暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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幕間 井戸端の水神様

 慶長十七年の江戸は、まだ巨大な都市としての完成形にはほど遠かった。

 

 日比谷の入江を埋め立て、いくつもの堀を掘り、神田山を崩して町を広げている最中だ。どこを歩いても、新しい土の匂い、切り出されたばかりの材木の匂い、そして泥にまみれた人足たちの汗の匂いが入り混じっている。

 

 江戸は、常に「工事中」の町だった。

 

 水と土と木材が、この新しい町の血液なのだ。

 

 だからこそ、この町で交わされる噂の中心もまた、武士の出世話よりは、日々の泥臭い生活に根ざしたものが多かった。

 

     *

 

 最初は、城へ小間物を納める出入りの商人や、奥向きの女中筋から漏れ聞こえてくる、ありふれた若君の噂話に過ぎなかった。

 

「国松様という若君は、たいそう大人しく、利発な御方らしい」

 

「お江与様がそれはそれは目の中に入れても痛くないほど可愛がっておられるとか」

 

「竹千代様とはずいぶんとお年が離れておられるが、兄弟仲はよろしいそうだ」

 

「でもまあ、所詮はまだほんの童であろう。上様のお世継ぎは竹千代様に決まっておるのだから、我ら町人の暮らしには関わりのない雲の上の話よ」

 

 髪結い床や、古着屋の軒先で交わされるその程度の話。

 

 江戸の町人にとって、徳川の若君などというのは、遠いおとぎ話の登場人物と同じだった。

 

     *

 

 空気が少しだけ変わったのは、春の終わり頃からだ。

 

 御料地近くの百姓たちが、江戸の市場へ野菜を売りに来たついでに、奇妙な話を落としていったのだ。

 

「国松様が、泥田へ出入りしておられるらしいぞ」

 

「徳川の若君様が、田んぼに? 百姓の真似事か?」

 

「泥遊びだろう。子供は泥が好きだからな」

 

「いや、それがただの遊びじゃねえらしい。半兵衛とかいう記録のお役人までつけて、籾を塩水に入れて浮いた沈んだと騒いでいるそうだ」

 

「あはは、やはり泥遊びじゃねえか。偉いお方の考える教育は分からんな」

 

 町人たちは、それを「変わった教育」として笑い飛ばした。

 

 だが、実際に御料地で若君の姿を見たという、一人の年老いた百姓だけは、市場の隅で真顔のまま首を振っていた。

 

「いや……あれは遊びなんかじゃねえよ。若君様は、泥を嫌がらなかった。与平の爺の話を、子供扱いせずにちゃんと最後まで聞いておられた。……泥に足を入れて、稲の苗の間隔を自分の目で見ていたんだ。あの小童様は、妙に……田んぼの『本当のところ』を見ている目をしておられた」

 

     *

 

 その「妙な噂」が、一気に確信と畏敬に変わったのは、初夏のことだった。

 

 水を売り歩く水売りや、江戸中を掘り歩く井戸掘り職人たちが、寺の門前の茶屋で口々に騒ぎ始めたのだ。

 

「聞いたか! 国松様が、榎戸村で井戸の場所をピタリと言い当てたらしいぞ!」

 

「祠の近くの、何もない地面を指差して『ここを掘れ』と言ったら、本当に澄んだ水が湧き出したそうだ!」

 

「まぐれだろう。たまたま水脈の上に立っただけじゃねえのか」

 

「いや、別の村でも古い水場を言い当てたらしい。ご本人は『七割は当たる』と仰ったそうだ」

 

「ななわり!? 地面の下の水を、七割も言い当てるだと!?」

 

「それはもう……ただの若君様じゃない。水神様の生まれ変わりじゃねえか」

 

 本人が必死に「百発百中じゃない、七割程度です。失敗もします」と謙遜したつもりの言葉は、民衆の耳を通ると、恐ろしいほどの神格化燃料へと変換された。

 

「七割も水を当てる若君様だぞ」

 

「泥の下の水脈が、透けて見える目を持っておられるらしい」

 

「祠の神様にお伺いを立てれば、水が分かるそうだ」

 

「徳川の家に、水神様の御子が生まれたんだ……!」

 

 江戸は、水で成り立つ町だ。

 

 海を埋め、川を引いているからこそ、良質な真水は常に不足しがちだった。

 

 だからこそ、「水を当てる」という噂は、江戸の町人たちの渇いた心に強烈に刺さったのだ。

 

     *

 

 決定的な噂が江戸の市場に投下されたのは、秋の収穫が終わった直後だった。

 

「国松様の試し田、米が二割も増えたそうだぞ!」

 

 茶屋で団子をかじっていた商人が、目を剥いた。

 

「二割!? 本当に二割か? それだけ増えれば、冬の粥が毎日一杯増える計算だぞ!」

 

「いや、俺が聞いた話じゃ三割だ。国松様の田だけ、穂が重く垂れて黄金色に光っていたらしい」

 

「馬鹿言え、半分増えたって聞いたぞ! いや、倍になったって話もある!」

 

 数字は、人の口を渡るたびに無責任に誇張されていく。

 

 だが、御料地に出入りする百姓だけは、地に足のついた現実的な顔で首を振った。

 

「倍なんてもんじゃねえよ。でも……確かに、同じ広さの田から、乾いた籾で二割七分、しっかり増えていた。俺のこの目で見たんだ。若君の田法は、本物だ」

 

 町人たちがざわめいた。

 

「だがよ……それだけ米が取れると知られりゃ、公儀が黙っちゃいねえだろ。年貢が跳ね上がって、結局百姓の口に入る分は変わらねえんじゃねえか?」

 

 その不安な呟きに、百姓はニヤリと笑った。

 

「そこを、国松様が止めてくださったんだとよ」

 

「若君様が?」

 

「ああ。『増えた米をすぐに年貢で搾り取るな。まずは村の種籾や、飢饉の備えに回させろ』って、大御所様の御前で、一歩も退かずに直談判してくださったらしい」

 

 茶屋に、深い沈黙が落ちた。

 

 ただの「不思議な水神様」という認識が、「百姓の命を守る若君」という、より切実で強固な存在へと変わった瞬間だった。

 

「……本当かどうかは、俺たち下っ端には知る由もねえがな」

 

 大工の頭領が、茶を啜って空を見上げた。

 

「でも、もし本当にそんな若君様が徳川にいてくださるんなら……俺たちにとっちゃ、本当にありがてえ話じゃねえか」

 

     *

 

 初冬。

 

 江戸のあちこちにある共同井戸の端や、寺の手水場では、女たちが頻繁に手を洗うようになっていた。

 

「あんた、握り飯を握る前には、ちゃんと手を洗いなよ」

 

「えー、面倒だねえ。冬の水は冷たいんだよ」

 

「馬鹿言っちゃいけないよ。水神様の『御清め作法』だよ。食う前と、厠の後に手を清めないと、子が流行り病をもらうって、天海僧正様も仰ったらしいじゃないか」

 

「そこまで言われちゃ、やるしかないねえ。神様が言うなら、やらなきゃ罰が当たるってもんだ」

 

 一方、普請場で働く大工や人足たちの間でも、似たような会話が交わされていた。

 

「おふくろがうるさくてかなわねえ。外から帰ったら必ず口をすすげってよ」

 

「うちの女房もだ。水神様の御清めだから絶対やれってな」

 

「でもよ……今年の冬は、腹を壊すやつや、熱を出して寝込むやつが、少し減った気もするんだよな」

 

「そりゃそうさ。神様の御清めなんだから、効くに決まってるだろ」

 

 民衆は、それが「病原菌を落とす科学的根拠」だとは誰も思っていない。

 

 ただ、「水神様が教えてくれた信仰の作法」として真面目に実行し、結果として病気が減ったからこそ、さらに信仰を深めていったのだ。

 

「便利だから信じる。効いた気がするから続ける。水神様が言うなら、それが一番正しいんだ」

 

 江戸の井戸端には、そんな実益を兼ねた信仰が、静かに、しかし確実に根付き始めていた。

 

     *

 

 冬が深まるにつれ、噂はさらに形を変え、あちこちへ飛んだ。

 

 国松本人が「ノード解放」などと呼んでいる行為は、民衆の目には全く別の神秘的な現象として映っていた。

 

「国松様が道祖神を直したら、崩れかけた道を事前に言い当てたらしい」

 

「古い地蔵様を掃除させたら、あの辺りで迷子になる子供がピタリといなくなったそうだ」

 

「なんでも、古い書物の蔵を掃除したら、読めなかった南蛮の文字までスラスラと読めるようになったらしいぞ。水だけじゃなく、紙の湿気まで払っちまうとはな」

 

 ただし、商人たちの中には、少しばかり鋭い視点を持つ者もいた。

 

「……近ごろ、公儀の役人が、唐物や薬種、異国の本などの目録を、妙に細かく集めているそうだ」

 

「水神様が、唐物の商いにまで目を通し始めたのか?」

 

「水神様が商売の流れまで見るなら……俺たちの裏の税の誤魔化しまで見通されるかもしれんな」

 

「それは勘弁してほしいな……」

 

 商人たちは、水神様の透徹した目に、ほんの少しの恐怖を抱いていた。

 

     *

 

 とある寺の門前。

 

 落ち葉を掃いていた小僧が、ふぅと息をついて箒を置いた。

 

「あの若君様は、きっと本当に水を呼ぶ神様なんだよ」

 

 茶屋で休んでいた老人が、感心したように言う。

 

 だが、小僧は少しだけ複雑な顔をして首を傾げた。

 

「いや、神様かどうかは、おいらには分からねえよ。国松様は、神仏の声を聞くなんて一言も言わなかった。『とにかく祠を掃除して、落ち葉を払って、水路の泥をよけろ』って、具体的な仕事の指示を出しただけだ」

 

 老人は笑った。

 

「だが、あの方が見た田は、確かに米が増えた。あの方が指した場所から、確かに水が出た。なら、俺たちにとっちゃ、それで十分神様なんだよ」

 

「……で、明日は何をするんだい?」

 

「手水場の水鉢の掃除と、古くなった柄杓の取り替えだとよ。これやらないと、水神様に怒られるんだと」

 

「へえ……」

 

 老人は、小僧が再び箒を握るのを見て、面白そうに目を細めた。

 

「神様ってのは、雷を落とすもんかと思ってたが……思ったより、人間に箒や雑巾を持たせるもんなんだな」

 

 江戸の町は、まだ泥と材木と人足の匂いに満ちた、未完成の町だった。

 

 だがそこに、水神様という、泥臭くも確かに人の暮らしを豊かにする噂だけが、堀の水よりも早く、ひと足先に流れ始めていた。

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