暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
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元和八年、正月。
新しい年を迎えた江戸城は、松飾りの青々とした香りと、年頭の賀詞を述べに登城する諸大名や旗本たちの華やかな衣擦れの音に包まれていた。
大広間で行われる新年の拝賀の儀は、徳川の威光を天下に示す最も重要な年中行事の一つである。大御所・家康が健在であり、将軍・秀忠が政務の要を握り、さらには次代将軍たる家光が並び立つことで、今年の江戸城には例年以上に盤石で揺るぎない空気が満ちていた。
もっとも、一昨年の秋に元服を終えて「徳川忠長」となった俺にとっては、今年の正月は昨年よりもずっと忙しいものになっていた。
「忠長様。新年の御慶、謹んで申し上げまする」
「うむ、大儀である。本年も公儀の御用のため、よろしく頼む」
糊の効いた窮屈な直垂に身を包み、次から次へと挨拶に訪れる大名や奉行衆へ、俺は威厳を崩さぬよう背筋を伸ばして応じ続けていた。
元服したばかりだった昨年の正月は、まだ兄上の斜め後ろで挨拶を受けていれば済んだが、この一年で俺自身の役目も重くなり、今年は直接祝辞を述べに来る者が目に見えて増えたのだ。
ようやく午前の儀礼の区切りがつき、控えの間へ下がって熱い茶を一口すすった俺は、誰もいないのを確かめてから小さく肩を回した。
(……元服して大人になると、お正月のお祝いまで立派な重労働になるんですね)
『ふふふ、何を贅沢なことを言っているのよ。天下の将軍家の若君として、諸大名から一人前の大人として敬われるようになった証拠じゃない』
脳内でKAMI様が楽しそうに声を弾ませる。
(いや、敬われるのはありがたいんですけど、こういう格式張った挨拶を何百回も繰り返すくらいなら、冬の用水路の泥さらいの帳面を見ている方がよっぽど気楽ですよ……)
『年末にお母様から「仕事ばかりしていないで暮らしの余白を作りなさい」って叱られたばかりなのに、正月の挨拶より帳面がいいなんて言ったら、またお江様に睨まれるわよ』
(……それは確かに怖いので、今の言葉は胸の内にしまっておきます)
母上から生活の検分を受け、正純を丸一日休ませる試行を行ってからというもの、俺は自分の居所へ不必要な書類を持ち込まないという約束をどうにか守り続けていた。年末年始の慌ただしい時期も、急ぎでない案件は年明けの役所開きまで綺麗に切り分けたおかげで、例年よりはずいぶん人間らしい正月休みを過ごすことができたのである。
*
松の内の儀礼が一通り落ち着き、城内の各役所が今年最初の本格的な執務を始めた日の朝だった。
俺が御異物改方と政務の連絡所を兼ねた部屋へ顔を出すと、本多正純がすでに机へ向かい、諸国から届いた年明け最初の書状の束を整理していた。
ただし、その机の上の様子は、昨年の暮れとは見違えるほど変わっていた。
以前は正純一人の前にあらゆる部署からの照会状がうず高く積み上がっていたのだが、今は普請方、蔵方、寺社方それぞれの実務担当者が事前に条件を揃え、自分たちの職分で処理できるものはその場で片づけている。正純の手元にあるのは、本当に宿老としての高度な判断や上位への取り次ぎを要する案件だけに絞られていた。
「おはようございます、正純。本年もよろしくお願いします。……どうです、年末年始は少しはゆっくり休めましたか?」
俺が声をかけると、正純は筆を置き、端正な顔をわずかに和らげて一礼した。
「おはようございます、忠長様。旧年中は手前の休養のことで一方ならぬお心遣いをいただき、恐縮にございました。おかげさまで、この正月は久方ぶりに屋敷にて穏やかな年越しをさせていただきました」
「それは何よりです。机の上の書状の山も、これくらいの高さなら雪崩を起こさずに済みそうですね」
「はっ。各役の者どもが、前例を参照する添え書きや他役との事前調整を自ら行うようになりましたゆえ、手前の手元へ届く前に片づく件が大幅に増えました」
年末に苦労して仕組みを手直しした甲斐があったと、俺が満足げに頷いていた、まさにその時だった。
奥羽方面の連絡を受け持つ取次役の武士が、硬い表情で部屋へ入り、黒塗りの文箱を正純の前へと差し出した。
「正純殿。出羽国・山形より、急ぎの書状が届いております」
正純が文箱を受け取り、添えられた札と差出人の名を確認する。
その瞬間、先ほどまで穏やかだった正純の眉間に、すっと深い縦皺が刻まれた。
「……最上家にございますな」
「最上家?」
俺は正純の手元を覗き込んだ。
「出羽山形の最上家……って、あの五十七万石の大大名の最上家ですか?」
「左様にございます」
五十七万石といえば、加賀の前田家や奥州の伊達家などに次ぐ、全国でも屈指の大領国だ。
正純は封を切り、中から現れた長文の書状に目を通し始めた。読み進めるにつれて、正純の表情が一段と険しさを増していく。
「……正純、何が書いてあるのです?」
「最上家の一門に連なる松根光広ら、現当主の側近くにある者たちからの訴状にございます」
正純は、書状の一節を俺にも見えるように机の上へ広げた。
そこには、緊迫した筆致でこう記されていた。
『当家の重臣ども、若き当主・家信の下知を軽んじ、事あるごとに異を唱えて家中の法を乱し候。剰え、当主の叔父にあたる山野辺義忠を奉じて諸事を私に動かさんと企て、主君をないがしろにする振る舞い、目に余るものあり——』
俺は、その文面を読んで思わず首を傾げた。
「……家中の重臣たちが、自分たちの主君である当主の命令を聞かない、ということですか?」
「そのように訴えておりますな」
「しかし、一門や家老と当主の間で意見が食い違うこと自体は、どこの家でも多少はあるでしょう。当主が重臣たちを城へ集めて、膝を突き合わせて話し合えば済む話ではないのですか?」
俺が素朴な疑問を口にすると、正純は書状から目を上げ、ひどく難しい顔をして首を横に振った。
「……忠長様。おそらく今の最上家では、その『話し合いの場を誰が取り仕切り、誰の言葉をもって決定とするか』という根本のところから、すでに争いになっておるのかと存じます」
「…………え?」
俺は、思わず目を丸くした。
年末に俺たちが江戸城でやったのは、「誰にでもできる調整仕事を正純一人に集めないようにしよう」という改善だった。だが、それはあくまで「最終的な決定権は将軍・秀忠公にあり、全員が公儀の規則に従う」という大前提が揺らいでいないからこそできたことだ。
話し合いのルールそのものが壊れているとは、一体どういう状態なのか。
*
俺と正純がその訴状を前に思案していた、わずか半刻(一時間)ほど後のことだった。
今度は別の取次役が、もう一通の書状を携えて部屋へ入ってきたのである。
「正純殿。出羽の最上家より、年寄衆のもとへ別便の申し立てが届いております。先の松根殿の書状と関わる儀ゆえ、合わせて検分せよとのことにございます」
「……別便?」
正純が受け取って封を切ると、そちらの連署には、山野辺義忠をはじめ、鮭延秀綱ら最上家の錚々たる重臣や城主たちの名がずらりと並んでいた。
俺も横からその文面を覗き込み――書いてある内容を読んで、完全に思考が止まった。
「……ちょっと待ってください、正純」
「はい」
「さっきの松根光広という人からの訴状では、『山野辺義忠ら重臣たちが、若き当主の命令を無視して勝手な真似をしている』と書いてありましたよね?」
「左様にございます」
「でも、今届いた山野辺義忠殿たちからの書状には、『当主・家信公がいまだ若年にて政務の筋道を解さず、松根ら一部の側近の甘言ばかりを容れて、先代より家を支えてきた宿老どもの諫言を退け、領国の統治を危うくしている』と書いてありますよ!?」
「……そのように記されておりますな」
「しかも、『このままでは最上家五十七万石が立ち行かぬゆえ、分別と実績のある叔父・山野辺義忠殿を中心に据えて家政を立て直すべきである』と……これ、さっきの書状と主張が真っ向から逆じゃないですか! 本当に同じ最上家の話なんですか!?」
「紛れもなく、同じ出羽最上家の話にございます」
俺は、机の上に並んだ二通の書状を交互に見比べた。
片方は「自分たちこそが正統な当主・家信公を守っている忠臣であり、山野辺ら重臣は家を乗っ取ろうとする逆臣だ」と訴えている。
もう片方は「自分たちこそが最上家五十七万石の社稷を憂う忠臣であり、政務を知らぬ若い当主と側近の暴走を止めようとしているのだ」と訴えている。
どちらも「最上家を守るため」という大義名分を掲げながら、同じ家の仲間を「最上家を滅ぼす害虫」として江戸の公儀へ突き出しているのだ。
(……なんだこれ。どっちが本当のことを言っているんだ?)
『少なくとも、書いている本人たちは、どっちも自分たちの方が百パーセント正しいと信じ切っている文面ね』
KAMI様の冷静な分析に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
俺は、自分の頭の中を整理するために正純へ尋ねた。
「……正純。恥ずかしながら、私は出羽の最上家の内部事情にそこまで詳しくないのですが、今の当主である家信殿というのは、おいくつくらいの方なのですか?」
「最上源五郎家信殿は、確か今年で十七になられるかと。元和三年に父君である最上家親殿が急逝なされたため、十二の御歳で家督を継がれました」
正純は、頭の中の記憶を引き出すように淀みなく説明してくれた。
「もともと最上家を五十七万石の大身に押し上げられたのは、先々代の最上出羽守義光殿にございます。義光殿は慶長十九年に亡くなられ、跡を継がれた家親殿もその後わずか三年で亡くなられました。……ゆえに、現在の家信殿は極めて若くして巨藩の頂点に立たれたのでございます」
「先々代の義光殿という巨大な柱が亡くなり、次の家親殿もすぐに亡くなって、十二歳の少年がいきなり五十七万石を継いだ、と……。そして、もう一方の書状に出てくる山野辺義忠殿というのは?」
「義光殿の四男にして、現当主・家信殿の叔父君にあたられます。最上一門の中でも特に武勇と知略に優れ、家中の信望も厚い有力者にございます」
経験の浅い十代の若き当主と、それを支える側近たち。
先々代の血を色濃く引く実力者の叔父と、歴戦の宿老たち。
その構図を聞いた瞬間、俺の脳裏の奥底から、前世の歴史知識の記憶がバチッと音を立てて蘇った。
(……最上騒動だ!)
『あ、思い出した?』
(思い出したよ! 元和八年、出羽山形の最上家が激しいお家騒動の末に幕府から改易を言い渡されたっていう、江戸時代初期の最大級の取り潰し事件じゃないか!)
俺は内心で息を呑んだ。
外様とはいえ、徳川家と縁が深く、関ヶ原の戦いでも東軍として北の要衝を守り抜いた名門・最上家。その五十七万石という途方もない大領国が、戦乱ではなく「家中の内紛」によって一気に消滅したという衝撃的な事件だ。
(……でも、待てよ。俺が知っている前世の歴史と、今のこの世界は、すでにいろんな前提が変わっている)
大御所・家康が今も元気に生きて目を光らせているし、大坂の陣の形も変わり、豊臣秀頼公も生きている。だから「前世の歴史で元和八年に改易されたから、今回も絶対に改易になるはずだ」とか、「どちらかの派閥が完全に悪いに違いない」と最初から決めつけてかかるのは危険すぎる。
そこへ、諸国の政務を学ぶために部屋へ顔を出した家光兄上が、俺たちのただならぬ空気を察して歩み寄ってきた。
「忠長、正純。朝から難しい顔をして、何の書状を見ておるのだ」
「あ、兄上。実は、出羽の最上家から、こんな書状が二通同時に届きまして」
俺から事情と二通の訴状の内容を聞いた家光は、若い眉を厳しくひそめた。
「……なんじゃ、これは。一つの家の家臣どもが二つに分かれ、公儀へ向かって互いの非を鳴らしておるのか」
「はい。現状では、当主の下で家中が全くまとまっていないようです」
「いかに当主が若年とはいえ、家臣たる者が主君の下知に従わず、叔父を担ぎ出そうとするなど、主従の道を乱す由々しきことではないか!」
次代の将軍である家光が、主君の権威を軽んじる重臣側の態度に強い不快感を示すのは当然のことだった。
俺は一度頷いてから、少しだけ慎重に言葉を添えた。
「兄上の仰る通り、家臣が勝手に主君を挿げ替えようとするなら、それは大罪です。……ただ、もし本当に若い当主が政務を顧みず、誤った指図で領国を危うくしているのだとしたら、それを命がけで諫めること自体は、宿老たちの大切な務めでもあります」
一昨年、俺が元服した折、お父様から「兄が政を誤れば恐れずに諫めよ、それが忠だ」と教えられたのを思い出す。
「……む。それは、そうだが」
「ですから一番難しいのは、山野辺殿や重臣たちが『本当に最上家と主君を思って諫めているのに、当主側が耳を貸さないのか』、それとも『諫言を口実にして、若い当主から権力を奪おうとしているのか』という境目が、この紙の上だけではまだ分からないことなんです」
家光は、二通の訴状をじっと見比べ、深く考え込んだ。
自分と俺の関係に置き換えてみれば、俺が兄上を助けようとして意見を言うのと、俺を担ぐ連中が兄上を押しのけようとするのとでは、天と地ほどの違いがある。言葉の上ではどちらも「徳川のため」と言えるからこそ、見極めが難しいのだ。
*
この二通の訴状はただちに将軍・秀忠のもとへ上げられ、その日の昼過ぎには、家康、秀忠、家光、俺、そして正純、土井利勝、酒井忠世ら幕閣の重鎮が集まる評定が開かれた。
二通の書状に目を通した秀忠は、深い溜息とともに書状を卓上へ置いた。
「……最上家か。五年前、家親が急逝して今の家信が十二で跡を継いだ折にも、家中の折り合いが危ういと見て『一門・家老ども、心を一つにして若き当主を盛り立て、先代の法を守るべし』と公儀より条目を下したはずじゃ。その後も何度か不穏な噂を聞き、その都度釘を刺してきたというのに……ついに表立って双方から訴状を出し合うまでに至ったか」
秀忠の言葉通り、幕府にとっても最上家の内紛は今日突然湧いて出た話ではなかった。
元和三年の家督継承以来、ずっとくすぶり続けていた火種が、ここへ来てついに家中だけでは抑えきれなくなり、幕府の評定所へと噴き出してきたのである。
上座で黙って聞いていた家康が、出羽国の絵図面に視線を落としながら、どこか寂しそうにぽつりと言った。
「……義光めが一代で血の汗を流して築き上げた大きな家が、あやつの死後、わずか八年でこのような有様になろうとはのう」
「大御所様は、先々代の最上義光殿をよく御存じだったのですよね」
俺が尋ねると、家康は遠くを見るような目で頷いた。
「無論じゃ。あやつは奥羽の激しい戦国の世で、伊達や上杉という強敵に挟まれながら、知略と武勇の限りを尽くして最上家を盛り立てた男よ。関ヶ原の折にも、東軍の北の抑えとして見事に庄内まで切り取り、わしが五十七万石の大封を認めたのじゃ」
家康は、広げられた出羽国の大きな絵図面を扇子の先でトントンと叩いた。
「じゃが、忠長。その五十七万石のなりたちが、今の乱れの根になっておる」
「なりたちが、ですか?」
俺と家光が絵図面を覗き込むと、正純が山形城の周囲に散らばるいくつもの城や館の名を指し示した。
「忠長様。最上家の五十七万石は、当主のおわす山形城で全てを一手に治めておるのではございませぬ。義光殿が切り広げられた庄内の鶴ヶ岡や亀ヶ崎、さらには新庄、清水、長瀞、上の山といった各地の要衝に、一門や有力な重臣たちがそれぞれ一万石から数万石の所領と、自らの『城館』を持って配置されております」
俺は、絵図面に記された家臣たちの所領の大きさと配置を見て、思わず目を見張った。
四万五千石、三万石、二万石、一万数千石……。
家臣とはいえ、一人一人がそこらの小大名と変わらないほどの広大な領地と城を持ち、しかも自分自身の直属の武士団(陪臣)を何百人も抱えているのだ。
「……ちょっと待ってください。ということは、最上家の有力な家臣たちは、山形城の当主から蔵米をもらって働いている役人ではなくて、それぞれが自分の城と兵と土地を持っている『小さな大名』みたいなものなのですか!?」
「まさにその通りにございます。戦国の世において、義光殿が周囲の国衆を取り込み、あるいは一門を要衝に配して領国を広げられた結果、そのような形となりました」
家康が、重々しく言葉を引き継いだ。
「義光が生きておった頃は、あやつ自身の圧倒的な威光と器量があったゆえ、その荒くれ者の城主どもも頭が上がらず、一つの家としてまとまっておった。……じゃが、その重しであった義光が死に、跡を継いだ家親も早世し、戦を知らぬ十代の家信が上に立った途端、各地に城を持つ重臣どもの声が当主の声を上回るようになったのじゃ」
俺は、ようやく最上家が抱えている構造的な爆弾の正体を理解した。
年末に、俺たちが本多正純の仕事を整理した時は、正純という一人の優秀な人間に実務の相談が集中しすぎていたのが問題だった。
しかし、最上家はそれとは真逆なのだ。
カリスマであった創業者がいなくなった後、独自の土地と軍事力を持つ重臣たちがそれぞれの城に割拠し、若い当主の命令が領国全体へ通らなくなっているのである。
絵図面を睨んでいた家光が、核心を突くように言った。
「……要するに、当主の側は『主君の命に家臣が従うのは当然だ』と主従の理で押し切ろうとし、重臣の側は『我らがそれぞれの城と土地を守ってきたからこそ最上家があるのだ』と昔からの力で押し返しておるのだな。……どちらも己こそが最上家のために正しいと信じておるから、誰も一歩も退かぬ」
「家光の言う通りじゃ。外から敵が攻めてきた戦ではなく、家の中の柱同士が互いに押し合うて屋根を壊しかけておる」
*
大人たちが大名統制や主従の筋目について議論を交わす中、俺は広げられた出羽国の絵図面を見ながら、全く別のことが気になって仕方がなかった。
最上川が貫く広い盆地と、日本海に面した庄内平野。
五十七万石という途方もない石高が示す通り、そこには数え切れないほどの田畑があり、用水路があり、そして何十万人という農民や町人が暮らしているはずだ。
「……あの、正純。一つお尋ねしたいのですが」
俺が手を挙げると、評定の場の視線が集まった。
「最上家の当主の側と、山野辺殿たち重臣の側が、こうして江戸へ訴状を送りつけて争っている今この瞬間……出羽の領内にある米蔵や、春の雪解けに向けた川除け普請、それに村々へ配る種籾の手配は、一体誰が責任を持って行っているのですか?」
俺の問いに、正純と利勝がわずかに顔を見合わせた。
「……それぞれの所領につきましては、各城を預かる重臣たちが差配しておるはずですが、当主の直轄地と重臣の領地が入り組んでおる場所や、最上川沿いの大きな普請につきましては……」
「もし、当主側から出た役人の指図と、重臣側から出た役人の指図が食い違ったら、現地の村役人や百姓たちはどちらに従えばいいのでしょう? あるいは、家臣同士が相手の派閥を牽制するために、蔵の米の出し入れや水路の手入れを止めてしまったりしていませんか?」
秀忠の表情が、ぐっと引き締まった。
「……確かに、両派から届いた訴状には、相手がいかに不忠であるか、いかに礼を欠いたかという恨み言ばかりが連ねられており、領内の政務や民の暮らしが今どうなっておるかは、ほとんど記されておらぬな」
『痛いところを突くわね。喧嘩に夢中になっている当事者ほど、自分たちの足元で普通の業務が止まっていることに気づかないものよ』
家康が、重く低い声で言った。
「忠長の案ずる通りじゃ。……よいか、皆の者。五十七万石の大名家が揺らぐというのは、ただ山形城の主が誰になるかという話ではないぞ」
家康の視線が、家光と俺を交互に射抜いた。
「もし最上家がこのまま立ち行かなくなり、公儀として領地を召し上げる(改易する)ようなことになれば……数千人に及ぶ最上家の武士どもが一度に禄を失うて浪人となり、各地の城と米蔵の預かり手が全て替わり、出羽一国の何十万という民の年貢の納め先から普請の指図まで、すべてを一から組み直さねばならなくなる」
俺は、ごくりと息を呑んだ。
前世の歴史知識で「最上家が改易された」と一行で読むだけなら簡単だ。
だが、現実の行政として五十七万石の大名を改易するということは、東北の巨大な経済圏と治安維持の仕組みを一度解体し、周辺の大名たちを総動員して城を受け取り、混乱の中で民が飢えたり一揆を起こしたりしないよう、途方もない規模の引き継ぎ作業を行わなければならないということなのだ。
「さればといって、家中の統制が完全に壊れ、政務も執れぬような家に五十七万石をそのまま預け続ければ、今度は領内で私闘が始まり、民草が戦火と飢えに苦しむことになる。……残すも地獄、潰すも大仕事よ」
秀忠が俺を見て尋ねた。
「忠長。そなたはこれまで、福島家の城の修補や、諸国の旱魃の手当てに知恵を出してきたが……此度の最上家の件、どう見る?」
俺はすぐには答えず、二通の訴状を見つめた。
福島正則殿の広島城の時は、正則殿本人に公儀へ逆らう気がなく、「手順書通りに申請を出せば罰しない」という道を作ることで改易を回避できた。
だが、今回の最上家は違う。当主の側と重臣の側が、互いに相手を許せないと憎み合っているのだ。
「……お父様。私は、最初から『何があっても最上家をそのまま残して救うべきだ』とは申し上げられません」
俺がはっきりそう言うと、秀忠と家光が少し驚いたように目を見張った。
「もちろん、五十七万石の家が潰れれば領内に大きな混乱が起きますから、家を存続させたまま争いを収める道があるなら、まずはそれを全力で探すべきだと思います。……ですが、どれほど公儀が間に入って仕組みや規則を整えても、当主である家信殿と、山野辺殿ら重臣たちの双方に『同じ家で力を合わせて領国を治める』という意思が全く残っていないのであれば、どんな帳面を作っても無駄になります」
家康が、俺の言葉を聞いて静かに頷いた。
「家臣たちが主君を敬わず、当主もまた家臣たちを束ねる器量と努力を欠いているなら、無理に一つの箱へ押し込めておいても、いずれ必ず内側から破裂します。……ですからまずは、彼らにまだ『家と領民のために歩み寄る余地』が残っているのかどうか、それを確かめるのが先決かと存じます」
家光も、深く考え込みながら口を開いた。
「……忠長の申す通りだな。家臣どもが勝手に当主を挿げ替えようとするのを公儀が認めるわけにはいかぬ。それを許せば、天下の大名家で下剋上の真似事が横行する。……だが同時に、家信殿にも五十七万石の主としての責務がある。若いからという理由だけで、家臣をまとめられぬ責めから逃れることはできぬはずだ」
自分自身も若くして次代将軍の立場にある家光だからこそ、同じ十代の当主である最上家信に対する視線は、同情よりもむしろ統治者としての厳しさを帯びていた。
すると正純が、実務の観点から極めて重要な懸念を付け加えた。
「……ただ、手前が案じまするに、たとえ当主の家信殿が公儀の御前で『これよりは重臣の意見も聞く』と約束なされたとしても、山野辺殿や鮭延殿ら各地の城主たちがそれを信じて従わねば、国元の政務は一歩も動きませぬ。公儀の裁定に双方が心から服するかどうかが、最大の難所にございましょう」
(……そうなんだよな。年末に正純を休ませて江戸城の仕事を見直せたのは、みんなが「公儀の規則に従う」という前提を共有していたからだ。最上家は、その前提自体が壊れかけている……)
*
議論の末、秀忠が当面の正式な方針を下した。
「よし。まずは双方より出された訴状を公儀として預かり置く。ただし、今の段階では松根の言い分も、山野辺らの言い分も、どちらもそのまま『まこと』とは認めぬ」
訴えを受け付けることと、書かれている内容を事実だと認定することは全く別だ。
そのうえで、俺たちは調査の柱を三つに分けることにした。
第一に、当主と重臣たちの間で、具体的にどの命令が拒まれ、どの人事が争われているのかという『家中対立の実態』。
第二に、その対立によって、出羽五十七万石の米蔵、年貢、種籾、春の川除け普請といった『領国の運用と民の暮らし』に今どれほどの支障が出ているのか。
第三に、双方の訴状に書かれている相手の罪状が、確たる証拠のある『事実』なのか、それとも相手を蹴落とすための『推測や風聞』なのかの切り分けである。
「そして、公儀の調べがつくまでの間、最上家の両派には厳命を下す」
秀忠の声が鋭く響く。
「いかなる理由があろうと、国元にて勝手に兵を動かすこと、相手の城や屋敷を囲むこと、公儀の許しなく当主の廃立を図ること、これを固く禁ずる。また、家中の争いを理由に、領民に関わる通常の年貢や農事、蔵の出し入れ、水路や橋の修繕を滞らせることも断じて許さぬ。これに背いた側は、言い分の理非にかかわらず直ちに公儀への逆心と見なす!」
「はっ!」
正純と利勝が平伏し、ただちに申渡しの文案作成へと入った。
*
数日後、江戸の屋敷に詰めていた松根光広本人と、山野辺義忠ら重臣側の代理の使者が、日を分けて江戸城の評定所へと召し出され、個別の事情聴取が行われた。
俺も家光とともに、秀忠や正純たちの脇に控えてその聴取に立ち会った。
最初に呼び出された松根光広は、最上一門の誇りと危機感を全身に漲らせた男だった。
「上様、ならびに御列座の皆様に申し上げまする! 我が主・源五郎家信こそは、亡き義光公の嫡孫にして、公儀より正式に五十七万石の家督をお認めいただいた唯一無二の当主にございます! しかるに、山野辺義忠や鮭延秀綱ら宿老どもは、主君が若年であることをよいことに、城への出仕を怠り、若殿が命じられた役替えや政務の指図をことごとく握り潰しておりまする!」
松根の訴えは熱を帯びており、主君を守ろうとする必死さは本物に見えた。
俺は、正純に目配せをしてから、松根へ静かに尋ねた。
「松根殿。重臣たちが当主の命に従わぬと申されるが、具体的にはどのような政務の指図を拒まれたのですか? たとえば、領内の普請や蔵米の配分などにおいて、家信殿が定められた方針に重臣たちが異を唱えたのですか?」
「はっ……いえ、左様な細かな算用の話だけではございませぬ! 若殿が側近の者を通じ、家中の法度を改め、城の番役や知行の割当を命じられました折に、山野辺らが『先代の例に背く』『宿老への相談がない』と難癖をつけて従わなかったのでございます!」
「……では、重臣たちが『先代の例に背く』と反対したその中身について、家信殿や松根殿は、重臣たちと膝を交えて理由を尋ねられたのですか?」
俺が重ねて問うと、松根はわずかに言葉に詰まり、顔を赤くして声を張り上げた。
「し、主君が下された御下知に対し、家臣が条件をつけること自体が不忠の極みにございます! 山野辺らは、若殿を愚昧なりと侮り、己が主君に代わって最上家を牛耳ろうとしておるのです!」
(……なるほど。当主の権威を守ることに必死で、重臣たちがなぜ反対しているのかという実務の中身については、まともに話し合えていないんだな)
続いて別室で聴取した、山野辺義忠ら重臣側の使者の言い分もまた、別の意味で深刻だった。
「恐れながら申し上げまする。山野辺殿も鮭延殿も、決して最上家を乱そうなどという逆心は持っておりませぬ。むしろ、亡き義光公が血を吐く思いで築かれた五十七万石が、このままでは内より崩れ去ることを深く憂えておるのでございます!」
年配の使者は、切々とした口調で訴えた。
「現在の家信公は、いまだ政務の何たるかを知らず、朝夕の遊興や鷹狩りにばかり心を奪われ、領国のことは松根光広ら一部の側近の言葉しかお聞きになりませぬ。何十年も国元の城と民を守ってきた宿老どもが、先代以来のしきたりを説いて諫めましても、『若殿への不敬なり』と退けられるばかり。……これでは家中の心が離れ、五十七万石の統治は到底保てませぬゆえ、一門の長老たる山野辺殿に家政の要を担っていただくほかないと、皆が申しておるのでございます!」
俺は、その使者の目を見て冷静に問い返した。
「使者の申す通り、若い当主の政務に危ういところがあり、宿老の方々が家を案じておられるのだとしましょう。……ですが、そのために現在の当主を退け、山野辺殿を新たな主に立てようとすれば、どうなりますか?」
「は……?」
「今の最上家には、松根殿をはじめ、正統な当主である家信殿に従おうとする一門や家臣も数多くおります。もし重臣たちの力ずくで当主を挿げ替えれば、今度は家信殿を支持する者たちが『簒奪である』と猛反発し、最上家中が真っ二つに割れて合戦になりかねません。……家を守るために当主を替えた結果、家中が戦になって五十七万石が潰れてしまったら、一体何のために替えたことになるのですか?」
俺の指摘に、使者はハッとしたように息を呑み、唇を震わせたまま俯いてしまった。
「……それは……しかし、今のまま家信公を戴いておりましても、我ら宿老は松根らに追い落とされるばかりにて……」
両方の聴取を終えて控えの間へ戻った俺は、正純と顔を見合わせて深いため息をついた。
「……正純。どちらの言い分を聞いても、それぞれ自分たちなりに『最上家を守りたい』と思っているのは嘘ではなさそうですね」
「左様にございますな。ただ……」
「ええ。お互いに対する不信と憎しみが深くなりすぎていて、『相手の言い分にも一理あるかもしれないから、少し譲り合おう』という気が、双方とも微塵も残っていません」
*
さらにその日の夕方、事態を一段と重くする報告が正純のもとへ入った。
松根光広が評定所へ提出した追加の口上書の中に、これまでの「家臣が命令を聞かない」という話だけでは済まない、極めて危険な文言が書き加えられていたのだ。
俺は、正純から見せられたその紙面の一行を読み、思わず息を止めた。
『——なお、去る元和三年、先代・最上家親公が山形城にてにわかに卒去なされし折の儀、尋常の病にあらず。現今、山野辺義忠へ心を寄せる重臣どもの中に、先代へ毒を盛りて弑逆せし者あるとの疑い、家中に専らにございます——』
「……なっ……! 先代当主が、重臣に毒殺されただと!?」
俺は驚きのあまり声を上げた。
当主の指導力不足だの、家老の専横だのといった政務の争いではない。『主君殺し(弑逆)』という、武家の社会において最も許されざる大罪の告発である。
「正純! これ、何かの確かな証拠があって訴え出ているのですか!?」
「いえ。松根へ厳しく問い質しましたが、『当時、家親殿の亡くなり方があまりに急であった』『遺体の様子が尋常ではなかったと語る者がある』という伝聞ばかりにて、誰がどの毒をいかにして用いたかという確たる証拠は、今のところ何一つ示されておりませぬ」
俺は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
(……思い出した。前世の歴史でも、最上騒動が最終的にどうにもならない泥沼になったのは、松根光広が「先代・家親は重臣に毒殺された!」と幕府へ訴え出て、重臣側が「真っ赤な嘘だ、誣告(事実無根の罪を着せること)だ!」と激怒したからだったはずだ!)
『ええ。証拠もない過去の死因を、今の権力争いの武器として持ち出した瞬間、もう両派が仲直りする道は完全に消滅するわね。「あいつは主君殺しの犯人だ」と言われた側と、言った側が、同じ城で一緒に仕事なんてできるわけがないもの』
俺はすぐさま秀忠と家康のもとへ赴き、この追加の訴状について強く進言した。
「お父様、大御所様! この松根殿による『先代毒殺の疑い』については、他の政務の争いとは完全に切り離して、極めて慎重に扱わなければなりません!」
秀忠も書状を読み、険しい顔で頷いた。
「……五年も前の家親の死を、今になって毒殺と訴え出るか。もしこれがまことであれば、関わった者は一族郎党に至るまで極刑に処さねばならぬ大逆罪じゃ」
「はい。ですが、もし確たる証拠もないのに、相手を追い落とすための推測でこの訴えが出されたのだとすれば、これを表沙汰にした時点で、最上家中は絶対に修復できなくなります。重臣たちは己の命と家名を守るために死に物狂いで抵抗するでしょうし、国元で一戦交えることにもなりかねません!」
家康が、低く鋭い声で応じた。
「忠長の言う通りじゃ。……過去の死因が毒であったか病であったかは、当時の医師や近習の記録を裏で静かに洗わせればよい。それと、今現在の最上家が五十七万石の領国を治められておるかどうかは、全く別の話じゃ。証拠もなき毒殺の風聞に振り回されて、今の検分の目を曇らせるでないぞ」
そのうえで、家康は俺の目をじっと見つめ、重く問いかけた。
「……して、忠長。ここまで双方の憎しみが深く、毒殺の疑いまで飛び出すほどに家が割れておる。……もし、公儀がどれほど手を尽くして調停を試みても、最上家がどうしても一つにまとまらなんだ時は、そなたはどうする?」
俺は、言葉に詰まった。
できることなら、五十七万石の家を潰したくはない。多くの武士が路頭に迷い、大勢の人が動く混乱は避けたい。
だが、目の前の現実から目を逸らすわけにはいかなかった。
「……大御所様。最上家の家名を残し、混乱を避けるための道は、最後まで全力で探したいです」
俺は拳を握りしめ、はっきりと言葉を継いだ。
「ですが……もし、当主も重臣たちも、自分たちの面子と恨みばかりを優先して、どうしても歩み寄らず、そのせいで出羽五十七万石の民草の暮らしや田畑が守れないのだと分かった時には……。最上家という『家の看板』を守るために、そこに生きる何十万もの民を犠牲にすることはできません。その時は、たとえどれほど大きな手間と負担がかかろうとも、公儀が責任を持ってその土地と民を引き取る覚悟を決めなければならないと思います」
俺の答えを聞いた家康は、しばらく無言で俺を見つめ、やがて深く、静かに頷いた。
「……うむ。そこまで腹を括っておればよい。家を救うことばかりに囚われて民を忘れるな。そこを見誤らねば、どちらへ転んでも公儀の政は揺るがぬ」
*
翌日、将軍・秀忠の名において、最上家の一件に関する正式な調査体制が発足した。
以前であれば、こうした複雑な大名家の騒動は本多正純が一手に書類を抱え込んで不眠不休で処理していたところだが、今回は違う。
正純は全体の要綱を差配しつつ、双方の訴状の吟味と当事者の聴取は酒井忠世や評定所の役人たちへ、過去の元和三年の申渡しとの照合は右筆衆へ、そして国元の城館や兵の動きの監視は奥羽方面の目付衆へと、年末に整えた手順に従って的確に仕事を割り振っていった。
「……正純。今回は、ちゃんと周りの担当者に仕事を分けて任せていますね」
俺が声をかけると、正純は少しだけ口元を緩めた後、すぐに引き締まった表情で答えた。
「忠長様より厳しく申し渡されておりますゆえな。……それに、此度の最上家の件は、一人の頭だけで抱えて済ませられるほど軽い御用ではございませぬ。公儀の総力を挙げて当たらねばならぬ大事にございます」
そして俺が受け持ったのは、政治的な罪状の裁定ではなく、出羽五十七万石の『領国の運用実態』――すなわち、各地の米蔵の在庫、春の農事に必要な種籾の保管状況、最上川水系の川除け普請の予定、そして各城館の管轄領域を洗い出す作業だった。
(……これって、もし最上家が和解して存続する場合には、今後の藩政を立て直すための基礎台帳になるし……もし万が一、改易や領地替えになった場合には、公儀が混乱なく城と蔵と農政を引き継ぐための『引継目録』になるんだよな)
どちらの結末になっても、春になれば雪が解け、川は増水し、田植えの時期は待ったなしでやって来るのだ。
そんな作業を進めていた日の夕暮れ時だった。
出羽の隣国や、幕府の直轄領を回る代官所のルートから、通常の年明けの行政報告に混じって、一通の短い控えが俺の机へと届けられた。
それは最上家の重臣たちが書いた立派な訴状ではなく、最上領との境に近い村々の名主や、現地の末端の役人たちが漏らした『困り事』を書き留めたものだった。
俺は、その控えに記された内容を読んで、思わず眉をひそめた。
『——最上領内の川筋にて、雪解け前の堤の修補につき、山形城の若殿の御側衆より出た人足割りの指図と、地元の城を預かる家老衆より出た指図が食い違い、村方の者ども、いずれに従うべきか迷い居り候。また、春に貸し出すべき種籾の蔵につきましても、双方の役人が互いに鍵の扱いを巡って言い争い、いまだ村々へ割当の沙汰が下りず、百姓ども大いに案じ居り候——』
「…………っ」
俺は、その薄い紙切れを握りしめたまま、机の上に並んでいる二通の分厚い訴状を見た。
隣から覗き込んだ家光が、俺の険しい顔を見て声をかけてきた。
「どうした、忠長。その書き付けに何かあったか」
「……兄上。最上家の争いは、もう江戸の評定所で重臣たちが言い争っているだけでは済まなくなっているようです」
俺は、その控えを家光と、奥から歩いてきた家康の前へ差し出した。
松根光広の訴状にも、山野辺義忠たちの訴状にも、『最上家を守るため』『先代の遺徳を継ぐため』と、立派で勇ましい言葉が何百字も並んでいた。
けれど、彼らが江戸へ向かって互いを罵る書状を送りつけているその足元で、出羽の村々ではすでに、春の川除けをどう進めるか、田に播く種籾をいつ受け取れるのかという、人が生きるための当たり前の仕事が止まりかけていたのである。
「……どちらの訴状を書いた人たちも、口では『最上家のためだ』と仰っていますけれど」
俺は、静かな怒りを抑えながら言った。
「その争いのせいで、最上家の領地で暮らしている百姓たちが春に種籾も蒔けず、雪解けの洪水に怯えることになっているのなら……その人たちが守ろうとしている『最上家』というのは、一体何のことなんでしょうね」
俺の言葉に、家光は唇を引き結び、家康は目を細めて出羽国の絵図面を見下ろした。
「……まったくだ。民と田畑が立ち行かなくなってしまえば、その上に乗っておる武家の名など、ただの空虚な抜け殻にすぎぬ」
五十七万石。
それは帳面の上では、ただの大きな数字に見える。
けれど、その数字の向こう側には、雪深い冬を耐え忍び、春になれば冷たい泥田へ入って苗を植えようとしている何十万もの人々の暮らしがあるのだ。
当主が誰になるのか。
家臣たちは誰に従うのか。
その政治の決着がつくまで、春の雪解けも、田んぼの水も、待ってはくれない。
(……せっかく正純が休めるように江戸城の仕組みを整えたと思ったのに、今度は五十七万石の大名家そのものが、根っこから止まりかけているなんて)
『ええ。しかも今度は、手順書を書き直す前に、「誰が手順書を決めるのか」で大喧嘩している相手よ。これまでで一番骨が折れる保守案件になりそうね』
俺は、机の上に並んだ二通の立派な訴状と、一枚の小さな村方の報告書を見比べながら、元和八年という年が、正月早々からとんでもなく重い試練を運んできたことを悟ったのだった。
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