暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
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筆を持ったままぴたりと動きを止めた本多正純の顔を、俺――徳川忠長は、じっと下から覗き込んだ。
冬の朝の冷たい光が差し込む御異物改方の執務室には、炭火の微かな音だけが響いている。正純の机の上には、俺の席にある束よりもさらに分厚い諸方からの書状や照会状が、今にも雪崩を起こしそうな高さで積み上がっていた。
「……正純。もう一度だけお尋ねしますけど、あなたが最後に丸一日、公儀の御用から完全に離れて休んだのは、いつのことですか?」
「…………」
「……正純?」
俺が重ねて呼びかけると、幕府きっての切れ者として知られる男が、珍しく視線をわずかに逸らし、低く落ち着いた声で答えた。
「……さて、いつでございましたかな」
「覚えていないんですか!?」
「御用のない折には屋敷にて休んでおりますゆえ、わざわざ日数を数えたことはございませぬ」
あまりにも真面目な顔で返されたその言葉に、俺は思わず自分の額を手のひらで押さえた。
(……この人、昨日の俺とまったく同じ言い訳をしているじゃないか!)
『ふふふ。昨日、お母様からたっぷり絞られたばかりの言葉を、そのまま目の前の人に返す羽目になったわね』
脳内でKAMI様が楽しそうに笑う。
(いや、そっくりそのまま返してやりたいところだけど、相手は大御所様の代から幕政の中枢を支えてきた大重臣だからね!? 子供を叱るみたいに頭ごなしに言うわけにはいかないでしょう)
俺は深く息を吐き、まず正純の机の上に並んでいる書類の山へ目を向けた。
正純が怠慢で仕事を溜め込んでいるはずがないことは、誰よりも俺がよく知っている。むしろ逆だ。彼の手際は常人離れしており、どんな複雑な案件でも驚くべき速さで処理していく。それなのに、なぜこれほど大量の書状が彼の机を埋め尽くしているのか。
「……正純、少し見せてください。ここにある書状は、すべてあなたが最終的な裁可を下さねばならないものなのですか?」
「いえ。手前が独断で裁可を下すものではございませぬ」
正純は、積まれた束の上から数通の書付を取り上げ、整然と説明を始めた。
「こちらは普請方より回ってまいりました、川除けの杭木の割り当てに関する照会。こちらは勘定方の蔵奉行より、来春の種籾貸し出しに伴う古い帳面の確認。こちらは寺社方より、先日の京の修繕に関わる問い合わせ。そしてこちらの束は、長崎や平戸より届いた異国船の荷の控えのうち、御異物改方と他役の双方に関わるものにございます」
俺は、差し出された書付の宛名と内容を交互に見比べた。
確かに、水利なら用水方、米や材木なら蔵方、寺社なら寺社方と、それぞれ本来の担当部署は決まっている。俺たちがこれまで何年もかけて役割分担と帳面の書式を整えてきたのだから、通常の処理であれば各部署の中で完結するはずなのだ。
「……担当の役目はそれぞれ決まっていますよね。どうしてそれが、全部正純の机へ集まっているのですか?」
「一つの役目だけで話が済むものは、それぞれの奉行や役人が処理いたしております」
正純は、さも当然のことのように淡々と続けた。
「されど、普請の材木を動かすために蔵の備蓄に手をつける場合や、御異物改方の控えと長崎の商いの帳面を突き合わせる場合など、二つの役目にまたがる事柄では、双方の役人が『どちらの定めを優先すべきか』『以前はどう扱ったか』と迷うことがございます。……そのような折、手前が過去の経緯を承知している事柄であれば、わざわざ上様や忠長様のお手を煩わせるまでもなく、双方へ筋道を伝えて繋ぐことができますゆえ」
「……つまり、正純が全件を決裁しているわけではなくて、各部署が判断に迷った時の『相談窓口』になっているということですか」
「窓口と申しますか、手前に尋ねれば話が早く済むと、諸役の者が考えておるのでございましょう。手前としても、己が知ることを伝えて御用が滞りなく進むのであれば、それが務めと心得ております」
俺は、正純の言葉に潜む危うさに気づいて唸った。
正純には悪気もなければ、権力を独占してやろうという野心もない。むしろ「自分が答えてやれば皆が困らずに済む」「上様たちに余計な負担をかけずに済む」という、純粋な忠義と責任感から、あらゆる部署の相談を一人で引き受けているのだ。
そして周囲の役人たちも、自分で古い帳面をひっくり返して他部署と交渉するより、生き字引のような正純に聞いた方が確実で早いため、少しでも例外的な案件が出ると真っ先に「正純殿へ伺おう」と駆け込んでくる。
(……これ、組織としては一番タチが悪い状態だ。本人が嫌々押しつけられているなら仕事を取り上げれば済むけど、本人がそれを自分の忠義だと誇りに思っていて、周りもそれに甘え切っている……!)
『しかも正純さんが優秀すぎて、実際に今までそれで回ってしまっていたから、誰も問題だと思っていないのよね』
俺は、正純の目の下にうっすらと浮かぶ疲労の色を見つめた。
「……正純。あなたが諸役の相談に乗ってくれているおかげで、公儀の仕事が滑らかに回っているのはよく分かりました。ですが、そのせいであなた自身が一日も休めず、もし急に病で倒れたりしたら、公儀はどうなるのです?」
「手前は至って頑健にございますゆえ、左様な心配には及びませぬ」
「昨日、私も母上に似たようなことを言って怒られたばかりなんですよ! 人間は石や鉄じゃないんですから、休まなければいつか必ず倒れます!」
俺はそこで言葉を区切り、一つの提案を口にした。
「……正純。一度、丸一日だけ、公儀の御用から完全に離れて休んでみませんか」
正純は、まるで異国の言葉でも聞いたかのように目を瞬かせた。
「……は? 手前に、丸一日休めと仰せでございますか?」
「はい。屋敷にいて、書状も読まず、使者も受けず、ただ休むのです」
「されど忠長様、手前はいま病を患っておるわけでもございませぬのに、御用を放り出して休むなど……」
「放り出すのではありません。あなたが一日いないだけで、公儀の御用にどれほどの『差し障り』が出るのかを、実際に確かめたいのです」
俺が真剣な声で言うと、正純はぴたりと口を閉じた。
「もし、正純がたった一日休んだだけで公儀の仕事が立ち行かなくなるのなら、それは正純一人の責任ではなく、正純一人に頼り切っている今の公儀の仕組みの方に欠陥があるということです。……もちろん、正純にしかできない高度な判断があるのは分かっています。ですが、今その机に積まれている書状のすべてが、本当に正純でなければ処理できないものなのか、一度試してみる必要があると思いませんか?」
正純は自分の机の上の書類の山へ視線を落とし、しばらく黙り込んだ。
自分がいなければ困るだろうという自負と、しかし一人の不在で公儀が揺らいではならないという重臣としての理性が、彼の中でせめぎ合っているのが見えた。
*
とはいえ、正純は俺個人の家臣ではない。大御所・家康と将軍・秀忠に仕える幕府の宿老格である。
いくら俺が「明日休んでください」と言ったところで、俺の独断で彼を公務から外す権限などない。
(……危ない危ない。勢いで言っちゃったけど、正純の勤務を勝手に止めたら、それこそ公儀の指揮系統を乱すことになるな)
『そうよ。まずはちゃんとお父様たちの許可を取らないとね』
俺は正純を伴い、その足で秀忠の執務所へと向かった。ちょうどそこには、正純と並んで幕政の実務を担う土井利勝も同席していた。
俺から「正純を丸一日休ませ、その間に各部署の仕事がどこまで回るか確かめたい」という提案を聞いた秀忠は、驚いたように俺と正純の顔を交互に見た。
「……正純を一日休ませる、か。昨日はお江から忠長が暮らしぶりを検分されたと聞いたが、その翌日に、お前は正純の働きぶりを検分したと申すのだな」
「はい、お父様。私が母上から言われた通り、仕組みを作った人間が自分で全部抱え込んでいては、下の者が育ちません。今の公儀では、複数の役目にまたがる話になると、誰もがまず正純へ相談に走る癖がついております。正純が元気なうちはよいですが、もし正純が病に伏せたり、遠国への御用で江戸を離れたりした折に政務が止まっては一大事です」
横で聞いていた土井利勝が、腕を組んで深く頷いた。
「……確かに、忠長様の仰せには一理ございますな。手前どもも、古い経緯や他役との兼ね合いで迷うことがあれば、『まずは正純殿へ伺ってみよ』と済ませてしまうことが多うございました」
「そうなんですよ。ですから、これは正純を罰するとか役目を外すという話ではなく、公儀の仕組みのどこに穴があるかを見つけるための『試し』として、一日だけお許しいただきたいのです」
秀忠はしばらく思案した後、重々しく頷いた。
「……よかろう。忠長の申すことは筋が通っておる。正純は、わしと父上にとって代わりの利かぬ男じゃが、代わりの利かぬ男に雑務まで背負わせ続けて潰してしまっては元も子もない」
秀忠は、将軍として明確な条件を定めた。
「明後日の一日、正純には一切の御用を離れ、屋敷にて休養を命ずる。その間、通常の御用は定められた各役の者が己の職分に従って進めよ。ただし、正純が不在だからといって、誰かが勝手に決裁の権限を広げることは許さぬ。迷う案件があれば無理に処理せず留め置き、真に火急の大事があれば、従来通りわしと利勝のもとへ直接上げさせよ」
「はっ。ありがたき幸せにございます」
俺が礼を述べると、隣にいた土井利勝が、頼もしげな笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「上様、忠長様。どうぞ御安心くだされ。その一日の間、普段正純殿のもとへ寄せられる諸役からの相談事は、ひとまず手前がすべて引き受けて捌いてみせまする」
俺は、利勝のその親切な申し出に「ああ、利勝殿がいてくれれば心強いな」と頷きかけ――直後に、はっと気づいて首を横に振った。
「……いや、待ってください、利勝殿。利勝殿が正純の分まで全部引き受けてしまったら、駄目ですよ!」
「は? なぜにございますか」
「だって、正純に集中していた相談事を、その日だけそっくりそのまま利勝殿の机へ移したら、『正純か利勝殿のどちらかが全部抱えれば回る』という結果にしかならないではありませんか! それだと、お二人が揃って江戸を離れたり、利勝殿まで忙しさで倒れたりした時に、やっぱり公儀が止まってしまいます!」
利勝は目を丸くし、それから「……なるほど」と唸った。
「今回は、利勝殿が正純の代わりを務める試験ではありません。もともと担当者が決まっているはずの仕事が、正純に聞けない時に『どこで、なぜ止まるのか』をあぶり出すための試験です。ですから利勝殿には、何でも代わりに答えてあげるのではなく、どこで仕事が詰まったかを私と一緒に見届ける役に回っていただきたいのです」
「……承知いたしました。確かに、手前が全て肩代わりしてしまっては、問題の所在が見えなくなりますな」
利勝は納得してくれたが、俺には少しだけ懸念があった。俺たちがそう決めても、現場の役人たちの方が「正純殿がお休みなら、利勝殿へ聞こう!」と殺到してくる気配がぷんぷんしていたからだ。
さらにその日の夕方、この話を聞きつけた家康から、俺は一人で居所へと呼ばれた。
家康は茶をすすりながら、いつもより少しだけ鋭い、政治家の目で俺を見つめた。
「……忠長よ。秀忠から聞いたぞ。正純の仕事を減らし、他の者へ分けようとしておるそうじゃな」
「はい。……いえ、正確には、正純でなくてもできるはずの確認や調整まで、正純一人に集まりすぎないようにしたいのです」
家康は茶碗を置き、静かに尋ねた。
「そなた、正純がどれほど長く、わしの手足となって徳川のために働いてきたか、知っておるな?」
「もちろんです。関ヶ原の前からずっと大御所様のそばにお仕えし、外交から普請、諸大名との折衝まで、数え切れないほどの難題をこなしてこられた功臣です」
「そうじゃ。あやつはな、わしが何を考えておるか、一から十まで言葉にして説明せずとも、わしの顔色と一言だけで意を汲んで先回りできる。……天下は広しといえども、あやつほどわしの呼吸が分かる者はそうはおらぬ」
家康の声には、長年苦楽を共にしてきた腹心に対する、深く強い信頼が滲んでいた。
武家の世界において、主君から多くの仕事を任されているということは、それ自体が「誰よりも深く信任されている」という権威の証でもある。下手にその仕事を剥がせば、周囲の大名や役人たちは「本多正純は大御所様や若君から疎まれ始めたのではないか」と邪推し、正純自身の面目を潰すことになりかねない。
家康が何を心配しているのかを察した俺は、背筋を正して真っ直ぐに言い切った。
「大御所様。私は、正純が不要だとか、正純から権限を取り上げたいなどとは、夢にも思っておりません」
「ほう」
「むしろ逆です。正純があまりにも優秀で、大御所様やお父様の御心を誰よりも深く理解しているからこそ……その正純がこれまで築いてきた『仕事の進め方』や『判断の基準』を、正純一人の頭の中だけに閉じ込めておきたくないのです」
家康の白い眉が、ぴくりと動いた。
「正純がいなくても日常の公儀が滞りなく動くようにしておくことと、正純という人間が必要なくなることは、全く別の話です。……些細な照会や前例の確認に正純の時間を奪わせず、本当に正純にしかできない天下の大事にその知恵を使ってもらうために、そして正純の知恵を次の世代の役人たちにも残していくために、今のやり方を少し整理したいのです」
しばらく俺の目を見つめていた家康は、やがて深く息を吐き、にやりと口角を上げた。
「……なるほど。正純の知恵と忠義を、あやつ一代で終わらせるなと申すか。言うようになったではないか、忠長」
「お許しいただけますか?」
「よかろう、やってみよ。ただし、正純の面目だけは決して潰すなよ。あやつが不手際をしでかしたから仕事を取り上げるのではなく、あやつがあまりに多くの荷を背負っておるゆえに公儀の仕組みを整えるのだと、周囲の者にもよく分からせておくのじゃ」
「はっ! 肝に銘じます!」
大御所様の理解と後押しも得て、いよいよ「本多正純、丸一日休業」の試行日がやって来た。
*
試行当日の朝。
御異物改方と政務の連絡所を兼ねた部屋へ入った俺は、いつも正純が端然と座っている席がぽっかりと空いているのを見て、なんとも言えない妙な気分になった。
正純は昨夜のうちに「明日は上様の命により終日屋敷にて休む」と各所へ通達を出し、机の上を綺麗に片づけて帰っていた。ただ一人、そこに座っているはずの人間がいないというだけで、部屋の空気がどこか頼りなく、ひどく静かに感じられる。
(……正純がいないだけで、なんだか部屋の重しが一つ消えたみたいに感じるな)
『いつもなら、あなたが入ってきた瞬間に「忠長様、本日の案件にございます」って一番に声をかけてくれる人がいないものね』
(そうなんだよね……)
そんな一抹の寂しさを振り払うようにして、その日の執務が始まった。
最初のうちは、驚くほど順調だった。
午前中に諸国から届いた定例の水利報告、公儀蔵の月次の在庫確認、寺社からの修繕完了届、そして御異物改方の既存の受領証の照合。
これらはすべて、俺たちがこれまでに定めた書式と手順書通りに書類が揃っており、担当の役人たちが自分の職分の範囲でテキパキと確認印を押して処理していく。判断の基準が明確なものは、正純がいなくても何の問題もなく流れていった。
「……おっ。利勝殿、意外と普通に回っていますね!」
俺が顔をほころばせると、隣で様子を見守っていた土井利勝も満足そうに頷いた。
「左様にございますな。日頃の定例の御用につきましては、すでに各役の者たちが手順を呑み込んでおりますゆえ、誰か一人が欠けたからといって止まるようなことはございませぬ」
(よしよし。もしこれで朝から全部の仕事がストップしていたら、俺たちが今まで作ってきた帳面や制度が全部無駄だったことになるところだった)
『まずは基礎的な運用の自動化が成功していることは証明されたわね。問題はここからよ』
KAMI様が予言した通り、最初の「詰まり」が発生したのは、昼前のことだった。
普請方の役人と、勘定方の材木蔵を預かる役人の二人が、一枚の書付を挟んで困り果てた顔で俺たちの前へやって来たのである。
「恐れながら、忠長様、利勝殿。……実は、武蔵国のある宿場近くの木橋が先日の風雨で傷み、早急に補修用の材木を出したき旨、申請が上がっております。ところが、近くの公儀蔵にある手頃な材木は、すでに来春の用水路の堰の改修用として割り当てが決まっておりまして……」
普請方の役人が説明すると、蔵方の役人が申し訳なさそうに続けた。
「橋の傷みも放置はできませぬが、今すぐ落ちるというほどの急場ではございませぬ。さりとて、来春の堰の材木を今ここで崩して回してよいものか、手前ども蔵方の独断では決めかねまして……。普段であれば、このような折には正純殿へ伺い、どちらを優先すべきかお指図をいただくのですが」
俺は、二人が持ってきた帳面を受け取って中身を確認した。
蔵にある材木の本数と寸法は、正確に記録されている。
来春の堰の改修計画も、橋の傷み具合の報告も、それぞれちゃんとした書式で揃っている。
「……えーと、材木の数も、双方の工事の予定も、帳面を見れば全部書いてありますよね?」
「はっ。数は一本の狂いもなく分かっておりまする」
「では、なぜ止まっているのです?」
「ですから……すでに用途が決まっておる蔵の材木を、別の普請へ一時融通して元の割当を変更するという判断を、普請方と蔵方のどちらが下してよいのか、定めがございませぬゆえ」
俺は、ハッとして帳面から顔を上げた。
(……なるほど! 記録や情報が足りないんじゃないんだ!)
普請方は「橋を直す責任」を持っており、蔵方は「決められた用途の材木を守る責任」を持っている。どちらも自分の仕事を真面目に守っているからこそ、自分の権限を越えて相手の領分の予定を変更することができないのだ。
これまでは、その中間に立つ正純が両方の話を聞き、「橋の補修にこれだけ回し、堰の分は来月入る山出しの材木で補え」と交通整理をしてやっていたため、誰も手続きの不備に気づかなかったのである。
俺は一瞬、「じゃあ、今回は俺が判断して材木を回させよう」と口に出しかけたが、ぐっと言葉を呑み込んだ。
(……いや、駄目だ! ここで俺が「よし、俺が決めよう」と引き受けたら、正純の代わりに俺が何でも屋の調整役になるだけで、仕組みの穴がそのまま残ってしまう!)
俺は帳面に付箋を貼り、二人の役人へ言った。
「状況は分かりました。……ですが、ここで私が場当たり的に決めることはしません。双方の必要数と、来月以降に入る材木の予定を書面にまとめ、本来の裁可の筋に従って上様(秀忠)のもとへ上げる手続きを取ってください。急場でないなら、今日中に無理をして結論を出さず、一旦『調整待ちの保留』として記録に残しましょう」
二人の役人は、少し驚いたように顔を見合わせた後、「手前どもで結論を出せず、御用を滞らせてしまい申し訳ございませぬ」と深く頭を下げた。
俺はすぐに首を横に振った。
「謝ることはありません。自分たちの権限で勝手に決められないことを、曖昧なまま動かさずにきちんと止めてくれたのは、正しい仕事です。何に困って止まったのかが分かっただけでも、今日の大きな収穫ですから」
*
一つ目の問題点が綺麗に見えたことで、俺は「よし、この調子で問題点を洗い出そう」と意気込んだ。
だが、昼を過ぎた頃から、事態は思わぬ方向へと転がり始めた。
別の部屋からやって来た寺社方の役人が、空いている正純の席を見て足を止め、すぐさま隣の土井利勝の前へと進み出たのだ。
「利勝殿。実はある古寺の境内の竹林伐採につきまして、普請方との兼ね合いでお伺いしたき儀が。本来は正純殿へ申し上げる筋なれど、本日は御不在と伺いましたゆえ、利勝殿にお指図を仰ぎたく……」
「うむ、どれ、書付を見せよ」
利勝は頼りになる重臣である。役人が困っているのを見れば無下にはできず、丁寧に応対し始めた。
すると、それを皮切りに、まるで堰を切ったように城内のあちこちから役人たちが利勝の席へと押し寄せ始めたのである。
「利勝殿、長崎より届いた銀の換算の件につきまして、正純殿が御不在ゆえ――」
「利勝殿、先月の宿場助成の控えについて、正純殿に代わりご確認を――」
「利勝殿、こちらの書状の宛名の書き分け、正純殿が戻られるまで待つべきか、今ここで――」
一人、また一人と役人がやって来ては、「正純殿がお休みなら利勝殿へ」と合言葉のように言いながら、書状の束を利勝の机の上へ置いていく。
俺が自分の分の書類を片づけ、ふと顔を上げて隣の席を見た時には、朝にはすっきり片づいていたはずの土井利勝の机の上に、正純の机と全く同じような『書状の山』が築き上げられていた。
「…………利勝殿」
「はい、何でございましょう、忠長様」
書類の山の向こうから、少し目を回しかけた利勝が顔を覗かせる。
「……その書状の山、全部今日のお仕事ですか?」
「はっ。正純殿が御不在につき、諸役の者が判断に迷うた件をこちらへ持参いたしまして……。ですが御安心くだされ、夕刻までには手前が一通り目を通し、なんとか捌いてみせまする」
「いやいやいや! 全然安心できませんよ! 朝、私が言ったことを覚えていますか!?」
俺は思わず立ち上がって突っ込んだ。
「正純を一日休ませた結果、正純へ行っていた相談事が丸ごと利勝殿の机へ引っ越しただけじゃないですか! これじゃあ、正純が休んだ日に利勝殿が過労で倒れるだけの仕組みですよ!」
俺に指摘され、利勝は自分の机の上にそびえ立つ和紙の束を呆然と見つめた。
そして数秒後、苦笑いを浮かべて自分の額を押さえた。
「……いかにも。仰せの通りにございますな。手前自身も、日頃いかに正純殿が多くの雑多な調整を引き受けておられたか、身をもって思い知りました。……そして手前もまた、普段は『正純殿に聞けば早い』と頼り切っていた一人であったようです」
「利勝殿が悪いわけじゃないんです。ただ、頼りになる人が一人いると、周りは自分で手順を考える前に、その人へ丸投げした方が楽だから集まってきてしまうんですね」
『バグの原因を調べるためにメインサーバーを止めたら、バックアップサーバーに全く同じ異常負荷が集中してパンクしかける……典型的な設計ミスね』
(ほんと、笑い事じゃないくらい典型的なやつだよ!)
*
利勝の机に集まった書類を二人で仕分け直していると、午後の半ばになって、さらに根の深い三つ目の問題が浮上した。
今度は、関八州のある代官所から届いた「火事で焼けた町屋の再建にあたり、公儀の備蓄材木を特例として無償に近い形で下げ渡してほしい」という嘆願書だった。
持参した勘定方の担当役人が、古い帳面の束を抱えて困惑したように言った。
「忠長様、利勝殿。……実はこの代官所からの願い出には、『昨年の京の大火の折、公儀は被災した町へ特例として材木や仮屋の手当を迅速に出された前例があるゆえ、当方にも同様の御慈悲を』と記されております」
「昨年の京の大火の前例、ですか」
「はい。手前どもで昨年の帳面を調べましたところ、確かに京の町へ通常の定めとは異なる手順で材木を融通した記録が残っておりました。……されど、今回の地方の小火事にもその『前例』をそのまま当てはめて認めてよいものか、判断がつきかねまして」
俺は、担当役人が持ってきた昨年の京大火の記録帳を開いてみた。
そこには確かに、『何月何日、何本の材木をどの町へ引き渡したか』『誰が受領したか』という事実と数字が、一分の隙もなく綺麗に記録されている。
だが、それを読んでいた俺は、ある重大な欠落に気づいて眉をひそめた。
「……あれ? この帳面、いつどこへ材木を出したかは正確に書いてありますけど、『どういう条件が重なったから、通常の規則を曲げてその特例を認めたのか』という理由が、ここには書いてありませんね」
「はっ。当時の京の被害の大きさや、和子様の御入内を控えていた事情、また大津や伏見の蔵の在庫状況などは、それぞれ別の見聞控や入内御用の帳面に分かれて記されておりますゆえ、この材木出納の帳面だけを見ても、どこまでが特例の条件であったのかが分かりませぬ」
利勝が、低く唸り声を上げた。
「……もしここに正純殿がおられたなら、どうなされたであろうな」
「正純殿であれば、昨年の京の大火の折、どの帳面とどの報告を見比べて特例を決めたかを全て頭の中で覚えておられますゆえ、『あの時は京の上京一帯が大火に見舞われた非常時であったゆえ認めたが、今回の小火には当てはまらぬ』と、その場で即座にお答えになったかと」
俺は、思わず天井を仰いだ。
(……これだ。これが、正純にしか仕事が回せない一番大きな理由だ!)
俺たちはこれまで、「事実と数字を正確に帳面へ残すこと」には全力を注いできた。いつ、誰が、何を、どれだけ動かしたか。その記録はどこにも負けないほど整っている。
しかし、『なぜその時、そういう例外的な判断を下したのか』という背景や、複数の帳面に散らばっている判断材料を繋ぎ合わせる「目次」のようなものが、帳面の側には残っていなかったのだ。
その結果、前例を調べようとしても、当時の経緯を最初から最後まで実体験として記憶している正純の頭の中を通さない限り、過去の記録が正しく活用できない状態になっていたのである。
(……じゃあ、正純に頼んで、覚えている過去の経緯を全部書き出してもらうか? ……いや、待てよ。そんなことをさせたら、正純を休ませるどころか、何十年分の記憶の書き出し作業で正純が徹夜続きになってしまう!)
『ふふ、自分で自分の首を絞めるところだったわね。一人の人間の長年の経験を、一晩で紙に全部書き写すなんて無理に決まっているわ』
(だよね。必要なのは、正純の記憶を丸ごと写すことじゃない。特例を出した時に「なぜ例外を認めたのか」「どの帳面とどの帳面を一緒に見るべきか」という短い道しるべを、記録の端に添えておくことだ)
*
そして夕方近くになり、四つ目の問題が、俺の直接預かる御異物改方の内部から持ち上がった。
実務担当の小栗半兵衛が、長崎から届いた船荷の目録と、御異物改方の保管帳面の二冊を抱えてやって来たのだ。
「忠長様。先月、長崎より江戸へ送られて参りました南蛮渡来の品々の件で、長崎奉行所の勘定役より照会が届いております。『船荷の目録にある品が、江戸にて滞りなく受領され、保管されておるか確認の印をいただきたい』とのことなのですが……」
「受領して蔵に納めてあるなら、確認の印を押して返してやればいいじゃないか」
俺が言うと、半兵衛は声を潜めて困った顔をした。
「それが……その船荷の中には、通常の薬種や硝子器に混じって、御異物改方にて『秘匿・封印』と定められた奇妙な石が一つ含まれておりました。手前どもの保管帳面にはその石の詳しい性質や封印の場所が記されておりますが、長崎の一般の勘定役には、御異物の機密を見る許しが出ておりませぬ」
「あ……。だから、こちらの保管帳面の写しをそのまま相手に見せるわけにはいかないのか」
「はい。さりとて、何の説明もなしに『受領した』とだけ返しては、向こうの荷の控えと数が合うかどうかの突き合わせができませぬ。……これまでは、双方の帳面を確認できる正純殿が日頃の照合を引き受け、品の性質や封印の場所を伏せたまま返書を整えてくださっていたのでございますが」
俺と利勝は、顔を見合わせた。
先ほどの材木や前例の話は、「正純が経験豊富で詳しいから」頼られていた案件だった。
だが、今回のこれは少し違う。正純だけに閲覧権限があるわけではないのに、日頃の機密照合と返書の取りまとめが正純任せになっていたため、不在時の手順が曖昧になっていたのだ。
「……では、照会を受ける長崎方の役人にも、必要な範囲で御異物の記録を見せる許しを出しますか?」
利勝が尋ねたが、俺はすぐに首を横に振った。
「いえ、それは絶対に駄目です。担当者が休みだからといって、機密を見る権限をなし崩しに広げてしまったら、御異物改方で危ない品や異国の知識を厳重に管理してきた意味がなくなってしまいます」
「されば、いかがいたしましょう」
「相手が本当に知りたいのは、その石の不思議な性質や保管場所の秘密ではなく、『長崎から送った荷が途中で紛失したり盗まれたりせず、確かに江戸の公儀の手へ渡ったか』という一点だけですよね?」
「はっ、左様にございます」
「ならば、機密の中身は一切書かず、『目録何番の品、何月何日、御異物改方にて確かに受領・封蔵せり』という確認書式を整えましょう。閲覧を許された担当者が内部で帳面を照合し、責任者である私が確認印を押せば、長崎の勘定役へ秘密を見せずに済みます」
俺は、手元の紙に素早くメモを書き留めた。
「……なるほど。正純に集中していた仕事の中には、『正純が詳しいからみんなが聞いていた仕事』と、『閲覧権限者はほかにもいるのに、照合と返答の手順が正純任せになっていた仕事』の二種類が混ざっていたんですね」
『ええ。前者は記録の引き継ぎ方で解決できるけれど、後者は閲覧権限を変えずに照会の手続きを整理しないと解決しないわ。その二つを混ぜなかったのは偉いじゃない』
こうして、正純不在の一日は、数々の小さな「立ち往生」を浮き彫りにしながら幕を閉じた。
*
その日の夕方、俺と利勝、そして半兵衛をはじめとする各部署の実務担当者たちが集まり、今日一日で何が起きたかの整理を行った。
屋敷で休んでいる正純には、もちろん使者一人送っていない。丸一日休むと決めた以上、最後まで徹底して休んでもらうためだ。
机の上に並べられた結果を振り返ると、まず全体の八割以上を占める「通常の定例業務」は、正純がいなくても何の遅滞もなく処理されていた。
そして、途中で止まって保留となった残りの二割弱の案件は、見事なまでに三つの理由に分類できた。
一つ、複数の部署にまたがる案件で、どちらの予定を優先すべきか調整する手順が決まっていなかったもの。
二つ、過去の特例や前例を参照する際、当時の判断理由や前提条件が別の帳面に分かれていて、正純の記憶なしでは辿り着けなかったもの。
三つ、機密に関わる照会で、秘密を守ったまま他部署へ「確認済み」とだけ返す手続きが整っていなかったもの。
控えの役人の一人が、保留となった書類の束を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……忠長様、利勝殿。手前どもの力が及ばず、これだけの御用を今日中に片づけることができませんでした」
俺は、その役人に向かって穏やかに、しかしはっきりと首を振った。
「いいえ、誰も謝る必要はありません。今日、皆さんが自分の権限で勝手に決められないことを、推測や忖度で無理に進めず、こうして『ここで困りました』と正確に止めてくれたことこそが、一番の成果です」
役人たちが顔を上げる。
「もし皆さんが、正純がいないからといって曖昧なまま材木を動かしたり、機密の帳面を他人に見せたりしていたら、そっちの方がよほど大問題でした。……今日止まったこの書類の束は、皆さんの失敗ではなく、私たちが直すべき『仕組みの穴』そのものです」
隣に座る利勝も、深く息を吐いて頷いた。
「忠長様の仰せの通りじゃ。……それにしても、手前も考えが浅うございました。正純殿が一日休まれるなら、手前が代わりに相談を受ければ済むなどと簡単に申しましたが、これではただ一人の背中の荷を、別の者の背中へ載せ替えただけに過ぎませぬ」
「私も最初は同じことを考えかけましたからね。……実際に試してみて、初めて分かったことも多いです」
俺と利勝は、互いに苦笑いを交わした。
*
翌朝。
丸一日の休養を終えた本多正純が、いつもと変わらぬ端正な衣姿で執務室へと出仕してきた。
俺の顔を見るなり、正純は深々と頭を下げた。
「忠長様、利勝殿。昨日は手前が御用を離れましたため、皆様に多大な御迷惑と御苦労をおかけいたしました」
「おはようございます、正純。だから、休んだことで謝らないでくださいと言ったでしょう!」
俺は笑いながら迎え入れ、昨日まとめた『正純不在時・御用進行ならびに保留控』という一冊の薄い帳面を、彼の机の上へ置いた。
「それより、昨日の結果が出ましたから見てください。……まず、定例の御用は、各役の者たちだけで何の滞りもなく進みましたよ」
「ほう……」
正純が帳面を開き、順調に処理された案件の目録に目を通す。
だが、後半の「保留となった案件」の頁をめくったところで、正純の視線が止まった。
そこには、材木の融通、京大火の前例照会、長崎の機密荷の確認など、昨日止まった十数件の案件が並び、その理由の欄には、どれも同じ言葉が記されていた。
『正純殿へ従来の経緯を照会したきにつき、保留』
『正純殿の御記憶を仰ぎたく、留め置く』
『機密照合の取り次ぎが正純殿任せにつき、保留』
正純は、しばらくの間、無言でその文字を見つめていた。
「……これは。手前が一日おりませぬだけで、これほどの御用を留め置かせてしまいましたか」
「逆です、正純。これほど多くの違う部署の仕事が、普段は全部、正純一人の頭と手を経由しないと前に進まないようになっていた、ということです」
俺が指摘すると、正純は静かに帳面へ手を置いたまま、ぽつりと自分の胸の内を語った。
「……手前は、まだ若き頃より大御所様のおそば近くにお仕えし、公儀の御用を預かってまいりました」
いつもは感情を表に出さない正純の声が、ほんの少しだけ柔らかい響きを帯びていた。
「大御所様が何を望んでおられるかを汲み取り、上様の御政務が滞らぬよう先回りして整える。諸役の者が迷うておれば、手前が知る限りの前例を教えて道を示す。……それが、不肖この正純にできる唯一のご奉公であり、忠義であると信じて疑いませなんだ」
「……はい」
「されど、手前が良かれと思ってすぐ答えを出しておったことが、かえって諸役の者から自分で調べる機会を奪い、手前がおらねば判断ができぬような窮屈な仕組みを作っておったのでございますな」
自分自身の長年の働き方を振り返り、そう結論づけた正純の横顔には、理知的な納得とともに、ほんのわずかな寂しさが滲んでいるように見えた。
「……こうして仕組みを改めれば、いずれ手前の役目も、ほかの者たちだけで十分に足りるようになっていくのでございましょうな」
ぼそりと漏れたその言葉に、俺はハッとして身を乗り出した。
どれほど冷静沈着に見える重臣であっても、自分が心血を注いできた仕事を「他の者でもできるようにする」と言われれば、自分が不要になったような寂しさを覚えるのだ。
「正純、それは違いますよ!」
俺は、強い声で否定した。
「私は、正純から仕事を取り上げたいわけでも、正純がいなくてもいい公儀を作りたいわけでもありません!」
正純が、驚いたように顔を上げて俺を見た。
「正純が一日休んだくらいで全部が止まってしまう公儀では困ります。ですが、正純が必要なくなる公儀なんて、そもそも作れるわけがないでしょう! 普段の材木のやり繰りや前例の確認を下の者たちで回せるようにするのは、正純にしかできない、もっと大きくて難しい天下の政に、正純の力と時間を使ってもらいたいからです!」
俺は、心からの言葉をぶつけた。
「大御所様も、お父様も、兄上も、そして私も、正純の知恵がなければ困るんです。だからこそ、誰にでもできるはずの確認作業で正純がすり減って倒れてしまわないように、あなたがこれまで積み上げてきた知恵を、公儀全体の財産として残してほしいんですよ!」
正純は、しばらく目を瞬かせて俺の顔を見つめていた。
やがて、その厳しい目元がふっと緩み、これまでに見たことがないほど深く、静かな一礼を俺に返した。
「……ありがたきお言葉。この正純、生涯忘れませぬ」
*
その日の午後、俺たちは大御所・家康と将軍・秀忠のもとへ赴き、試行の結果を正式に報告した。
話を聞いた家康は、何度も大きく頷き、控える正純へ温かい目を向けた。
「……聞いたか、正純。そなたがこれまでどれほど多くの柱を一人で支えておったか、これで誰の目にも明らかになったわ」
「恐縮にございます、大御所様」
「わしはな、そなたの働きを誰よりも買っておる。じゃが、忠長の申す通り、そなたも人の子じゃ。いつかは年を取り、病に伏せる日も来ようし、公儀の大事で江戸を離れねばならぬ時もあろう。……そなたがわしと共に培ってきた政の知恵を、そなた一人の胸の内にしまっておいては惜しい。これからは、後に続く若い者たちへその知恵の使い方を教えていくことも、そなたの重き役目と思うてくれ」
「……はっ。大御所様の仰せ、謹んで承りました」
長年の主君から、これまでの功績を最大限に認められたうえで「次の世代へ知恵を渡す役目」を与えられた正純の顔には、もう一片の翳りもなかった。
家康はさらに、秀忠や利勝にも聞こえるように言った。
「よいか。此度のことは、正純が御用を怠ったから役目を減らすのではない。正純があまりに多くの荷を背負っておるゆえ、公儀の仕組みを一段引き上げるのじゃ。城内の者どもが妙な勘違いをせぬよう、そこはしかと示しておけ」
こうして、新たな役所を作ったり大仰な法度を出したりするのではなく、今ある仕事の回し方を三つだけ手直しすることが決まった。
第一に、普請と蔵のように複数の部署にまたがる例外案件については、正純個人へいきなり相談に行くのではなく、関係する双方の部署が「それぞれの在庫と予定」を一枚の紙に揃えてから、定められた裁可の場へ上げる道筋を明文化すること。
第二に、京の大火のような「過去の特例」を記録する際は、ただ数字を残すだけでなく、『どのような非常事態であったため特例を認めたか』『どの関連帳面を合わせて見るべきか』という短い添え書き(参照の道しるべ)を必ず残すこと。
第三に、御異物改方などの機密に関わる照会については、機密の中身を明かさぬまま『受領・保管に相違なし』とだけ回答できる確認書式を整え、閲覧を許された御異物改方の担当者が、正純不在でも内部照合から返書まで進められる手順を明らかにすること。
方針が決まり、執務室へ戻ったところで、利勝が頼もしげに胸を叩いた。
「よし。では早速、正純殿が御不在の折に上がった複数部署の書状は、手前が一括して取りまとめる窓口となり――」
「利勝殿!」
俺はすかさず声を上げた。
「また一人で全部引き受けようとしていませんか!? まずは元の担当部署の者たちに、自分たちで資料を揃えさせるのが先でしょう!」
「……あ。い、いかん、つい長年の癖で口が滑りましたな」
利勝が頭をかくと、今度は正純までがくすりと笑った。
そして、その正純がすぐに真顔に戻り、机の上の白紙を引き寄せた。
「では忠長様。手前は本日より早速、過去十年間に手前が関わりました全ての特例案件の帳面を洗い出し、一件ずつ判断の経緯を書き添える作業に入りまする。夜を徹してでも、今月中に――」
「……ちょっと待ってください、正純」
俺は、筆を執りかけた正純の手をじっと見た。
「……はい?」
「その過去十年分の洗い出し、まさか正純一人で全部やるつもりですか?」
「…………」
「……正純?」
「……いえ、当時の細かな事情を最も正確に承知しておるのは手前にございますゆえ、手前が書き出した方が早いかと……」
「駄目に決まっているでしょうが!!」
俺がたまらず大声を上げると、利勝が吹き出し、様子を見に来ていた家光までが腹を抱えて笑い出した。
「あなたを休ませるための仕組み作りで、あなたが徹夜して倒れたら何の意味もないでしょう! 過去の分を一度に全部書き直す必要はありません! これから日々の仕事の中で、若い役人たちが『あの時の前例はどうだったか』と調べに来た時に、正純が口頭で勘所を教え、調べに来た役人自身の手で帳面に添え書きをさせていけばいいんです!」
「……なるほど。尋ねてきた者に書かせる、にございますか」
「そうです。そうすれば、正純の手間も省けるし、書いた役人も自分で考える勉強になります」
『ふふふ、仕事を減らすための仕事で過労死しかけるなんて、どこの時代にもいるのねぇ、そういう真面目な人って』
(本当に油断も隙もないよ!)
*
その手直しを現場へ周知してから、十日ほどが過ぎた年末のある日。
俺たちは、もう一度だけ正純に丸一日の休みを取ってもらい、再度の試行を行った。
今度の結果は、目覚ましいものだった。
以前なら「正純殿へ聞こう」「正純殿がいなければ利勝殿へ」と右往左往していた役人たちが、まずは自分たちの手で関連する帳面を探し、他部署の担当者と膝を突き合わせて条件を整理し始めたのだ。
もちろん、それでも彼らだけでは決められない重要な案件は残る。
だが、夕方になって俺と利勝の手元へ上がってきた時には、「何が問題で、どの帳面を確認し、どの選択肢の裁可を仰ぎたいのか」が綺麗に整理された状態になっていた。利勝の机の上に、前回のような無秩序な書状の山が築かれることもなかった。
そして翌朝。
出仕してきた正純に、俺は一番に尋ねた。
「おはようございます、正純。……昨日は、本当にちゃんと休めましたか?」
正純は、いつも通りの端正な顔の中に、どこか少しだけ照れくさそうな、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「……はい。昨日は仰せの通り、一切の書状を開かず、屋敷にてゆっくりと過ごさせていただきました」
「それはよかったです!」
「もっとも……昼前までは、今にも城から急ぎの使者が馬を走らせて来るのではないかと、つい門の方へ耳を澄ませてばかりおりましてな。妻や家中の者からも『かえって落ち着きがございませぬな』と笑われてしまいました」
「ははっ、分かりますよ。私も母上に文机を片づけられた最初の夜は、手元に紙と筆がないだけで、なんだか忘れ物をしているようでそわそわしましたから」
「左様でございますか。……ですが、夕刻までついに一人の使者も参りませなんだゆえ、諦めて庭の冬木立を眺め、温かい茶を飲んでおりましたら……不思議と、肩の荷が少し軽くなったような心地がいたしました」
そう語る正純の顔色は、十日前よりもずっと血色がよく、目の下の隈も綺麗に消えていた。
その後、家康へ二度目の試行の成功を報告した帰り道、江戸城の長い廊下を俺と正純は並んで歩いた。
「……忠長様。此度は、手前のためにまことにありがとうございました」
歩みを緩めた正純が、静かに言った。
「これまで手前は、己の手元に御用が集まり、己が忙しく立ち回ることこそが、大御所様や上様への忠義であると思うておりました。……ですが、手前がいなくとも公儀の御用が揺るがず進むよう、後の者へ道を整えておくこともまた、重臣としての大切な忠義なのだと、忠長様に教えていただきました」
「私が教えたなんてとんでもない。私自身が、母上から『自分の暮らしも守れ』と叱られて、ようやく気づいたことですから」
俺は少し照れながら笑い、そして隣を歩く頼もしい重臣の顔を見た。
「これからも、難しい局面では正純の知恵をたくさん頼りにします。ですから、私が困った時にすぐ助けてもらえるよう、正純にはいつまでも元気で、時々ちゃんと休んでもらわないと困るんです」
「……はっ。その仰せ、しかと胸に刻んでおきまする」
冬の日差しが差し込む廊下で、正純は力強く頷いた。
*
その日の夕方、申の刻の太鼓が鳴ると同時に、俺は御異物改方の執務を切り上げ、自分の私的な居所へと引き揚げた。
正純を休ませる仕組みがひとまず形になったことで、俺の気持ちもずいぶん軽くなっていた。
(……よし。これで正純一人に仕事が集中する危ない状態は、少しは改善されたぞ)
『ええ、見事な負荷分散だったわね。正純さんのプライドも傷つけず、周りの担当者たちの自立も促せたし、大御所様からの信頼もそのままだもの。お疲れ様』
(本当に。あんな風に真面目な人ほど、放っておくと限界まで抱え込んでしまうからな。これからも時々、ちゃんと休めているか見張っておかないと)
『……ところで、忠長様?』
(ん? なに、KAMI様)
『他人の働きすぎを見張る前に、あなたが今、左手の袂のところに無意識に挟んで持ち帰ろうとしているその一通の書状は、いったい何なのかしら?』
俺は、ぴたりと足を止め、自分の左手を見た。
そこには、執務室を出る直前に届いた『来春の諸国用水路・普請箇所一覧の控え』が、しっかり握りしめられていた。
(…………あ)
『今日中に見ないと誰かが死ぬ緊急の書状だったかしら、それ?』
(……い、いや! 違うよ、これはただ、歩きながらちょっとだけ目を通しておこうかなって無意識に手に取っただけで、寝所まで持ち込むつもりは……!)
『お江様に言いつけてもいいのよ?』
(ごめんなさい! 今すぐ執務室の机へ戻してきます!!)
俺は慌てて踵を返し、まだ部屋に残っていた半兵衛に「これは明日の朝見るから!」と書状を預け直してから、今度こそ手ぶらで自分の居所へと戻った。
誰か一人の飛び抜けた才能と過労によって支えられている仕組みは、その人がいる間はどれほど頼もしく見えても、いつか必ず限界が来る。
公儀の仕事も、俺たちが生きるこの国の仕組みも、人が休み、人が入れ替わっても、変わらずに長く回り続けなければならない。
母上から教わった「自分の暮らしを守ること」と、正純と一緒に見つけた「仕事を次の人へ渡していくこと」。
……うん。
人の働き方を直す前に、まずは俺自身の「隙あらば帳面を持って帰ろうとする癖」から、地道にメンテナンスしていかないといけないらしかった。
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