最初の仕事が、結局、井戸と材木の配分だったけどな)
俺は、少しだけ肩の力を抜いて笑った。
◆
夜。
自室へ戻り、窮屈な烏帽子や正式な装束を全て外し、普段に近い姿へと着替えた。
鏡を見る。
昨日と顔は変わっていない。
背が急に伸びたわけでも、威厳が滲み出ているわけでもない。
「……全然、大人になった気がしないな」
『一日で中身が変わるわけないでしょう』
「じゃあ、元服って結局何だったんだよ」
『世界の側が、あんたに対する『扱い』を切り替えたのよ。あんた自身の更新じゃなくて、周囲の設定変更ね』
俺は納得しかけたが、今日署名した裁可書を思い出した。
「でも……責任者の名前は、本当に変わった」
昨日までなら、最後の責任は父上たちの名前だった。
だが、今日は俺の名前だった。
お里が夜具の準備をしながら、うっかり口にした。
「国松様。明日の朝餉は――」
彼女は、はっとして口を押さえ、慌てて言い直した。
「……申し訳ございませぬ。忠長様」
俺は、小さく笑って手で制した。
「無理に、今日一日で完璧に直さなくてもいいよ」
「されど、公の場では……」
「公の場では、忠長でいい。でも……ここでは、たまに間違えても、誰も罰したりしないから」
お里は少しだけ目を潤ませながら、
「……では、少しずつ慣れさせていただきます」
と微笑んだ。
名前が変わっても、人間関係が断絶するわけではないのだ。
最後に、町奉行所から短い報告が届いた。
俺の触れを受け、不当な水神札の販売や強制的な米の徴収は止まった。
代わりに、町ごとの井戸蓋と水桶の一斉点検が始まり、腐っていた古い井戸蓋が何枚か交換されたという。
水路へ花を流す催しも、
「詰まりの原因になる」
と中止され、花は井戸番たちへの慰労として渡されたらしい。
俺は報告書を読んで、ふっと笑った。
「……俺の元服祝いで、江戸の井戸の蓋が新しくなったのか」
『立派な成人祝いじゃない』
「……もう少し、こう……名馬とか名刀とか、華やかなものを想像してたんだけどな」
『太刀も立派に貰ったでしょう?』
「貰ったけど。今日、一番民の役に立ったのは井戸の蓋だ」
俺は、今日初めて署名した裁可書の控えを、もう一度見た。
徳川忠長。
まだ見慣れない名前。
だが、昨日よりは少しだけ『自分の名前』に見える。
烏帽子をかぶったからといって、俺は急に立派な大人になったわけではない。
明日もきっと間違えるだろう。
判断に迷い、家康や秀忠や家光に助けを求めることも必ずある。
それでも。
自分の名で決めたことが失敗した時、もう「子供だから知らなかった」とは言えなくなった。
間違えないことが、大人なのではない。
間違えた時に、それを隠さず、記録し、直し、最後まで逃げずに責任を持つ。
もしかすると、それが、まだ未熟な俺にできる、精一杯の『元服』なのかもしれない。
こうして。
徳川国松は、徳川忠長になった。
成人した初日に行ったことは、京の仮住まいへ材木を回し、江戸中の井戸蓋を点検させることだった。
……うん。
たぶん、俺らしい元服だったと思う。