暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
YouTubeで本作の朗読動画を公開中です!
作業中や寝る前のお供に、よかったら聞いてみてください。
YouTubeで「暴君忠長に転生したので」と検索してください。
本作の朗読動画はこちら
元和七年、初冬。
江戸城の庭を渡る風が、日に日に乾いた冷たさを増していた。
御異物改方の部屋には火鉢が置かれ、赤く熾った炭がぱちりと小さな音を立てている。机の上には、つい先日まで俺たちを悩ませていた北方交易品の値動きや、海の向こうの城が落ちたという物騒な書状の控えが、ようやく整理を終えて束ねられていた。
張り詰めた空気の書類仕事が一区切りついたところに、本多正純が新しい一通の書状を携えて入ってきた。
今回の差出人は、長崎でも対馬でもない。武蔵国北部の代官所からであった。
「忠長様。山裾の古寺より、地元の役所を経て奇妙な届け出が上がっております」
俺――徳川忠長は、火鉢の上で温めていた手を止め、差し出された書状を受け取った。
紙面を開くと、謹厳な筆致で思いがけない文字が躍っていた。
『当寺の裏山、古き土中より、巨大なる龍骨を掘り当て候』
俺は、書状に記されたその二文字と正純の顔を交互に見比べた。
「……龍の骨?」
「そのように記されております」
「ついこの間まで、海の向こうで大きな城が二つ消えたという血なまぐさい報告を読んでいたはずなんですが、今度は日ノ本の山の中から龍の骨ですか。ここ最近、御異物改方へ届く報告の振れ幅が極端すぎません?」
俺が思わず苦笑混じりにこぼすと、正純は眉一つ動かさずに答えた。
「世の常ならざる品や事象を見極めるのが、御異物改方の役目にございますゆえ。龍の骨と申すならば、まさしく当方の管轄かと」
「理屈の上では全くその通りなんですけどね!」
とはいえ、戦争や政変の報告ばかりが続いていた中での、いかにも伝承めいた届け出である。
俺は書状の続きに目を通した。
報告によれば、その古寺は武蔵国北部の山裾、川が山地から平地へと流れ出るあたりに建ち、古くから薬師如来を祀っているという。寺の背後には、地元の村人たちが昔から『龍の眠る山』と呼び慣わしてきた小高い丘陵が続いていた。
先月の強い雨で川岸の土手が削られ、その裏山の崖の一部が大きく崩れ落ちた。
雨が上がった後、寺の薪を拾い集めていた若い寺男と村の子供たちが、崩れた土砂の中から白っぽい奇妙な石が突き出しているのを見つけたのだという。最初はただの変わった形の岩かと思い、泥を払って掘り出そうとしたところ、尋常ではない大きさをしており、しかも大人の腕より太い『骨』のような形をしていた。
驚いた寺男が住職を呼び、住職が崩れた土の周辺を確かめると、ほかにもいくつか硬い破片が転がり出ていた。人間や牛馬の骨とは比較にならない太さと重さを見た住職は、「古伝にある龍の御遺骨に相違あるまい」と判断し、外れていた破片だけを寺の境内へ運んで保護した。
俺が感心したのは、そこからの現地の対応だった。
住職は、骨が埋まっている崖を勝手に掘り返させなかったのだ。これは公儀が触れを出している『奇なる品』に関わるかもしれないと考え、直ちに地元の役所へ届け出たうえで、崩れた崖の周囲に竹柵を巡らせ、村人や子供たちが不用意に近づくことを禁じたという。
「……現地の住職も役人も、実に落ち着いた対応をしていますね。宝が出たからと欲を出して山を崩したりせず、まず危ない場所を封じて届け出ている」
「以前、忠長様が諸国へお出しになった『分からぬ物、危うき物は無理に動かさず、まず現状を保って報せよ』という触れが、末端の寺社や村方にも届いている証左でございましょう」
正純の言葉に、俺は少しだけ誇らしい気持ちになった。
地道に書き続けてきた通達や帳面の積み重ねが、こうして現場での無用な事故を防いでいる。
「それにしましても、山の中から巨大な骨が出たとなれば、放っておけば妙な噂が立ちましょう。すでに寺の住職が、崩れた土から自然に外れていた破片を一つ、証拠として江戸へ持参しております」
「もう届いているんですか。早いですね」
「いかがなさいますか。これより御覧になりますか」
「ええ。大御所様や兄上もお呼びして、一緒に見ましょう。本当に龍の骨かどうかはともかく、面白いものが見られそうです」
*
しばらくして、江戸城の奥座敷に家康、秀忠、家光、そして天海と正純が集まった。
座敷の下座には、武蔵国の古寺から上ってきた老住職が、白布に包まれた小さな木箱を前にして、緊張した面持ちで平伏している。
「面を上げよ。遠路、ご苦労であったな」
家康が穏やかに声をかけると、住職は恐る恐る顔を上げた。
「はっ……。恐れながら申し上げまする。当寺の裏山は、古来より龍が身を横たえた地と伝えられ、旱魃の折には雨乞いの祈りを捧げて参った場所にございます。此度、崖の崩れより現れましたこの品、まさに古伝の龍骨かと存じますが、私ども一寺の判断にて秘匿するは公儀の御定めに背くと思い至り、持参いたしました」
「うむ。勝手に掘り広げず、よくぞそのまま届け出た。して、その箱の中にあるのが件の骨か」
「はっ。崖の裾に転がり落ちておりました、ほんの一欠片にございます。崖の土中には、まだこれよりはるかに大きな骨の端が見えておりまする」
俺の合図で、正純が住職から木箱を受け取り、俺たちの前の卓へ置いた。
蓋を開け、幾重にも巻かれた麻布を解く。
中から現れたのは、子どもの頭ほどもありそうな、ずっしりとした塊だった。
色は黄褐色から暗い灰色が混じり合っており、表面には泥がわずかに残っている。一見するとゴツゴツとした奇妙な岩石のようだが、ただの自然石とは明らかに異なっていた。平たい板のような層が何枚も規則正しく重なり合い、片方の面には、何かを強く擦り合わせたような独特の溝と縞模様が並んでいるのだ。
「……これが、骨ですか?」
俺は思わず首を傾げ、許しを得てからその塊を両手で持ち上げてみた。
見た目以上に重い。指先に伝わる感触は、動物の乾いた骨というより、完全に冷たく硬い『石』そのものだった。
「手前どもは、龍の御歯の一部ではないかと考えておりまする」
住職がおずおずと補足する。
「歯?」
言われてみれば、平らに擦り減った面には、生き物が何かを噛み砕くための歯のような特徴が見て取れた。
隣から身を乗り出して覗き込んだ家光が、眉をひそめて唸る。
「……ずいぶんと妙な形をしているな。馬の奥歯を見たことはあるが、これほど大きくはないし、このように板が幾重にも重なったような筋は入っておらぬぞ」
「ええ。人間の歯とはもちろん違いますし、猪や鹿、熊のような山の獣とも全く似ていませんね」
俺は塊を卓へ戻し、表面の縞模様を観察するふりをしながら、内心で端末を起動した。
視界の隅に、淡い文字が浮かび上がる。
『対象物走査開始』
『異星文明由来反応:なし』
『神仏ノード由来異常構造:確認されず』
『人工加工痕:なし』
最初の表示を見て、俺は内心でわずかに肩を落とした。
(……なんだ。御異物じゃないのか)
《若返り石》に続いて、また何か途方もない理外の遺物が出てきたのかと期待していたのだが、どうやら空振りらしい。
だが、端末の表示はそこで終わらなかった。
『生物由来の組織構造を確認』
『高密度に鉱物化した大型哺乳類の歯牙組織断片と推定』
『極めて長期間の地中埋没痕跡あり』
(……ん? 生物由来の組織構造? 石なのに、本当に生き物の歯なのか?)
俺が脳内で疑問を浮かべた瞬間、待っていたかのようにKAMI様の声が響いた。
『やっほー。残念そうな顔をしているところ悪いけど、それ、偽物でもただの変な石でもないわよ。紛れもなく本物の生き物の歯ね』
(えっ。でも、御異物の反応は一切出ていませんよ?)
『御異物じゃないもの。異星人が作った道具でもなければ、神仏の奇跡で生まれた石でもない。大昔にその土地で生きていた動物の歯が、土の中に深く埋もれて、長い長い時間をかけて石に置き換わったものよ』
(……それって、もしかして)
『ええ。あなたたちの言葉で言うなら、化石ね』
俺は、危うく声を上げそうになるのを必死で堪えた。
化石。
前世の博物館や理科の教科書で見たことはある。だが、まさか江戸城の座敷で、自分の手で未調査の巨大な化石に触れることになるとは思ってもみなかった。
(本当に化石が出てきたんですか!? この大きさ……まさか、恐竜ですか!?)
『落ち着きなさいな。大きな骨や歯を見たら何でもかんでも恐竜だと思うのは、小学生の発想よ』
(だ、だって、人間の拳がいくつも並ぶくらいの大きさがあるじゃないですか!)
『そもそも、その破片一つだけで全体の姿を断定するのは早計よ。ただ、板が重なったような臼歯の構造からして、爬虫類ではなく大型の哺乳類ね。もっと状態の良い部分や、埋まっている地層を見れば、はっきりするわ』
(大型の哺乳類……)
俺が脳内でKAMI様とやり取りをしている間、現実の座敷では、家康たちが俺の言葉を待っていた。
俺は咳払いを一つして、顔を上げた。
「大御所様、上様。……まず、これは《若返り石》のような理外の御異物ではございません。また、誰かが石を削って作った偽物でもございません」
俺の言葉に、住職がほっと息をつく。偽物だと断じられて叱責されるのを恐れていたのだろう。
「これは本当に、かつて生きていた巨大な獣の『歯』であったものにございます」
「……かつて生きていた獣、か」
秀忠が、石のように見える塊へ目を落とした。
「されど忠長、どう見てもこれは石の塊にしか見えぬぞ」
「はい。しかし、極めて長い年月、空気に触れぬ深い土や泥の中に埋もれておりますと、骨や歯の内部へ地の水に含まれる石の成分が少しずつ染み込み、元の形を保ったまま石のように硬く変わる場合があるのです」
「骨が、朽ち果てずに石へと変わるのか……」
天海が興味深そうに目を細め、数珠を軽く鳴らした。
「して、忠長。それは一体、どれほど昔の獣なのじゃ」
家康の問いに、俺は言葉を選んだ。
何万年、何十万年などという途方もない数字を突然口にしても、この時代の人間の実感からは離れすぎてしまう。
「少なくとも、我らの祖父や曾祖父、あるいは古い史書に記録が残っているような時代のものではございませぬ。川の流れや山の形すら今とは違っていたような、途方もなく古い世に生きていた獣かと」
俺がそこまで説明した時だった。
それまで黙って塊の縞模様を眺めていた家康が、ふと白い眉を動かし、塊の平らな面を指差した。
「……待てよ、忠長。この歯の重なったような筋……どこかで似たものを見た覚えがあるぞ」
「えっ?」
「象じゃ」
家康の口から出た思いがけない単語に、俺は目を瞬かせた。
「大御所様、象を御存じなのですか?」
「知っておるとも。そなたが生まれるより前、慶長の初めの頃じゃったかな。南蛮の船が、交趾国より生きた象を連れて参り、わしに献じたことがあった」
俺は内心でハッとした。
そういえば、前世の歴史知識の片隅に、そんな話があったような気がする。江戸時代の人間は誰も生きた象など見たことがないと思い込んでいたが、目の前にいる大御所様は、過去に実物を見ていたのだ。
「あの時の象は、まだ若い獣であったと聞いたが、それでも馬が何頭も束になったような巨体をしておった。長い鼻を器用に動かし、大きな耳を揺らしてな。……その折、口の中や抜けた臼歯の話も聞いたが、草木をすり潰すための大きな歯には、このような幾重もの筋があるのだと異国の者が申しておった」
家光が、驚きに目を見開いて家康を見た。
「祖父上は、その交趾国の巨獣を直に御覧になったのですか!」
「うむ。あの象はのちに秀頼へ贈ったが、実に見事な獣であった。……どうじゃ忠長。これは象の歯ではないのか」
俺は、改めて目の前の化石を見つめた。
板状の構造が何枚も並んだ、草食獣の巨大な臼歯。
(KAMI様、家康公の言う通り、象なんですか?)
『ええ、見事な洞察ね。正確には、交趾国から来たアジアゾウそのものではなく、それに近縁の、太古の日本列島に生息していた象の仲間だけど。臼歯の基本構造はよく似ているわ』
(……大御所様、観察眼と記憶力が化け物すぎるでしょう……)
「大御所様の仰る通り、象、あるいはそれに極めて近い巨獣の歯である可能性が高いと存じます」
俺が肯定すると、秀忠がすぐさま現実的な疑問を口にした。
「だが、象は遥か南の暑い国に棲む獣であろう。なぜそのような獣の歯が、武蔵国の山の中から出てくるのだ」
「うむ。そこよ」
家康も腕を組んで頷いた。
「いかに古い骨とはいえ、昔に日ノ本へ象がおったとは聞き及ばぬ。……あるいは、遠い昔に異国より薬種や珍品として運ばれてきた象の骨が、何らかの事情でその山へ埋められたということも考えられるのではないか」
俺は、家康のその合理的な仮説に感嘆した。
頭ごなしに「太古の日本に象がいた」と言われても、普通は信じられない。誰かが外から持ち込んだ物が埋まったと考える方が、はるかに自然だ。
「大御所様の仰せの通り、この破片一つだけでは、外から持ち込まれて埋まったものか、その土地で生きて死んだ獣のものかまでは断定できませぬ」
俺は姿勢を正して進言した。
「ですが、住職の話では、崩れた崖の土中には、まだこれより大きな骨が埋まったまま見えているとのこと。もし一頭分の骨が、人の手で掘られた穴ではなく、自然の古い土の層に埋まっているのであれば、外から運ばれたものではない証となります。……ぜひ、私が現地へ赴き、その崖を直接確かめとうございます」
家康はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて楽しそうに口元を緩めた。
「よかろう。行ってみよ。天海も連れていくがよい。寺の伝承に関わることならば、天海がおった方が話が早かろう」
「はっ。老骨ながら、そのような面白き見聞の場、喜んでお供つかまつりましょう」
天海が涼しい顔で一礼する。
「私も行きたいところだが……」
家光がうずうずした様子で秀忠を見たが、秀忠は即座に首を振った。
「ならぬ。次代の将軍たる者が、崩れかけた山崖へわざわざ足を運ぶでない。江戸にて忠長の報告を待て」
「……むう。忠長、詳しい絵図を必ず持ち帰るのだぞ」
「承知いたしました、兄上」
こうして俺は、座敷での鑑定だけで終わらせず、武蔵国の古寺へ現地調査へ向かうことになった。
*
翌朝、俺は天海、小栗半兵衛、御異物改方の記録役、そして江戸の熟練した石工や普請方の職人を数名伴い、武蔵国北部へと出発した。
大掛かりな発掘隊ではない。持っていったのは、長さを測るための木尺と麻縄、方位を見る道具、図面を描くための厚手の和紙と矢立、そしてすでに外れている骨を安全に包むための柔らかい木綿布、藁、頑丈な木箱、竹籠といった程度である。
冬枯れの街道を馬で進みながら、並走する半兵衛が真面目な顔で帳面を確認していた。
「忠長様。此度の検分、もし崖の奥から本当に『生きた龍』、あるいは怨霊の類が現れました折には、いかがいたしましょうか」
「いや、半兵衛。今回見に行くのは、大昔に死んで石になった骨だからね? 生きて動き出すことは絶対にないから安心しろ」
「されど、相手は古伝の龍にございます。念のため、道中の村より鉄砲足軽を二十名ほど借り受けますか」
「借り受けなくていい! そんな物々しい一団で静かな山寺へ乗り込んだら、村人たちが『公儀が寺を焼き討ちに来た』と思って逃げ出すだろうが!」
相変わらず真面目すぎて方向性がずれる半兵衛とそんな会話を交わしつつ、江戸から北へ進み、翌日の昼過ぎには目的の村へと到着した。
そこは深山幽谷というほどの秘境ではなく、広い関東平野の北端がゆるやかに隆起し、低い山並みへと移り変わっていく山裾の土地だった。冬枯れの田畑の間を澄んだ川が流れ、その川が山の斜面を削ってできた高い段丘のすぐ下に、古びた茅葺きの薬師堂と庫裏が佇んでいる。
先に戻っていた住職と地元の代官所の役人、そして名主をはじめとする村人たちが、寺の門前で俺たちを出迎えた。
だが、村人たちの表情には、水神様と呼ばれる将軍家の若君が来たことへの畏敬とともに、隠しきれない不安が滲んでいた。
「忠長様。村の者たちは、裏山の龍骨を公儀に全て召し上げられ、山の神が怒って来年の田の水が涸れるのではないかと恐れておりまする」
同行していた天海が、村人たちの空気を素早く読み取って小声で俺に告げた。
俺は馬から降りると、平伏する名主や村人たちの前へ歩み寄り、よく通る声で言った。
「皆、面を上げよ。此度、私がここへ参ったのは、寺の宝を奪うためではない。また、むやみに裏山を掘り崩して山の神を騒がせるためでもない」
村人たちが、おずおずと顔を上げる。
「雨で崩れた崖をそのままにしておけば、次の雨や雪解けでさらに山が崩れ、寺や田畑を押し潰しかねぬ。ゆえに崖の危うき所を確かめ、すでに露出した骨が傷まぬよう手当てをするために参った。寺や村の許しなく、勝手に山を掘り返すようなことはせぬゆえ、安んじよ」
俺の言葉に、天海が穏やかな声で言葉を添えた。
「薬師仏のおわす霊地に眠りし古き骨にございます。公儀とて礼を欠くような真似はいたしませぬ。まずは山を鎮め、現状を正しく見届けるのが先決にございましょう」
幕府の最高位の僧である天海がそう保証したことで、住職や村人たちの顔からようやく張り詰めた色が抜けた。
「ありがたきお言葉にございます……。こちらへどうぞ。崩れました場所は、薬師堂の裏手、川沿いの崖にございます」
*
住職に案内され、俺たちは薬師堂の脇を抜けて裏手へと回った。
川岸に面した斜面が、幅十間ほどにわたって大きく崩れ落ち、生々しい土の断面が剥き出しになっていた。周囲には、代官所の役人と村人たちが立てた青竹の柵が張り巡らされている。
俺は柵の手前で足を止め、露出した崖の断面を見上げた。
一番上には、木の根が張った黒っぽい表土がある。その下には赤茶けた土の層があり、さらにその下には、丸い小石が混じった砂利の層と、青灰色をした粘土のような泥の層が、まるで重ねた餅のように幾重にも縞を作っていた。
そして、崖の下方――人間の背丈より少し高いあたりの青灰色の古い泥の層から、それは突き出していた。
「……うわ」
俺は、思わず声を漏らした。
江戸城の座敷で破片を見た時とは、迫力がまるで違った。
青灰色の固まった泥の中から、大人の太腿ほどもありそうな、白茶けた巨大な柱のようなものが緩やかに弧を描いて突き出しているのだ。長さは外に見えている部分だけでも三尺を超えている。
さらに、そのすぐ隣の土中からは、人間の胴体ほどの幅がある平たい骨の断面や、節くれだった巨大な塊がいくつも顔を覗かせていた。
少なくとも、誰かが後から穴を掘って埋めたようには見えなかった。上の赤土の層も砂利の層も、大きく途切れることなく重なっており、その下の古い泥の層に、骨が抱き込まれるように埋まっているのである。
(……本当に、大昔の生き物の骨が地層の中に埋まってる!)
『ええ、見事な露出断面ね。上の地層に後から掘り返された痕跡は見当たらない。少なくとも、人が近い時代に異国の象の骨を持ち込み、埋めたとは考えにくいわ。その古い地層に含まれていた化石が、川に削られて露出したのね』
俺は興奮を抑えながら、住職が「崩れた土の中からもう一つ、大きな塊が出ておりまして、動かすのも恐ろしく、筵を掛けて守っております」と指差した、崖下の平場へ目を向けた。
石工たちに周囲の安全を確かめさせてから、俺はその筵をめくった。
そこには、江戸へ送られてきた破片の二倍以上はある、完全な形の塊が転がっていた。
長さは優に一尺(約三十センチ)近くある。横から見ると分厚い靴の底のような、あるいは巨大な握り飯のような塊で、その上面には、細長い小判のような形をした輪っかの模様が、十数枚もびっしりと並んでいた。
「……なんだこれ。洗濯板……いや、石臼の目を細長くしたみたいな模様だな」
俺がしゃがみ込んで観察していると、半兵衛が帳面を構えながら首を傾げた。
「若殿。これは骨というより、何かの模様を彫り込んだ古き石具のようにも見えまするが」
『それが、欠けていない完全な臼歯よ』
脳内でKAMI様が即座に解説を入れた。
(これが、一本の奥歯なんですか!?)
『そうよ。江戸へ届いたのは、それの一部が割れた破片だったのね。その小判型の模様が何枚も並んでいる面が、上の歯と噛み合って硬い草や木の枝、樹皮なんかをすり潰すための咬合面よ』
(……ちょっと待ってください。一本の奥歯だけで一尺近くあるって、どういうことですか! こんな巨大な歯が顎の中に収まってる生き物が、本当にこの武蔵国を歩いてたんですか!?)
『歩いていたわよ。そして、崖から突き出ているあの緩やかに曲がった長い柱のような骨は、上顎から伸びる巨大な切歯……つまり、象の牙の一部ね』
俺は、目の前の巨大な奥歯と、崖から突き出た太い牙の断面を交互に見比べた。
そして、端末を通じてより詳細な構造照合を行う。
『……臼歯のエナメル質のひだの形と、菱形に近い摩耗面の模様からして、ほぼ間違いないわね。後の時代の言葉で言えば、《ナウマンゾウ》と呼ばれる古い象の仲間よ』
(……ナウマンゾウ!!)
俺は内心で絶叫した。
名前だけは、前世の日本史の教科書の最初のページ――旧石器時代のあたりで見た覚えがある。野尻湖だかどこかで発掘されたという、あの太古の象だ。
『今の日本列島にはもう生息していないけれど、何万年も昔の寒冷な時代には、この列島の広い範囲にそういう巨大な象の仲間が群れを作って暮らしていたの。交趾国の象より少しばかり小ぶりとはいえ、肩の高さだけでも八尺から九尺(約二・五〜三メートル)近くになる堂々たる巨獣よ』
(……本当に、日本に象がいたんだ……)
俺は、足元の冷たい土を見た。
今は薬師堂が建ち、小さな川が流れ、村人たちが大根や麦を作っている、どこにでもある武蔵国の山裾の風景。
だが、人間が城を築き、田んぼを耕し、国境だの年貢だのと騒ぎ始めるより、はるか遠い昔。
この武蔵の地にも、長い牙と巨大な奥歯を持った象たちがのしのしと歩き、森の木の葉を食み、川の水を飲み、そして寿命を迎えて泥の中へ沈んでいったのだろう。
その骨が、何万年という途方もない時間を地中で眠り続け、秋の大雨で崖が崩れたことで、元和七年の俺たちの前へひょっこりと姿を現した。
御異物ではない。魔法でも妖術でもない。
けれど、俺の胸の奥には、どんな奇妙な御異物を見た時にも負けないほどの、途方もない感動と畏敬が込み上げていた。
*
「忠長様。……いかがでございましょう。やはり、古伝の龍の御骨にございましたか」
固唾を呑んで見守っていた住職が、恐る恐る尋ねた。
俺は立ち上がり、土を払ってから、住職と名主、そして集まっていた村人たちに向き直った。
「住職。また村の皆も、よく聞いてほしい」
俺は、彼らが長年大切にしてきた伝承を傷つけぬよう、丁寧に言葉を選んだ。
「この骨が、天を駆け雲を呼ぶ『龍』そのものの骨であるかどうかは、私には確かめようがございませぬ。……ですが、ただの石ころや偽物では断じてない。これは、人の世の記録が始まるよりはるか昔、この武蔵の地に確かに生きていた、途方もなく巨大な獣の歯と牙にございます」
村人たちの間に、どよめきが走った。
「後の世に誰かが外から運んで埋めたような跡は見当たりませぬ。あの崖の土の重なりを見る限り、途方もなく古い時代の層に眠っていたものです。……形から見るに、仏典などにも語られる『象』という巨獣の仲間に違いありませぬ」
「ぞ、象にございますか……!」
住職が目を丸くした。
一般の農民にとって象は未知の存在だが、僧侶である住職や天海にとっては、普賢菩薩が乗る霊獣として仏画や経典で馴染みのある獣だ。
「ほほう……。天竺や南方の地にしかおらぬと思うておった象の輩が、古の日ノ本の地を踏んでおったと申されますか」
天海が、崖から突き出た巨大な牙を見上げて感嘆の息を漏らす。
「はい。しかも、これほど見事に歯の形と牙が残っている例は、極めて稀かと存じます」
俺は同行していた絵師と半兵衛を呼び、周囲から木尺を当てて正確な寸法を測らせ、崖の地層の重なり具合と骨が埋まっている位置、そして外れていた巨大な臼歯の姿を、何枚もの和紙へ克明に描き写させた。
「半兵衛、この奥歯の模様は、筋の数まで一本も違えずに描かせてくれ。ここが一番大事な証拠になる」
「はっ! して若殿、これほど巨大な奥歯と牙を持つ獣となりますと、生きておった頃は、一体どれほどの大きさだったのでございましょう」
「そうだな……背丈だけでも、大人の男が二人重なったくらい。八尺か九尺はあったんじゃないか。体重は、馬が何頭も集まったくらいだな」
半兵衛は筆を持ったまま、あんぐりと口を開けた。
「う、馬よりも大きく……牛よりも遥かに重く……! では、龍と比べますればいかがでございましょう!」
「だから俺は本物の龍を見たことがないから、龍の大きさの基準が分からないんだってば!」
俺が思わず突っ込むと、緊張していた村人や職人たちの間から、ふっと小さな笑いが漏れた。
*
場の空気が和らいだところで、住職が少し言いづらそうに、もう一つの事情を打ち明けてきた。
「……実は、忠長様。この骨が見つかったという噂を聞きつけまして、先日、町の薬種商が当寺を訪ねて参ったのでございます」
「薬種商?」
「はい。これほど見事な《龍骨》が出たのであれば、ぜひ高く買い取りたい、と。……当寺は近年、お堂の屋根も傷んでおりまして、もし公儀のお咎めがない品であれば、一部を薬種商へ分けて修繕の足しにできぬものかと迷っていたのでございます」
俺は、なるほどと頷いた。
《龍骨》という名の漢方薬があることは、俺も薬種台帳の整理で知っていた。鎮静や止血などに使われる高価な生薬であり、その正体がこうした太古の大型哺乳類の化石であることも珍しくない。
だから、薬種商が「龍骨が出たなら薬として買い取りたい」と考えるのも、住職が「寺の修繕費になるなら」と考えるのも、この時代においては極めて真っ当で悪意のない話だった。
「龍骨という薬が古来より重宝されていることは、私も承知しております。その薬効について、私がここで否定するつもりもございませぬ」
俺は住職の事情に理解を示したうえで、足元の巨大な臼歯を指差した。
「ですが、住職。薬として使うとなれば、この骨を鉄槌で砕き、細かく粉にしてしまうことになります。……一度粉にしてしまえば、これがどれほど巨大な獣の歯であったのか、どのような模様をしていたのか、後の世の者が確かめる術は永遠に失われてしまいます」
住職は、ハッとしたように臼歯の精緻な縞模様を見つめた。
「薬になる石や骨は、ほかにも代わりの品がございます。しかし、この山に古の巨獣が生きていたという『形ある証拠』は、砕いてしまえば二度と元には戻りませぬ。……できれば、この形を保ったまま残してほしいのです」
俺がそう頼むと、住職はしばらく考え、深く頷いた。
「……そのような価値があるとは、夢にも思いませなんだ。寺を直す費えのことばかり考えておりましたが、これほどの品を粉にしてしまうのは惜しゅうございます。薬種商の申し出については、断ることにいたしまする」
「屋根の修繕費や、この崖を保護するための費用については、公儀から『古物保全の手当』として少しばかり出させます。寺にばかり負担はかけませんよ」
俺がそう付け加えると、住職は目頭を押さえて何度も礼を言った。
*
さて、問題は「まだ崖に埋まっている残りの骨をどうするか」だった。
事情を理解した村人たちは、すっかりやる気になっていた。
「若君様! お許しが出るのであれば、今から村の若い衆を総出で集め、鍬と鶴嘴であの崖を掘り起こし、残りの骨も全て綺麗に引きずり出しましょうぞ!」
名主が意気込んで鍬を構えようとする。
そこへ、崖の上部と土の断面をじっと観察していた江戸の老石工が、鋭い声で待ったをかけた。
「なりませぬ! 今あの崖の下へ人を入れて鶴嘴なぞ振るえば、生き埋めになりますぞ!」
村人たちがぎょっとして足を止める。
俺も老石工のそばへ歩み寄った。
「親方、危ないか」
「ええ、忠長様。あの上の赤土の境目をご覧なされ。先の雨で水をたっぷり吸った土が、すぐそこまで大きく口を開けてひび割れております。下手に骨の周りの泥を掻き出せば、支えを失った上の土砂が、丸ごとドッと落ちてきますぜ」
老石工はさらに、崖から突き出ている長い牙の根元を指差した。
「それに、この石になった骨とやらも、見た目は硬そうですが、細かくひびが入っております。湿った泥の中に埋まっているから形を保っているようなもので、素人が無理やり引っ張り出そうとすれば、ボロボロに砕けてしまいます」
俺は、老石工の的確な見立てに深く頷いた。
KAMI様がいれば、その骨がナウマンゾウであることまでは分かる。だが、目の前の崖がいつ崩れるか、どういう手順で土を扱えば安全かという現場の判断にかけては、長年石と土を相手にしてきた職人の目の方がはるかに頼りになる。
「親方の言う通りだ。……皆、聞いてくれ。せっかく見つけた宝を、焦って掘り出して粉々に壊したり、ましてや村の者に怪我人を出したりしては、何の意味もない」
俺は一応、「骨の周りだけ少し土を削って、牙だけでも抜けないか」と石工に尋ねてみたが、老石工は頑として首を横に振った。
「若殿、お言葉ですが、その一寸の土を削るのが命取りになります。まずは上の割れ目に雨水が入り込まぬよう水切り溝を掘り、冬の間は土が凍って浮きますゆえ、崩れぬよう杭と板で土留めをするのが先でございます」
「……うん、すまない。私が浅はかだった。山と土のことは、親方の判断に全て任せる」
俺が素直に引き下がると、老石工は少し驚いたように目を丸くした後、「へっ、話の分かる若殿で助かります」と嬉しそうに笑った。
こうして、俺たちは「無理に全部掘り出さない」という方針を決めた。
すでに崩落で外れていた完全な形の臼歯と、いくつかの小さな破片だけを、柔らかい布と藁で厳重に包んで木箱へ納める。
崖に突き出したままの牙や大きな骨については、今の位置と寸法、地層の様子を絵図と帳面に詳しく記録したうえで、露出している部分に粘土と筵を被せ、その上から石工の指導で頑丈な木枠と土留めの柵を組んで、風雨や凍結から保護することにしたのだ。
村人たちも、自分たちの山を守る作業だと分かると、石工の指示に従って竹を切り、杭を打ち、崖の上の水路を直す作業をきびきびと手伝ってくれた。
*
保護作業が一通り終わり、夕暮れの迫る薬師堂の境内で一息ついていた時のことだ。
立派な木箱に納められた巨大な臼歯を見つめながら、住職が、どこか少しだけ寂しそうな声で呟いた。
「……忠長様。この骨は、江戸へお持ち帰りになられますか」
「いえ。最初に江戸へ届けていただいた、あの小さな破片だけを公儀の標本としてお預かりします。こちらの大きな歯と、山に眠る骨は、元々この土地にあったものですから、この寺と村で守ってください」
俺がそう答えると、住職は安堵したように顔を上げたが、やがて小さな声で尋ねた。
「……して、忠長様。これが古の象の骨であると分かりましたなら、当寺ではもう、これを《龍骨》と呼び、龍の山として祀ることは、改めねばなりませぬでしょうか」
俺は、住職のその言葉に足を止めた。
住職や村人たちにとって、「龍が眠る山」という伝承は、旱魃の苦しい時に心を一つにして祈りを捧げてきた、大切な拠り所だったのだ。それが公儀の検分によって「龍ではなく象だ」と突きつけられ、自分たちの信仰や歴史まで否定されたような寂しさを感じているのだろう。
(……ああ、そうか)
俺が内心で考えていると、KAMI様が静かに言った。
『今回見つかった骨がナウマンゾウの化石であることと、この土地の人々が山や水に龍の気配を感じて祈ってきたことは、矛盾しないわ。それに、あなたたちの世界には実際に神仏ノードや土地の理があるんだから、全てを単なる迷信と切り捨てる必要もないでしょう』
俺は深く頷き、住職の目を見て穏やかに言った。
「改める必要はございませぬ。これまで通り、寺の宝の《龍骨》と呼んで大切になさればよいのです」
「……よろしいのでございますか? 象の骨であると分かったのに、龍骨と呼びましても……」
「ええ。この山を龍の眠る場所として大切に守ってきたからこそ、此度このような骨が現れた時にも、ただの石と見て捨てたり、勝手に砕いたりせず、こうして届け出てくださったのでしょう。昔からの祈りが、この山を守る心につながってきたことには変わりありません」
住職が、はっと息を呑んだ。
「私が申し上げたのは、この骨が元々どのような生き物の身体の一部であったか、という古い世の事実だけです。……この山を龍の眠る地として敬い、山と水を大切にしてきた寺と村の歩みまで、否定されるものではございませぬ」
横で聞いていた天海も、柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「左様でございますな。天竺の象も、水を司る龍神も、ともに仏法を守護する尊き眷属。古の巨獣の骨が、この地で龍神の縁として人々の祈りを集めてきたのであれば、それはそれで立派な仏縁にございましょう」
住職の深い皺の刻まれた顔に、じんわりと温かい喜びが広がった。
「……ありがたきお言葉。これで、先代の住職にも、村の祖先たちにも、胸を張って報告ができまする」
すると、少し離れたところからこちらの様子を窺っていた、一人の男の子がひょこひょこと近づいてきた。
最初に崩れた崖でこの骨を見つけた、村の子供の一人だという。
名主が「これ、若君様の御前であるぞ!」と慌てて叱ろうとしたが、俺は手で制して、子供の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「お前が、最初に見つけてくれたのか。お手柄だったな」
男の子は緊張しながらも、好奇心に満ちた目で俺と木箱を交互に見て、素朴な疑問を口にした。
「……あのね、お殿様。結局、うちの山に龍はいなかったの?」
大人が遠慮して聞けなかった直球の質問だった。
俺は少しだけ考えてから、正直に答えた。
「目に見えない龍神様がこの山にいるかどうかは、私にも分からないな。……ただ、今回お前が見つけてくれたこの大きな骨の持ち主は、龍ではなくて、象という名前の生き物だった」
「ぞう?」
「ああ。お前のお父さんやお母さんよりも、あの屋根よりもずっと背が高くて、鼻が腕みたいに長くて、口から太い牙が二本も生えている、ものすごく大きな獣だ」
「そんなに大きいの!? 強いの!?」
「強いぞ。熊や狼だって、簡単には手出しができないくらい大きいからな」
俺が身振りを交えて説明すると、男の子の目がどんどん輝き始めた。
「……じゃあ、ずーっと昔は、俺たちがいつも薪を拾ってるこの辺りにも、その『ぞう』がいたの!?」
「そうだ。この辺りの土地にも、そんな象たちが暮らし、木の葉を食べ、川の水を飲んでいたんだ」
男の子は、ぱっと振り返って、夕日に照らされた冬枯れの裏山を見上げた。
いつも見慣れているはずの、何の変哲もない低い山。
だが、今のその子の目には、木々の間を歩く見たこともない巨獣の姿が、鮮やかに浮かんでいるらしかった。
しばらく山を見つめていた男の子は、やがて満面の笑みを浮かべて俺へ振り返った。
「……龍じゃなくても、すっごくカッコいいな!」
そのあまりにも屈託のない一言に、俺も、住職も、天海も、そして周囲の村人たちも、思わず声を上げて笑ってしまった。
*
江戸城へ戻った俺は、早速、家康、秀忠、家光の前で現地検分の報告を行った。
座敷の中央には、最初に届いた臼歯の破片と、現地の絵師に描かせた何枚もの詳細な図面――崖の地層の重なり、突き出た牙の寸法、そして一尺近い完全な臼歯の写生図が広げられている。
「……結論から申し上げます。あの《龍骨》は、理外の御異物ではございませんでした。ですが、大御所様が最初に見抜かれた通り、紛れもなく『象』の仲間の歯と牙にございます」
俺は図面の地層を指し示した。
「しかも、後の世に誰かが穴を掘って埋めた痕跡は見当たりませぬ。川に削られた古い地層の中には、牙やほかの大きな骨が今も埋まっております。……異国から持ち込まれたというより、はるか太古の昔、この武蔵を含む日ノ本に、本物の象の仲間が生息していたことを示す貴重な証拠と考えられます」
図面に描かれた一尺近い臼歯と、三尺を超える牙の図を見つめたまま、家康はしばらく言葉を発しなかった。
秀忠も、「武蔵の地に、象が……」と信じがたい面持ちで図面を食い入るように見ている。
やがて家康が、深く長い息を吐き出し、破片の表面をそっと撫でた。
「……わしが慶長の頃に見た交趾国の象は、海の向こうの遠い異国の珍獣じゃと思うておった」
七十歳を超え、天下のありとあらゆるものを見てきた老将の目が、まるで少年のようないきいきとした光を帯びていた。
「それが、我らが今こうして城を築き、田を耕しておるこの武蔵の土の下に、太古の昔より眠っておったと申すか。……わしも人並み以上に長く生き、多くのものを知ったつもりでおったが、この天地の広さと古さの前では、まだ知らぬことばかりよな」
少し前、髪の色が黒くなって無邪気に喜んでいた大御所様が、今日は何万年も前の獣の歯を前にして、世界の広さに静かに感動している。
その姿を見ていると、長生きしてもらうことの意味が、政治の安定だけではないような気がして、俺の胸も温かくなった。
図面を熱心に覗き込んでいた家光が、ふと顔を上げて俺に尋ねた。
「……しかし、忠長。これほど巨大で強い獣が昔の武蔵国におったのなら、なぜ今は一頭もおらぬのだ? 誰かが狩り尽くしたのか」
鋭い、そして自然な疑問だった。
「正確な理由までは、今回の骨だけでは分かりませぬ」
俺は正直に答えた。
「ただ、何千年、何万年という長い時の間には、世の寒暖が今とは大きく変わり、森の木々や草の姿が変わり、海や川の形が変わることもございます。……どれほど巨大で強い獣であっても、周囲の天地が変われば、生き続けることができずに姿を消してしまうことがあるのでしょう」
家光は、俺の言葉を聞いて少しだけ真剣な顔になり、図面の巨大な牙を見つめた。
「……いかに大きく強いものでも、時の移ろいの中で姿を消すことがある、か」
「はい。ですが、こうして土の奥に骨が残り、我らがそれを掘り出して記録したことで、かつてこの国にそのような獣が確かに生きていたという事実は、消えずに残りました」
「なるほどな。……面白い。実に面白いぞ、忠長!」
家光はすっかり気に入った様子で、絵図の写しを自分の手元にも一部残すよう命じた。
最終的に、この一件は新しい役所や大げさな法度を作ることなく、既存の御異物改方の『古物控』の枠内で処理されることになった。
名称は、寺の伝承を尊重して《龍骨(古象歯牙)》と併記する。
完全な臼歯と現地の崖は、寺の宝および公儀保護の古物跡として現地で保存し、勝手に掘り返したり薬種として砕いて売買したりすることを禁じる。そして最初に江戸へ届いた小さな破片一つだけを、比較用の標本として江戸城の御書物蔵・古物庫に保管することとなった。
*
その夜。
御異物改方の自室で、俺は行灯の灯りの下、新しく作成した『武蔵国古寺出土・龍骨検分控』の帳面に最後の朱筆を入れていた。
机の脇には、江戸に残すことになったあの臼歯の破片と、現地で描かせた写生図が並んでいる。
「……KAMI様」
『なに?』
「最初は、龍の骨なんてどうせ見間違いか、変な形の石だろうと思ってたんです。御異物じゃなかったら、ただの空振りだなって」
俺は、冷たく硬い歯の破片にそっと指を触れながら言った。
「でも……何万年も前の日本列島を、本物の象の群れが歩いていたなんて。……魔法や御異物じゃなくても、なんだか途方もない話ですね」
『そうよ。あなたたち人間が文字を持って歴史を書き始めるより、ずっとずっと前から、この列島には長い時間が流れていたの。山が隆起し、海が引き、見たこともない獣たちが歩いて、死んで、土に還った。あなたたちが今、必死に水路を掘ったり田んぼを整えたりしている地面の下には、そういう気が遠くなるような時間が何層も積み重なっているのよ』
「……そう考えると、俺がやってる『日本列島のメンテナンス』なんて、ほんの表面の薄皮一枚を撫でてるだけみたいな気分になりますね」
『あら、謙遜することないわ。その薄皮一枚の上で、今を生きる人間たちが必死に暮らしているんだから。過去の地層を正しく知って守ることも、今その上で生きる人たちを守ることも、どっちも大事な仕事よ』
「……それもそうですね」
俺は少しだけ笑って、帳面を閉じた。
もしかすると、日ノ本中の古い寺や神社に『龍の骨』『天狗の爪』『鬼の歯』『巨人の骨』として大切に祀られている秘宝の中には、こうして太古の昔にこの国で生きていた、今はもういない生き物たちの痕跡が、まだまだたくさん眠っているのかもしれない。
もちろん、この世界には《若返り石》のような本物の理外の御異物も混じっているから、見つけた時は結局、一つずつ現地へ行って確かめなければならないのだが。
結局、武蔵国の山寺に眠っていたのは、雲を呼ぶ龍ではなかった。
だが、その正体は、人間の歴史が始まるよりはるか昔にこの日ノ本の大地を踏みしめていた、巨大な象の仲間だった。
俺は机の上の小さな石の破片を木箱へ丁寧に納め、その蓋に、新しい『徳川忠長』の封紙を貼った。
帳面の山に埋もれる日々は相変わらずだが、自分の足元にあるこの大地が、昨日までよりほんの少しだけ深く、広く感じられるような、そんな静かな冬の夜だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
【朗読動画のお知らせ】
YouTubeで本作の朗読動画を公開中です!
作業中や寝る前のお供に、よかったら聞いてみてください。
YouTubeで「暴君忠長に転生したので」と検索してください。
本作の朗読動画はこちら