暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
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冬の乾いた風が吹き抜ける東海道を東へと下り、俺たち一行が江戸城へ帰り着いたのは、十二月も半ばを過ぎた頃だった。
高齢の大御所様の体調を気遣い、宿場ごとに十分な休養を取りながらの道中ではあったものの、やはり長旅は長旅である。見慣れた江戸城の白い壁と高い石垣が視界に入り、大手門をくぐった瞬間、俺――徳川忠長は、馬上で思わず深々と安堵の息を吐き出した。
(……ああ、やっぱり江戸へ戻ってくると落ち着くなぁ)
旅装を解き、ぬるめの湯で道中の埃を流してから、将軍であるお父様と母上へ帰着の挨拶をするため、俺は家康、家光とともに奥の対面所へと向かった。
座敷には、江戸の留守を守っていた秀忠と、母・江が揃って俺たちを待っていた。
「父上、長途の御道中、まことにご苦労にございました。家光も忠長も、息災で何よりである」
「大御所様、お帰りなさいませ。冬の冷え込みが厳しき折ゆえ、お障りはないかと案じておりました」
秀忠と江が丁寧に頭を下げる。
家康はすっかり上機嫌で、勧められた温かい茶を一口すすり、白い髭を撫でた。
「いやいや、道中の天気にも恵まれてな、実に良き旅であったぞ。京の町も、昨年の大火の傷跡から見事に立ち直りつつあった。和子の暮らす御所とのやり取りも順調じゃし、相国寺の法堂では、天井の龍が手を打つたびに面白い声で鳴くのを三人でたっぷり聞いてきたわ」
「ほう、相国寺の鳴き龍にございますか。それは興味深い」
秀忠が穏やかに応じる。
このまま旅の無事と京の復興の話だけで終わってくれれば、俺はその日のうちに私室へ下がり、久しぶりの自分の布団で泥のように眠れるはずだった。
だが、家康の口元がにやりと歪み、その視線が俺の方へと向いた瞬間、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……しかしな、秀忠、お江よ。此度の京行きで何より面白かったのは、相国寺の龍よりも忠長じゃったぞ」
「大御所様!?」
俺が慌てて声を上げたが、家康は止まらなかった。
「元服を終えた忠長を一目見ようと、京の堂上公家どもが二条城へ次々と挨拶に参ってな。どいつもこいつも、やれ『うちの娘は歌が上手い』だの、『東国の暮らしに関心がある』だのと、忠長の正室に娘や姪を売り込もうと必死じゃったのよ。……ところが当の忠長ときたら、それが縁談の探りだとは露ほども気づかず、『算用と目録作りが得意な姫がいる』と聞いた途端に目を輝かせて、『正確な帳面を作れる人材は宝です!』などと褒めちぎりおってな!」
「ぷっ……ははははっ! あれはまことに見物でございましたな、母上! 忠長は、公家の姫君を御異物改方の新しい算用役として召し抱える気でおったのです!」
家光までがここぞとばかりに便乗して笑い出す。
「大御所様、兄上! その話は京でも散々からかわれたではありませんか!」
俺が顔を真っ赤にして抗議すると、謹厳な秀忠までが口元に手を当てて「……算用役として、か」と肩を震わせ始めた。
座敷が明るい笑いに包まれる中、ただ一人、母・江だけは声を立てて笑わなかった。
江は微笑みを浮かべたまま、じっと俺の顔を見つめ、笑い声が一段落したところで静かに口を開いた。
「……忠長。旅の疲れもありましょうが、後ほど、私の居所へいらっしゃい」
穏やかで、非の打ちどころのない上品な声だった。
だが、長年の経験から、俺にはその言葉の裏にある重みが痛いほど分かった。
(……あ。これ、絶対に逃げられないやつだ)
『ふふふ、江戸へ着いた早々、年貢の納め時が来たみたいね』
脳内でKAMI様が楽しそうに囁くのを聞きながら、俺は観念して「……はい、母上」と小さく頭を下げた。
*
それから一刻ほど後。
俺は衣を改め、江戸城奥にある江の居所へと足を運んだ。
通された静かな座敷には、香木の落ち着いた香りが漂っている。正面に座る母の前には、小さな文箱と、幾つかの丁寧に綴じられた書付が置かれていた。
「お待たせいたしました、母上」
「お座りなさい、忠長」
俺が正座して一礼すると、江は目の前の書付へ軽く手を添えた。
「大御所様がお話しになるより前に、京都所司代の板倉殿からも、京でのあらましは内々に届いておりました。また、こちらにあるのは、以前より江戸の武家筋や縁戚から寄せられていたお話の控えです」
俺は、その書付の束を見て思わず唾を呑んだ。
「……母上。すでに、そこまで詳しく調べておられたのですね」
「当然でしょう。あなたが昨年の秋に元服して『忠長』と名乗ったのですよ。いつまでも幼い国松のままでいると、母が思っていたわけではありません」
俺は膝の上の手に力を込めた。
京都では「江戸へ持ち帰って両親とも相談する」ということで急場をしのいだが、その江戸の本丸には、すでにこれだけの候補リストが待ち構えていたのだ。今からこの書付を開き、どこの姫がよいかと延々と詮議されるのかと思うと、長旅の疲れも相まって目眩がしそうだった。
ところが。
江は、その縁談の控えを開くどころか、自分の手でぴたりと重ねて文箱の脇へ押しやったのである。
「……ですが、忠長。どこの家のどなたとお縁を結ぶかという話の前に、母として、あなたに確かめておかねばならぬことがあります」
「……確かめておくこと、ですか?」
俺が目を瞬かせると、江は背筋を伸ばしたまま、真っ直ぐに俺の目を見た。
「あなたは普段、自分の屋敷でどのような暮らしをしているのです?」
「…………え?」
予想もしなかった質問に、俺は思わず間の抜けた声を漏らした。
聞かれるのは「公家の姫がいいか、武家の姫がいいか」といった好みの話だとばかり思っていたのに、飛び出してきたのは俺の日常の暮らしぶりについてだったからだ。
「元服に伴って、あなた自身の居所や家政を預かる者たち、警固の者、奥向きの世話をする女房たちの手配が整えられたことは、私もよく存じております。私が尋ねているのは、役目や人手のことではありません。……あなた自身が、その場所で日々どのように寝起きし、どのように過ごしているかということです」
「どのように、と申されましても……至って普通に、朝起きて、御用を務めて、夜は寝所で休んでおりますが」
俺が当たり前のこととして答えると、江は表情を変えずに問いを重ねた。
「では、昨夜は宿場で何刻(なんどき)にお休みになりました?」
「昨夜は……明日はいよいよ江戸へ着くという日でしたから、道中に溜まっていた諸国からの書状に少し目を通しておりまして、子の刻(午前零時)を少し回ったくらいだったかと」
「その前の夜は?」
「ええと……小田原の宿で、長崎から届いた値動きの控えを確かめておりましたので、やはりそれくらいに……」
「では、京へ出立する前の、江戸での最後の夜はいかがでした?」
「…………」
俺は、言葉に詰まって視線を泳がせた。
出立の前夜は、留守中に御異物改方や普請方の仕事が滞らないよう、本多正純や小栗半兵衛たちと引き継ぎの帳面を突き合わせていて、気づけば丑の刻(午前二時)近くまで行灯の火を灯していた記憶がある。
「……忠長?」
「……いえ、その夜は、留守中の手配や異国からの書状の確認が少々重なりまして……」
俺が小声で白状すると、江は怒鳴りつけるでもなく、ただ静かに、深く息を吐き出した。
「……そうでしょうね。大御所様がおっしゃった『算用のできる姫を褒めていた』という話を聞いた時から、もしやとは思っておりました」
ガミガミと頭ごなしに叱られるよりも、母親にこうして冷静にため息をつかれる方が、何倍も胸に堪える。
江はすっと立ち上がった。
「今から、あなたの居所を見に行きます。案内なさい」
「えっ、今からですか!? あ、あの、母上、私の居所へ行っても、珍しい奇物や面白い書物は御異物改方の蔵に置いてありますから、本当に何もありませぬよ?」
「面白いものを見に行くのではありません。あなたの『暮らし』を見に行くのです」
*
御異物改方の公的な執務室や、厳重に封印された奇物庫・書物蔵は、城内の政務区画に設けられている。機密を扱う場所である以上、たとえ将軍の御台所であり実の母である江といえども、俺はそこへ無造作に招き入れるようなことはしないし、江もまた公私の別をわきまえているため、執務室を見せろなどとは一言も言わなかった。
江が向かったのは、元服した俺のために割り当てられている、純然たる私的な生活のための居所だった。
廊下を並んで歩きながら、俺は内心で冷や汗を拭った。
(……なんだか母上の視察、先日の城郭修理の検分よりよっぽど緊張するんですが)
『ふふ、当たり前でしょう。相手は天下の将軍家を取り仕切る御台所様で、しかもあなたを産み育てたお母様よ? ごまかしが通じると思わない方がいいわね』
KAMI様に茶化されながら居所へ到着すると、留守を預かっていた女房頭をはじめとする奥向きの女房や家政の者たちが、突然の御台所の来訪に驚きつつも、整然と出迎えた。
江は女房たちに優しい労いの言葉をかけながら、居所の座敷や寝所、湯殿や膳部(台所)の周りを順番に見て回った。
建物の中は、塵一つなく掃き清められていた。
冬の隙間風を防ぐための屏風や几帳が適切に配置され、寝所にはふっくらと干された夜具が畳まれている。衣類を納めた葛籠や長持には綺麗に目録の札が付けられ、日々の食事や炭、油の出入りを記した家政の帳面も、一点の曇りもなく整えられていた。
「……住まいそのものは、実によく整えられていますね」
一通りを見て回った江が、満足そうに頷いた。
俺はほっと胸を撫で下ろし、少しだけ得意げに胸を張った。
「はい! 女房頭をはじめ、家政を預かる者たちが毎日きっちりと管理してくれておりますから、何の不自由もございませぬ!」
「ええ、本当に。世話をする者たちは、あなたのために実によく働いてくれているのでしょう」
「そうなんですよ。ですから、母上が心配されるようなことは何も……」
「――ところで、忠長」
江が、くるりと俺の方を振り返った。
その指先が、座敷の隅に置かれた脇息(肘掛け)や、碁盤、そして季節の草花が描かれた画帖の方を指し示す。
「これほど立派に整えられた居所なのに、あの脇息にも碁盤にも、あなたが日頃手を触れた気配が全くないのはなぜです? 代わりに、なぜ寝所の枕元のすぐ横にまで、文机と矢立、そして書きかけの控えの帳面が積んであるのですか?」
「…………っ」
俺の笑顔が、ぴしりと凍りついた。
江は、控えの間で待っていた女房頭を静かに手招きした。
「忠長が江戸におる時、この居所でどのように過ごしているのか、包み隠さず申しなさい。お前たちを叱るためではありませんよ」
女房頭は、俺の顔と江の顔を交互に見て、申し訳なさそうに眉を下げながら平伏した。
「……申し上げまする。忠長様は、朝夕の御膳も残さず召し上がられますし、夜になれば必ずこちらの寝所へお戻りになられます。……ただ」
「ただ?」
「御公務の場よりお戻りになられた後も、湯浴みを済ませるとすぐにその文机へ向かわれ、昼間の帳面の控えを読み返されたり、翌日の普請や水路の算段を紙に書き出されたりしておりまして……。床へ入られた後も、何か思いつかれると行灯を引き寄せて筆を執られますゆえ、女房どもが『もうお休みくださいませ』と申し上げても、『ああ、これだけ書き留めたらすぐ寝るよ』と仰せになるばかりで……」
「ちょ、ちょっと待って! 余計なことまで言わなくていいから!」
俺が慌てて止めようとしたが、時すでに遅かった。
江は、俺の枕元に置かれた文机の上から、一冊の薄い控え帳を取り上げた。
そこには、俺が寝る前に思いついて走り書きした『来春の苗代用水・不足村への融通手順案』『寒暖見玻璃・冬の蔵内測定の注意書き』といったメモがびっしりと並んでいた。
「……忠長。あなたは先ほど、夜は寝所で休んでいると申しましたね」
「は、はい。ちゃんと屋根の下で、布団にも入っております!」
「身体だけを布団の中へ運んで、頭の中でずっと御用の算段を続けているのを、世間では『休んでいる』とは申しません」
ぐうの音も出ない正論が、真っ直ぐに俺の眉間を貫いた。
『おおー、お母様、見事な一撃ね!』
(KAMI様、敵に回らないでちょっとは俺の味方をしてくださいよ!)
『無理よ。だって私から見ても、あなたが寝る寸前まで仕事の思考を止めないのは事実なんだもの』
俺は苦し紛れに、母へ向かって弁明を試みた。
「……ですが、母上。私が預かっている水路や蔵、救荒の手配は、少しの遅れや見落としがそのまま村々の暮らしに響きます。御異物や異国の書状も、扱いを一つ間違えれば大きな騒動になりかねません。……夜にふと『あそこは大丈夫だったか』と思い至った時、後回しにして、そのせいで誰かが困るようなことになったらと思うと、どうしても確かめずにはいられないのです」
それは、嘘偽りのない俺の本心だった。
前世でブラックなシステム保守をやっていた頃の癖もあるのだろうが、それ以上に、自分の判断一つで生身の人間が飢えたり助かったりするのを何度も見てきたからこそ、気が抜けないのだ。
江は、俺のその言葉を頭ごなしに否定したりはしなかった。
むしろ、優しい目で一度だけ深く頷いた。
「あなたが私欲や遊びのためではなく、民や公儀のために心を砕いていることは、よく分かっております。それはまことに立派な心がけです」
「では……」
「ですが、忠長。あなたが今この瞬間に目を通さねば人が死ぬような急ぎの書状と、明日の朝、役所の机で読めば十分に間に合う書状は、同じものではありません」
江の声は、静かだが凛としていた。
「その二つの区別をつけ、誰か一人が夜通し抱え込まずとも滞りなく回るようにするために、あなたはこれまで、あれほど細かく役目や帳面の仕組みを整えてきたのではありませんか?」
「…………!」
俺は、雷に打たれたように言葉を失った。
『緊急の案件と、明朝でよい通常案件を分けろ』。
『一人の人間に負担を集中させず、仕組みと分担で回せ』。
それはまさに、俺がこれまで全国の代官や役人たちへ口を酸っぱくして言い続けてきた言葉そのものだったではないか。
(……あれ? 俺、他人には「仕組みで回せ」「休め」って偉そうに言っておいて、自分自身が一番それを守れていなかったのか……?)
『ようやく気づいたわね。自分のこととなると、人間って案外見えないものよ』
*
俺が自分の矛盾を突かれて黙り込んでいる、まさにその時だった。
居所の外廊下に控えめな足音が近づき、襖の向こうから御異物改方の若い実務役人が声をかけてきた。
「恐れながら、忠長様。御異物改方より、一通ご確認いただきたき書付がございまして参上いたしました」
その声を聞いた瞬間、俺の身体は条件反射のように動き、すぐさま腰を浮かせていた。
「あ、分かりました。今すぐ見ますので、そちらへ――」
「……忠長」
立ち上がりかけた俺の袂を、江の視線がぴたりと縫い止めた。
「はい?」
「今、お話ししたばかりでしょう。……それは、旅から戻ったばかりのあなたが、今この場でただちに読まねばならぬものなのですか?」
「えっ……あ、いえ、聞いてみないと分かりませんが……」
俺は中腰のまま固まり、襖の向こうの役人へ恐る恐る尋ねた。
「……その書付は、火急の変事か? 今日中に私が裁可を下さねば、どこかで差し障りが出る案件か?」
襖の向こうで、若い役人が少し戸惑ったように答えた。
「いえ、火急の変事ではございませぬ。先月、武蔵国の寺より届きました《龍骨》の写生図につきまして、御書物蔵へ納める清書の控えが整いましたゆえ、忠長様が御帰城なされましたら一度御覧いただき、御印を頂戴するようにとのことで……」
「……つまり、明日の朝、私が御異物改方の部屋へ出てから確認しても、何の問題もない話だな?」
「はっ。明朝にていささかも差し支えございませぬ」
江が、無言のまま俺を見上げた。
「ほら、ごらんなさい」とでも言いたげな、呆れと優しさの混じった母の目だった。
俺は顔を赤くして再び畳へ座り直すと、襖の向こうへ声をかけた。
「……ご苦労だった。急ぎでないならば、その控えは御異物改方の私の机へ置いておいてくれ。明日の朝、出仕してから一番に確認する。また、他の者にも、火急の用向きでない限り、私が居所へ下がった後の取り次ぎは翌朝へ回すよう伝えておいてくれ」
「はっ! 承知つかまつりました!」
若い役人が一礼して去っていく足音が遠ざかる。
役人に落ち度があったわけではない。これまで俺が「戻ったら何でもすぐ持ってこい」という態度で仕事を受けていたから、彼らも良かれと思って居所まで届けてくれていたのだ。
「……でも、母上。今回は清書の確認でしたから明朝で済みましたが、もし本当に火事や急病、あるいは封じた奇物の異変といった一刻を争う事態が起きた時には……」
「そのような真の急報まで止めよとは、私も一言も申しておりません」
江は、きっぱりと頷いた。
「火事や大水、人の命に関わる急ぎの知らせであれば、真夜中であろうとあなたを起こせばよいのです。また、あなた一人で抱えるべきでない公儀の大事であれば、上様や正純殿たちへ直ちに取り次がせればよい。……ですが、明日でよい仕事まであなたの寝所へ運び込ませるのは、おやめなさい」
そう言ってから、江は少しだけ表情を和らげ、話を本来の目的である『縁談』へと戻した。
「あなたは京都で、板倉殿に対し『相手の姫君ご本人がどう思っているかを確かめたい』『相手の大切なものを捨てさせたくない』と申したそうですね」
「……はい。そこまで伝わっておりましたか」
「ええ。あなたが相手の女子を家の道具としてではなく、一人の心ある人として重んじようとしたこと、母として大変嬉しく思いましたよ」
江は、自分の膝の上で静かに手を重ねた。
浅井の家に生まれ、織田、豊臣、徳川と、戦乱の世の荒波の中で幾度も政略の婚姻と別離をくぐり抜けてきた母の言葉には、誰にも真似のできない重みがあった。
「けれどね、忠長。どれほど相手の姫があなたの人柄を慕い、納得して輿入れしてくれたとしても……その方があなたの妻となってこの屋敷へやって来た時、一体何のためにここへ来ることになるのです?」
「何のため、と言われましても……」
「御異物改方の帳面の数を数えるためですか? それとも、あなたが夜遅くまで仕事から戻らぬ間、一人で冷たい座敷を守り、あなたが寝所へ持ち込んだ書状の墨を磨るためですか?」
「ち、違います! 妻にそんな手伝いばかりさせるつもりは断じてありません!」
俺が慌てて否定すると、江は「ええ、あなたならそう言うと思っていました」と静かに微笑んだ。
「ならば、忠長。妻となる方と共に夕餉の膳を囲み、今日あった他愛のない話をし、同じ庭の雪や花を眺めて笑い合う『時間』が、今のあなたの暮らしのどこにあるのです?」
「…………あ」
俺は、ハッとして居所の中を見回した。
綺麗に整えられているのに、俺自身がくつろぐためにはほとんど使っていなかった座敷。
もしここへ誰かを妻として迎えたとしても、俺が今のまま「寝に帰るだけ、帰っても寝る寸前まで帳面を読んでいる」という生活を続けていたら、妻になる人は、ただ綺麗に整えられた空き家へ一人で放り込まれるようなものではないか。
「あなたがどれほど優しい言葉をかけ、相手の趣味や学びを許したとしても、肝心のあなた自身がいつも仕事のことで頭をいっぱいにして、心ここにあらずという顔をしていたら……嫁いできた方は、自分が誰と暮らしているのか分からなくなって、寂しい思いをなさいますよ」
京都で俺は、「自分の仕事を理解してくれる人がいい」などと呑気に語っていた。
だが、相手に理解を求める前に、俺自身の生活に『誰かを招き入れるための余白』が全くなかったのだ。
*
江は、すっかり考え込んでしまった俺を見て、少し声を優しくして尋ねた。
「ねえ、忠長。あなたは、仕事をしていない時……水路も、米蔵も、異国の書状も、奇物も全く関係のない時間には、何をして過ごしたいのです?」
「……仕事に関係のない時間、ですか?」
俺は、真剣に自分の胸の内に問いかけてみた。
好きなこと。やりたいこと。
ぱっと頭に浮かぶのは、「新しい田の排水を試したい」「古い寺社の蔵を見に行きたい」「南蛮の珍しい器具を調べたい」といったことばかりで、よく考えれば全部、普段の仕事と地続きのことばかりだった。
(……あれ? 俺、前世でも休日は資格の勉強かシステムの調べ物ばかりしてたし、こっちへ来てからも、純粋な遊びって何をしていたっけ……?)
しばらく唸っていた俺の脳裏に、ふと、先日訪れた京都での光景が浮かんだ。
薄暗い相国寺の法堂。
天井の巨大な龍の真下に立ち、大御所様や家光兄上と一緒に「本当に鳴った!」と手を叩いて、お互いに顔を見合わせて大笑いした、あのひととき。
「……あ。でも、この間、京都の相国寺で、大御所様や兄上と一緒に天井の龍の下で手を叩いて遊んだのは……仕事とは関係ありませんでしたけど、すごく楽しかったです」
俺がぽつりと言うと、江の顔に、今日一番の柔らかく温かい笑みが咲いた。
「それでよいではありませんか」
「……それで、いいんですか?」
「ええ。珍しい音を聞いて驚き、家族や親しい者と一緒に『面白かったね』と笑い合う。そのような時間は、決して無駄な怠けではありませんよ」
江は、俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「忠長。あなたがこれまで身を粉にして働き、旱魃の村へ米を届け、火事の町を守ってきたことを、母は誰よりも誇りに思っております。あなたのおかげで救われた命が、この国には数え切れぬほどあるでしょう」
「母上……」
「けれどね、あなたが懸命に守っている民草の暮らしの中には、一日の仕事を終えて家族で温かい飯を食べ、くだらぬ話で笑い合い、何も心配せずにぐっすりと眠る時間も含まれているはずです。……皆のその穏やかな暮らしを守るために働いているあなたが、自分一人だけその暮らしの外へ出たままになっていては、いけませんよ」
母の言葉が、胸の奥のずっと固くなっていた場所を、じんわりと溶かしていくようだった。
『守っている暮らしの外に、あなた自身がいてはならない』。
俺は、自分がこの世界の人間として生きる意味を、もう一度根底から教えられた気がした。
「……ですから、縁談の控えをあなたに見せる前に、母から三つ、宿題を出します」
江は、指を三本立てた。
「一つ、居所へ戻って休む刻限となったら、仕事の思案をやめて本当に休むこと。二つ、明日でよい書状を寝所へ持ち込ませぬこと。三つ、家族や、いずれ迎える妻と共に過ごすための余白を、日々の暮らしの中に必ず空けておくこと」
「……はい」
「この三つを、今日から心がけなさい。京の公家衆や江戸の武家から届いている縁談のお話も、あなたと一緒に少しずつ見ていきます。ただし、まずは今夜、仕事を忘れて休むところから始めましょう」
有無を言わせぬ、しかし愛情に満ちた母からの宿題だった。
俺は枕元の文机と控え帳を片づけることを約束し、江の前で深々と頭を下げた。
*
翌日、俺は自分の生活の区切りと、居所へ下がった後の書状の取り次ぎ方について、将軍である秀忠へ相談に行った。
勝手に夜間や私室での取り次ぎルールを変えれば、公儀全体の連絡に齟齬が出るかもしれないと思ったからだ。
ところが、俺から事の次第を聞いた秀忠は、驚くどころか深く満足げに頷いたのである。
「……うむ、江の申す通りだな」
「お父様まで! 少しは『そうは言っても公儀の仕事は忙しいのだから』と庇ってくださるかと思ったのですが!」
俺が思わずぼやくと、秀忠は真面目な顔で俺を見た。
「庇うわけがないであろう。お前が必要な時に働かぬのは困るが、必要もない時にまで寝所で働き続け、身体を壊されてはもっと困る」
「……はい」
「それに、忠長。お前が自分で定めた役目や帳面の仕組みを信用せず、小さな清書の確認から明日の段取りまで、すべて自分が夜のうちに目を通さねば気が済まぬというのであれば……お前の下で働く役人たちも、いつまで経っても自分で判断できるようにならぬぞ」
母上に続いてお父様からも全く同じ急所を突かれ、俺は完全に白旗を揚げた。
秀忠は、緊急時(火災・災害・急病・奇物の異変・外交上の重大事変)の取り次ぎ経路だけを再確認したうえで、「それ以外の通常案件は、申の刻(午後四時頃)を過ぎれば翌朝の扱いとせよ」とあっさり許可を出してくれた。
さらにその話を聞きつけた家光が、昼過ぎに俺の執務室へやって来た。
「よし、忠長! 今日の急ぎの御用はあらかた片づいたのであろう。今から私と庭を歩き、茶でも飲むぞ!」
「えっ、兄上、まだ昼過ぎですよ? 兄上ご自身の政務もあるでしょうに」
「一刻ばかり弟と茶を飲む時間くらい、作ろうと思えば作れるわ。……それに、母上からも言われたぞ。『忠長は放っておくとすぐ帳面を見るゆえ、家光が連れ出して普通の話をさせよ』とな!」
「母上、兄上にまで根回しをしておられたんですか……」
「ほら、立つぞ! お前は将来妻を迎えた時、相手と何を話すつもりなのだ? まさか朝から晩まで『今日の用水路の泥さらいが』『南蛮の玻璃器の水位が』などと聞かせる気ではあるまいな?」
「……いや、相手が算用や珍しい物好きな方なら、意外と喜んで聞いてくれるかもしれませんよ?」
「まずは仕事以外の、普通の世間話を楽しむ稽古から始めよ!」
家光に半ば強引に腕を引かれ、俺は冬の明るい日差しが差す城内の庭園を歩き、孝子殿が京から取り寄せたという甘い蒸し菓子を分けてもらいながら、京都の道中で見かけた富士山の雪景色や、相国寺の龍の絵の迫力について、ただの兄弟として他愛のない会話を交わした。
*
そして、その日の夕暮れ時。
俺は御異物改方の机の上にまだ残っていた『急がない来月の予算照合の控え』を、明日の朝に回す箱へと入れ、何も持たずに自分の私的な居所へと戻った。
枕元にあった小さな文机は、昼間のうちに女房頭たちに頼んで別の部屋へ片づけてもらってある。
温かい夕餉をゆっくりと味わい、湯に浸かってから寝所へ入ると、そこにはただ、清潔な夜具と、部屋をほのかに照らす行灯、そして香炉から立ち昇る白檀の優しい香りだけがあった。
俺は布団の上に座り、手持ち無沙汰で自分の両手を見つめた。
(……なんか、手元に紙も筆もない夜っていうのが、久しぶりすぎて逆に落ち着かないな)
『完全に仕事中毒の症状ね。ほら、せっかく早く寝所へ入ったんだから、余計なことを考えずに横になりなさい』
(……本当に、今日のうちに明日の段取りを考えなくて大丈夫かな)
『明日の朝、あなたの机にはちゃんと整理された書類が置いてあるし、優秀な家臣たちが待っているわ。あなたが今夜ここで眉間に皺を寄せていなくても、江戸の町も日本列島も、一晩で壊れたりはしないのよ』
(……それも、そうか)
俺は行灯の火を少し細め、ふかふかの夜具の中へと身を滑り込ませた。
最初は「あの書類の数字、合っていたかな」と仕事の断片が頭をよぎったが、意識して深く息を吐き、昼間に兄上と食べた蒸し菓子の甘さや、相国寺で聞いた「ルルルル……」という不思議な龍の声を思い出しているうちに、肩の奥からすーっと力が抜けていった。
張り詰めていた頭の芯が温かく緩み、気づけば俺は、ここ数年で一番深く、穏やかな眠りへと落ちていた。
*
翌朝、すっきりと晴れ渡った頭で目を覚ました俺が、朝食後に江の居所へ顔を出すと、母は俺の顔色を一目見て、満足そうに目を細めた。
「……今朝は、良い顔をしていますね、忠長。昨夜はゆっくり休めましたか?」
「はい、母上。おかげさまで、驚くほどよく眠れました。たまには、ああして何も考えずに休む夜もいいものですね」
俺が素直に礼を言うと、江は微笑みながらも、ぴしゃりと釘を刺すのを忘れなかった。
「『たまには』では困りますよ。あなたが妻を迎えるまでだけでなく、妻を迎えた後もずっと、あのように暮らしの時間を大切にするのです」
「……はい、肝に銘じます」
「よろしい。まずは一晩、きちんと休めたようで安心しました」
江はそう言ってにっこりと頷き――次の瞬間、脇に置いてあったあの分厚い『縁談候補の控え』を、すっと自分の膝の前へ引き寄せた。
「さて。では忠長、休む習慣を身につけながら、こちらのお話も少しずつ始めていきましょうか」
「……えっ! 母上、まずは自分の暮らしを整えてから、縁談の話をするのではなかったのですか!?」
「何を言っているのです。暮らしの習慣は一晩で身につくものではありません。今すぐどなたかに決めるわけでもないのですから、両方少しずつ進めればよいでしょう。さあ、今日は御用へ出る前に、まずは二、三家の控えだけでも目を通していきなさい」
「ええええっ!?」
『あははは! 休む練習と嫁探しの話が同時に始まったわね! これじゃ、どちらも逃げられないわよ!』
(……休むだけで済むと思った俺が甘かったあぁぁっ!)
結局、俺は母上から京と江戸の姫君たちの人柄や家族構成の話をたっぷりと聞かされてから、ようやく御異物改方の執務室へと解放されたのだった。
*
母の居所からなんとか逃れるようにして御異物改方の自分の部屋へ戻った俺は、すっかりすっきりした身体と、縁談話で少しだけ疲れた頭を抱えて自分の席へと着いた。
机の上には、昨夜俺が「明日の朝にする」と決めた清書の控えや、今日処理すべき書類が、緊急度ごとに整然と分けられて積まれている。
そして、少し離れた席では、本多正純がいつものように背筋を真っ直ぐに伸ばし、山のような書状を前にして黙々と筆を動かしていた。
俺が部屋へ入ってきたのを見て、正純が顔を上げる。
「おはようございます、忠長様。昨夕お預かりいたしました《龍骨》の清書控えと、本日分の諸国からの書状、いつでも御覧いただけるよう整えてございます」
「ありがとう、正純。母上に言われて昨夜は早く休んだおかげで、今朝は頭がすごく軽いよ」
俺はそう言いながら、正純の机の上に積まれている、俺の倍以上はありそうな分厚い書類の束と、正純の目の下にうっすらと浮かんでいる隈にふと気づいた。
俺が京都へ行っている間も、正純は江戸で留守の政務を取りまとめていたはずだ。そして俺たちが帰ってきたら帰ってきたで、今度は上洛中の報告の処理や各部署との調整を一手に引き受けている。
俺は、昨日母上から言われた言葉を思い出しながら、何気なく正純へ尋ねてみた。
「……そういえば、正純。私は母上から『休む時はちゃんと休め』とお叱りを受けてしまったのですが……正純は最近、ちゃんと休んでいますか?」
正純は、筆を持ったままきょとんとした顔で俺を見た。
「は? 手前のことでございますか?」
「ええ。正純のことです」
「手前であれば、御用に差し支えぬ程度には、つつがなく休んでおりまする」
「……その『御用に差し支えぬ程度』っていうのは、具体的にどういう意味ですか?」
正純は、何を当たり前のことを聞かれるのかという顔で、淡々と答えた。
「急ぎの御用や、各所からの照会がない折には、屋敷にて休んでおります」
「……正純のところに、急ぎの御用や各所からの照会がない日なんて、ここ数か月で一日でもありました?」
俺が真っ直ぐに尋ねると。
普段はどんな難題を前にしてもよどみなく即答する本多正純が、筆を持ったまま、ピタリと黙り込んだ。
「…………」
「…………正純?」
「……いえ、その。日によっては、夜更け前に片づくこともございますゆえ」
『……あら?』
脳内でKAMI様が小さく声を上げた。
俺は、自分の机の書類と、正純の机の上にそびえ立つ各奉行所からの照会状の山を交互に見比べた。
(……ちょっと待てよ。俺が寝所へ書類を持ち込んでいたのも問題だったけど……もしかして、俺なんかよりずっと休めていないし、公儀の仕事が集中しすぎている人間が、すぐ目の前にいるんじゃないか?)
母上から「自分の暮らしを守りなさい」と教わったばかりの俺の目の前に、自分の暮らしどころか、一日たりとも仕事を離れられない幕府中枢の重臣の姿が、くっきりと浮かび上がっていた。
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