暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
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相国寺の法堂で天井の龍に手を叩き、不思議な音の反響を三人で存分に楽しんだ翌日のことだった。
二条城の宿所で、俺――徳川忠長は、火鉢の炭を灰に埋め直しながら、江戸へ戻るまでの残りの日程を記した書付を眺めていた。
大御所様の今回の上洛における表向きの用務は、洛中の復興状況の視察と禁裏への挨拶であり、その大半はすでに滞りなく終わっている。あとは数日のうちに荷をまとめ、東海道を東へ下るばかりのはずだった。
そこへ、京都所司代の板倉勝重が、少しばかり畏まった顔つきで控えの間へ入ってきた。
「忠長様。出立の御支度のところ恐れ入りますが、京の堂上公家の方々より、ぜひにと面会の申し出がいくつか届いておりまする」
俺は書付から目を上げ、首を傾げた。
「公家の方々から? 御所への公式な御挨拶なら、すでに先日済ませたはずですが、まだ何かやり残した儀礼でもありましたか」
「いえ、朝廷としての公式な御用向きではございませぬ。大御所様の御上洛への祝意とあわせ、忠長様の御元服を寿ぐ言葉を直接申し上げたいと、幾つかの家より内々に願い出がございましてな」
俺は思わず眉を寄せ、指折り月日を数えてみた。
「……あの、勝重殿。私の元服って、昨年の秋の話ですよね? もう年が明けてずいぶん経っている気がするんですが、今から元服祝いというのも少し間が抜けていませんか」
勝重は、年季の入った皺の深い顔をほころばせて笑った。
「江戸におられましたゆえ、京の方々にとっては、此度が御元服ののち初めての御上洛にございます。これまで『国松君』と呼ばれておられた若君が、立派に烏帽子を召されて徳川忠長様となられた。そのお姿を一度拝し、直接お祝いを申し上げるにはまたとない好機と思われたのでございましょう」
「はあ……そういうものですか」
言われてみれば、筋は通っている。
昨年の大火の後始末や和子姉上の入内の折には、俺も京の町や公家衆とずいぶんやり取りを重ねた。せっかく京都まで来ているのに、挨拶したいという相手を無下に断るのも角が立つだろう。
同じ部屋で茶をすすっていた家康も、面白そうに目を細めて頷いた。
「よいではないか。京の者たちも、次代の将軍たる家光ばかりでなく、水神様と呼ばれる忠長がどのような若者に育ったのか、その目で見ておきたいのであろう。せっかくの申し出じゃ、顔を出してやれ」
隣であぐらをかいていた家光も、にやりと笑って俺の肩を軽く小突いた。
「そうだぞ、忠長。お前ももう元服した立派な大人なのだ。いつまでも『私は裏方の帳面係ですから』などと申して、表の儀礼から逃げておるわけにはいかぬぞ」
「別に逃げていたわけじゃありませんよ。……分かりました、お会いしてご挨拶を受ければいいんですね」
俺は、少しばかり肩が凝りそうだなと思いながらも、単なる社交上の儀礼だと納得して面会を承諾した。
この時の俺は、京の公家たちがわざわざ時間を割いて俺に会いに来る本当の理由に、これっぽっちも気づいていなかったのである。
*
その日の午後、二条城の対面所に近い広間が応接の席としてしつらえられた。
上座には家康と家光、そしてその少し下手に俺が座る。公式な評定ではなく内々の祝賀の席ということで、空気は比較的穏やかだった。
最初に通されたのは、古くから和歌や書道の家柄として知られる中堅の堂上公家だった。
丁寧な元服祝いの口上が述べられ、まずは前年の大火からの復興についての礼が語られた。
「昨年の春は、一時はこの京の都が灰燼に帰すかと思われましたが、公儀の迅速な御手配と、忠長様が定められたという井戸の札分けや仮屋の差配のおかげで、我らも無事に冬を越すことができました。まことにありがたきことにございます」
「恐れ入ります。ですが、それは私一人の知恵ではございませぬ。板倉殿をはじめとする所司代の役人や、何より京の町衆や大工たちが、火の粉の舞う中で必死に手を動かしてくれたおかげにございます」
俺がいつもの通りに謙遜して答えると、公家は「いやはや、御若年ながらそのように現場の者の労を汲まれるとは」と感心したように何度も頷いた。
ここまでは、ごく普通の和やかな歓談だった。
ところが、一通りの礼が終わったところで、その公家は扇子を膝の上に置き、ふと思い出したような顔をして話題を変えたのである。
「ところで忠長様。……手前の家におります娘も、近頃は京の古き書や歌の道を熱心に学んでおりましてな」
「……はあ」
突然飛び出してきた家庭内の話題に、俺は少し戸惑いながら相槌を打った。
「まだまだ未熟な小娘ではございますが、気立てが至って穏やかで、筆を持てば日に幾枚も古歌を書き写すほど根気も強い。香を聞くことにも親しみ、奥の女房たちの言い分をよく聞いて家の内を丸く収めることにも心を配る娘に育ちましてな」
俺は、自分の娘の成長がよほど嬉しいのだろうと思い、素直に感心して頷いた。
「それは立派なことですね。京の姫君は、幼い頃から学問も芸事も深く修めておられるのだと聞き及んでおりましたが、家の内のことまで気を配られるとは素晴らしいことです」
俺が当たり前の社交辞令として褒めると、公家の顔がぱっと輝いた。
「おお、ありがたきお言葉! 忠長様にそのように仰せいただいたと伝えれば、娘もさぞかし喜びましょう!」
「いえ、私などが褒めるのもおこがましいですが……」
「何をおっしゃいますやら。実はその娘が、以前より東国の新しい暮らしや、徳川様が江戸で進めておられるという水路や書物の御政にも、大いに関心を持っておりましてな。『いつの日か、東国の広い空の下でどのような政が行われておるのか、学び知ることができれば』などと申しておるのでございますよ」
「へえ、京におられながら江戸の政務に関心を持たれているのですか。それはありがたいお話です。これからは京の古い知恵と江戸の新しい仕組みを、もっと互いにやり取りできるようになるといいですね」
俺が純粋に『公家文書御用』や文化交流の拡大を思い浮かべてにこやかに応じると、公家はなぜか感極まったように深く頷いた。
「まことに、まことに仰せの通りにございます! いや、本日は忠長様の御心を直に伺うことができ、これに勝る喜びはございませぬ!」
公家は非常に満足げな笑みを浮かべて一礼し、部屋を下がっていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、内心で小さく首を傾げた。
(……なんだか後半、ずっと娘さんの自慢話ばかりだった気がするけど、よっぽど娘さんが可愛くて誰かに聞いてほしかったのかな。公家の方も案外、親馬鹿なところがあるんだな)
ところが、妙な話はそれで終わらなかった。
続いて部屋へ通された二人目の公家も、大火の礼を述べた直後に、似たようなことを言い出したのである。
「手前の家にも、今年でちょうど年頃になります姫がおりましてな。これがまた、幼き頃より身体が至って健やかで、風邪一つ引いたことがないのが取り柄にございます。もちろん、古き有職故実や礼法も一通りは仕込んでおりますし、手先が器用で縫い物や細かな飾り結びなどもお得意でして」
「はあ、健康で手先が器用なのは何よりですね」
「しかも、少々変わった物や珍しい話を見聞きしても、決して怯えたり騒いだりせぬ胆力がございます。たとえ家の奥に少々奇妙な石や南蛮の玻璃器が置かれておりましても、落ち着いて塵を払えるような娘でしてな」
(……ずいぶん具体的な状況設定だな。まあ、最近は京にも南蛮の珍しい品が入ってきているから、そういうものに動じないと言いたいんだろうけど)
俺が「落ち着きがあるのは大変結構なことだと思います」と返すと、二人目の公家もまた、我が意を得たりとばかりに満面の笑みで退出していった。
そして、三人目にやって来た老公家に至っては、さらに毛色の違う話を始めた。
「忠長様。我が家の姪に、少々風変わりではございますが、至って聡明な娘がおりましてな。女子でありながら歌よりも『算用』を好み、家中の米や銭の出入り、さらには蔵の品々の目録を覚えるのが誰よりも早いのでございます」
その言葉を聞いた瞬間、俺の耳がぴくりと動いた。
和歌や香道と言われても俺には良し悪しがさっぱり分からないが、「算用が得意」「蔵の目録管理が早い」となれば話は別である。
「……おお! 算用がお出来になるのですか! しかも蔵の目録の管理まで!?」
俺が思わず身を乗り出すと、老公家は驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに顎髭を撫でた。
「ほう、忠長様は、女子が算盤や帳面を扱うことを、はしたないとはお思いになりませぬかな?」
「はしたないどころか、素晴らしい才能ですよ! 以前、江戸で書物の整理や目録作りに人手が足りなくなった時にも、奥向きの女性たちに清書や数の照合を手伝ってもらったのですが、男性の役人よりよほど正確で早かったくらいです。寺社の管理でも所領の切り盛りでも、数字に強くて帳面の不備にすぐ気づける人が一人いるだけで、仕事の手間が半分以下になりますからね!」
俺が日頃の人員不足の苦労を思い出して熱っぽく語ると、老公家は大きく膝を打った。
「いやはや、そこまで仰っていただけるとは! 世の殿方は、女子が数を数えるのを嫌う向きも少なくありませぬゆえ、姪も肩身の狭い思いをいたしておりましたが……やはり忠長様は、女子の才をも偏見なく御覧になれる器の持ち主にございますな!」
「ええ。男だろうが女だろうが、正確な帳面を作れる人材は宝ですから」
「宝! なんとありがたいお言葉! さっそく帰りまして、姪や一門の者どもへ申し伝えまする!」
老公家は、まるで長年の懸案が一気に解決したかのような晴れやかな顔で帰っていった。
俺は湯冷ましを一口飲み、ふうっと息をついた。
(……それにしても、今日の公家衆はどうして揃いも揃って、自分の家の娘や姪の特技ばかりアピールしていったんだろう。京都では最近、元服祝いの席で家族の紹介をするのが流行っているんだろうか。……まあ、最後の算用ができるお嬢さんなんかは、もし江戸の公家文書御用の手伝いに来てくれたら、御異物改方の棚卸し作業がすごく捗りそうだけどな)
俺はそんなことを呑気に考えながら、横でずっと黙っていた家康と家光の方を振り返った。
なぜか家康は扇子で口元を隠して肩を小刻みに震わせており、家光に至っては、今にも吹き出しそうなほど顔を真っ赤にして下を向いていた。
*
全ての面会が終わり、公家たちが二条城から退出した直後のことだった。
控えの座敷へ戻るなり、それまで必死に我慢していた家光が、ついに堪えきれなくなったように腹を抱えて笑い出した。
「……ぷっ……くくっ、はははははっ! おい、忠長! お前、今の今まで、本当に分かっておらなんだのか!?」
「……兄上? 何がですか?」
俺がきょとんとして尋ねると、家光は涙が滲むほど笑いながら畳を叩いた。
「何がですか、ではないわ! 先ほどから代わる代わるやって来た公家たちの話だよ!」
「ええと……皆さん、大火の復興のお礼を言いに来られたんですよね。その後は、なぜかどなたもご自分の娘さんや姪御さんが優秀だというお話を熱心にされていましたけど」
「そうだ。三人とも、申し合わせたように年頃の娘や姪の話ばかりをして帰ったであろうが。……なぜだか分からぬのか?」
「なぜって……京の公家衆の間で、身内の女性にも学問や算用を習わせるのが流行っているから、その自慢をされたのかなと」
俺が真面目に答えた瞬間、家光はもう一度大きく吹き出し、やがて呆れ果てたように首を振った。
「違うわ! お前の『嫁』にどうかと、売り込んでおったのだ!!」
俺の思考が、ピタリと止まった。
「………………はい?」
「だから! 元服を終えた徳川忠長の正室に、我が家の娘や姪を迎えてはくれぬかと、遠回しに探りを入れておったのだ!」
俺は、口を半開きにしたまま数秒間固まり、やがて先ほどまでの公家たちの会話を頭の中で猛烈な勢いで巻き戻した。
ついさっきまで、俺は相手の話を、立派に育った娘や姪の自慢だと思って聞いていた。
だから褒めた。学ぶ意欲も、落ち着きも、数字を扱う力も、どれも本当に立派だと思ったからだ。
ところが公家たちにしてみれば、その褒め言葉一つ一つが縁談への前向きな返事に聞こえていたのかもしれない。
思い返せば、家康と家光の様子も妙だった。二人だけは最初から、話の裏を全部分かっていたのだろう。
……つまり俺は、公家たちに嫁の話をされながら、ずっと仕事のできる人材の話をしていたということか!?
「…………えええええええっ!?」
俺は座敷が揺れるほどの大声を上げて、両手で頭を抱えた。
「ま、待ってください兄上! じゃあ、最初の和歌を詠む娘さんの話も!?」
「無論だ。『江戸へ嫁いでも奥向きを乱しませぬ』という意味であろう」
「二人目の、変な石を見ても驚かない娘さんも!?」
「お前が御異物改方で奇妙な品ばかり集めておるから、『うちの娘なら水神様の屋敷へ嫁いでも腰を抜かしませぬぞ』と売り込んだのだ!」
「さ、最後の、算用が得意な姪御さんの話までですか!?」
「あれが一番露骨であったわ! お前が帳面好きなのを聞きつけて、『うちの娘ならお前の仕事の役に立ちます』と申しておったのに、お前ときたら『正確な帳面を作れる人材は宝です!』などと目を輝かせて褒めちぎるから、相手はすっかり脈ありと思うて帰ったぞ!」
「ぜんぶ縁談の話だったんですかあぁぁっ!?」
俺が真っ青になって絶叫すると、上座で茶を飲んでいた家康までが、「ふぉっふぉっふぉ!」と愉快そうに声を上げて笑い出した。
俺はたまらず脳内のKAMI様に泣きついた。
(KAMI様! KAMI様は最初から気づいてたんですか!?)
『ええ、もちろん。最初の公家が「うちの娘が東国に関心があって」と切り出した時点で、すぐ分かったわよ』
(分かったなら、どうしてその場で教えてくれなかったんですか!)
『だって、あんたがあまりにも真剣な顔をして、相手のお姫様たちの実務能力を査定し始めるんだもの。お見合いの打診をされてるのに、途中で「この算用ができる子は御異物改方の棚卸しに採用したいな」って職員採用の面接みたいな目になってたでしょ? 面白すぎて邪魔できなかったわ』
(ひ、ひどい! 京都の公家の言い回しが遠回しすぎるんですよ! 縁談なら縁談って最初に言ってくれないと分からないじゃないですか!)
俺が内心でKAMI様に抗議してから、恨めしい目で家康を見つめると、大御所様は実に涼しい顔をしていた。
「大御所様まで! 最初から縁談の探りだと御存じだったなら、横から少しは助け舟を出してくれてもよかったではありませんか!」
「いやいや、そなたがあまりにも気持ちよく相手の娘御の才を褒めそやすものじゃから、てっきりそなたも承知のうえで、気に入った相手を選んでおるのかと思うたわ」
「絶対に思ってなかった顔をしておられますよ! 私が勘違いしているのを、後ろで兄上と一緒に楽しんでおられただけでしょう!」
「はっはっは! いや、めでたいことよ。元服して名も徳川忠長に改まり、いっぱしの武将のような顔をしておっても、女子の話となると昔の『国松』の頃と少しも変わらぬのう!」
家康と家光に揃って笑い飛ばされ、俺は耳まで熱くなるのを感じながら、ぐうの音も出ずに肩を落とした。
江戸にいた頃は「水神様にもいずれ御方様を」という漠然とした世間の噂だったものが、元服して京都へ足を踏み入れた途端、こうして生身の公家たちからの具体的な売り込みとして目の前に突きつけられたのだ。
*
しかし、それがただの笑い話で済んでいたのは、その日の夜までだった。
翌朝、二条城へ登城してきた板倉勝重が、今度は笑みのない実務の顔で、数通の書付を家康と俺の前へ持参したのである。
「大御所様、忠長様。……昨日の御対面の後、参上した公家衆をはじめ、その縁戚にあたる幾つかの堂上家より、内々に所司代へ打診がございました」
勝重は声を落とし、書付を開いた。
「いずれも正式な縁組の申し入れではございませぬ。武家と公家の婚姻は公儀の重き定めに関わりますゆえ、まずは『忠長様の正室につき、もし御家中で今後お考えが進む折には、当家の姫も候補の一人として御心に留めていただけぬか』という、内々の伺いにございます」
俺は、昨日の自分の軽率な受け答えを思い出して冷や汗をかいた。
「……勝重殿、こういう縁談の話っていうのは、もっと何年もかけてゆっくりと下交渉が進むものではないのですか? 昨日今日でずいぶん話が早すぎる気がするのですが」
「それには訳がございます」
勝重は、京の公家社会の事情を噛み砕いて説明してくれた。
「第一に、忠長様は現将軍・秀忠公の御実子であり、次代将軍たる家光様のただ一人の同母の御舎弟にございます。これほど高い御身分の若君が、元服を終えていまだ正室を定めておられぬとなれば、それだけで天下の耳目が集まります」
俺は、ぐっと言葉に詰まった。自分では「兄上の補佐役」「御異物改方の実務担当」くらいのつもりでいたが、外から見れば、徳川将軍家のど真ん中にいる超一級の縁談物件なのだ。
「第二に、和子様が御所へ入内なされ、家光様も五摂家の一つ、鷹司家の孝子様と御縁を結ばれたことで、いま京の公家衆の間では『徳川家との縁を結ぶことこそが家の安泰に繋がる』という空気が極めて強くなっております。家光様の御縁が定まった以上、次に公家衆が目を向けるのは、当然ながら忠長様にございます」
「……そして第三に」
勝重は少しだけ言いにくそうに、俺の顔を見た。
「忠長様は『水神様』として民草に広く慕われ、昨年の京の大火におきましても、見事な差配で町を救われました。ただ威勢のよい東国の武家というだけでなく、文の道や算用、さらには奇なる品の理にも通じた慈悲深い若君であるという評判が、京の奥向きにまで広まっております。……ことに昨日の御対面で、忠長様が姫君たちの才を大層お褒めになったと伝わり、『あの若君ならば、娘を嫁がせても粗略には扱われまい』と、急に話が熱を帯びた次第にございます」
「昨日の私の発言が、しっかり油を注いでるじゃないですか……!」
俺が頭を抱えると、勝重はさらに、打診を寄せてきた家々の裏事情についても報告を加えた。
もちろん、中には「水神様と呼ばれる忠長と縁を結べば、公儀の普請や所領のことで便宜を図ってもらえるのではないか」「御異物改方が持つという珍しい薬種や奇物の恩恵に与れるのではないか」といった、政治的・経済的な下心を抱いている家もないではないらしい。
だが、全ての公家がそんな野心だけで動いているわけではなかった。
「……たとえば、昨日最後に参られた、姪御が算用に長けていると申された老卿の家にございますが」
勝重が、一つの家の事情を静かに語った。
「あちらの家は古くからの由緒こそございますが、所領は少なく、近年の暮らし向きは決して楽ではございませぬ。昨年の大火では本邸こそ残ったものの、縁戚の屋敷が焼けてその扶助も重なりました。……その姪御というのは、早くに両親を亡くされて老卿が引き取り、実の娘同様に育ててこられた姫にございます」
俺は、昨日目を輝かせて「宝と言われた!」と喜んでいた老公家の顔を思い出した。
「老卿が内々に手前へ漏らされましたには、『あの子は頭が切れ、家の算用を一手に引き受けてくれる孝行娘だが、公家の社会では女子が算盤を弾くことを疎む者も多い。このまま京の貧しい公家へ嫁がせて苦労をさせるよりは、女子の才を宝だと笑って認めてくださる忠長様のような御方の側へ送り出してやりたい』と……」
「…………」
俺は、すぐには言葉を返せなかった。
縁談の売り込みと聞いて、俺はてっきり「徳川の権力や金に群がる面倒な政治工作」だとばかり思い込んでいた。
けれど、その裏には、親代わりに育てた姪の将来を案じ、その子の長所を認めてくれる相手のもとへ嫁がせたいと願う、一人の老人の切実な親心もあったのだ。
家康が、火鉢の灰を見つめながら静かに言った。
「……婚姻とはな、忠長。家と家とを結ぶ政の糸でもあるが、一皮むけば、親が子の行く末を案じ、人と人とが同じ屋根の下で暮らすための話でもあるのじゃ」
「……はい」
俺は小さく頷いてから、ふと最も大切なことに気づいて勝重へ尋ねた。
「勝重殿。その老卿の親心はよく分かりました。他の家々にも、それぞれの事情や願いがあるのでしょう。……ですが、肝心のその姫君たちご自身は、私との縁談についてどう思っておられるのでしょうか」
勝重は、きょとんとした顔で俺を見た。
「……と申されますと?」
「昨日から伺っているのは、お父上や叔父上といった家の大人たちの希望ばかりです。当の姫君ご本人が、見たこともない東国の武家の、しかも毎日変な石や帳面ばかりいじっている私のところへ嫁ぎたいと思っておられるのか、それとも家のために我慢して従おうとしておられるだけなのか……そこは、まだ誰も確かめていないのでしょう?」
勝重は目を丸くし、それから深く感じ入ったように頭を下げた。
「……恐れ入りました。いかにも、此度は家々の当主が内々に意向を探っておる段階にて、姫君方ご自身の御心までは確かめておりませぬ」
「和子姉上が京へ入内される時にも、私たちは『姉上ご自身がどう生き、何を望まれるか』を一番に考えました。……もし私が誰かを妻に迎えるとしても、親御さんの話だけで決めてしまうわけにはいきません」
*
その日の夜。
二条城の奥座敷で、俺と家康、家光の三人は、行灯の灯りを囲んで静かに酒と茶を酌み交わしていた。
昼間の勝重の報告を受けて以来、俺はずっと自分の「結婚」という問題について考え続けていた。
「……正直に申し上げますと、大御所様、兄上」
俺は、膝の上の自分の手を見つめながら、胸の奥にあった本音をぽつりとこぼした。
「私自身は、自分が妻を迎えて家庭を持つことなど、まだずっと先の話か……あるいは、なくてもよいのではないかと思っていたのです」
家光が、驚いたように盃を止めた。
「なくてもよい? なぜそのようなことを言うのだ、忠長」
「だって、私は次代の将軍になる兄上を支え、公儀の仕組みや水路、御異物改方の帳面を長く保つために働いています。今の仕事だけでも毎日手一杯ですし……それに」
俺は一度言葉を切ってから、一番恐れていたことを口にした。
「もし私が、京の有力な公家や、大大名の姫を正室として迎えてしまったら、どうなるでしょうか。……妻の実家は『次代将軍の実弟と縁続きになった家』として大きな顔をするようになり、やがて欲を出した者たちが、私と兄上を比べて勝手な派閥を作り始めるかもしれません」
前世の歴史知識にある「駿河大納言忠長」の破滅。
兄・家光との権力争いの果てに改易され、自害へと追い込まれたあの結末を、俺はこれまで必死の働きと「兄上を立てる」という徹底した姿勢で回避してきたつもりだった。
だが、婚姻によって『妻の実家』という新しい政治勢力が俺の背後にくっつけば、俺自身の意思とは無関係に、再び俺を神輿に担ぎ上げようとする連中が現れかねない。
「私が独り身のままで、ただ兄上の手足として公儀の役目を務めていれば、誰も私を担ぎ上げる口実を作れません。……兄上の御代に余計な火種を作らないためには、その方が安全なのではないかと、どこかで思っていたのです」
座敷に、短い沈黙が落ちた。
俺の告白を黙って聞いていた家光は、やがて持っていた盃を膳の上へ置くと、珍しいほど厳しい目で俺を正面から睨みつけた。
「……忠長。お前は、私のために一生妻も娶らず、子も持たず、ただ帳面を抱えて一人で老いていく気なのか」
「兄上……私は、今の仕事が嫌いなわけでは……」
「仕事の話をしているのではない!」
家光は、少し声を荒らげた。
「お前がどれほど私の政を助け、私の立場が揺らがぬように気を配ってくれているか、私が分からぬとでも思うておるのか! だがな、弟が自分の人生の喜びや暮らしを全て捨ててまで保たねばならぬような将軍の座なら、私とて居心地が悪くて座っておられぬわ!」
俺は、息を呑んで兄上の顔を見た。
家光は少し照れくさそうに視線を逸らしながらも、強い口調で続けた。
「私には孝子がおる。もとより政のための縁組ではあったし、京の姫と東国の武家で互いに勝手が分からぬこともまだ多いが……それでも、政務を終えて奥へ戻れば、今日あったことを話し、共に茶を飲む相手がおるというのは、悪くないものだ」
「……兄上」
「お前が婚姻による派閥の火種を恐れるというなら、そんな火種など最初から作らせぬよう、将軍となる私が上からおさえつければよいだけのことだ! だからお前は、私のために自分を削るようなことばかり考えるな。お前にだって、政務を離れて共に笑える相手がいてよいはずだ」
兄上の言葉が、胸の奥にじんわりと染み渡っていく。
俺はこれまで、「兄上を支えなければ」「危険な弟と思われないようにしなければ」とばかり考えてきた。けれど兄上の方は、俺を単なる便利な補佐役としてではなく、一人の弟として、ちゃんと普通の幸せを手にしてほしいと願ってくれていたのだ。
すると、横で黙って聞いていた家康が、深く頷きながら口を開いた。
「家光の申す通りじゃ、忠長。そなたの心配はもっともじゃが、それは仕組みと掟で防げることよ」
家康の双眸には、老獪で揺るぎない統治者の光が宿っていた。
「そなたがどこの家の娘を正室に迎えようとも、その実家に公儀の政や御異物改方の権限をかすめ取らせるような真似は、わしも秀忠も、そして家光も断じて許さぬ。『忠長の妻の実家である』ということと、『公儀の役目に口を出せる』ということは別じゃと、最初から厳しく釘を刺し、証文を取っておけばよい」
「……婚姻と、公儀の権限を完全に切り離すのですね」
「左様。姻戚がつけ上がるのは、当主が隙を見せるからじゃ。そなたと家光が今のように固く手を携えておれば、いかなる公家や大名が間に入ろうと、付け入る隙などありはせぬ」
家康はそこでふっと表情を緩め、悪戯っぽい笑みを浮かべて俺に尋ねた。
「……して、忠長。政の心配はわしらと家光が引き受けるとして、そなた自身はどうなのじゃ? もし迎えるとしたら、どのような女子がよいのじゃ?」
「…………えっ?」
急に矛先が自分の「女性の好み」に向けられ、俺は一気に言葉に詰まった。
「え、ええと……どのような、と申されましても……」
「私もそれは聞いておきたいな! さあ申してみよ、忠長。美人がよいのか、歌の上手い姫か、それともおとなしい女子か?」
さっきまで格好よく俺を諭していた家光までが、急に目を輝かせて身を乗り出してくる。
俺は二人の視線に追い詰められ、必死に頭を回転させた。
美人かどうかとか、家柄がどうとか、正直あまりピンとこない。自分が誰かと一緒に暮らす姿を想像しようとすると、どうしても普段の御異物改方の生活が頭に浮かんでしまう。
そして俺は、うっかり本音を口にした。
「……ええと、できれば……私が夜遅くまで帳面仕事をしていたり、急に井戸の泥さらいや崖の検分へ飛び出していったりしても、呆れたり怒ったりしない人がいいです。……あ、あと、数字や目録を見るのが苦にならない人だと、話が合って助かるかもしれません……」
俺が言い終えると、家康と家光は数秒間だけぽかんと俺の顔を見つめ――次の瞬間、二人揃って大爆笑した。
「ぶっ、はははははっ! お前というやつは、嫁にまで帳面を見せようというのか!」
「い、いえ! 手伝わせたいという意味ではなくて、私が毎日そういう仕事をしていても『また紙ばかり見て』と嫌がらない人がいいなという意味です!」
「はっはっは! いや、よい、実にそなたらしいわ!」
家康は涙を拭いながら笑い、それから少しだけ優しい目をして言った。
「ほかに、望みはないのか」
俺は少し考えてから、今度は真面目に答えた。
「……私のことを、『水神様』として拝んだり怖がったりしない人がいいです。私は神様でも何でもなく、失敗もするし、知らないこともたくさんあるただの人間ですから。私が間違ったことを言ったり、仕事で頭を抱えたりしている時に、『それは違いますよ』『少しお休みなさい』と、普通の人間として話してくれる人がいいですね」
「……ふむ」
「それから、その人自身が大切にしていることや、好きな手仕事や学びがあるなら、私のところへ嫁いだからといってそれを全部捨てさせるようなことはしたくありません。お互いに、相手の大切なものを尊重して暮らせるなら、それが一番いいなと思います」
俺が話し終えると、家康と家光はもう笑わなかった。
家康は、満足そうに幾度も大きく頷いた。
「……なんじゃ、忠長。結婚のことなど考えておらなんだと申す割には、己がどのような暮らしを望んでおるのか、ちゃんと分かっておるではないか」
「そうですかね……」
「うむ。家の格や持参金の多寡ばかりを並べる者より、よほど地に足がついておる。……よし、今回の京での話は、今すぐここで一つに決めることはせぬ」
家康が方針を下した。
「そもそも、そなたの縁談を、江戸で待つ秀忠や江に一言も相談せず、わしが旅先で勝手に決めてしもうては、後から江が鬼のような顔をして怒り狂うからのう」
「……確かに、母上に事後報告にしたら、二条城まで乗り込んでこられそうです」
俺と家光が揃って頷く。
「家光はすでに鷹司家と縁を結び、和子も禁裏へ入っておる。そなたまで京の公家から正室を迎えるとなれば、朝廷との縁が重なりすぎるという見方もあろう。ゆえに、今回名乗りを上げた家々のことは所司代の控えに留め、まずは江戸へ持ち帰る。公家だけでなく、武家の娘も含めて広く見極め、そして何より、そなたが申した通り『相手の娘自身がどう思うておるか』も確かめたうえで、ゆっくりと良き縁を探すとしよう」
家康のその言葉に、俺は心から安堵して深く頭を下げた。
*
翌日、家康の命を受けた板倉勝重を通じて、打診を寄せてきた公家たちへ丁寧な返答が伝えられた。
元服した忠長へ寄せられた祝意と好意には、徳川家として深く感謝する。
ただし、忠長の正室については、現時点で特定の家と内約を結ぶ段階にはなく、江戸へ戻った後に将軍・秀忠や御台所・江とも十分に相談して進めることとなる。ゆえに、今回の対面での言葉や祝品の授受をもって何らかの先約と見なすことはせず、今後のことは改めて公儀より沙汰する――という、丁寧でありながら一切の誤解を生まない返答だった。
勝重の報告によれば、公家たちも今回の上洛中に即座に婚約が決まるとまでは思っていなかったようで、大きな不満や混乱は起きなかったという。むしろ「徳川家は頭ごなしに公家の縁を退けるつもりはなく、今後の候補として心に留めてくれた」と好意的に受け止められたらしかった。
……ただ一つ、俺にとって計算外だったのは、俺の個人的な発言が妙な形で京の公家社会に広まってしまったことだった。
「忠長様。……実は京の屋敷町にて、『忠長様は歌や香よりも、算用と帳面に通じた姫をお好みになるらしい』『女子の学問や才を宝と呼ばれ、ご自身の誤りを諫めてくれる気丈な女性を望んでおられるそうだ』という噂が、まことしやかに広まっておりまする」
出立の準備をしていた俺に、勝重が何とも言えない微妙な表情で報告してきた。
「……ちょっと待ってください! 私が算用のできる方を褒めたのは事実ですけど、それがどうして『私の嫁の条件は算盤ができること』みたいに変わってるんですか!?」
横で荷造りを見ていた家光が、またしても大笑いした。
「ははは! よいではないか忠長! 次に我らが京へ上る頃には、京の姫君たちがこぞって歌集の代わりに算盤と帳面を抱えて待ち構えておるやもしれぬぞ!」
「笑い事じゃありませんよ! 私の結婚相手が、勘定方の採用試験で決まるみたいになってるじゃないですか!」
*
江戸へ出立する前日の夕方。
冬の澄んだ空気が満ちる二条城の庭園を、俺は家光と二人で歩いていた。
池の水面には薄氷が張り始め、庭木には雪吊りの縄が綺麗に張られている。
「……しかし、忠長。いずれ遠からぬうちに、お前も本当に妻を迎えるのだな」
並んで歩きながら、家光がふと感慨深そうに言った。
「……まあ、今回の流れだと、完全に逃げ切るのは無理そうですね」
「お前は、自分の縁談などまだ何年も先の話だと思っておったのか?」
「正直に言えば、そう思っていました。兄上の元服や孝子殿との御縁組、和子姉上の入内と、大きなお祝いがずっと続いていましたから、自分はそれを裏から支える係なのだとばかり」
俺が苦笑すると、家光は立ち止まり、少しだけ真面目な声で言った。
「お前は元服しても、自分のこととなるとまだ少し子供のつもりでおるのだな。……だが、お前が良き相手を迎え、穏やかな家を作るなら、私は兄として本当に嬉しいぞ」
俺は、足を止めて兄上の横顔を見た。
「お前が朝から晩まで公儀の帳面ばかり抱えて、私の政の手伝いだけで一生を終えてしまうのでは、兄の私の方が申し訳なくてかなわぬからな」
「……私は、自分が好きでやっている仕事ですから、兄上が気に病まれることなど一つもありませんよ」
「それでも、だ。私とお前が共に家を持ち、そのうえで変わらず力を合わせて天下を治めていけるなら、それが一番よい」
夕暮れの光の中でそう言って笑う家光の姿は、もうすっかり頼もしい次代の将軍そのものだった。
庭から宿所の部屋へ戻ると、俺は縁側に腰を下ろし、脳内のKAMI様へ小さく語りかけた。
(……最初は、相国寺へ鳴き龍を聞きに来ただけのはずだったんですけどね)
『そうね。天井の龍の声を聞いて帰るだけのつもりが、いつの間にかあなた自身の嫁探しの話まで始まっちゃったわね』
(まったく、ひどい目に遭いましたよ)
『あら、そうかしら? 私はなかなか良い話だったと思うけど』
(どこがですか)
『だって、あなた自身も気づいたでしょう? 公儀の仕組みを長く保つことと、あなたが一人の人間として自分の暮らしを大切にすることは、どちらか片方を捨てなきゃいけないものじゃないって』
俺は、冬の冷たい風が吹き抜ける京の空を見上げた。
(……まあ、そうですね。大御所様も兄上も、私の仕事だけじゃなくて、私自身のこれからの人生を本気で心配してくれていたんですから)
そう思うと、急に降って湧いた縁談騒動の気恥ずかしさも、少しだけ温かいものに変わる気がした。
だが、俺がそんな穏やかな感慨に浸っていたまさにその時、襖がガラリと開いて、上機嫌な家康が顔を覗かせた。
「おう、忠長。荷の支度は済んだか。……江戸へ帰ったら、真っ先に江へ此度の京での話をせねばならぬな!」
俺は、嫌な予感がして背筋を伸ばした。
「……母上に、ですか?」
「うむ! 京の公家たちがこぞって忠長に娘を嫁がせたいと押し寄せてきたと伝えれば、江のやつめ、目を輝かせて江戸中の大名や旗本の娘の目録を集め始めるじゃろう。あれも、そなたの縁談については以前からいろいろと考えておったようじゃからのう。いやあ、江戸へ帰ってからが楽しみじゃ!」
「…………大御所様、それ、完全に面白がっておられますよね!?」
「はっはっは! 孫の祝い事じゃ、楽しまいでか!」
豪快に笑いながら去っていく家康の背中を見送り、俺は縁側で頭を抱えて突っ伏した。
『あらあら、お江様まで本格参戦となると、江戸へ帰ったら御異物の検分どころじゃない大騒ぎになりそうね。頑張ってね、忠長様?』
(……KAMI様まで他人事みたいに言わないでください!!)
こうして、冬の京都での楽しい鳴き龍見物は、思いがけず俺自身の縁談騒動という大きな宿題を抱えて幕を閉じた。
今すぐ誰かとの婚約が決まったわけではない。
けれど、今回の上洛で一つだけ、嫌というほどはっきりしたことがある。
俺はもう、兄上や姉上の縁談を横から眺めて、帳面の手配だけしていれば済む子供ではなくなったのだ。
……いや、分かっていますよ。頭では分かっているんですけど。
日本列島の水路や蔵や寺社をメンテナンスしている間に、まさか自分自身の結婚問題という一番厄介な案件が、すぐ足元まで迫っていたとは夢にも思わなかったのである。
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