暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
元和六年、晩秋。
俺が元服の儀を終え、「徳川忠長」の名を受け入れてから、一月余りが過ぎていた。
江戸城、御異物改方の自室。
俺の机の上には、元服後に新しく作られた公文書が山のように積まれている。
書類の宛名は、少しずつ『徳川忠長様』へ統一され始めていた。
一方で、整理待ちの古い帳面や木札には、まだ『国松様御裁可』『国松君御覧』『国松様御異物御用』という文字が大量に残っている。
俺は、現在も効力を持つ閲覧許可札や命令札には、
『旧名につき失効。新札へ交換』
と朱書きし、過去の裁可帳には、
『徳川忠長名義へ引継済』
という別の印を押していた。
終わった仕事の記録まで失効させてしまえば、俺が国松だった頃に下した命令や、その結果まで歴史の上から消えてしまう。
「……別に、国松という人間が死んで、別人になったわけじゃないのにな。帳面の上では、完全に別の利用者扱いなんだから嫌になるよ」
『当たり前でしょう。仕組みの側から見れば、登録名と認証印が違えば、それは別の利用者情報みたいなものよ』
KAMI様が、相変わらず冷ややかな声で突っ込んでくる。
「……人間を認証情報扱いするな。中身は同じ本人だよ」
『本人だと知っているのは、今、周りにいる人間だけでしょ。百年後にその帳面を読む人間は、印影と記録の文字でしか判断できないわ』
『名前の厳密な管理は、保守運用の基本よ』
先日の元服騒ぎを思い出し、俺は思わず肩を落とした。
この日は、異国向け証文の整理のため、金地院崇伝も御異物改方へ詰めていた。
そこへ、本多正純が一通の急報を抱えて、早足で入ってきた。
「忠長様。長崎奉行より、至急の報せにございます」
新しい名前で呼ばれることにも、ようやく少しだけ反応が遅れなくなってきた。
「……なんだ。またどこかで船が沈んだか?」
俺が書状を受け取ると、正純は冷静な顔のまま告げた。
「……大明の万暦帝、崩御の由にございます」
俺は一瞬、手にした書状を見つめたまま目を閉じた。
前世の知識で、今年、明の皇帝が死ぬこと自体は知っていた。
だが、実際に公的な報告としてその死を突きつけられると、歴史の教科書に記された一行とは、全く重みが違う。
万暦帝は、四十八年もの長きにわたり、明の頂点に君臨してきた皇帝だ。
しかも今は、サルフの大敗北の後で、遼東が後金の勢力によって激しく揺さぶられている最中である。
「……上様へ、急ぎ御報告いたします」
正純が続けて尋ねた。
「明へ弔意を伝える国書を、直ちに整えますか」
崇伝が、慎重に口を挟んだ。
「……お待ちを。まずは、報せの確度をさらに確かめるべきでしょう」
「万が一にも、皇帝崩御の誤報をもって公儀の国書を動かせば、外交上、取り返しがつきませぬ」
「崇伝殿の言う通りだ」
俺も同意した。
「報告元はどこか。船の出港日はいつか。誰が、誰から直接聞いた話か。そして、どの公的な書状を見たのか」
「内容だけではなく、情報の出所と日付を分けてから上へ上げてくれ」
◆
だが、混乱はそれでは終わらなかった。
第一報を整理し終える前に、今度は琉球・薩摩筋から、別の急報が飛び込んできたのだ。
「明にて、皇太子が新たな皇帝として即位されたとの由」
「新帝は、これまでの税の乱れを整理し、遼東の防備を立て直すよう命じられたらしいと、商人が伝えております」
そこまではいい。
問題は、その後だった。
「……しかし。この新帝の呼び方が、商人や書状ごとに異なっております」
正純が、困惑したように報告を並べた。
『新帝』
『泰昌の新帝』
『皇太子朱常洛』
『万暦帝の後継者』
正式な元号がどこまで定まっているのか。
それとも、広大な北京から地方の港へ、まだ正確な情報が届いていないのか。
海を隔てたこちらからは、全く判別がつかない。
さらに、長崎の明商人から、頭の痛い実務上の要求が届いていた。
「……忠長様。以前より万暦帝の名義で進めておりました、永冷石箱の購入願と引渡し許可について」
「新帝名義へ速やかに書き換え、承認してほしいとの催促が来ております」
俺は、思わず顔をしかめて天を仰いだ。
「……やっぱり来たか。名義変更の手続き」
『一国規模の、特大の改名と引継ぎ作業ね。頑張って』
「自分一人の名前が変わっただけで、江戸城中の帳面を書き換える羽目になって苦労してる俺に、それを言うなよ」
◆
御前会議を開く準備を進めている最中。
今度は、長崎の南蛮商人筋から、マカオ方面を経由したという第三の報告が届けられた。
書状を読んだ正純の顔が、これまでにないほど強張っていた。
「……忠長様」
「今度はなんだ。また新帝の呼び方が増えたか?」
「……新帝も、崩御されたとのことにございます」
御異物改方の部屋が、水を打ったように静まり返った。
俺は、自分の耳を疑って聞き返した。
「……新帝というのは、万暦帝のことじゃないよな?」
「はい。万暦帝の後を継がれた、泰昌帝のことにございます」
「……いつ即位したんだ?」
「八月頃と」
「……いつ亡くなった?」
「九月初めとも、末とも。出所によって日が異なりまする」
俺は、両手で顔を覆い、深々と呻いた。
「……一月じゃないか……」
「そのようにございます」
正純が、冷や汗を拭う。
「……明という巨大な国の皇帝が。一月ほどの間に、立て続けに二人も替わったっていうのか……!」
◆
さらに、報告書には、泰昌帝の不可解な死因について、恐ろしいほど多くの噂が書き並べられていた。
『もともと病弱であった』
『即位の儀の疲労で倒れた』
『下す薬を誤って飲まされ、急激に衰弱した』
『赤い丸薬を服用した直後に急死した』
『宮中の女官や宦官による陰謀である』
『前帝の妃と新帝側近の権力争いに巻き込まれ、毒殺された』
『ただの病死である』
俺は、報告書を投げ出しそうになった。
「……分からないことが、多すぎる」
『当然よ。投薬前の正確な身体状態も、丸薬の中身も、量も、服用時刻も、症状の推移も。まともな医療記録が何一つ揃っていないんでしょうね』
「だったら、死因なんて、こちらで断定できるわけがない」
正純が、鋭い目で尋ねた。
「……では。毒殺や陰謀の説は、公儀の記録から消すべきでしょうか」
「いや。消すな。風聞として記録しろ」
俺は指示を出した。
「ただし、絶対に『毒殺された』と断言して書くな」
「【風聞】毒殺との説あり。根拠および原報未確認、と書け」
「病死説も薬害説も同じだ。誰が、どの港で、何を根拠に話したのかを、全て分けて併記するんだ」
徳川公儀は、明の宮中の政争に対し、遠い江戸から勝手な判定を下さない。
ただ、誰がどのような情報を持ち込み、それがどこまで確かなのかだけを記録する。
そこへ、対馬・朝鮮筋からも、遅れて報告が入った。
「万暦帝から数えて、この短い間に三人目となる新帝は、朱由校という若者らしいとのことにございます」
ただし、これも、
『すでに正式に即位した』
『まだ反対派によって宮中から出られない』
『皇帝を養育していた女性が実権を握ろうとしている』
『官僚たちが皇帝を別の宮へ移し、擁立した』
などと、内容が完全に食い違っている。
俺は、情報を強引に整理した。
「……つまりだ」
「万暦帝が死んだ」
「泰昌帝が立った」
「泰昌帝も、すぐに死んだ」
「その子が新しい皇帝になったらしい」
「だが、今現在、明の宮中で誰が実権を握り、誰が新帝の周囲を押さえているのかは、全く分からない」
俺は、最大の懸念を口にした。
「皇帝の名前が分かったところで、こちらとの証文を実際に守らせる相手が誰なのか、全く分からないじゃないか」
◆
ここで、最大の国際実務問題が浮上した。
永冷石箱の案件だ。
以前、南蛮商人へ厳しい条件付きで売却した永冷石箱の一つがマカオで知られ、明の有力な薬種商人や役人の関心を集めた。
しかし、俺たちが作った元の証文には、
『転売禁止』
『分解禁止』
『火気厳禁』
『使用記録の提出義務』
『徳川公儀の許可なく、他国の宮廷や役所へ渡さないこと』
という厳格な条件が記されている。
そのため、南蛮商人は勝手に明へ箱を転売できず、明側が徳川公儀へ正式に、
『医薬や貴重な薬種の保存試験のため、新たな永冷石箱を購入したい』
と申し入れていたのだ。
徳川側でも、
新しい箱を一基売る
一定期間だけ試用させる
使用場所を指定する
宮中へ渡す場合も、責任を負う管理官の名を記させる
という条件を詰めている最中だった。
ところが。
明側の商人が持ってきた購入願は、
『大明万暦皇帝の御用』
『万暦帝の勅許を受けた役人が管理する』
『万暦帝の宮中庫へ納める』
という形で作成されていた。
その万暦帝が死んだ。
慌てて泰昌帝の治世に合わせて書き換えようとしていた直後、その泰昌帝も死んだ。
「……どうするんだ、これ」
事態が商取引と保管費にまで及ぶと見て、土井利勝も呼び出されていた。
土井が、重い口を開く。
「このままでは、当然ながら箱を渡せませぬ」
「されど、長く留め置けば、明商人からは徳川が一方的に約定を違え、取引を反故にしたと受け取られます」
「手付銀を突き返せば、明国そのものとの取引を拒絶したと、角が立ちましょう」
正純も同意する。
「今、箱を明の宮中へ送ったところで、混乱の極みにある宮中の、どの者が受け取るか分かりませぬ」
「前帝の御用という名を利用して、箱を勝手に奪い、売り捌く者が出ても、こちらには海の向こうの真偽を確かめる術がございません」
崇伝が、外交儀礼上の問題を指摘した。
「万暦帝への弔意」
「泰昌帝への弔意」
「そして、新帝への賀意」
「これらを、どの順で、どの窓口へ届けるかすら、現状では定まりませぬ」
俺は思わず愚痴った。
「万暦帝への弔意と、新帝への賀意を整えている間に、その新帝まで崩御したのか……」
『国際郵便の事故としては、最悪の部類ね』
◆
家康、秀忠、家光を交えた御前会議が開かれた。
卓上には、四種類の文書が並べられている。
『万暦帝名義の永冷石箱購入願』
『泰昌帝即位を伝える商人書状』
『泰昌帝崩御を伝える南蛮筋の報告』
『朱由校の即位と宮中混乱を伝える朝鮮筋の報告』
秀忠が、将軍として俺へ尋ねた。
「忠長。……そなたは、この混乱をいかに見る」
俺は即答せず、卓上の文書を睨みつけた。
すると、家光が鋭い言葉で核心を突いた。
「……我らの相手は、『明の皇帝』なのか。それとも、『明という国』なのか」
俺は、はっとして兄上を見た。
「……それが、今の証文では明確に分かれていないのです」
俺は、文書を指さした。
「皇帝個人への贈答なのか」
「明国との商取引なのか」
「宮中の役人へ、物を預けて管理させる契約なのか」
「それらが、一枚の証文の中に曖昧に混ざっています」
家康が、深く頷いた。
「相手の顔が見え、権力が安定しておる時は、それでも事は進む」
「……だが、顔が消え、代が替わった瞬間、その紙の粗が一気に噴き出すということか」
「はい」
俺は、つい先月、自分が苦労した名義変更を例に出した。
「私が国松から忠長へ名を変えた時、御異物改方の仕事そのものが、突然消えたわけではありません」
「ですが、『国松様の命』としか書かれていない古い文書は、そのままでは新しい忠長の名義へ自動的には繋がりませんでした」
「そのため、旧名と新名、印判、役目を照合し、同じ責任者であると確認して、引継ぎを行いました」
「……しかし、明では、人そのものが死んでいます」
俺は、重く言った。
「万暦帝と泰昌帝と新帝は、同じ人物ではありません」
「皇帝という地位は続いても、その個人的な意思や約束まで、自動で次の皇帝へ引き継がれるとは限らない」
「だから、人の名前だけを書き換えるのでは駄目です」
『利用者名だけ変更して、権限と所有物と処理中の仕事を、全部問題なく引き継いだことにしようとするから事故るのよ』
(今の説明、ものすごく分かりやすいけど、この時代では絶対に通じない言葉なんだよな……)
俺は内心でため息をつき、自分の案を口にした。
◆
「……証文を、三つの層へ分けます」
俺は、新たな国際証文の原則を提案した。
「第一。人へ向けた文書」
「皇帝個人への弔意、即位への祝意、個人的な贈答、健康への挨拶」
「これは相手が死ねば、その人へ向けた約束としては終わるものです。後継者へ自動的に移してはいけません」
「第二。役目や役所へ向けた文書」
「明国との交易条件、礼部や港の役所との手続き、使用記録の提出義務、こちらの検分権限」
「これは担当者が死のうが替わろうが、役所が存続する限り引き継がれるものです」
「ただし、新たな担当者による受領と継承の確認を必要とします」
「第三。物を預かる者の責任書」
「永冷石箱を実際に保管する者」
「箱を置く場所」
「鍵の管理者」
「異常時の報告者」
「破損や火災が起きた時に責めを負う者」
「これは遠くの皇帝や役人が替わろうが、実際に箱を手元で預かる者が、直接その責めを負い続けるものです」
俺は、結論を言った。
「皇帝が替わっても、箱を預かっている現場の人間まで消えるわけではありません」
「ならば、物の責任を、遥か遠くの皇帝一人の名の下へ、曖昧に隠してはいけないのです」
家康が、俺の案を聞いて、静かに目を閉じた。
「……国は、人が動かす」
「されど、国の約束を一人の命にだけ結びつけてしまえば、その者が死ぬたびに、国まで一緒に死ぬことになる」
「はい」
俺は頷いた。
「相手の人へ敬意を払うことと、国の仕組みを人だけに頼ることは、全く別のことだと思います」
家康は、満足そうに深く頷いた。
◆
さらに俺は、引継ぎが確認できるまでの安全装置を提案した。
仮称、
『異国証文代替わり留置条目』
内容は、以下の通りだ。
皇帝、国王、法王など、最高権力者が交代し、権力の所在が不明瞭になった場合
危険な奇物、武器、機密書物の新規引渡しは一時停止する
手付金や預かり品は没収せず、公儀指定倉で保管する
新たな治世の成立を示す公文書と、正式な担当機関からの継承書が届けば再開する
実際に物を預かる者からは、新しい責任書を取る
停止は、相手への敵対や取引拒絶を意味しない
弔意や賀意と、商取引の確認書は、別々の文書として扱う
正純が、深く感心したように息を吐いた。
「……約定を破らず。されど、確証が持てるまでは、決して動かさぬための条目でございますか」
「止めることも、保守運用の一部だ」
俺は答えた。
「引継ぎ先が確かめられぬまま無理に動かすより、一度安全に留め、再開の条件を明らかにした方がいい」
◆
崇伝が、外交文書の文面を詰める。
俺は最初、
「一通の書状へ、万暦帝と泰昌帝への弔意と、新帝への賀意を全てまとめれば効率的では」
と言いかけた。
だが、崇伝に本気で止められた。
「……死者を悼む文と、新帝を寿ぐ文を、一枚の紙へ載せてはなりませぬ」
「いずれの礼も軽く見え、相手への侮りとなりましょう」
そこで、書状を三種類に分けた。
万暦帝への弔意。
長い治世を終えたことへの哀悼。
ただし、徳川が万暦帝の政治そのものを評価するような深入りはしない。
泰昌帝への弔意。
即位直後の急逝への哀悼。
毒殺説や赤い丸薬の話など、死因には一切触れない。
新帝への賀意。
即位への祝意と、明国の安寧を願う文。
宮中の特定派閥を支持したと取られないよう、後見人や側近の名は出さない。
崇伝はさらに説明した。
「同じ船へ載せることと、同じ書状へ混ぜることは別にございます」
三通は、それぞれ別封の独立した文書とする。
同じ使節が携える場合にも、受領する順序と相手を明記し、一通ずつ正式に差し出させる。
「……届く相手が確かめられないなら、出さない方が、かえって相手への礼になることもある」
永冷石箱についても、最終判断が下された。
箱は渡さない。
だが、取引を破棄もしない。
箱は長崎の指定倉へ移し、徳川公儀と長崎奉行の二重封印を施す。
明側の手付銀は別箱で保管。
預かった薬種は、腐敗を防ぐため適切に保存し、保管記録を日ごとにつける。
そして明側へ、
『政変を理由とする没収ではなく、正式な引継ぎ確認待ちである』
と通知する。
取引再開に必要なのは、三点。
一つ。
新帝の治世が正式に始まったことを示す、明側の公文書。
二つ。
礼部、または正式に指定された取引窓口による継承書。
三つ。
実際に箱を保管する者による、新しい責任書。
この三つが揃って、初めて箱を引き渡す。
土井利勝が尋ねた。
「その間の保管費は、いかがいたします」
「明側の政変だけを理由に、全て押しつけるな」
俺は判断した。
「こちらの証文の作り方が甘かった責任もある」
「半分は公儀が持つ。残りは、取引再開時の代金へ加える」
「一方だけに全ての負担を押しつければ、取引は必ず破綻する」
◆
数日後。
崇伝、正純、土井らが、俺の案を正式な条文へ直した。
名称は簡潔に、
『異国証文引継条目』
と定められた。
この条目は、今回の永冷石箱だけに限定しない。
今後の、
ローマ教皇の交代
スペイン王の交代
オランダ商館長の交代
朝鮮国王の交代
海外商人の死去
船主や保管者の変更
など、あらゆる権力者や担当者の交代による取引の宙吊りへ使える、共通の手順となった。
「……明の皇帝が替わったという一つの話が、最終的には、全世界の担当者交代時の共通手順になったな……」
俺が呆れたように呟くと、KAMI様が言った。
『一度起きた重大な障害を、その場しのぎの個別対応で終わらせず、次から使える共通手順として仕組みにする』
『元SEとしては、満点の対応じゃない?』
「……全然、褒められてる気がしない」
俺は、
『徳川忠長』
と署名し、新しい印を押した。
先日の国内の仮住まい復旧裁可に続き、今度は国際制度へ自分の名を置いたのだ。
「忠長様の御元服後、最初の異国証文制度となります」
正純が、深く頭を下げる。
俺は、少しだけ緊張しながら答えた。
「……名前が変わるのは仕方ない」
「人が死ぬのも、誰にも止められない」
「でも、そのたびに、交わした約束まで一緒に死なせる必要はない」
◆
最後に、さらに遅れて到着した唐船が、朱由校の即位について、より確度の高い報せを持ってきた。
新帝は即位し、天啓の元号を定めたという。
前の報告より内容は詳しい。
だが、宮中で誰が本当に実権を握っているかについては、やはり複数の説が入り乱れていた。
俺は、記録官へ明確に命じた。
「確定したことと、確定していないことを、厳密に分けて書け」
確定扱い。
万暦帝が崩御した
泰昌帝が即位した
泰昌帝も短期間で崩御した
朱由校が即位し、天啓の元号を定めた
未確定扱い。
泰昌帝の死因
赤い丸薬が直接の死因か
毒殺か
宮中で誰が主導権を握っているか
旧証文を新たな治世が正式に承認するか
これまで案件ごとに使っていた情報の確度区分が、
【確定】
【有力】
【未確認】
【風聞】
という共通の書式として、正式に定められた。
これが、今後の東アジア情報を整理する土台になっていくはずだ。
俺は、机の上の二つの印を見た。
一つは、もう使われない古い『国松』の札。
もう一つは、今押したばかりの新しい『徳川忠長』の印。
俺は、自分の名前が変わっても、同じ人間として生きていた。
周囲の者たちが、同じ人間だと確認し、引き継いでくれたからだ。
だが、明の皇帝たちは違う。
人が死に、別の人がその地位へ座った。
皇帝という地位は続く。
だが、その中にいる人間は、永遠には続かない。
人へ向けた言葉。
国や役所へ向けた約束。
現場で物を預かる者の責任。
それを、一枚の紙へ曖昧に混ぜてはいけなかったのだ。
人は死ぬ。
名も、役目も、担当者も替わる。
だからこそ。
替わるたびに、全てを最初から始めずに済む仕組みを残さなければならない。
俺が国松から忠長へ替わっただけでも、江戸城中の木札と帳面がひっくり返る大騒ぎだった。
明では、その一月ほどの間に、国の頂点である皇帝が二人も替わったのだ。
そりゃ、証文くらい宙にも浮く。
問題は、その宙に浮いた証文を誰かが拾い集め、次の相手へ繋ぎ直せるかどうかだ。
……どうやら。
それもまた、俺の仕事らしかった。
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