暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
YouTubeで本作の朗読動画を公開中です!
作業中や寝る前のお供に、よかったら聞いてみてください。
YouTubeで「暴君忠長に転生したので」と検索してください。
本作の朗読動画はこちら
元和七年、冬。
武蔵国の山裾で見つかった大きな臼歯の記録を『古物控』へ収めてから、数日が経っていた。
江戸城の御異物改方では、今日も変わらず各地からの書状が山を作っている。俺――徳川忠長は、火鉢の炭をかき立てながら、京都所司代から届いたばかりの洛中の近況報告に目を通していた。
昨年の大火で焼けた町々の再建状況や、材木の値動き、冬の防火見回りの報告が並ぶ中、末尾に添えられた「洛中風聞」の一節で、俺の視線が止まった。
御所のすぐ北に伽藍を構える名刹、相国寺。
その中心にある法堂の天井には巨大な龍が描かれているのだが、近頃、その龍が「鳴き声を上げる」と都で大変な評判になっているというのだ。
しかも、その噂には、聞いているこちらが少し気恥ずかしくなるような立派な由来までくっついていた。
『徳川の御代となり、長き戦乱が収まって天下に泰平の安寧が訪れたことを寿ぎ、仏法を守護する天井の龍が神通力を授かり、人々へ慶びの声を聞かせるようになった』
俺は書状を持ったまま、隣で別の帳面を検めていた本多正純の方を見た。
「……正純。ここにある相国寺の話なんですが、天下が安寧になったから天井の龍が神通力を授かったって、いくらなんでも徳川に都合がよすぎません?」
正純は筆を止めず、普段通りの平坦な声で応じた。
「京の町衆や参詣の者たちが、そのように語り広めておる由にございます。公儀の治世を寿ぐ風聞であれば、強いて目くじらを立てるほどの悪い話でもございますまい」
「まあ、悪口よりはいいですけど……。しかも、ただの噂話じゃなくて、実際に龍の声を聞いたという人間が何人もいるんですね」
報告書には、法堂を訪れた公家や町人たちの証言がいくつか書き留められていた。
曰く、法堂の天井に描かれた龍の真下あたりに立ち、見上げて手を打つと、天井から龍が返事をするのだという。
「手を叩くと返事をする龍、ですか。……ついこの間は武蔵国の山から龍の骨が出たと騒ぎになったばかりなのに、今度は京の寺で龍が鳴いているとは。最近、妙に龍の話が続きすぎじゃないですかね」
俺が苦笑しながら首を傾げると、脳内でKAMI様が楽しそうに声を上げた。
『あー、相国寺の鳴き龍! あれね、もうそんな風に呼ばれ始めてるんだ』
(……えっ、KAMI様、知ってるんですか?)
『もちろん知ってるわよ。京都の相国寺の法堂でしょう? 後の世でも結構有名なのよね、あれ』
俺は思わず背筋を伸ばした。
(ということは、単なる町人の聞き間違いや集団幻覚じゃなくて、本当に天井から音が聞こえるんですか!?)
『聞こえるわよ。手をパンと打つとね、上から不思議ないい音が返ってくるの』
(まさか、天井の絵に真正の御異物が使われているとか、京都の神仏ノードが特殊な共鳴を起こしているとか……?)
『うーん、それはどうかしらね』
(……その含みのある言い方、もしかしてまた《寒暖見玻璃》みたいに、普通の自然の理だったりします?)
『ふふふ。まあ、それは実際に自分の耳で聞いてみたら分かるわよ。こういうのはね、最初から種明かしを聞いて頭で理解するより、何も知らないまま現地で手を叩いてみた方が絶対に面白いもの』
(ええー、教えてくれないんですか?)
『せっかくの面白い見世物なのに、ネタバレなんてもったいないじゃない。機会があるなら、自分の耳で確かめてきなさいな』
KAMI様にそう言われてしまうと、俺の中の好奇心がむくむくと頭をもたげた。
KAMI様が「実際に体験した方が面白い」と太鼓判を押すのだ。単なる迷信ではなく、何かしら人間の耳を驚かせる確かな現象がそこにあるのは間違いない。
*
その日の午後、大御所・家康の居所で茶を囲む席があり、俺は秀忠、家光とともに呼ばれていた。
政務の堅苦しい話が一段落したところで、俺は茶請けの干菓子をつまみながら、今朝読んだばかりの相国寺の風聞を話題に出してみた。
「そういえば大御所様、京の相国寺で、天井に描かれた龍が鳴くという噂が広まっているそうです」
「ほう? 絵に描かれた龍が鳴くのか」
家光がすぐさま興味を示し、身を乗り出してきた。
「はい、兄上。なんでも、法堂の天井を見上げて手を打つと、龍が上から返事をするのだとか。しかも京の町では、徳川の世になって天下が安寧になったことを祝って、龍に神通力が宿ったのだと語られているそうです」
家光はそれを聞くと、面白そうに白い歯を見せて笑った。
「ははっ、それはまた、ずいぶんと我らに気を使った都合のよい龍だな! 京の者も、うまい話を考えるものだ」
「ですよね。私も最初に読んだ時、誰かが公儀へ阿るために作った話かと思いました」
俺と兄上が顔を見合わせて笑っていると、上座で茶碗を傾けていた家康が、まんざらでもなさそうに目を細めて頷いた。
「ふむ。相国寺の法堂の龍が鳴くか。……それは面白いではないか」
「祖父上も、その龍の声が気になられますか」
「無論じゃ。絵の龍が人の手拍子に応えて声を聞かせるというのなら、冥途の土産に一度は聞いてみたいものよ。……ちょうどよい。今度の京行きで、相国寺にも足を運んでみるか」
家康がさらりと口にした言葉に、俺は思わず目を丸くした。
「……えっ。大御所様、京へいらっしゃるのですか?」
「なんじゃ忠長、まだ聞いておらなんだか。年が明けて落ち着く前に、一度上洛する手筈を整えさせておったのじゃ」
隣に座る秀忠が、補足するように頷いた。
「昨年の大火で焼けた洛中の町々が、その後いかに立ち直ったか。また、和子が入内して後の禁裏との関わりも、父上ご自身の目で一度見届けておきたいと仰せでな。春になる前の、政務の間隙を縫っての上洛となる」
もちろん、高齢の大御所が「鳴き龍を見たい」というだけの理由で東海道を往復するはずがない。
前年の大火からの復興状況の視察と、和子姉上が暮らす御所への挨拶という重要な目的が先にあり、その日程の中へ相国寺の見物を組み込もうという話だった。
「京の町も久しくこの目では見ておらぬからな。焼け跡に新しい屋根が並んだ様子を見届けるついでに、寺の龍へ挨拶をしてくるくらいは、罰も当たるまい」
「……その言い方だと、大御所様が本当に生きた龍へ会いに行くみたいですね」
「はっはっは、本当に鳴くのであれば、生きているようなものじゃろう。……家光、そなたも共に来るか?」
家康の誘いに、家光は一拍の間も置かず、目を輝かせて背筋を伸ばした。
「はっ! ぜひ、お供つかまつります!」
「私も! 私も行きたいです、大御所様!」
俺が慌てて手を挙げると、家康は「うむ、では三人で行くとするか」と上機嫌で頷いた。
すると、家光が隣の秀忠を振り返った。
「父上も、ご一緒には参られませぬのか」
秀忠は、ウキウキと前のめりになっている老父と息子二人を交互に見て、少し呆れたようにため息をついた。
「私は江戸に残る。大御所様と、次代の将軍たる家光、さらには忠長までが揃って江戸を空けるのだ。将軍の私までが一緒になって京へ出向くわけにはいかぬであろう」
「……まあ、それは確かにそうですね」
俺が納得すると、秀忠は厳しい目つきを作って釘を刺した。
「父上も、くれぐれも道中での御無理はなされませぬように。……それと、三人とも龍の声に夢中になって、京の寺で余計な騒ぎを起こすでないぞ」
「こやつめ、誰に向かって申しておる」
「父上を含めた三人に申し上げております。近頃の父上は、忠長が持ち込む珍しい話となると、すぐにご自身で試そうとなさいますゆえ」
先日の《若返り石》で髪を真っ黒にして大笑いしていた家康の姿が脳裏をよぎり、俺と家光は思わず視線を交わして苦笑した。お父様の心配は、これ以上ないほど的確だった。
*
それからほどなくして、俺たちは江戸を発ち、冬の東海道を西へと向かった。
大御所の体調を最優先とし、無理な強行軍は避け、宿場ごとに十分な休養を取りながらの穏やかな道中だった。警固の武士や近侍たちは相応の人数が従っているものの、戦のための行軍ではない。
道すがら、馬を並べる家光が楽しそうに話しかけてきた。
「なあ忠長。お前は、相国寺の龍が本当に鳴くと思うか?」
「実は……私の知る『あちらの知恵』でも、相国寺の龍が鳴くこと自体は本当だと聞いております。ただ、どういう仕組みで鳴いているのかは、実際に現地で聞くまで教えないと意地悪を言われまして」
「ほう! お前の頭の中にある知恵が『本当だ』と言うなら、偽物や仕掛け人ではないのだな」
「ええ。私も、どういう音がするのか見当がつかなくて、すごく楽しみなんですよ」
輿の窓から顔を出した家康が、俺たちの会話を聞いて目を細めた。
「分からぬからこそ面白いのではないか。行く前から何もかも理屈を知ってしまっては、見物の楽しみが半減するわ」
「大御所様は、すっかり物見遊山の気分ですね」
「たまにはよかろう。戦の算段ばかりして京へ上る時代は、もう終わったのじゃ」
そんな会話を交わしながら旅を重ね、俺たちは無事に京の都へと入った。
京へ着いてからの数日間は、所司代の板倉勝重から復興の詳しい報告を受けたり、朝廷からの使者に応対したり、和子姉上の暮らす御所へ挨拶の品を届けたりと、公式の務めが続いた。
だが、二条城から洛中の通りを移動するだけでも、京の町が昨年の大火から力強く立ち直りつつあることははっきりと見て取れた。
かつて黒焦げの柱と瓦礫が転がっていた上京の町筋には、真新しい白木の柱と板葺きの屋根が並び、材木を積んだ荷車や、壁土を塗る左官たちの威勢のいい掛け声が響いている。和子姉上の入内の折に設けた仮設の会所や火消し道具蔵も、約束通り町組の手で大切に管理され、人々の暮らしの一部として馴染んでいた。
「……昨年の春に来た時は、まだ焦げた匂いが残っていましたが、ずいぶん人の活気が戻りましたね」
「うむ。まだ普請の途中の家も多いが、町衆の顔つきが明るい。暮らしを立て直す目処が立った証拠だな」
家光と俺の言葉に、家康も満足そうに頷いていた。
こうして京が落ち着きを取り戻したからこそ、町の人々も「寺の龍が鳴いた」などという泰平の噂話を楽しむ余裕ができたのだろう。
*
そして、京での公的な用向きがひと通り片づいた、よく晴れた冬の日の午後。
俺と家康、家光の三人は、少数の供回りだけを連れて、御所の北に広がる相国寺へと足を運んだ。
相国寺の広大な境内へ一歩足を踏み入れると、洛中の賑わいが嘘のように遠のき、凛と張り詰めた禅寺の静寂と、冷たい土と松葉の香りが俺たちを包んだ。
出迎えてくれた長老や案内役の寺僧に導かれ、石畳の参道を進む。
よく見れば、境内のあちこちには新しい木材が積まれ、再建途中の堂宇や、真新しい瓦を載せたばかりの屋根が目についた。
「昨年の大火のおりには、当山も飛び火を受けまして、少なからぬ塔頭や堂宇が焼失いたしました」
案内役の寺僧が、立ち並ぶ伽藍を示しながら静かに説明してくれた。
「されど幸いなことに、この正面にございます法堂は焼失を免れ、こうして今も残っているのでございます」
「……あの日、上京の広い範囲が焼けたというのに、これほど大きな堂がよく残りましたね」
俺が素直な驚きを口にすると、寺僧は深く頷き、法堂の巨大な屋根を見上げた。
「僧も町衆も必死に火を防ぎましたが、やはり仏天の御加護、そして天井の龍神が火を退けられたのだと申す者が多うございます。……かの大火をくぐり抜けて法堂が残り、いま再び京の町に槌音が戻ってきたからこそ、都の者たちは『天井の龍が徳川の世の安寧を寿いで鳴いている』と語り始めたのでございましょう」
俺は、なるほどと合点がいった。
江戸で書状を読んだ時は、誰かが徳川に媚びるために作った大げさな噂かと思った。だが、実際には違ったのだ。
恐ろしい大火を経験し、それでも焼け残った法堂を見上げながら、再び平穏な暮らしを取り戻しつつある京の人々が、「もう大きな戦も災いもない世が続いてほしい」という願いを込めて語り始めたのが、あの噂だったのだ。
法堂の前に立ち止まった家康が、重厚な二重屋根を見上げて、懐かしそうに目を細めた。
「……この法堂を建て直してから、もう十六年になるか」
寺僧が恭しく一礼する。
「はっ。慶長十年の再建にございますれば、まさに十六年の歳月が流れております。度重なる兵火にて久しく失われておりました当山の法堂が、今日こうして威容を保っておりますのも、大御所様の御命と、豊臣秀頼公の御寄進あればこそにございます」
「大御所様が命じられ、秀頼公が建てられたのですか?」
俺が尋ねると、家康はゆっくりと頷いた。
「うむ。相国寺に法堂がないのは寂しかろうとわしが声をかけ、秀頼が米一万五千石を出して建て直したのじゃ。……もっとも、わしは口を出しただけで、実際に財を出し、材木を集め、棟梁や絵師を動かしたのは秀頼と寺の者たちよ」
家光も、感慨深そうに法堂の太い柱を見上げた。
「祖父上が再建を促し、秀頼殿が寄進し、多くの職人が建てた堂が、大火をも乗り越えて残っているのですね」
(……徳川の安寧を祝って鳴く龍、なんて言われてるけど、そもそもこの建物を寄進したのは秀頼公だったんだな)
俺たちの世界では、秀頼公は今も元気に生きている。
かつての豊臣と徳川の関わりが、こうして京の真ん中に形として残っていることに、俺は少し不思議な縁を感じた。
*
「では、御三方。どうぞ堂内へお入りくだされ」
寺僧が重い扉を開け放ち、俺たちは法堂の中へと足を踏み入れた。
外は冬の明るい日差しがあったが、堂内は薄暗く、ひんやりとした空気が淀みなく満ちていた。
床には四角い瓦が隙間なく敷き詰められ、俺たちが歩くたびに、乾いた足音が静かな空間に小さく響く。正面の奥には、仏像を安置するための高く立派な須弥壇が据えられていた。
そして、ふと顔を上げて天井を見上げた瞬間。
俺は、思わずその場に立ち尽くした。
「……うわ……でっか……」
思わず子供のような声が漏れたが、隣の家光も口を半開きにしたまま天井を凝視していたので、笑われずに済んだ。
法堂の広く高い鏡天井。その中央に描かれた巨大な円相の中に、一匹の途方もなく大きな龍がとぐろを巻いていたのだ。
差し渡しにして五間(約九メートル)は優にあるだろう。墨と淡い彩色で描かれたその龍は、雲を巻き起こしながら長い胴体をうねらせ、鋭い爪を広げ、ぎょろりとした大きな双眸で、真下に立つ俺たちを睨みつけていた。
「狩野光信が筆を執りました、《蟠龍図》にございます」
寺僧の静かな声が、広い堂内に響く。
「天へ昇る前の、地にあって仏法を守護する龍の姿を描いたものと伝えられておりまする」
「……これは、見事だな」
家光が、感嘆の声を漏らしながら数歩横へと動いた。
俺もその後ろについて少し立ち位置を変えてみたのだが、そこで妙なことに気づいた。
「……あれ? 兄上、なんだかこの龍、どこへ移動してもこっちを睨んでいませんか?」
「……確かに。今、こちらへ歩いたのに、まだ目が合っているような気がするぞ」
巨大な円の中に描かれた龍の顔と目の向きが絶妙なのか、堂内のどこから見上げても、龍が自分のことを見下ろしているような錯覚に陥るのだ。
家康も杖を止め、白い髭を撫でながら天井を見上げていた。
「……うむ。光信め、魂を削るようなよい仕事をしたものよ。これだけでも、わざわざ見に来た甲斐があるわ」
まだ音など一言も聞いていない。
ただ薄暗い法堂の床に立ち、頭上を覆う巨大な龍の絵を見上げているだけで、圧倒的な迫力に胸を掴まれるようだった。
*
俺たちがひとしきり絵の迫力に圧倒されていると、寺僧が微笑みながら一歩前へ出た。
「この天井の蟠龍が、近頃都にて『鳴き龍』と呼ばれておりますものにございます」
「本当に、この天井から声がするのですか?」
俺が尋ねると、寺僧は静かに頷いた。
「はい。ただし、この広い堂内のどこで手を打っても同じように鳴るわけではございませぬ。龍が声をお聞かせになる場所が決まっておりまする。……どうぞ、こちらへ」
寺僧はそう言って、須弥壇の手前、天井に描かれた巨大な龍の顔や胴体のほぼ真下あたりへと俺たちを案内した。
敷瓦の上の、特定の場所を指し示す。
「まずは手前が一度、手を打ってご覧に入れまする。御三方、しばしお静かに耳を澄ませてお聞きくだされ」
家康、家光、そして俺は、言われた通りに口を閉じ、息を潜めた。
供回りの者たちも入口近くで控え、広い法堂の中は、外の風の音すら届かない完全な静寂に包まれた。
冬の冷たい空気の中、天井の龍がじっとこちらを見下ろしている。
寺僧が所定の位置に立ち、胸の前で静かに両手を構えた。
そして、乾いた鋭い音を一つ、打ち鳴らした。
パンッ!
硬い拍手の音が、堂内の空気を弾いた。
だが、音はそこで消えなかった。
拍手の音のすぐ後ろから、まるで天井の板そのものが震え出したかのような、奇妙な音が降り注いできたのだ。
ルルルルルル……!
ビィィィン……!
ただの「パーン」というやまびこではない。
何か硬いものが高速で細かく震えながら、低くうねるように尾を引いて鳴り続ける、聞いたこともない音だった。まるで頭上の巨大な龍が、手を叩かれたことに反応して、喉の奥で短く唸り声を転がしたかのように聞こえた。
俺は、反射的に真上の天井を仰ぎ見た。
「……えっ!?」
「……鳴いたぞ!?」
家光が、驚きのあまり声を上げた。
音は一呼吸ほどの間に、すっと天井の闇へと溶けるように消えていった。
だが、今の音は幻聴などでは断じてない。ここにいる全員の耳に、はっきりと届いていた。
「これが、当山の鳴き龍にございます」
寺僧が穏やかに一礼する。
俺は心臓がトクトクと早鐘を打つのを感じながら、たまらず寺僧へ尋ねた。
「あ、あの! 私も、自分で手を叩いてみてもよろしいですか!?」
「もちろんにございます。どうぞ、今手前が立っておりました場所へお立ちくだされ」
俺は急ぎ足で寺僧と入れ替わり、敷瓦の上のその位置に立った。
真上を見上げると、巨大な龍の顔がすぐそこにある。
「……では、失礼して」
俺は両手を広げ、思い切りよく打ち合わせた。
パンッ!
直後。
ルルルルルル……!
真上から、俺自身の頭を包み込むようにして、あの震えるような不思議な響きが真っ直ぐに降ってきた。
少し離れた場所で聞いていたさっきよりも、はるかに鮮明で、強い音だ。本当に天井の龍と一対一で向き合い、返事をされたような感覚に鳥肌が立った。
「……うわあ、本当に鳴った! すぐ上から降ってきますよ、これ!」
(KAMI様! 本当に龍が返事してきましたよ!?)
『でしょう? 自分で立って叩くと、音が真上から降ってくるみたいで面白いわよね』
(はい! これは想像してたよりずっと凄いです!)
俺が無邪気に感動していると、横で見ていた家光がうずうずと前へ出てきた。
「忠長、次は私だ! そこを代われ!」
「あ、はい。どうぞ兄上」
俺と入れ替わって立った家光は、天井の龍を睨み上げるようにしてから、力強く手を打った。
パンッ!
ルルルルルル……!
「おお……っ!」
家光は目を大きく見開き、自分の手のひらと天井を交互に見た後、もう一回、パンッ! と手を打った。
再び、天井から震えるような唸り声が返ってくる。
「……まことに見事だな! これは癖になりそうだ」
「分かります。何回でも叩きたくなりますよね」
俺と兄上がすっかり夢中になっていると、後ろで杖をついて見ていた家康が、ふっと笑いながら歩み出てきた。
「これ、孫どもばかり楽しんでおらんで、わしにも試させよ」
「あ、どうぞ祖父上!」
家光が場所を譲り、家康が龍の真下に立った。
大御所様は少し姿勢を正し、ゆっくりと両手を合わせて、パンッ、と澄んだ音を鳴らした。
ルルルルルル……!
天井から降りてきた響きを聞いた瞬間、家康の白い眉がぴくりと上がり、その目が少年のように丸くなった。
そして次の瞬間、広い法堂に家康の豪快な笑い声が響き渡った。
「……はっはっはっは! なるほど、これは愉快じゃ! 本当に天井の龍が声を出しておるようではないか!」
普段は江戸城の奥で、天下の法度だの異国の戦だのと重い顔をして論じている大御所様が、もう一度、パンッ! と手を叩いては、返ってくる音に耳を澄ませて心から楽しそうに笑っている。
その姿があまりにも無邪気で、俺と家光も顔を見合わせて一緒に笑ってしまった。
*
三人で代わる代わる手を叩いて楽しんでいた時、家光がふと周囲の敷瓦を見回した。
「……ところで、寺僧が最初に『場所が決まっている』と申していたが、少し離れた場所では鳴らぬのだろうか」
家光は寺僧に軽く断ってから、龍の真下から五歩ほど横へ外れた場所へと移動した。
そして、同じように両手を強く打ち鳴らす。
パンッ!
乾いた音は広い堂内に響いた。
だが、さっきまで聞こえていたあの「ルルルル……」という独特の震えるような余韻は、ほとんど聞こえなかった。ただの広いお堂で手を叩いた時のような、普通の乾いた反響だけで音が消えてしまったのだ。
「……あれ?」
家光が首を傾げ、もう二歩ほど別の場所へ動いてから、また手を打つ。
パンッ!
やはり、龍の声は返ってこない。
「……本当だ。そこからだと、ただの手拍子にしか聞こえませんね」
俺が驚いて言うと、寺僧が静かに頷いた。
「左様にございます。堂内の端の方では、ただ音が広がるばかりにて、龍の声は聞こえませぬ」
家光は納得したように元の場所――龍の真下へと戻り、もう一度だけ手を打った。
パンッ!
ルルルルルル……!
「……うむ。ここへ戻れば、やはりはっきりと鳴く」
「不思議ですね。たった数歩しか違わないのに」
家光がいろいろと場所を変えて試している間、家康は何も言わず、ただじっと天井の緩やかな反り具合と、床の敷瓦、そして家光の立つ位置を観察していた。
*
ひとしきり鳴き龍を堪能した後、俺たちは須弥壇の前から少し離れ、寺僧たちが茶の支度を整えるために下がった隙に、三人で再び天井の蟠龍図を見上げた。
家康は、長いこと龍の絵を眺めてから、深く満足そうに息を吐いた。
「……いやはや、よいものを聞いた。これほど見事に天井から声が返ってくるとはのう。京の者たちが『龍が神通力を授かった』と騒ぐのも無理はない、まことに不思議なものじゃ」
「はい、本当に凄かったです。私も、何も知らずにここで手を叩いたら、間違いなく本物の龍が天井に潜んで鳴いていると思ってしまいますよ」
「うむ、初めて聞いた時は背筋が粟立つようであったな」
俺と家光が素直に感動を口にすると、家康は鷹揚に頷いた。
そして、実に何気ない、普段の評定で勘定方の帳面を確認する時のような自然な口調で、俺の方を向いて言った。
「……して、忠長。この仕組みは、何じゃ?」
俺は、笑顔のままピタリと固まった。
「…………え?」
「なんじゃ、その顔は」
「い、いえ……大御所様は、今『神通力と呼ばれてもおかしくない』と感心しておられたではありませんか。本当に龍の神通力だと思っておられたのではないのですか?」
家康は、呆れたように鼻を鳴らした。
「わしは『神通力と呼ばれてもおかしくないほど見事だ』と申しただけじゃ。これが神通力そのものだなどとは、一言も言うておらぬわ」
「……ええぇ……」
横で聞いていた家光が、吹き出して俺の肩を叩いた。
「ははは! 忠長、いつもは誰よりも理屈を重んじるお前の方が、今回はすっかり龍の不思議に呑まれてどうする!」
(……うわ、俺が一番無邪気に驚いてたってこと!?)
俺が顔を赤くしていると、家康は杖の先で天井と床を交互に示した。
「よく考えてもみよ。もし天井の龍が本当に神通力で声を出しておるのならば、なぜ家光が数歩横へ移っただけで鳴かなくなるのじゃ。龍の気まぐれにしては、鳴く場所と鳴かぬ場所が、床の上できっちりと決まりすぎておる」
「……あ」
「しかも、この龍は人が言葉をかけても返事はせぬが、手を強く打った時にだけ、その音のすぐ後に続けて鳴いておった。……ならば、龍の絵が自ら声を出しておるというより、人が出した手拍子の音に対して、この『法堂の建物そのもの』が何かをしておると見るのが筋であろう」
俺は、開いた口が塞がらなかった。
大御所様は、ただ無邪気に手を叩いて喜んでいたわけではなかったのだ。自分で叩き、家光が場所を変えて叩くのを見ながら、条件の違いによって現象が変わることを冷静に観察し、「これは建物による音の理だ」と自力で推論していたのである。
「そなたは御異物改方として、これまで数多の奇妙な品を調べてきたであろう。……どうじゃ、この音の仕掛けに心当たりはないか」
「……少々、考える時間をください」
俺は天井を見上げるふりをして、大急ぎで脳内のKAMI様を呼んだ。
*
(KAMI様! 大御所様に完全に先を越されました! そろそろ答え合わせをお願いします!)
『ふふふ、さすがは大御所様ね。あそこまで正確に観察していれば、もう半分以上は答えに辿り着いているようなものよ』
KAMI様は楽しそうに笑いながら、その現象の正体を教えてくれた。
『あれはね、後の世の言葉で言えば《フラッターエコー》、日本語なら《鳴き竜現象》とも呼ばれる、純粋な音の反射現象よ』
(……音の反射? つまり、やまびこですか?)
『基本の理屈はやまびこと同じよ。手をパンと叩くと、その鋭い音が空気の波になって広がるでしょう? 普通のお堂なら、その音は四方八方に散らばってすぐに消えてしまう。でも、この法堂の鏡天井はわずかに緩やかな曲面になっていて、真下の床には硬い瓦が平らに敷き詰められているわ』
俺は、天井のわずかな反り具合と、自分の足元の硬い敷瓦を見比べた。
『だから、天井の特定の場所の真下で手を叩くと、上へ向かった音が天井で跳ね返って床へ戻り、床で跳ね返ってまた天井へ昇る……という往復が、外へ逃げずに同じ場所で何度も何度も高速で繰り返されるの』
(天井と床の間で、音が何回もピンポンみたいに跳ね返っている……!)
『そう。一回のやまびこではなく、ごく短い間隔で何十回も連続して反射音が耳に届くから、人間の耳には「ルルルル……」「ビィィン……」という、何かが震えて鳴いているような独特の余韻に聞こえるのよ。場所を数歩ずれると、反射した音が別の方向へ逃げてしまうから、その位置でしか聞こえないわけ』
(なるほど……! 御異物でも神仏ノードでもなく、天井と床の形が生み出した、音の現象だったんですね)
『ええ。でも、狙って簡単に作れるものでもないわ。天井の高さや反り具合、木材の質、床の硬さ、周囲の空間の広さが絶妙に噛み合って初めて、あんなに綺麗な鳴き声になるのよ』
一通りの説明を聞いた俺は、なるほどと深く納得した。
俺は先ほど立っていた場所を振り返り、敷瓦の上へ視線を落とした。何か特別な道具が隠されているわけでも、龍の絵そのものが動いているわけでもない。ただ堂の形と、自分たちの手が打ち鳴らした音だけで、あんな響きが生まれるとは。
俺は家康と家光の方へ向き直り、声を潜めて報告した。
「大御所様のお見立ての通りでした。……これは、フラッターエコーという現象です」
家康と家光が、揃って眉をひそめた。
「……ふらったあ?」
「なんだ、その南蛮の呪文のような言葉は」
「……あっ」
『あはは! あんた、考えなしにそのまま横文字を口に出したわね!』
俺は冷や汗をかきながら、慌てて両手を振った。
「い、いえ! 今の言葉は忘れてください! 要するに『音の細かな跳ね返り』のことです!」
俺は天井と敷瓦を指差しながら、噛み砕いて説明し直した。
「山へ向かって大声を出すと、少し遅れてやまびこが返ってまいりますよね。それと同じことが、この天井と床の間で起きております。この鏡天井のわずかな反り具合と、足元の硬い敷瓦が向かい合っているため、あの場所で手を打つと、音が外へ散らばらず、天井と床の間を眼にも留まらぬ速さで何度も行ったり来たりするのです」
「ほう……。音が、天井と床の間を幾度も往復すると申すか」
「はい。一度だけのやまびこではなく、細かく何十度も跳ね返り続けるため、我らの耳には『ルルルル』と震えるような長い鳴き声に聞こえるのです。兄上が少し横へ移動された時に鳴らなくなったのも、立つ位置がずれると、跳ね返った音が別の方向へ逃げてしまうからにございます」
家光は、先ほど自分が立った二つの場所を見比べて、深く頷いた。
「……なるほど! 鏡で日の光を反射させる時、立つ場所や角度が少しでも変われば光が届かなくなるのと同じ理屈か!」
「まさにその通りです、兄上」
家康も、天井の龍と床の瓦をもう一度見比べ、感心したように白い髭を撫でた。
「……音の理であったか。いや、見事なものじゃ」
そして家康は、杖を置いて、もう一度だけ龍の真下へと歩み出た。
「忠長。理屈を聞いたうえで、もう一度だけ手を打ってみてもよいか」
「もちろんです」
家康が両手を合わせる。
パンッ!
ルルルルルル……!
静かな堂内に、再びあの不思議な震える音が降り注いだ。
家康は、落ちてくる音の余韻を最後まで楽しそうに聞き届けてから、満足げに笑った。
「……はっはっは! なるほど、確かに音が幾度も細かく返ってきておるようにも聞こえるわ。……じゃが、仕組みが分かったところで、この面白さと見事さは少しも変わらぬな!」
「ええ。理屈を知ってから聞くと、よくぞこれほど綺麗に音が跳ね返るものだと、かえって感心いたしますね」
家光もそう言って、隣でパンッ、と手を叩いては天井を見上げていた。
俺もつられて天井を仰いだ。描かれた龍は相変わらずじっとこちらを見下ろしていて、家光の最後の手拍子が消えると、広い堂には元の静けさが戻ってきた。
*
法堂を出て、寺僧に案内された控えの間で温かい茶をいただきながら、俺はふと気になっていたことを家康へ尋ねた。
「……ところで大御所様。この鳴き龍が『音の跳ね返り』だと分かった以上、京の町で広まっている『徳川の天下が安寧になったから龍が神通力を授かった』という噂は、いかがいたしましょうか。やはり、神通力ではなく音の理であると、正しく触れを出した方がよろしいでしょうか」
俺の問いに、家康は茶碗を持ったまま少し考え、やがて穏やかに首を横に振った。
「……いや。わざわざそのような無粋な触れを出すには及ぶまい」
「よろしいのですか? 神通力などと言われれば、妙な御利益をうたって銭を取る者が出てくるかもしれませんが」
「そのような者が出てきたなら、その時に取り締まればよい。まず、今起きておることを見よ」
家康は茶を一口すすり、静かに言った。
「忠長。この相国寺の龍の噂によって、誰かが困っておるか? 『龍の声を聞けば必ず病が治る』と偽って法外な銭を巻き上げる輩がおるか? あるいは『その者の心がけが悪いから龍が鳴かぬのだ』と誰かを責め立てるような悪習が生まれておるか?」
「……いえ。所司代の報告にも、そのような悪質な話は一切ありませんでした。ただ、参詣の者や町衆が、龍が鳴いてめでたいと喜んでいるだけです」
「ならば、放っておけばよいではないか」
家康は、先ほどの鳴き声を思い出したように目を細めた。
「昨年の大火で家が焼け、苦しい思いをした京の者たちが、ようやく町が立ち直り、戦のない穏やかな世が続いておることを喜んでおる。その安堵の気持ちを、焼け残った法堂の龍の声に託して『天下安寧の瑞兆じゃ』と語り合うておるのなら、それを公儀がわざわざ『ただの音の跳ね返りじゃ』と壊して回ることはなかろう」
「……確かに、そうですね」
「それに、手を打てば不思議な音が返ってくること自体は、嘘でも仕掛けでもない、まことの事じゃ。その音を聞いて『音が跳ね返っておる』と思うも、『龍が応えてくれた』と感じるも、聞いた者それぞれの心に任せておけばよい」
大御所様は、鳴き龍の噂を徳川の権威を高めるための政治宣伝に使おうというのではない。かといって、害のない町の人々の楽しみや物語を、冷たい理屈で取り上げるつもりもないのだ。
だが、家康はそこで少しだけ表情を引き締め、言葉を継いだ。
「……もっとも、一つだけ我らが忘れてはならぬことがある」
「何でしょうか」
「この見事な法堂を建て直したのは、誰じゃ?」
俺は、法堂へ入る前に聞いた話を思い出した。
「……豊臣秀頼公の寄進と、狩野光信の筆、そして堂を建てた大工たちです」
「その通りじゃ」
家康は、茶碗を静かに置いて言った。
「わしが再建を促したとはいえ、米を出したのは秀頼であり、木を組み上げたのは大工の棟梁であり、龍を描いたのは光信じゃ。そして昨年の大火からこの堂を守り抜いたのは、寺の僧と京の町衆じゃ。……町の者が『徳川の世の安寧を寿ぐ龍』と噂するのは構わぬが、我ら徳川の者までがそれを真に受けて、この堂を建て、守り抜いた者たちの働きまで『徳川の神通力のおかげ』にしてしまってはならぬ」
家光が、静かに背筋を正して頷いた。
「……はい。天下が穏やかであることと、この堂を作った人々の功は、分けて敬わねばなりませぬな」
「うむ。そこさえ履き違えねばよい。……ゆえに、音の跳ね返りという仕組みについては、そなたの御異物改方の内々の記録にだけ正しく書き残しておけ。寺の者が求めもせぬのに、こちらから種明かしを押しつけることはない」
「承知いたしました。では、内々の検分控にだけ『堂の構造による音の反響なり』と記しておきます」
大げさな新制度を作る必要も、触れを出す必要もない。
真実は公儀の帳面に静かに残し、京の町に流れる優しい逸話は、そのままそっと残しておく。それが一番落ち着いた落としどころだった。
*
茶を飲み終えて控えの間を辞し、法堂の前を通りかかった時、家康がふと足を止め、開いた戸口から天井をもう一度見上げた。
「……しかし、改めて思うと不思議なものよな」
「何がでございますか?」
「先日の武蔵国の山寺にあった大きな歯は、人の世が始まるよりはるか昔の、天地の古き時が残したものじゃった。……じゃが、この法堂の龍の声は、人が木を切り、柱を立て、瓦を敷き、絵を描いたことで生まれたものじゃ」
家康の言葉に、俺も足を止めて戸口から天井を見上げた。
「大工たちが最初からこの音を計算して建てたのか、それとも立派な堂を建てた結果として偶然この響きが生まれたのかは分からぬ。……だが、人の手が造り上げた建物が、このような不思議な音を生み出しておる。人が造るものも、なかなか捨てたものではないわ」
隣に立つ家光が、戸口の奥に見える天井の龍を見つめたままぽつりと言った。
「……忠長。この龍は、これから先、何年くらい鳴き続けるのだろうな」
「それは……この法堂が焼けたり崩れたりせずに残っていれば、百年後でも、二百年後でも、同じように鳴き続けると思いますよ」
俺は、少しだけ前世の知識を重ねながら答えた。
「だって、この音は法堂の天井と床の形が生み出しているものですから。建物が今と同じ形で守られていけば、ずっと未来の人間がここで手を叩いた時も、今日私たちが聞いたのと全く同じ龍の声が聞こえるはずです」
家康は、俺の言葉を聞くと、とても満足そうに深く頷いた。
「百年後の者も、わしらと同じ位置に立って手を叩き、同じ声に驚いて笑うか。……ならば、この堂も、そしてこの堂が立つ京の町の安寧も、長く残さねばならぬな」
昨年の大火で、相国寺の多くの建物が焼けた。
もしあの時、この法堂まで焼けてしまっていたら、今日俺たちが三人で手を叩いて笑い合うこともなかったし、未来の人々がこの不思議な響きを聞くこともなかったのだ。
形ある建物を火災や戦乱から守るということは、そこで生まれる驚きや楽しみまで、未来へそのまま手渡すということなのだと、俺は改めて実感した。
法堂の前で待っていた案内役の寺僧が、丁寧に頭を下げて尋ねてきた。
「大御所様、若君様。……当山の鳴き龍、お聞きになられましたでしょうか」
家康は、柔和な笑みを浮かべて大きく頷いた。
「うむ、しかと聞かせてもらった。まことに見事な鳴き声であったぞ」
「本当に、天井の龍が我らの手拍子に応えてくれたようで、実に面白かった」
「私も、想像していたよりずっと驚きました。よいものを聞かせていただきました」
家光と俺も続けて礼を述べると、寺僧は心から安堵したように顔をほころばせた。
寺僧は丁寧に一礼し、山門へ続く石畳まで見送ってくれた。振り返れば、法堂の大きな屋根が冬の空を背にして、変わらぬ姿で聳えていた。
*
相国寺の山門を出て、冬の傾きかけた日差しの中を二条城へと戻る道すがら、俺たち三人はすっかり上機嫌だった。
「いやあ、祖父上。あの龍の声は本当に面白うございましたな! 最初にあの『ルルルル』という音が上から降ってきた時は、思わず首をすくめてしまいました」
「うむ、わしも思わずもう一回手を叩いてしもうたわ。あれは何度でも聞きたくなる不思議な響きじゃ」
「お二人とも、すごく楽しそうでしたね」
俺が笑いながら言うと、家光がニヤリと笑って俺を見た。
「そういう忠長こそ、最初に自分で手を打った時、目を真ん丸にして『本当に鳴った!』と大声を出していたではないか。お前のことだから、一瞬、天井から本物の龍が飛び出してくると思ったのではないか?」
「さ、さすがにそこまで子供じゃありませんよ!」
『あら、心拍数の上がり方からすると、結構いい勝負だったわよ?』
(KAMI様、余計な記録を掘り起こさないでください!)
俺がむきになって否定するのを聞いて、家康が愉快そうに声を上げて笑った。
「はっはっは! 次は、江戸で留守番をしておる秀忠も連れてきてやりたいものじゃな」
「あ、それはいいですね。お父様にもぜひ聞かせてあげたいです」
「父上があそこで手を叩かれたら、どんなお顔をなさるだろうな」
「お父様のことですから、真面目な顔で三回くらい手を叩いた後、『……忠長、床の下に誰か隠れておらぬか確かめよ』とか仰るんじゃないですか」
俺が秀忠の渋い声色を少し真似て言うと、家光が「言いそうだ!」と腹を抱えて笑い、家康も「うむ、あやつなら真っ先に床下を疑うじゃろうな」と楽しそうに目を細めた。
そんな軽口を叩きながら、俺はふと気づいて苦笑した。
「……それにしても、この冬は妙に『龍』に縁がありますね」
「ん? ああ、武蔵国の《龍骨》に、相国寺の《鳴き龍》か」
「はい。立て続けに龍の話が舞い込んできたのに、片方は太古の象の歯で、もう片方は建物の音の跳ね返りでした。……結局、どっちも本物の龍じゃなかったですね」
「そうだな。だが、どちらも龍ではなかったからといって、つまらぬ話ではなかったぞ」
家光の言葉に、家康も深く頷いた。
「人はな、己の知らぬ大きなものや、心動かされる不思議に出会うた時、そこに『龍』という名を付けたがるものなのかもしれぬな」
「……それは、あるかもしれませんね」
地面の下から出てきた信じられないほど大きな獣の骨も、高い天井から降り注ぐ不思議な音の響きも、昔の人はそこに人知を超えたものの気配を感じて、龍と呼んだのだ。
すると家光が、いたずらっぽく目を輝かせて言った。
「よし。骨、声と来たのだから、次に忠長のところへ龍の噂が届く時は、三度目の正直で『空を飛ぶ生きた龍』かもしれぬぞ!」
「……兄上、絶対に当たりそうな不吉な冗談はやめてください! 空を飛ぶ巨大生物なんて、どうやって帳面に登録して管理するんですか!」
『ふふふ、その時は《航空奇物控》でも新しく作るしかないわね』
(作りませんからね!!)
*
その夜、二条城の自室で、俺は昼間の見聞を短い控えの帳面に書き留めていた。
正式な通達や法度にするようなものではない。ただの『相国寺法堂・鳴き龍見聞覚』という内々の記録だ。
(……KAMI様。今日、最初にフラッターエコーの理屈を聞かずに法堂へ行って、本当によかったです)
『でしょう? 知識として「音が反射する現象がある」と知っているのと、暗いお堂の龍の真下に立って、自分の叩いた音が頭の上から降ってくるのを体験するのとでは、全然違うもの』
(……それに、今日一番嬉しかったのは、大御所様と兄上があんなに楽しそうに笑っていたことかもしれません。京へ来る前は、龍の声を聞ければそれで十分だと思っていたんですけどね)
『ふふ。だったら京まで来た甲斐があったじゃない。三人とも、ずいぶん楽しそうだったもの』
結局、相国寺の鳴き龍は、徳川の天下が安寧になったから神通力を授かったわけではなかった。
法堂の天井と床が、手を打った音を幾度も跳ね返し、その細かな反響の連なりがまるで龍の唸り声のように聞こえるという、建物の構造と音の理が生み出した現象だったのである。
俺はふと思い立ち、両手をそっと打ち合わせてみた。もちろん狭い部屋では龍の声など返ってこず、乾いた拍手が一つ響いただけだった。
京の町では、明日もきっと「相国寺の龍が天下の安寧を寿いで鳴いている」と語られ続けるだろう。
その逸話を、わざわざ公儀が否定して回るつもりはなかった。
だって、大火を生き延びたあの法堂へ足を運び、天井の龍を見上げて手を打てば、龍は誰に対しても、本当に見事な声で返事をしてくれるのだから。
俺は筆を置き、墨が乾くのを待ちながら、小さく笑った。
次にまた京都へ来る機会があったら、もう一度あの法堂へ立ち寄って手を叩こう。
もちろん今度は、江戸で留守番をしているお父様も一緒に連れてきて、みんなで天井を見上げながら。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
【朗読動画のお知らせ】
YouTubeで本作の朗読動画を公開中です!
作業中や寝る前のお供に、よかったら聞いてみてください。
YouTubeで「暴君忠長に転生したので」と検索してください。
本作の朗読動画はこちら